第3話:白猫とふれあい


 人懐こい野良猫というのはすぐに殺されてしまう。特に福生美空という少女の前では野良猫など実験用のモルモットに等しい。恐らくは人の役には立たないであろうその実験を止める義務は僕にはないが、しかし黙って見ていることもまたできなかった。

「福生さん、なにやってるのかな」

 わざと大きめの声を出すと、野良猫は驚いて雑木林の中へと逃げ込んでしまった。福生さんは缶詰を手に小さく舌打ちしてから、

「あら、青梅くん。こんな所で会うなんて奇遇ね」

 舌打ちが嘘かのような笑顔でそう挨拶を返した。

 この階段上の廃墟は彼女のお気に入りの場所らしく、そして猫調達の現場でもあるらしい。あの日以来猫の毒殺は見ていないが、それは僕がここへ来た日は必ず阻止しているというだけであり、僕がここに来なかった日がどうなっているのかは定かではない。

「もう……、可哀想だからやめなよ、猫に『福生スペシャル』食べさせるの」

「可哀想と思ってるのは青梅くんだけでしょ? 私はそうは思わないわ」

 食べる? と差し出された『福生スペシャル』入りの猫缶。たとえ『福生スペシャル』が入っていなくとも食べたくはない。

「そもそも、なんなのその『福生スペシャル』って。なんのために実験なんてしてるの」

 福生さんは缶詰を地面に置いて視線を空へ逃がした。てっきり笑ったまま「手段こそが目的なのよ、青梅くん」などと言うのかと思ったが、

「……それは秘密よ」

 そう言っただけでそれ以上は何も語ることはなかった。

 福生さんは判らないことだらけだ。その髪がなぜ白いのかも、なぜ野良猫で『福生スペシャル』の実験をしているのかも――――あんなに楽しそうな顔をして買ったハムスターを、どうして僅か一日の内に殺すことができるのかも。何一つとして理解できないことが、僕がまだ正常の側にいるという証のようにさえ思えた。

「福生さんさ、何か悩みとかあるの?」

「悩み……? どうして?」

「うん。その悩みのせいでこんなことしてるんじゃないのかなって」

「青梅くんは、私が何かに悩んでいるように見える?」

 まるで試されているかのような眼差しだった。周囲で鳴り喚いているヒグラシの声がからっぽの頭の中で反響し、福生さんのその瞳の奥に何が映っているのかを考える思考の余地を削り取っている。僕は何も考えずに、ただ話を進展させるためだけに頷いた。

「なら、私が何に悩んでると思う?」

「それは……」

 真っ先に思いついたのは、親殺しの噂。それが本当か作り話かは僕には検証はできないが、広まる噂に苦しんで心を病んでしまったのではないだろうか。

 しかし、それを口にすることはできなかった。いくらなんでも無神経だろう。両親が実際に亡くなっているのは確かなようであり、そのことについて知ったような口を利くのは無礼極まりない。

「あの……」

 僕が返答に困っている内に、僕のものでも福生さんのものでもない声が聞えた。その声の主は廃墟の壁に半身を隠すようにしてこちらを覗いており――――僕もクラスでほぼハブられているので記憶に薄かったが、同じクラスの男子のようであった。ようであった、としか言えない自分は薄情だと思う。

「君は……えっと」

「あら、どうしたの府中くん」

 意外にも(大変失礼)福生さんは彼の名前を憶えていたらしく、府中と呼ばれた男子は少し嬉しそうな顔をして物陰から出てきた。

「あの、福生さん。ものは相談なんだけど」

 府中くんは何か言いにくそうに口をまごつかせながらこちらに近寄り、周囲を見渡して誰もいないことを確認して、

「もしよかったらなんだけど、今度から仔猫一匹三千円くらいで買ってくれないかな? 必要なんでしょ、猫」

 とんでもないことを口走る府中くん。なんと彼はこの真っ白な髪を仔猫の血反吐で赤く染め上げるのが大好きな福生さんに対し、生贄を千円札三枚で売りつけようというのだ。

 しかし、それよりも予想外であったのは福生さんの答えであった。

「結構よ。猫は自らおびき出してこそ意味があるの。金で買った猫を毒殺したってなんの意味もないわ」

「え、意味あったんだこの行為」

 そりゃそうよ、と僕のつっこみに福生さんは呆れ顔で答えた。

 府中くんはとても残念そうに表情を暗くし、肩を竦めて小さく息を吐いた。仔猫の命が救われたというのに一体どういう反応なのか。この村にはこうした猟奇信仰が根付いているのだろうか。

「そっか……ごめんね、時間取らせちゃって」

 そう言って踵を返した府中くんを、僕は無意識の内に呼び止めていた。

「ねぇ、どうして仔猫を福生さんに売ろうと思ったの?」

 なんでも気になったら訊いてしまうのは悪い癖だ。しかし、人間の残虐行為には何かよほどの理由というものがあって欲しい、という些細な願いのためにはこうして無神経さを多少は培っておくべきだろう。

 府中くんはその表情をより一層曇らせた後、再び周囲を見回してから答えてくれた。

「……実は、家に結構な額の借金があるんだ。僕も新聞配達のバイトをしてるんだけど、とても返済には足りなくて、生活もぎりぎりなんだ」

「どれくらいぎりぎりなのかしら?」

「たまごかけご飯に醤油を掛けられないくらいに」

 たまごの方を節約したほうがよいのではないだろうか。

「なるほど、だから猫を売って生活費の足しにしよう、と思ったのね」

「うん」

「まさに猫の手も借りたい、と」

 まるでバタフライナイフのような福生ジョークに笑う者はいなかった。福生さんだけが得意げな顔をしており、僕と府中くんは顔を見合わせ聞かなかったことにした。

「でも、お金のために猫を殺すのはどうかと思うなぁ」

「うん……だけど、このままだと猫じゃなくて人間の方が死にそうなんだ。猫は床下にいっぱいいるしね。野良猫が住み着いて増えに増えて今では十匹以上もいる。煮ても焼いてもおいしくないし、もう売るしかないよ」

 この村は実は全体的にどこかおかしいのではないだろうか。もしかすると福生さん以上に異常であるかもしれないが、彼の場合は飢えによる非常措置ということにしておこう。

「まぁ、仕方ないね。もし猫が欲しくなったら言ってよ。一番活きがいいの持ってくるから」

 府中くんはそう言い残し、肩を落として石段を下りて行った。




■  ■




 翌日、府中くんの一件が頭から離れずにぼんやりと授業をやり過ごした日の放課後。そろそろ真面目に生物部の活動に参加しようと、福生さんの追跡がないのを確認してから部室であるプレハブ小屋までやってきた。

 小さく二回扉をノックしてから建て付けの悪いスライド式の扉を開く。どうせ武蔵野さんしかいないし、中で誰かが着替えていたりということもないのでノックなどいらない――――はずであったのだが、

「……うん?」

 どういう訳か、この日は福生さん不在ながらやたらと人口密度が高かった。一人はレギュラーメンバーの武蔵野さん。そして、どういう訳か僕の伯父の娘、つまり従妹である京子ちゃん。最後に、一度職員室で見たことがあるようなないような記憶に薄い丸眼鏡の女性が一人。多分教師であろう。計三人が、どういうわけか下着姿で三人揃って奇妙なポーズをとっていた。あまり詳しくはないが、ヨガとかいうやつではないだろうか。

「あ! そうだった、青梅くんいるんだった!」

 慌ててしゃがみ胸を隠す武蔵野さんと、今にも叫び出しそうな京子ちゃん。教員らしき女性は別段慌てた様子でもなく、ただこちらを見つめている。

「失礼しました」

 慌てず騒がず、クールを装って戸を閉めるが、遅れて京子ちゃんの悲鳴がプレハブを揺さぶった。これは下手したら家を追い出されるのではないだろうかと危惧しつつ、しかし見てしまったものは仕方ないではないかと先ほどの光景を思い出し、諸事情により立っていることができなくなったのでその場にしゃがみこんだ。

 ややあって、プレハブの内側から戸が開かれた。そこに立っていたのは丸眼鏡女教師(仮)であり、下着の上に直接白衣を羽織っているという奇抜で悩殺的な服装であった。

「いやぁ、すまないすまない。長らく女子しかいなかったから油断していたよ」

 はっはっは、と高らかにわざとらしく笑った丸眼鏡女教師に、僕はしゃがんだままに疑問をぶつけた。

「何やってたんですか、あれ」

「あれか? あれは『生物部ヨガ』だ。生物部の生物部らしさを全身で表現し、身も心も生物部の従僕となる体操だよ。副作用として、肩凝りや便通の解消がある」

「多分その副作用なかったらやらないですよね。それにしても、どうして脱いでたんですか。そのせいで下手すると今晩からその辺の山に住所移さなくちゃならないかもしれないんですけど」

 そう訊くと、よくぞ訊いたと言わんばかりに丸眼鏡女教師の目が輝いた。

「そう、そこなのだよ。本当なら『生物部ヨガ』は全裸で行うものなのだ。動物と同じく一糸纏わぬ姿で己の肉体の可動域の極限まで運動することで野生のエネルギーが体内に満ち溢れるのだよ。それを互いに見せ合うことで相互に作用し、より高い効果を得ることができる」

 クラスメイトと従妹の全裸を想像してしまったのは不可抗力である。これを罪とするならば地上は罪人で溢れているだろう。僕の想像は僕の脳内にだけ存在するのであって、それを規制することは何人たりとも許されない。

 丸眼鏡女教師の弁はなおも熱く、やや目が血走っているのに気付いた時には僕の止める言葉なぞ耳にも入っていないようであった。

「そう、全裸だったのだ。最初の一回は歩くんも京子くんも全裸でやってくれたのだがな、特に京子くんから大ブーイングがあったので、以後は下着姿で行うことにしたのだ。ところでどうだね、青梅兄よ! キミも一緒に『生物部ヨガ』をあだだだだだ!」

 暴走する丸眼鏡女教師を止めたのは、生物部で飼育しているカミツキガメ(先日用水路で発見されたのだ)をけしかけた武蔵野さんであった。

「それちょっとシャレにならないんじゃないかな」

「大丈夫、歯は抜いてあるから」

 カメに歯なんてあったけ、とは訊き返さなかった。丸眼鏡女教師は痛そうに尻を抑え、ふらふらと立ち上がる。

「いたた……調教してなきゃ尻肉もってかれてたな。こら武蔵野! 動物をけしかけるんじゃぁない!」

「ごめんなさーい」

 なんと気のない謝罪だろう。しかし丸眼鏡女教師はそんなことなど気にも留めていない様子で、カミツキガメを抱きあげてプレハブの中へと戻って行ってしまった。


 気を取り直してプレハブの中へ入ると、部屋の隅で京子ちゃんが背を向けて蹲っていた。負のオーラが全身を包んでいるようにさえ見え、今晩の野宿を覚悟した。

「おっと、自己紹介がまだだったな。私はこの生物部の顧問である日野朱実だ。キミのことは京子くんから聞いているよ」

「はぁ、僕の方は京子ちゃんが生物部だっていうのは初耳だったんですが」

 差し伸ばされた手を取り握手を交わす。京子ちゃんは涙を浮かべた顔でこっちを見て、

「わ、私もカズにぃが生物部入ったなんて聞いてないよぉ……」

 そう苦情を言って再び顔を逸らしてしまった。僕はなんと謝罪していいか判らず、散々頭を捻った結果として事態をプラス方面に転換することを思い付いた。

「大丈夫、可愛い下着だったよ」

 結果を得る前に悪手だと気付いたが、一度口から発せられた言葉という空気の振動を回収することはできない。京子ちゃんはさらに膝をきつく抱いて立ち上がることはなかった。




「とりあえず、することもないし動物の世話の方法を教えようか」

 場の空気が落ち付いてきたところで、暇を持て余した日野先生が今思いついたように手を打った。僕はやっと部活動らしいことが始まる予感に楽しみが湧きあがってきたが、しかし日野先生が部屋の隅の冷蔵庫からキャベツの入った袋を取り出し僕に投げ渡して、その楽しみもすぐに終わってしまうのだと気付いた。

「あの、このキャベツってカメの餌、ですよね」

 そう訊くと、日野先生は一緒に冷蔵庫に入っていた缶ビールを取り出し、

「いかにも。そしてブタの餌でもあり、ハムスターの餌でもある」

 ビールを呷って、いかにも美味そうに息を吐き出す。引き継ぐようにして武蔵野さんが指折り数えた。

「あとイノシシと……」

「イノシシ!? 飼ってんのそれ!?」

「あとロバと」

「ここ中学校だよね?」

「あとポニーのポニちゃん!」

「動物園開けそうなんだけど。というか、ここの動物で名前付いてるのいたんだ」

 武蔵野さんは太陽のような笑みで頷いた。

「うん。だって食べる時に情が移っちゃうし」

「え、それもしかしてイノシシの話? カメは食べないよね?」

 その問いに対する回答はない。

「そうだ、後でポニちゃん紹介しような。彼はこの部のマスコットだからな」

 缶ビールを飲み干した日野先生はそう言って、ふらふらと部室を出て行った。武蔵野さんは僕からキャベツを受け取ってカメに与え始め、京子ちゃんは恥ずかしそうな顔をして先生の後を追った。僕もそれに続いてプレハブを出て、室内がいかにエアコンによって守られているのかを実感した。

 無駄に広い敷地の隅に作られた放牧場は、よく見るとそのさらに隅に家畜小屋のようなものが建てられていた。こう言ってはなんだが凄まじい獣臭であり、慣れるには時間がかかりそうである。

「うわ、ホントにイノシシだ!」

 鉄骨で支えられた家畜小屋の入り口で、僕は早速イノシシを発見した。硬く脂っぽい毛に覆われたイノシシは二頭おり、眠そうな顔でこちらを見つめている。

「牙は落としてあるから刺さりはしない。もっとも、刺さらなくても十分危険だがね」

 イノシシは危険。生徒手帳のメモ欄にとりあえず書き込んでおく。

「ブタの方も比較的安全とはいえ、ちゃんと爪がある。引っ掻かれたら痛いぞ」

「なるほど」

 メモをとる。なんだか殺傷能力ばかり説明される予感がしてきたが、自分より体重がある獣を相手にするのなら妥当なとこだろうか。

 そうしてメモをしていると、突然一頭の豚がもう一頭のブタの背に伸しかかるようにして、やたらとうるさく騒ぎ始めた。背に乗っている方は口に泡を噛み、そして後ろ足の付け根には――――

「あの、なんか始めちゃったんですけど」

「なんかもナニも、交尾だな」

 日野先生は至って冷静であったが、京子ちゃんは顔を真っ赤に染め上げて手で顔を覆った。指の隙間から覗いているように見えるのは気のせいだろう。

「まぁ獣には貞操観念とかないからな。子孫繁栄の本能とそれを遂行するための快楽を得るために交尾する――――人間もそうありたいものだな。な?」

「な? じゃないです。それやったら逮捕されますよ」

「やれやれ、オスのくせに淡白だな、キミは。そんなだから私のようにパートナーのできない女性が発生するんだ」

 それは多分別のところに理由があると思われるが、それは口にしないでおく。

「か、かかカズにぃのやっぱり、その、そういうことしたくなるのかな?」

 顔を覆ったままいきなり何を言っているんだろうかこの子は。

「いや、まぁ……人並みってとこで」

 そしてなぜ答えてしまったのだろうか。しかしかけがえのない従妹の質問に対して無視をするわけにもいかない。今僕はあの家で微妙な立ち位置に立たされているのだ。もしこの質問に答えることによって先ほどの――――不可抗力とはいえ年頃の女性の下着姿を見て網膜に焼き付けてしまったことへの償いとなるのなら、いくらでも答えよう。答えられる範囲で。

「そ、そっか。ふーん……」

 いかにもわざとらしい素っ気なさだが、もしやこれは弱みを握られたというやつではないだろうか。これからしばらく従妹に弱みを握られながら生きて行くのも、もしかすると悪くない生活かもしれない。少なくとも、滅多に体験できない人生であろう。

「ヒト科のオスメスが盛っているとこに水差すのもなんだがね、ポニちゃんがお待ちかねだぞ」

 日野先生が呼んだのは、家畜小屋の一番奥であった。立派な鉄柵に囲まれたそこには一頭のポニーがおり、ウマにくらべてやや小柄な体躯が可愛らしい。ただし、股間にぶら下がる逞しく長いそれについてはノーコメントとする。

「……発情している」

「すみません今スルーしようと思ってたんですが」

 再び京子ちゃんは顔を手で閉ざした。彼女はこの環境に向いてないのではないだろうか。と思いきや、ちゃっかり指の隙間からポニーの体に見合わず逞しい男性器を観察しており、こちらに気付かれていないと思っているのか釘付けになっていた。

「ポニーちゃんってくらいだから雌だと思ってたんですけど、これまた立派なものをお持ちで」

「さすがにポニーを二頭飼うだけの予算も気力もないからな、ポニーちゃんには寂しい思いをさせてしまっている。そのせいか、最近は人間相手にも発情するようになった。性別問わずな」

「……なんとかなりませんかね、あれ」

 そう訊ねると、日野先生は意外そうな顔をして、

「なんとかするには、誰かがどうにかするしかあるまい」

 その役目は謹んで辞退し、現状に対して目を瞑るという対処をすることにした。

「去勢とかしないんですか」

「本来なら繁殖用途ではないからそうすべきなんだが、歩くんが猛反対をしてな」

「武蔵野さんが?」

 なるほど、武蔵野さんほどの優しさを持ち合わせていれば人間の勝手な都合で去勢するなど考えられないのかも知れない。だったらそもそもなんで生物部なんか入ったんだという疑問は口に出る前に心の奥底へ封印した。

「ほーらポニちゃーん。ご飯の時間だぞー」

 柵の内側の餌箱に入れられる大量のキャベツ。ポニちゃんはそのにおいを嗅いで、あろうことかそっぽ向いてしまった。

「ちっ、今日も食べないか」

「え、キャベツ好きなんじゃないんですか」

「誰も好きとは言ってない。キャベツしかないからキャベツを与えているだけだ。まぁいよいよ腹が減ったら食べるから問題ない」

 ポニちゃんが可哀想になってきた。

「これ乗れるんですかね」

 可哀想になってきた直後でポニちゃんには大変申し訳ないのだが、気になってしまったことは仕方ない。日野先生は袋に残ったキャベツの破片を口に放り込んで、

「ウマだけに馬乗りか」

「ポニーですよね」

「まぁポニーだが馬乗りできないこともない。キミくらい体軽そうなら問題ないんじゃないか。もっとも、ポニちゃんは乗られるより乗りたいみたいだがね」

 はっはっはと高笑い。ひどい下ネタを聞かされた僕は、顔を真っ赤にしてもじもじしている京子ちゃんを連れて家畜小屋を後にした。




■  ■




 学校を出た頃にはもう日が沈んでおり、盆地は都会では見られないような深い闇に包まれた。京子ちゃんは懐中電灯を手に僕の隣を歩いており、暗くなった中を歩いたことのない僕はその頼もしさを感じながら、自分の不甲斐なさに肩身の狭さを感じた。

「ここは懐中電灯必須なんだね……知らなかったよ」

 僕の言葉に京子ちゃんはちらとこちらを見て、

「街灯のある道を通るならいらないけど、この農道を真っすぐ歩くには必要だね。ここは街灯まったくないから」

「なるほどね。でも京子ちゃん毎日ここ通るの? 怖くない? 不審者とか」

 京子ちゃんは少し困ったように小さく俯いてしまった。そして、小さく口をもごつかせて、

「うん……実は、二年前にここで連れ去られそうになって」

「え、大丈夫だったの? っていうかそれなのにまたここ通るんだ」

 京子ちゃんは小さく頷いた。

「やっぱりここ通った方が近いし、その犯人は逮捕されたし……それに、今は、カズにぃがいるし……」

「危なかったね。でも、どうやって逃げたの?」

「それは」

 言いかけて、京子ちゃんの足がぴたりと止まった。僕も立ち止まり、それでもなお砂利を踏み分ける音が聞こえる。僕は小さく息を飲んで、音が聞こえる前方の暗闇を凝視した。

 ――――懐中電灯の仄かな灯りが照らしだしたのは、眩しいほどの白い髪であった。僕はよく知ったその顔にほっと胸を撫で下ろすが、彼女は僕に気付いているはずなのに顔を俯かせたままこちらへ向かってきた。

「福生さん?」

 僕が声を掛けるが、返事はない。手に提げた酒屋のビニール袋には、缶ビールや焼酎などが詰まっている。まさか福生さんが飲むのだろうか。

「福生さん、暗い中歩いたら危ないよ。それに一人でこんな」

 こんな道を歩くなんて。その言葉は僕の口腔を彷徨って消失した。僅かに照らされた彼女の横顔。その頬は赤く腫れ上がっていた。

「福生さんそれどうしたの? 誰にやられたの?」

 福生さんは何も答えない。徹底的な無視。誰かに路上で襲われたのかとも考えたが、衣服には何も汚れが見えない。

「ねぇ、なんで黙ってるの。どうしたの」

「……青梅くん」

 福生さんはやっと立ち止って、しかしこちらを振り向いたりはしない。ただ、その声は何かの感情を押し殺しているように聞えた。

「今、青梅くんは何かを見たかもしれない。何かを思ったかもしれない。何か推論を立てたかもしれない。けれどもそれらは全て忘れてくれないかな」

「忘れる、って」

「今日ここで、あなたは何も見なかった。誰とも会わなかった。明日、学校で私と会ってもそのことを思い出してはいけない。訊いてはいけない。考えてはいけない。探ってはいけない。いい?」

 僕は小さく頷いた。それしかできなかった。その理由すら今は聞いてはいけないような気がしたのだ。

 福生さんは再び歩き始めた。酒の詰まったビニール袋を重そうにして。とぼとぼと途方に暮れるような足取りで。

「……あの人が、助けてくれたの」

 その背に向かって、京子ちゃんはぽつりと小さく呟いた。僕はただその背が暗闇に消えて行くのを見つめていることしかできず、明日どんな顔をして会えばよいのかとそのことばかり考えていた。




 敷いたままの布団の上に身を投げて、考えることは福生さんのことだった。あの顔の腫れは間違いなく何かで強く打たれたものだ。自分でやったのではないだろう。偶然何かにぶつかったとも考えにくい。誰かが誰かの意思によって福生さんを傷つけ、福生さんはそのことを言えないでいるのだ。

 クラスメイトの誰かだろうか。福生さんの家族だろうか。それとも見知らぬ誰かだろうか。その誰かはどうして福生さんを傷つけたのだろう。

 僕は福生さんは傷付ける側だと思っていた。絶対的な攻撃者であり、誰かの攻撃に対しても平然としている強さを持っているのだと勝手にそう考えていた。だから、あの押し黙って感情を覆い隠している彼女を見た時、僕の心はばらばらに弾け飛んだようであった。あの道を一歩ずつ歩くたびに福生さんという存在が意味消失してしまうのではないかと、そう感じたのだ。

 明日、学校で福生さんに会ったらまずはどうすればよいのだろう。彼女の言う通りに全てなかったことにして、明るい話題を提供すればいいだろうか。リスクを承知でポニちゃんのことについて話してみようか。

 思考の渦に呑まれそうになっていると、扉を軽くノックする音が三回。どうぞ、と僕が言うと、小さく開いた扉から京子ちゃんが顔を出した。髪がしっとりと湿っているので、風呂上がりなのだろう。

「カズにぃ、お風呂空いたよ」

「ん、ありがと」

 ゆっくりと上体を起こすと、突然激しい眩暈に襲われて再び布団に倒れ込んでしまった。眩暈なんてほとんどしたことがないので驚いたが、それ以上に京子ちゃんの方が驚いているようだった。

「カズにぃ、どうしたの? 具合悪いの?」

 不安そうな顔をした京子ちゃんは僕の頭を抱き起こして膝の上に載せた。熱いてのひらが僕の額に落ちて、その熱がとても心地よい。ふんわりと香るシャンプーが心地よく、ふと母のことを思い出した。

「……いいにおい」

 小さく呟くと、京子ちゃんは顔を真っ赤にしながらも小さく笑い、僕の髪をそっと撫でた。

「あの時と逆だね」

 京子ちゃんは懐かしむようにそう言ったが、僕はその言葉に対して心当たりがなかった。僕の表情からそれを読み取った京子ちゃんは少し寂しそうな顔をして、

「憶えてない? いつかのお正月に、私とお父さんがカズにぃの家に行った時のこと」

 記憶を遡ろうにも、視界がふらふらとするほどに意識もぼんやりとしているので、まともに思い出すこともできない。

「昔は私もずっと体が弱くて、熱を出して倒れちゃったんだ。私のお父さんとカズにぃのお父さんお母さんは親戚に挨拶に行ってて、カズにぃが私の看病してくれたんだよ?」

「……そんなことも、あったかな」

 言葉を濁すと、京子ちゃんの表情はさらに悲しげなものになった。

「じゃぁ、あの約束も憶えてないの?」

「あの約束……?」

 小さな唇がゆっくりと動く。上体が覆いかぶさるようにして、耳元に口を寄せて、

「ずっと私のそばにいて、ずっと私を守ってくれる、って」

 そう呟いて、その暖かい吐息は遠ざかっていってしまった。飴を舐めていたのか、ガムを噛んでいたのか、柑橘の爽やかな吐息だった。

「……お風呂、どうする? やめとく?」

「あ、うん……そうだね。お風呂で倒れたら溺れ死んじゃう」

 くすりと京子ちゃんが笑った。

「なら、一緒に入る?」

 無邪気な冗談に、つい下半身が反応してしまったのが恨めしい。膝を立ててなんとか誤魔化したが、これではいよいよ風呂になんて入れない。

「体拭くくらいにしておくよ」

「うん、わかった。タオル用意しとくね。あと、明日はお休みした方がいいよ。色々あって疲れてるんだと思う」

「うん、そうだね。そうするよ」

 京子ちゃんは部屋を出て、階段をゆっくりと踏み鳴らして降りていった。僕は京子ちゃんが戻ってくる前になんとか下半身を平常状態に戻そうと、ゆっくり瞼を閉じてまったく関係のないこと――――府中くんの家の猫のことなどを考えた。




■  ■




 転校早々病欠をすることによって病弱属性が付与されてしまうのではないか。そんなことを考えながら自室で過ごす怠惰な一日。昨日の眩暈は嘘のように消え、今では健康体そのものであった。

 伯父も伯母も仕事で家におらず、あまりにも暇なのでどこかへ出かけたいところだが、こんな田舎で病欠したはずの人間が外を歩いていたらすぐさま噂になってしまうだろう。

 さて、何をしていよう――――そう考え始めた矢先に、来客を告げるインターホンが鳴り響いた。僕は出るべきか数分悩み、もう一度インターホンが押されて慌てて玄関まで走った。

「はい」

 扉を開けると、そこには薄い笑みを貼りつけた白い髪の少女が立っていた。それはどこからどう見ても、現在学校で授業を受けているはずの福生さんである。

「あれ、学校は?」

「それはこっちのセリフ。どうかしたの? 夏風邪?」

 福生案の追及に、僕は言葉に迷った。

「あー、まぁ、具合悪かったのは昨日で、今日は念のため」

「ふぅん。あの妹さんに、いわゆる『愛ある看病』を受けて元気いっぱいってわけね」

「妹じゃなくて従妹ね」

 どっちでもいい、と福生さんは靴を脱いで上がり込んだ。追い返すつもりはないが、しかしこの家に勝手に他人を上げてもよいものだろうか。

「福生さん授業は? ズル休み?」

 福生さんは僕の部屋に入るなり、ぐるりと部屋を見渡してから質問に答えた。

「倒れそうなほど生理がひどい、って堂々と公言すれば簡単よ。まさかこっちの生理周期を把握してるって気持ち悪いことはしてないだろうから」

「なんかそれ恥ずかしくない? あ、そこ座って」

 勉強机の椅子を勧めると、福生さんはゆっくりと椅子に腰かけた。恐る恐る、といったその様子はどう見ても不自然で、まるで座ることに抵抗があるようにも見えた。僕は布団に座り込む。

「どうかしたの」

「……なんでもない」

 冗談めかしてはぐらかす様子がない、と僕は受け取った。よく彼女の表情を見れば、僅かに苦痛に耐えているように見える。

「布団の方がいいかな」

「そうするわ」

 どうやら柔らかい方がいいらしく、福生さんは椅子から立ち上がって畳んだ布団の上ににゆっくりと腰掛けた。尻に怪我でもしているのか――――ふと、僕は昨日の彼女の頬を思い出した。何かによって強く打たれた頬。では、尻は。

 しかし、それを訊くことはできない。昨日の彼女にこのことは忘れるようにと言われたからだ。もしその意思を無視したなら、彼女はどうなってしまうのだろう。それが怖くて、僕はその約束を破ることはしなかった。

 もしかしたら、彼女は僕の見舞いではなく、寂しかったのかも知れない。以前では考えもしなかっただろうその可能性に自分でも驚いた。

 福生さんは何を言うでもなく部屋を観察している。まだ私物の少ないこの部屋の何が物珍しいのか、しばらく首をレーダーのように動かして、ややあってそれも飽きたようであった。

「青梅くん、これからどこか遊びにいかない?」

「さすがに体調不良で休んでいるのに外に遊びに行くほどアウトローになったつもりはないかな」

「そう? でも退屈じゃない?」

「退屈が病気にはよく効くこともあるよ」

「退屈ほど厄介な病はない、とも聞いたわ」

  福生さんは楽しそうに笑う。こうしていると普通の――――いや、普通より何段か跳び抜けて可愛い女子なのだが、しかしどうして小動物を手に掛けるのだろうか。

「あまり退屈だと家探ししてしまいたくなるわ。青梅くん秘蔵のエロ本を探し出して村の掲示板に張り出したくなるわね」

「エロ本なんてないって。隠す場所ないし」

 今のところ、この部屋には布団と勉強机と、衣服の入ったプラスチックのコンテナしかない。まだ自分の部屋という気がせず、物を増やす気が起きないのだ。

「隠す場所がないせいでエロ本買えないなんて、可哀想な青梅くん」

「隠す場所があったとして、買うかどうかは別問題じゃないかな」

 そもそも買う金がないし、入手ルートが存在しない。こんな本屋さえない田舎でどうやって手に入れればよいというのか。ゴミ捨て場を漁ろうものなら明日から村の有名人となるだろう。

「なるほど、そう言われてみれば、リア充の青梅くんにはエロ本なんて必要ないものね。女の体は余ってるもの」

「いや、そんなことは」

「武蔵野さんと、妹さん。あと立川さん?」

 にやにやと笑いながら指折り数えて挙げられる名前に、改めて考えればなんと異性に恵まれているのだろうかと気付かされた。

「妹じゃなくて従妹」

 訂正は忘れない。

 福生さんは再び部屋を見渡して、そしてあるものを見つけた。

「あれは?」

「うん? あぁ、あれは京子ちゃん――――従妹から借りた漫画だよ」

 その表紙をまじまじと見つめたかと思えば、福生さんは「なるほど」と何かに納得したように数度頷いた。

「あれを読み終えたら、次はきっと従兄との禁断の愛を描いたストーリーの漫画を借りることになるわね」

「どういうことそれ。っていうか福生さんも読むんだ、ああいうの」

 そう訊くと、福生さんは自慢気に胸を張って、

「あの雑誌のは立ち読みで毎週制覇してるわ」

「買おうね」

「しかもあれ、結構キワドイの多いのよ。あまり読んだことないけれど、その辺の成人誌よりずっとエロいの。それは全然ライトなほうだけど」

 たしかに、今読んでいるものもそういったシーンがところどころ挟まれているように思えた。それでライトというのだから、他のはよほどすごいことになっているのだろう。

「なんていうか、女の子が大人っぽい理由が少しわかった気がするよ……」

「耳年増とも言うわ」

 二人して笑いあう。そうするほどに昨日の暗く沈んだ福生さんの顔が蘇り、そのギャップが僕の心に違和感の溝を生みだしていく。どうして忘れろと言ったのか。その疑問だけがぐるぐると頭の中を渦巻いて、それを拭おうとするほどに強くなる。

 そんなことを考える余裕さえ与えないように、僕と福生さんは他愛もないことを話し合っていた。


 やがて、昼を回った頃に福生さんは眠そうに瞼を重くして大きくあくびをした。

「眠いの?」

「うん、少しね」

「寝不足?」

「うん……昨日は機嫌悪かったから……」

 眠さのせいか、福生さんは口を滑らせた。僕は直感的に、そのことが昨日の福生さんと繋がりがあると思った。そしてそのことに福生さんはまだ気付いていない。

 このまま聞き出すべきか否か。自分の好奇心のために彼女の心を蹂躙するのか。

 結果として、この葛藤は無意味なものになった。福生さんはそのまま眠ってしまい、壁に寄り掛かるようにして静かに寝息を立て始めた。

「なんか、倒れそうだな……」

 あまりにも気持ちよさそうに寝ているので起こすつもりはない。しかし、畳んだ布団の上に座っているのは体に負担が掛かるし、なにより倒れたら痛そうだ。

 とりあえず福生さんの脇に腕を入れて抱きかかえ、一度床に寝かした。それから布団を敷いて、その上にまた彼女を寝かせる。それでも目が覚めないほどに深く、ぐっすりと眠ってしまっていた。

 ――――その寝顔に思わず見惚れてしまう。あまりにも無防備な寝顔。ガードのゆるい体。スカートであることを気にしていない大胆な足の動き。

 下半身が意思に逆らって力を蓄えるのを感じて、僕は膝を抱えて部屋の隅に座り込んだ。

「ん……おうめ、くん」

 不意に名前を呼ばれて肩が跳ね上がるくらい驚いたが、やはりそれは寝言のようであった。

「んむぅ……サルは……さすがに食べない……わ……」

「どんな夢見てるの福生さん」

「カメは……いける……いける……」

「ダメだよ。カメも食べちゃダメだよ」

「おうめくんの……おいしい……」

 理性が弾け飛びそうになったが、なんとか堪える。普通にしていればどうしようもないくらい可愛いのに、なまじ仔猫殺害現場を目撃しているだけあって素直にただの異性としては見れないのが残念である。こうして寝ていればとてもそんなことをするような子には見えない、というのが正直な感想だ。実は双子で、片方だけが残虐な性格をしているのでは、とさえ考えてしまう。

「おうめ、くんの……ハムスター……おいしい……」

「食べないでよ僕のハムスター。買ってないし飼ってもないけど」


 この後、福生さんが目覚めるまでの二時間は己との戦いであった。理性は本能に勝利し、終始胸がどきどきしているという貴重な青春体験を迎えた僕は、しかしそれでも何かがすっぽりと欠け落ちたような感触が消えずに、むしろそうした『日常』を経験する度に増長されていくようであった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る