第9話 灰色の水溜り
どれくらいの時間が経ったのだろう? どれくらいの間、こうして水に漬かっているのでしょう?
最初に意識を取り戻した時からは、それなりの時間が経ち、既に何日かが経過しているものと思われます。薄暗いこの場所にもなれ、僅かに漏れる光を充てにしてものを見ることは出来るようになりました。これは、私の目が慣れてしまったことによるものでしょうか? それとも――
ぐしゅぐしゅと何かをむさぼるような、水袋に穴を開けているような音が聞こえる。それが何を表しているのか、今の私は分かっているけれど理解したくはない。朝から涙の止まらない、痛む目はその光景を捉えているけれど、私の脳は理解を拒否している。そこで行われていること、少し前の雨で水位が上昇してしまったここで行われていること、それはとても人間のやって良いことだとは思えない。
お腹がすいたのは分かるよ? 喉が渇いているのも分かるよ? 人が多過ぎて息苦しいのだって分かるよ? 食べ物なんてなくて、着替えなんてなくて、お風呂もシャワーもない。それはちゃんと理解しているよ? でも、人間としてそれはダメだと思うの? それを口にするのは、許されない。
体が熱い。自分の見たくなかったところ、嫌いなところをを意識させるかのように、体が熱く痛む。目をそらさないように促されているようで、自分が変わっていくのを教えられているようで、嫌になる。私は別に今のままで、変わらなくても良かったというのに、どうして強要するのか。変わってしまうことを、どうして強要されなければいけないのでしょう?
口の中が痛い。昨日から今朝にかけて、不要だといわんばかりに歯が抜けてしまった。新しく生え変わった前歯を残して、全ての歯が抜けてしまった。口の中からぽろぽろと抜け落ちて、血まみれのまま水の中へと消えてしまった。写真栄えするように、口の角度に気をつけていたのは既に過去のこと。今の歯並びでは綺麗に写るどころか、写真に写らないようにしなければいけない。
人間として、今の環境に慣れてはいけないと思う。ここから抜け出せた時、助け出された時に今のままではいけないと思う。どれだけお腹が減っても、食べたくない。どんなに喉が渇いていたとしても、飲みたくはない。
少し前まで、友達だったんだよ? 一緒に笑って、一緒に勉強した仲間なんだよ? それなのに、そんなひどいことできないよ。私に、見せ付けないでよ。
胸の下くらいまである水は、綺麗な物ではない。変に生暖かくて、変な臭いがする。ちょっとヌルっとして、そこに何が混ざっているのか考えるのが嫌になる。
遠くで聞こえたいたはずの音は消えることがなく、どんどんと増えていく。どんどんと大きくなり、私の耳を占領していく。音が入らないように耳をふさいでも、仮に遠くへ逃げようとしてもどちらも無駄にしかならない。ここには逃げ場所なんてなくて、私達が死んでしまわないように沢山の水と、食料にもなるモノ詰め込まれているだけ。それを口にするのがどれだけ罪深いことなのか、人としての道を外れることなのか、理解はしているつもり。どんな状況であっても、やってはいけないことがあるって、私は知っているつもりだよ。ただ、どうしてなのかな? そのやってはいけないはずのことが、そんなに悪いことも出ないように感じられてしまう。目の前にあるのだから、生きる為には仕方ないよねって口に思想になってしまう。
「か、はっ……」
もう、何日も水すら飲んでいない。私の胃袋に流れ込んでいるのは、胃液と僅かな血液。歯が抜け落ちた後、少しだけ流れ出た血液のみ。私達の使っている汚れた水、それに口をつけてしまったら全てが変わりそうだから。私の中にある何かを壊してしまいそうだから、どれだけ喉が渇いても、その痛みが焼け付くようであっても、口にしてはいけない。
耐え難い音を立て、涙を流しながらむさぼっているあの子達も、けして最初からあんな行動には出なかった。苦しんで、変わっていく自分に恐怖して、それでも空腹に勝てなかった。生きようとする本能に、少し負けてしまっただけ。生きてここから出たい、お父さんとお母さんに会うためには手段を選ばない、そういった強い思いが彼等を動かしただけ。
だから、目をそらすことはしても怒ってはいけない。仕方のないことなの、どうしようもないことなの。彼等を責めても何も変わらないの。誰も責任を取れない、どうしてここにいるのかも分からないのに、誰かに責任を押し付けてはいけない。
それに彼等だって分かっている。無差別に襲ったりはしない、無理矢理噛み付いたりはしていない。既に沈んでしまっている子から、水をたっぷりと吸って水風船のようになった子から、口をつけている。おぞましい行為でしかないのに、ぎりぎりのところでまだ理性を感じさせる。安心は出来ないけれど、危険もない状態。
それにしても、お腹が減った。甘いものが食べたくて、喉も渇いた。どれだけ願っても助けはこなくて、外から聞こえる声はない。私達に危害を加えようとする人もいなくて、既に泣いている子達もいない。ただ、食事の音だけが響く空間。ここにいると、私の頭もおかしくなってしまいそう。
死なない為には食べるしかない。目の前にいる、弱っている子を食べなければ私が死んでしまう。どれだけそれがダメなことなのか、人間としてやるべきでないことかは分かっている。それなのに、私の口は開こうとする。目の前にいる彼女を食べる為に、大きく開こうとしてしまう。
ダメ、今はまだ生きている。今かじりついたりしたら、痛いでしょ? 他のみんなみたいに待つの、少しの間とは楽しいおしゃべりをした子だもの、泣いているところなんて見たくないわ。怖がらせたり、痛い思いをさせてはいけない、私達は仲間なんだから優しくしないとね。どうせ、もう少し待てば沈んでいくのだから。そうしたら、さようならをするしかないでしょ?
彼女は私みたいにおかしくなっていないのかもしれない。歯が抜けていないし、目も赤く光っていない。ちゃんとした人間のまま、沈んでいく。けれど、水の底で眠らせてあげられるほど、私達の状況に余裕はないの。いつまでも人間を保っていられるほど、いけないことをいけないと言えるほど、私の心に余裕はないの。
ごめんなさい、一緒に帰れなくて。ごめんなさい、あなたを助けられなくて。でも、それはみんな一緒だから、ちゃんと泣いてあげるから。ごめんなさい、許してね? 私はこれからあなたを食べるわ、けれどそれは仕方のないことなの。私が先に死んでいたら、あなたがやっていたことなの。あなたが私を食べていたの。そうなったとしても、恨んだりはしなかった。
世の中には自分の力ではどうしようもないことが沢山あって、今ここで起きておることもその一つ。そうでなければ、おかしいでしょ? 何も悪いことをしていないのに、こんなところに閉じ込められなければいけないことなんて、なにもしていないのに。私達はここで死んでいくの。先に息絶えた仲間の体をむさぼり、汚れた水をすすって命をつなぐことしか出来ない。生きることをあきらめない為には、人間であることをあきらめるしかない。あなたがずっと変わらないのは、人間であることを選んだから。死んだとしても、人間らしくいたいと願ってしまったから。ここを作った人は、きっとそんな下らない願いことしか叶えてくれないの。お母さんに会いたいとか、外に出たいとか、どれだけ願っても叶わなかった。それは、あなたも知っていることでしょう?
だから、私は口にする。あなたの体を食べることで、人間を食べることで生き延びるの。同じようにさらわれてきたあなたの体を食べて、私は生きていく。
「美味しくない……」
久しぶりに口に出来た言葉は、感謝を表すものでもなく、この状態になげくものでもない。自分でもあっさり感じて、そして底冷えしているような声。友達だったものをかじったのに、口の中に広がる味は今までに食べたどんな食べ物よりも美味しくなかった。失敗して焦げた目玉焼き、塩辛くなって食べられなくなったパスタ。それらよりも美味しくなくて、それなのにのどを通ってしまった。
変な味がする。お腹を壊してしまいそうな味がする。それなのに、これを食べなければ私は生きていられない。食べないという選択肢は、私から奪われてしまっている。それが不幸なのか、それとも幸運なのか分かりたくもない。
皮膚を突き破る感触は生々しく、途中で歯が止まりそうになる。プツっと皮膚を突き破れば、溢れてくるのは血液ではなく、油。口の中にいつまでも残って、喉の奥へと流れることを拒否するような、ねっとりとした油。それは食べやすさとは真逆の方向にあって、飲み込まれないように最後まで抵抗してくる。そのまま、意外と柔らかい肉を突き破れば、筋のようなものに行き当たる。
神経だろうか? それとも、これが血管なのか。どちらにしても、噛みついてしまった以上は食いちぎるしかなくて、血液がこぼれないように口を離さず、すするようにして飲み込んでいくしかない。かじり取った肉だって、けして大きなものではない。あなたにしてみればちょっとした怪我程度でしかない、全部を食べようと思えば長い時間がかかってしまうでしょう。
首筋に噛みついてみたのに血が飛び出すようなこともなく、ただ静かに、止まることなくあふれてくるだけ。そこには少し温かさが残っていて、あなたがさっきまで生きていたことを私に教えてくれる。死んでいるはずなのに、生きていたことをその体は忘れていない。
なんだか不思議な感じね。私はこうやって生き延びて、人間であることを選んだあなたは死んでいく。ネズミのように前歯しか残っていない私は醜くなり、あなたは綺麗になっていく。どちらが良いかなんて選びたくもなくて、どちらも嫌だと拒否したかった。人間の肉の味なんて知りたくなかったし、死ぬのは勿論嫌だった。
私達にはどちらを選ぶかしかなくて、その結果が今ここにある。あなたは私の腕の中で冷たくなっていき、いずれは私のお腹の中へと消えてしまう。骨さえも残せない、貴重な栄養として私の中へと溶け込んでいく。
そっか、消えてしまうわけではないのね。あなたは私と一つになるだけ。私の口から入って、私の中で生きていく。人間であることを選んだから、私の中で生きていくことになった。ただ、それだけの話なのよ。
口の中へと広がる味は、何に例えればいいのか分からない。奥歯がなくなった今かみしめることも出来ず、かじり取った肉は喉の奥へと運ばれるだけ。大きな塊では飲み込めないから、小さく、すぐに飲み込めるようなサイズにする。だから、いつまでもあなたの形が消えなくて、私を見ている虚ろな目もなくならない。長い時間の間、私のことを見下ろしていて、憐れんでいるよう。
別に構わない。私はあなたによって、あなたの肉によって生かされている。それは事実で、変えようのないものだから。見下されても、憐れまれたとしても、口の動きを止めることはない。何度も前歯を突き立て、あなたの体から肉をはぎ取っていく。そこには痛みもなく、悲しみもない。苦しむことすらなくて、これも一つの幸せなのかも? あなたを食べて生き延びて、あなたを飲み干して生き延びて、あなたの家族にお礼を言おう。私が生きているのはあなたのおかげですと、両親が育ってくれたあなたを食べたから、私は生きていられますよと。
名前も聞かなかったお友達。少しの間だけ楽しいお話の出来た、私のお友達。あなたのおかげで、私のお腹は満たされていく。
血をこぼしてしまうだなんて、勿体ない。あなたの体にあるものを残すだなんて、こぼしてしまうだなんて勿体ない。大丈夫、どんなに崩れても支えてあげるから。あなたの中にある物は全て、私の中へと入れてあげるから。そんな何も見ていない目で、私を見つめないで? 心配しなくても、何も残したりしないわ。
ぐしゅぐしゅと何かをむさぼるような音がする。耳の傍で、水袋に穴をあけているような音がする。
がりごりと何かを削るような音がする。私の口元から、あなたの骨を削る音がするわ。
首筋をかじり取り、喉も突き破った。首の骨はかなり太くて疲れるから、後にしましょうか。先にもっと柔らかい、お肉から食べてしまいましょう。だって、ここには助けなんて来ないから。むさぼることで、生き延びるしか選べないから。
ちょっとだけ困ったこともあるけれど、それはみんなも同じだから気にしちゃ駄目よね。私だけワガママを言ってはいけないわ。それを叶えられる人がいないのだから、この空間に人間なんて残らないのだから。ネズミはネズミらしく、隅っこで生きていくの。
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