第7話 左回りの時計
情報を集めなければ、そこで起きていることを理解することは出来ない。情報を集めたところでそれを分析できないのであれば、価値がない。
感情を集めてたところで、その場で起きていることを理解することは不可能。必要な情報だけを選び出し、求められている形に組み替えていく、それが捜査として最も大切なことだ。
そんな基本が頭に叩き込まれている私でも、時には過去の出来事に捕らわれてしまい、身動きが取れなくなってしまうことがある。それを人間らしいと表現するのか、それとも弱さだと断じるのか、それは各々にお任せする形になりますが、正直この夢を見るのには飽きてきましたよ。
「お母さん、ねぇ、お母さんってば。どうして、何も言ってくれないの?」
当時の私は小学生で、ごく普通の子供だった。目の前で起きている惨劇を正しく理解することが出来ず、ただただ怖いという感情に支配されて、何が起きているか理解しようともしない。呼びかければ応えてくるものだと信じて疑うこともなく、その背中に縋り付いて声をかけるだけ。目の前には花のような形をした血液が広がっており、その冷たい体は既に絶命していることを伝えているというのに、母が応えてくれることを信じていた。ピクリとも動くことのない、死体にすがっても何もないというのに。
愚かなこと。子供とは言えども既に小学六年生。物の分別が付かない年齢ではなく、しっかりとしている子なら家族を支えているというのに、私は甘えているばかりで何の役にも立っていない。そんな毎日を送っているから分からなかったの。朝は起こされて、せかされながら朝食を食べる。友達と遊ぶことしか頭になくて、勉強もまじめにやっていない。受験だ塾だと勉強に精を出す同級生のようになることはなく、お洒落やお化粧に興味を持つ大人びた子になることもなかった。良く言えば子供らしい子供だったのでしょう。
子供らしくワガママで、子供らしく残酷な、特徴のない小学生。それが私、三森可奈の過去。
毎日楽しいことを探して、明日が来ることを楽しみにして、今日が終わることを残念だと感じて。そんな子供でした。
だから、目の前で起きている出来事を理解することが出来ず、どうしようもないから母親にすがろうとした。既に手遅れだと、見れば分かるほどの致命傷があるのに、応えてくれるはずのない物にすがっている。
そんなことをしている前には逃げればいいのに、戸惑うにしても大声を出さなければいいのに。どうして、こんなにも愚かだったのでしょう? のんびりとしているから、大声をあげてしまったから、それは当時の私の存在に気付いてしまった。人の形だけをして、既に父ではなくなってしまっている父が、私の下へとやってきます。
「可奈も俺を置いていなくなるのか? 俺を見捨ててどこかへ行ってしまうのか?」
父が喋り、父が歩く。その度に周りにはむっとするような、潮の香りが満ちていく。それはけして心地の良いものではなく、吐き気を伴うおぞましいもの。腐ってしまった海の臭い、死にゆく海の臭い。あまりにも強過ぎるから、当時の私は涙目になっているというのに、父の足は止まろうとはしない。
「お父さん、どうしてお母さんは倒れているの?」
父は凶器を持っていなかった。ここでせめて、包丁やナイフといった分かりやすい凶器を持っていてくれたのなら、当時の私でも危険に気付けたのかもしれない。遅すぎるタイミングで、逃げなかったことを後悔出来たのかもしれない。
でも、現実はそうはならなかった。
母の遺体を挟むかのように、反対側に立つ父。感染者となり、害をばら撒くだけになった存在。
「お母さんは疲れたんだよ。生きていくことに、老いていくことにつかれたんだ。だから、泡になる」
顔を見上げた私の瞳に映る父は、感情というものを表情に出していなかった。何も移さない濁った瞳は白く、口の横から垂れている血液は泡立っていた。まるで何かに取りつかれているかのような状態。これこそ、私が最初に遭遇した感染者だ。
あれほどの距離で、危害を加えられることもなく感染者と対峙たことのある者が、この世界にどれほど生きているだろう? 絶対的な危機の中、それでも父を呼んだ私は愚かであって賢い。欠片ほどしか残っていなかったはずの記憶に訴えかけ、被害を避けた。怖がらなかったのも、良かったのかもしれない。
「可奈もどこかへ行くのか? 俺を置いて、どこかへ行くのか?」
「今日はおうちにいるよ。勉強しなきゃいけないもん」
気が狂いそうになるほど危険な光景。逃げることもなく、避けることもなく、感染者となってしまって父に今日の予定を告ている。理解したくなくて、目の前の現実を受け入れるのを拒否して、私は異常の中へと居座った。どうして母が返事をしてくれないのか、父が分からないことを言い出すのか、その疑問を解消しようとした。
無駄なのに。それを理解したところで何にもならず、それを理解しなかったところで何も失わないのに、当時の私は知ることを優先した。
「そうか。なら、母さんみたいになる」
三森骨董品店。私の実家にして、その時の事件現場。事件の規模としては小さく、死亡人数は僅か二人というもの。それは偶然が重なり発現する物語に似ていて、たまたまそういった結果を引き寄せたに過ぎない。
童話を飲み込んだ懐中時計が存在した。今の私であればそう判断するであろう、その事件の発端。今も住んでいるその家からは該当するアンティークが見つかることはなく、何らかの手段でどこかへと移動したと思っている。たまたま物語を展開したのが我が家であり、低い可能性ではあるけれど懐中時計自体は客の手に渡っている可能性も否定しきれない。今も展開され続けている物語、それによる後遺症は姉を蝕んでおり、放置しているのは危険だ。
近くに存在しないアンティークに感染者として選ばれた父。その父の手によって物語へと取り込まれてしまった母。父から私を救おうとして後遺症を引きずっている姉。その家族であるはずなのに、何の被害を抱えることもなく日常へと返された私。
アンティークは童話を飲み込んだ骨董品だ。けれど、必ずしも物語をすぐに展開するものではなく、特定の条件が必要であるとされています。その一つとしては、心の弱った人間が近くにいて感染者として使えること。まずその条件をクリアするまでは、おとなしく眠っている状態です。
事実として、アンティークが関係していると思われる怪事件は百年以上前の記録にも残っており、猛威を振るったことが確認されています。当時は解決方法なんてないから、ただ過ぎ去るのを祈り耐えただけ。何がどうなっているかが分からない分、悪魔の仕業のように扱われたのでしょう。被害者にならないように大人しくしているだけで、どの事件をみても解決出来たなんて成功例は殆ど見つからない。稀にあるのは、行動力の塊のような若者が無謀にも解決に挑んだ時。犠牲を出しながらも解決を望めた時のみ。
ただ、記録に存在するのも、現在対応に追われているのも日本だけ。童話の殆どが海外の物であるにもかかわらず、被害を受けているのは日本だけだから、諸外国に協力を取り付けるのも難しい。どうにもこの日本という国には、物語を展開していくのに都合の良い環境が整っているようで、誘い人もそこに目をつけたのかもしれません。
こちらとしてははた迷惑でしかないけれど、彼等にとって見れば実験場が手に入るのは都合が良いのでしょう。
思考に沈む時間、それが長くても短くても現実から切り離されていることに変わりはない。特に褪せるようにして流れる時間にとって見れば、それは非常に緩慢なものとなり、置き去りにする理由となる。
少し目を離した隙に、夢の中の私は、記憶の中にいる最悪の父によって傷つけられようとしている。さっきまですがっていたはずの母は、泡と消え既に赤い液体に変質している。父の口から流れる血の量も増え、その両手は既に形を成していない。注意深く見れば足もぐずぐずに崩れており、そのお陰で追いかけられなかったのだと推測出来る。
泡、置いていかれる環境。その対象が女性に向いており、死体が泡として消えてしまう現象。また、当時は姉に初めての彼氏が出来、帰りが遅くなりことが多かった。
これで主人公に配置されることの多い感染者が、姉であるなら童話の検討が楽だったのだけれど、それでは命が失われてしまうから。別に父や母が死んで良かっただなんて言うつもりはないけれど、今もそばにいてくれる姉がいなくなるということを、私には想像出来ない。
「可奈も、消え、てしまう、の、か?」
泡立つ部分は強酸に触れているかのように溶けているのでしょう。口の中からも血の泡を飛ばし、父が私の方へと踏み出してくる。その動きは非常に緩慢で、もしも全力で逃げることが出来たのなら、今も引きずる傷跡にはならなかったのかもしれない。厳しい現実を生きることを、姉に強いずに済んだのかもしれない。
けれど、現実は残酷であり、起きてしまっている過去が変わることはありません。この先の展開は私の心を削る、繰り返される夢の中で唯一慣れることの出来ない場面。それを繰り返し見せ続けられることは、アンティークによる爪痕なのでしょうか? 私の心を弱らせて、次の感染者に仕立て上げる為のものなのでしょうか?
「お父さん、何やってるの? 可奈に何するつもり?」
今の姉からすると信じられないくらいにハキハキと喋り、活動的な女性。家に篭るようなことはなく、外へと飛び出し続けた女性。私の憧れであり、正義のヒーローでもある姉が返ってきてしまった。これから起きる惨状にも、姉はひるまない。そうなることが分かっていたとしても、何度繰り返したのだとしても、姉は迷わず飛び込んでくるでしょう。
そういったところだけは、今と何も変わらないんだから心配ですよ。
泡まみれになり崩れゆく父の手、それから私を守るようにして抱きかかえてくれた。その瞬間に聞こえたのは何かが焼けるような、ジュッという小さな音。それにつられる様に歪んだ姉の顔は苦しそうで、少し涙を浮かべている。
どうしてここだけスローモーションのようになるのでしょうか? 思考に沈んで見ないように出来ないのでしょうか? 罪の意識と呼ばれるものが、私が逃げることを却下しているのでしょうか?
私を抱えたまま走り出した姉。姉が前を向いているということは、私は自動的に後ろを見ることになります。姉の背中へと手を伸ばし、寂しそうに崩れていく父の最後の姿をその瞳に焼き付けることになりました。真っ赤な泡となり、崩れていくその姿は人間とは思えず、感染者という記号でしか表せない存在。いえ、あれを人間だと認めてはいけないのでしょう。
触れるもの全てを溶かし、泡へと変えてしまう存在が、人間であるはずないのですから。人外として扱わなければ、対応できなくなってしまいます。
父は泡となって消えました。母も泡となり消えました。
姉は父の泡に触れられ、背中が焼けただれています。外科的手術で痕跡を消すことも難しいようで、傷跡を抱えたままで生きています。他にも、実家から離れると子供っぽくなってしまうという、医学的には説明出来ない症状も抱えてしまいました。
今の三森骨董品店には、当該のアンティークは存在しません。事件当日の三森骨董品店にも、既になかった可能性があります。そのアンティークを解体することにより、姉の症状が改善されるかは不明です。既に抱えてしまっている傷跡が、綺麗になくなるとは思っていません。
けれど、例え何も変わらなかったとしても、放置するなんて出来ませんよ。童話の特定は既に完了しているのですから、事件に遭遇すればすぐにでも解体作業に入れるでしょう。
人魚姫、それが三森家を襲った童話であり、今もなお展開され続けている忌まわしき物語。私と姉さんが、特別民間協力者となった理由。
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