第4話:白猫と愛
この学校では、昼休みの間に自由なタイミングで昼食をとることができる。各々が好きな時に好きな場所で好きな相手と食事することができるのはとても素晴らしいことだと思うが、それは主に友人がいる者達だけの話だ。
転校早々に大型の地雷と関わりを持ってしまった僕は、ほとんどの男子女子両方からブラックリスト対象となってしまったために話しかけられることすらほとんどない。僕と関わろうとするのはこの過疎化した学校の中の一クラスの、さらにほんの一握りの者だけである。
そんな僕らはすっかり居心地がよくなってしまった生物部の部室であるいくつかあるプレハブの、動物を飼育していない人間のための部屋で昼を過ごすようになっていた。
「福生さん、今日お弁当は?」
高校のように学食なるものが存在しないので、生徒は通常は弁当を持参する。よって、弁当を持っていないということはその日を空腹のまま過ごさなければならないということだ。
「色々あって用意できなかったの」
「色々の部分がものすごい重要な気がするけど……僕の弁当半分食べる?」
そう勧めると、彼女は礼を言ってから唐揚げをひとつ摘んで口にした。それを何度か噛み、飲みこんで、
「うん、おいしい。このお弁当は青梅くんが?」
「ううん、京子ちゃん――――従妹が作ってくれたんだ。いままでは自分で作ってたんだけどね」
「今までおにぎりだったものね。突然箱モノにグレードアップしたから驚いちゃった」
そう言って、今度はミニトマト。僕より圧倒的に食べるペースが速い福生さんは、次々と弁当箱を軽くしていく。
「そろそろお米が食べたいわ」
そう言って指を舐め、僕の方をじっと見つめる。僕は彼女が何を欲しているのか判らない。
「さすがにその海苔弁を手掴みするのはどうかと思うわ」
「えーと、つまり」
福生さんの返事は、目を瞑って口を開けるというものであった。僕はその仕草に僅かな劣情を抱くが、全神経を集中してそれが顔に出ないように努めた。
震える手で箸を保持し、醤油を塗った海苔で覆われた米を小さく摘む。
「い、いくよ」
それをゆっくりと彼女の口まで運ぶ。整った歯並び。綺麗な舌。小さな口。そこに先ほどまで自分が使っていた箸を入れる。なるべく触れぬように気遣って、恐る恐る米を置く。その瞬間に僅かに彼女の体が驚きに震え、そして口は閉ざされた。まだ箸が残っていたので、彼女が箸を咥える形になる。
「うん、いい味加減ね。従妹ちゃんは料理上手なのね」
「え、あ、うん。よく自分で料理してるらしいよ」
彼女の口から引き抜かれた箸の、その先端を凝視する。彼女の唾液という名の体液が付着したそれは、やはり思春期の男子には刺激が強い。間接キスどころか間接ディープキスにすら相当するその行為に罪悪感と背徳感と興奮、そして何者かに対しての優越感を覚えつつ、素知らぬ顔で唐揚げを摘んで口にした。その瞬間の心拍は、外に音が漏れるのではないかというほど強い鼓動であった。
「どうかしたの?」
硬直していた僕を見て、彼女は面白そうな顔をしてそう訊いた。僕が慌ててそれを誤魔化そうとするが、ただただ不審な動きをすることしかできない。
「あ、あー……そういえば福生さんって部活なにかやってるの?」
無理矢理話題を方向転換するが、福生さんは嫌な顔ひとつせずにそれに乗った。
「なにも。私を入れてくれるとこがあると思う?」
「あったら入ってた?」
「どうかしらね」
あまり他人と協力するのは得意ではなさそうなので、球技系の部活は論外だろう。そもそも運動は得意そうではあるが好きそうではない。もしかすると芸術系が向いているかも知れないが、彼女の感性を常人が理解できない可能性がある。
「そうだ」
と言ってみたはいいものの、思いついたその案は自分でもどうかしていると思った。
「生物部入ってみない? 下級生は僕の従妹しかいないけど」
「なるほど、いいアイデアね!」
思わぬ快諾に血の気が退く音がするが、今まで特に何も起きていなかったので部員になったとしても問題はないだろう。恐らく。多分。きっと。
「な、なら後で入部届け貰いにいかないとね。たしか立川さんが管理してたはずだし」
「そこで一つお願いがあるんだけど、私の代わりに入部届け貰ってきてくれない? 私、彼女少し苦手なの」
可愛らしく手を合わせてお願いされたら聞く他はない。
「いいけど、福生さんにも苦手な相手がいるんだね」
「傍若無人な女だと思ってた?」
「そこまでは思ってないけど、でも誰に対しても平然としてそうというか」
「心臓に毛が生えてるって?」
なんとも愉快そうな顔でこちらに詰め寄る福生さんのその吐息が、やさしく顔に掛かってどきりとする。しかもどことなく甘い香りがとても吐息とは思えず、それをじっくりと堪能している自分に気付いてやっと我に返った。
「なんか、すごく甘い香りがする」
「うん、さっきまでガム噛んでたからかしらね」
音楽プレイヤーどころかガムまで持ちこんでいるとは、やはり傍若無人という言葉がよく似合う。僕は彼女の吐息を顔面で感じながら、自分はなんと本能的な人間なのだろうと恥ずかしくなった。
福生さんの顔が離れ始めたその時、プレハブの外で何か大きな物音がした。正確には、隣の動物などを飼育しているプレハブからである。
「なんだろう」
「カメでも落ちたのかしら」
二人してそろそろとプレハブを出て、隣のプレハブへと向かう。小さく開いた引き戸を開けると、そこにはキャベツにまみれた府中くんがいた。
「……どうしたの?」
思わず僕がそう訊くと、府中くんは小さく俯いてしまった。そして、ややあって囁くような小さな声で僕の質問に答えた。
「お、お腹すいちゃって」
「まさかカメを」
「違うよ! カメ飼ってるから、キャベツとかあるかなって」
カメイコールキャベツの方程式が一般的に成り立つのかはさておき、そうまでして食糧を得なければならないほどに飢えているとは思わなかった。
「たしかお家が借金まみれってこないだ聞いたけど」
ずいと福生さんが前に出て、腕組してそう訊いた。府中くんは俯いたままさらに頭を下げて頷く。
「いくらなんでも畜生の餌を食べるのは人間としての品位に関わるわよ」
「そういう問題じゃないと思うな」
ごめんなさい、と謝罪しながら府中くんはキャベツを一枚齧った。見かけより肝が据わっているのかも知れない。
「そこのカメなら食べていいわよ」
「よくない!」
「うーん、カメはちょっと。ネズミなら何度か」
「ハムスターもダメ!」
二人の間に入っていると想像以上の疲労に苛まれそうだが、放置しているとここは府中くんの食糧庫になってしまいそうであるので、それはなんとしても阻止しなければならない。
「あの、たしかあっちの小屋にイノシシいましたけど、あれは食べていいかな?」
「あら、そんな面白そうな畜生がいるなら教えてくれたらいいのに、青梅くんってば」
牡丹鍋ね、と呟く福生さん。だから案内したくなかったのだが。
「あーもう、イノシシもブタもポニーもダメ! っていうか昼休み終わるから二人とも戻るよ!」
そう言って無理矢理二人を外に追い出し、プレハブの扉に鍵を掛ける。しかし、ふと気になって鍵をかけた状態で戸を開こうとしてみると、なんと何の抵抗もなくすんなりと戸は開いてしまった。
「こ、壊れてる」
「言っておくけど私じゃないよ」
「僕でもないよ」
この状況でまさか福生さん以外の人間を疑うことになるとは思わなかった。
「はぁ、これは後で日野先生に報告するとして、後で立川さんから入部届けか」
実は僕も彼女のことはあまり得意ではなかった。言動がやや強く、そして福生さんと関わるなという忠告を無視したことを根に持たれているようで、何かと突っかかってくるのだ。
ついでに付け加えておくと、どういうわけか透けやすい色の下着を好むようであり、非常に目のやり場に困る。それを注意することもできずに不自然に視線を逸らしていることが、さらに彼女の気を荒立てているのだろう。
気が重いままに午後の授業を終え、掃除が始まる前に僕は立川さんに声を掛けた。立川さんは相変わらずのどこか刺々しい目でこちらを睨み――――その薄いブラウスに青い横縞が浮かんでいるのに気付いていないのか、さらに暑そうに胸元を摘んで開き風を送っていた。
「あの、立川さん」
「ん? なによ」
なるべくその胸元を見ないように視線を下げて話そうとするが、立川さんに額を鷲掴みにされて強制的に顔を上げさせられてしまった。
「人と話す時はきちんと顔見て話しなさい!」
「あ、はい、いや、でも」
嫌でも視線に入る肌色と横縞。たしかに暑いが、立川さんは少し汗をかき過ぎにも思える。
「もしかして目を見て話すのが怖いの?」
「あー、まぁ、うん。コミュ障なもんで」
「なら、少しだけ視線を落とすといいわよ。胸元あたりを見るようにすればそこまで不自然ではないわ」
果たしてそうだろうか。少なくとも、今それを行えば不自然な前屈みを行わざるを得なくなる。それなら顔の上の方を見て極力視界に透けた下着を入れないようにする方がずっといい。
顔を上げると、なぜか立川さんは少し残念そうな顔をしているように見えた。
「あのさ、立川さん。実は入部届けが一枚欲しいんだ」
「入部届け? あなた確か生物部に入部したわよね?」
ぎくりと肩が跳ね上がり、次の言葉が喉に引っ掛かってなかなか出てこない。
「あー、僕のじゃなくて……」
「まさか、福生さんの?」
とても胃に悪い。明らかに不機嫌そうな顔をした立川さんの顔を見続けなければならないというのは、ある種の拷問である。
「うん、実はそうなんだよ。福生さんに動物の、生物の命の尊さを知って欲しくて」
そう言うと、立川さんは深く長い溜息を漏らした。
「あのね、青梅くん。あまりこんなこと言いたくないけどね、あなた相当なイカレでしょ?」
そう言われてもイマイチ実感がわかない。ナチュラルシリアルキャットキラーの福生さんと、サバイバルのためなら余所の飼い犬だって食いかねない府中くんという存在が、どうにも僕の中の基準を狂わせていた。
「いい? 彼女に動物の命の尊さを教えようとしても無駄よ。彼女にとっては動物の命は皆平等なの。平等に価値がないの。猫だろうがネズミだろうがガラパゴスゾウガメだろうが、彼女にとっては殺戮対象でしかないのよ」
「そうかなぁ……っていうか何、みんなカメ好きなの?」
別に、と立川さんは一蹴した。
「とにかく、入部届けは渡せないわ」
「そこをなんとか。生物部に入り浸ってるけど、まだグッピー三匹ばかしを干物にしようとしたくらいしかやってないから、大丈夫だから」
自分でも説得力がないとは思うが、ここで退いては男が廃る。すでに大分廃っているような気もするが、土下座も辞さない覚悟だ。
「……そこまで言うなら」
立川さんの表情が僅かに柔らかくなったのを感じ、余計な刺激をせずにその言葉の続きを待った。たとえ立川さんと言えど、必死の想いには心を動かされるらしい。
立川さんはちらちらと周囲を気にし始め、まだ掃除中なので生徒が多いからか、小さな声で僕の耳元で、
「後で体育館裏にきなさい」
ものすごく不穏なセリフを聞かされてしまうのであった。
武蔵野さんには部活に遅れる旨を伝え、僕は戦々恐々としながら指定された体育館の裏手へとやってきた。雑木林の斜面をコンクリートで補強して作られた壁面と体育館の間はわずかに二メートルあるかどうかの狭さであり、カビのにおいが漂っている。
僕より後に立川さんはやってきた。どういうわけか周囲をちらちらと見回しており、誰か人の目がないことを確認しているようである。
「他に誰も連れてきてないでしょうね」
「命だけは勘弁してください、なんでもしますから」
何言ってるの、と不思議な顔をされる。ここでシめられるのではないかと不安であったが、どうやらそういうことではないらしい。
「あの、ところでこれから一体何をするんでしょうか」
未だに残る不安と共に吐き出した疑問に対し、立川さんは再び周囲を見渡してから、スカートのポケットに手を入れ、
「……いい? 青梅くん、ここで見たこと、聞いたことは全部ここだけの話。口外無用よ?」
取り出されたのは、白く小さなプラスチック製の物体であった。掌にすっぽりと納まるサイズのそれは、何に使われる物なのか見当もつかない。彼女はそれを僕の手に握らせた。
「あなた今、なんでもするって言ったわよね? 青梅くんには、これを操作してもらうわ」
「操作? なんなの、これ」
「そ、それは知らなくてもいいことよ」
鬼気迫るその表所の前に、僕は頷くことしかできない。
「このダイヤル、あるでしょ? これを授業中にこっそりと操作してほしいの」
「何も書いてないけど、どうやればいいの?」
「今この位置が停止状態で、右に一回転させると『最強』になるわ」
何が最強になってしまうんだ。もしや僕は世界の運命を左右するような物を握らされているのだろうか。
「一気に最強にしたり、停止したり、徐々にパワーを上げたりを不規則に繰り返して欲しいの」
「え? 待って、ほんとなんなのこれ。怖い」
何が怖いって、段々と息を荒げて口元を引き攣らせている立川さんが。
「いい、青梅くん。このことは誰にも言わないで。そして授業中にちゃんと操作して。もし誰かにバラしたら――――」
その続きは、無言無表情のまま親指で首を掻き切るジェスチャーであった。
「わ、わかったよ」
「あともう一点」
やっと解放されるかと思えば、まだ続きがあるらしい。何をされるのかと不安だったが、それは先ほどの正体不明の依頼に比べれば些細なことであった。
「今度から『くん』無しでいいかしら? 他の男子はみんな苗字呼び捨てだから」
「ああ、なんだ。うん、いいよ。好きなように呼んでくれて」
「じゃ、そういうことだから。絶対に、ぜぇーったいに誰にも言わないでよ、青梅」
そう念を押して、立川は去って行った。僕はその謎のリモコンを手に、しばし呆然とした後に部室へと向かった。
■ ■
翌日。僕は立川さんに課せられたミッションを目前にして緊張していた。リモコンをポケットに忍ばせ、自分の手で何を引き起こそうとしているのか判らないという不安を飲みこみ、ただただ授業の開始を待った。
不思議と立川さんもそわそわとしているように見える。これから僕が『最強』にするであろう何かを待っているのだろうか。それにしてもなぜ授業中なのか。授業の眠気に紛れて地球外の勢力が侵攻を仕掛けるとでも言うのだろうか。
だが、何が起こるか判らないものを一気に『最強』にしてしまうのは気が引けた。まずは何が起こるのかをじっくりと見定めてからでも遅くはないだろう。不規則に強弱を調整するようにと立川さんが言っていたのは、様子を見ながら操作しろということかもしれない。
とりあえず、ほんの少しだけダイヤルを右に回してみる。クリック感もない滑らかな動き。ついつい一回転させてしまいそうになるが、ほんの少しだけ。
「……何も起きない」
ちらと立川さんの方を見るが、先ほどと比べて冷静な顔で黒板の内容を書き写している。まだまだこの程度では恐るるに値しないということか。それにしても何も起きないのはつまらない。
もう少し回してみるが、相変わらず平和な学園生活そのものであった。やはり非日常への入り口なんてそう簡単に転がっているものではないのか。
「ちょっとそれ貸して」
試行錯誤していると、突然にとても小さな声で耳元でそう囁かれ、机の下に隠していたリモコンをさっと奪われた。もちろん、犯人は福生さんだ。
僕はなんとか取り返そうと試みるが、授業中なのでそんな大きな音は立てられない。なにより、福生さんにリモコンが見つかったのが立川さんにバレたら大事だ。
福生さんはまじまじとリモコンを見つめる。そして、視線は立川さんへ。まさか、福生さんはそのリモコンの正体を知っているのだろうか。
「……えいっ」
怖いもの知らずの福生さんは、臆することなくダイヤルを一気に右へ回して『最強』にした。すると、立川さんが突然小さく悲鳴を上げて椅子から跳ね上がった。
「どうした立川」
教師が心配そうにそう訊ねる。普段素行が良いと、こういう時に得をするのだろう。立川さんはこちらをちらと見て――――福生さんの手にあるリモコンを見て顔を真っ青にして、
「あ、いえ、虫が――――虫が顔に飛び込んできて」
「ふむ、そうか……いや、なんか顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「あ、えと……あ、はい。実は少し気分が優れず……。あの、少し保健室行ってきます」
苦笑いを浮かべてそう言った立川さんは、再び僕の方を見た。ものすごい目つきで。
「あと青梅も朝から具合悪いって言ってたので一緒に連れていきます。きっと何か辛いことを思い出してしまったのかも」
余計なひと言だが、それがあるとないとでは教師の反応は全く違う。
「そうか……青梅、ゆっくり休みなさい」
「ほら行くわよ」
「え、ちょ」
腕を掴まれ、強制的に保健室へと連行される。その姿を見ていた福生さんは自分も手を挙げ、
「私ものっぴきならないくらい生理が重いので、ちょっと保健室行ってきまーす」
「……好きにしなさい」
保健室は人材不足のために普段は無人である。果たして保健室として機能しているか妖しいところだが、聞くところによれば養護教諭免許の他に医師免許も持っているという日野先生が保健医も兼任しているのだとか。
後をついてきた福生さんが保健室に入ったのを確認し、立川さんは扉の鍵を掛けた。そして、他に誰もいないのを確認して、
「青梅、ちょっとあんたね、なんで初日からいきなりバレてんのよ。しかもなんで福生さんがリモコン持ってんの!」
そう声を抑えて憤慨する立川さんに対し、福生さんは手の中のリモコンを舐めるように見回して、
「えいえいっ」
何度かダイヤルを左右に振った。すると、
「んぁ……!」
どういうわけか立川さんは甘い声を漏らして床にぺたんと座り込んでしまった。その間も福生さんはダイヤルを操作し続ける。左右にリズミカルに、まるでクラブDJのように。それに合わせて立川さんの体もびくびくと震え続けた。
「ちょ、ま、何これ、上手すぎ……! んんっ!」
「ちょっと立川さん、どうしたの? ほんとに具合悪いの?」
福生さんの手は止まらない。のりのりで操作されるダイヤル。それに連動するように甘い声を漏らす立川さん。これは両者の間に繋がりがあるのは確かなようだ。
「はい、トドメ」
福生さんのその言葉の後、立川さんは口を抑えて押し殺すように長い悲鳴を漏らした。すると、立川さんの座り込んでいるその場所から何か液体が湧き出し――――その独特な臭いは、紛れもなく尿であった。
「あはっ、とんでもない変態ね、立川さん。まさかこんな趣味があったなんて……」
恍惚とした表情で嗤う福生さんと、なんとなく事態を飲みこんできた僕。
「立川さん、まさかこのリモコン……」
「あら、青梅くんったら何も知らずにこれを操作していたのね。純真無垢なクラスメイトを利用して性欲に溺れるというのがクラス委員のやること?」
「くっ……」
立川さんはなんとも悔しそうに――――しかしどこか嬉しそうな表情で福生さんを睨みつけた。福生さんは手の中でリモコンを弄び、ダイヤルに指を掛けるがそれを捻らない。
「……どうしてほしいのかしら?」
福生さんは訊ねる。立川さんはごくりと喉を動かして、
「や、やればいいじゃない」
「素直じゃないわね、立川さんは。やって欲しいんでしょ?」
「はっ、そんなわけ……」
「やって欲しくないならそもそも青梅くんにこんな物渡さないし、エッチなおもちゃを仕込んだりしないでしょ?」
ダイヤルを操作していないのに、立川さんの肩が小さく跳ねた。多分、これは飽くまでも予想であるのだが、立川さんは福生さんに詰られて悦んでいるのだ。まったくもって最悪な予想である。
「普段は真面目ぶってるくせに、陰でこんなことしてたなんて……はっきり言って幻滅だわ。気色悪い。吐き気がする。クラスメイトだと思うだけで生きてるのが嫌になる」
罵詈雑言を投げかけられながら息を荒げて小刻みに体を震わせている彼女があの立川さんだとは到底信じがたい。しかし、目の前にあるこれは紛れもない現実なのだ。
「この変態」
ダイヤルオン。立川さんの体は鞭を打たれたように大きく跳ねあがり、再び床に落ち着く。
「変態。変態。ド変態」
オンオフの繰り返しによって、立川さんの顔からは完全に虚勢が消えていた。そこにあったのは快楽に溺れる思春期をこじらせた少女が一人。
「まったく、どうしようもない変態ね。どうしてやろうかしら。このことを全部クラスに言いふらしてやろうかしら」
「そ、それだけはやめて……」
「顔がそう言ってないわよ」
正直、ドン引きである。なんと、なんと我がクラスのクラス委員である立川咲は、
「やれやれ、本当にどうしようもないマゾ女ね」
「う、うぅ……」
泣きながらも悦ぶ顔。なんと面倒な性格、もとい性癖だろうか。
福生さんはリモコンを僕に手渡し、近くの丸椅子を引き寄せて座った。立川さんは失禁も気にする余裕がないらしく、恍惚の表情で口を半開きにして天井を仰いでいた。
「ものは相談なのだけれど、入部届けを速やかに受理するように教師に働きかけてくれたらこのことは口外しないし、青梅くんがほどよい感じに授業中にローター捌きを披露してあげるわ」
「ええ……やるのこれ……」
正直あまり関わりたくない案件である。
「他にも、一人ではできないプレイがあるなら青梅くんが協力するわ」
「福生さんがやってよ」
さぁどうするの、と僕の意思を無視して行われる取引に、立川さんは小さく頷いた。どうやら僕が面倒を見る対象がもう一人増えたようであった。
保健室の後片付けを終え、立川さんは早退することとなった。僕はこの短い間に濃縮されたショッキングな体験がトラウマになってしまわないか不安であったが、福生さんは保健室のベッドの上で耳にイヤホンを差しながらくつろいでいた。
「……福生さん。僕はもう、何を信じればいいのか判らないよ」
一番真面目だと思っていた人物の裏の顔は、福生さんよりもずっと異常であった。
「中学生にして公衆の面前で絶頂したいなんて、どうしようもない変態ね。でも、別に何もおかしくはないわよ」
「そうかな」
「そうよ。誰だって裏の顔くらい持ってるわ。青梅くんにだって人に言えない秘密はあるでしょう? 従妹ちゃんに欲情したりとか」
「してない」
とは口で言ったが、何度か欲情していることもあったかも知れない。
「でも、普段あれだけ真面目なのに」
「真面目だからこそなんじゃないかしら。それだけストレスが溜まったりするのよ」
「じゃぁ、福生さんの裏の顔は表とあまり変わらないかもね」
「……」
「ごめんなさい調子乗りました」
モップとバケツを片付けて証拠隠滅は完了。ポケットに入れたリモコン――――クラスメイトの秘部に装着されたアダルトなおもちゃに直結したそれをどう扱えばいいか悩みつつ、僕もその日は早退してしまおうと考えた。
■ ■
一週間分の疲労をわずか一日の間に背負ってしまった僕は、やっと憶えた通学路をとぼとぼと一人で歩いていた。どこを向いても似たような景色が広がっていて真新しい物は何もなく、建物も人間もみな古ぼけている。ここだけ時間の流れ方が違うのではないかと思ってしまうほどに、今まで僕がいた場所とは何もかもが違っていた。
もしかすると、こういった場所には必ず福生さんのような存在があるのかもしれない。彼女の髪が白いのも、何か特別な存在の印であるのかも。
そんなことを考えていると、僕は進行方向の土手に腰掛けるスーツ姿の男性を見つけてしまった。他に人がいないので仕方のないことではあるが、それにしてもこの世の終わりを見たかのような顔をしている。
また面倒事の臭いがしたので気付かなかったふりをして素通りしようとするが、その男性の曇った視線が僕に引っ掛かった。
「あぁ……君はもしかして、転校生の」
なんで知っているんだと気味悪さを感じるが、しかし――――どうにもどこかで見覚えのある顔立ちであった。男性は僕の不審者を見るような目に気付いたのか、恥ずかしそうに頭を掻いて何度も小さく頭を下げた。
「ああ、ごめんごめん。私は彰夫の父です」
できればここで「ああ、なるほど」と言いたかったところだが、生憎と下の名前まで憶えているほど親しい男子は存在しない。
「君は青梅くんだよね? この前は彰夫が猫を売りに行ったらしいね、ごめんごめん」
ここでやっとこの辛気臭い顔が誰に似ているのか気付いた。どうも彼は府中くんの父親らしい。借金まみれの。
「いやぁ、にしてもあの彰夫にもついに友達ができたか」
「今までいなかったんですか?」
友達かどうかはさておき。
「うん。あまり積極的な子じゃないからね。それに私の借金のせいもあって」
借金よりも猫を売ったり食糧にしようと考える部分が問題なのではないだろうかと思ったが、僕は比較的空気が読めるので何も言わなかった。
「こんな所に座り込んでどうしたんですか?」
辛気臭い話題が続く前に話を変えようと、僕は彼の現在の状態について訊ねた。すると、彼はただでさえ困ったような顔をさらに困らせた。困っているのはこちらの方だ。
「実は、会社をクビになってしまって」
「すみません、聞かなかったことにしていいですか」
そう言ってはみたが、既にこちらの話など聞いてはいない。彼は胸ポケットから皺だらけの煙草を一本取り出し、口に咥えて火を点け、静かに深く吸い込んでから美味そうにそれを吐き出した。
「いやぁ、どうしようかなぁ……この歳じゃ再就職も難しいし、何よりここには職がない。都会に引っ越そうにも元手がない。妻も心臓を悪くしているし、義母さんもいるし……」
中学生相手に深刻な相談をされても苦笑いすら浮かばないのだが、果たして立ち去るタイミングも失ってしまった今となってはそうしていることしかできなかった。
「私はね、この歳まで真面目に働いてきたつもりだったんだ。でも真面目なだけじゃダメでね、結局こんなことになってしまったよ。少し楽な生活をしようと株を始めたのがよくなかった。さて、どうしようか。どうしよう」
府中父はゆっくりと立ち上がり、とぼとぼと僕が来た道を辿って行ってしまった。他人事ながらただでさえ重かった気分がさらに重くなり、帰ったら何か気分転換でもしようと決めて僕は家路を歩き出した。
府中父と邂逅してからというものの、府中くんは頻繁に学校を休むようになった。九月が終わる頃には一週間丸々登校せず、クラスメイト達からは上辺だけの心配をされ、それに比例するようにますます孤立を深めていった。
「どうしちゃったんだろうね、府中くん」
授業と授業の合間に福生さんにそう話しかけると、耳にイヤホンを差していた福生さんではなく、反対側の武蔵野さんが代わりに答えた。
「お家が大変そうだからね。お婆ちゃんが倒れちゃったって聞いたよ」
あの家は猫に呪われているのではないだろうか。
いくら心配したところで府中くんが金持ちになるわけでもなく、その日はただぼんやりと他人の家族の行く末について考えていた。
そしてその翌日。朝一番に担任教師の口から府中くんについての話題が上った。
府中くんは、コンビニ強盗に失敗して補導されたとのことだった。
「と、いうわけで」
という何がどういうワケなのか全く判らない教師陣の意向により、唯一彼と接点のあった僕が彼に溜まりに溜まったプリントなどを届けに行くことになった。どういう風の吹き回しか福生さんも付いてくることになり、一体どんな顔をして会えばいいのかと僕の気持は池に投げ込んだ漬物石のように重かった。
「どうやらあそこが彼の家のようね」
福生さんが指差したのは、よく言えば古めかしい作りの一軒家であった。悪く言えば汚らしい廃墟一歩手前の一軒家である。しかし田舎なので無駄に土地は広く、庭にはかつて使用していたであろう軽自動車がスクラップ同然となって放置されていた。
「……いるのかな。なんかこう、あんまり気配みたいなの感じないんだけど」
「インターホンを鳴らしてみれば解るわ」
相変わらず物怖じという言葉から縁が遠そうな福生さんが僕の前を行き、カビが生えてプラスチックが劣化したインターホンをその細く白い指で押し込んだ。
どこか濁ったようなチャイムが鳴る。けれど、誰の声もない。
「留守なんだよ。ポストにプリント入れておこう」
「……そうね」
何か気にかかるといった顔で福生さんは頷いた。僕は玄関の扉に備えられた郵便受けにプリントの束を押し込み、家の敷地から出ようとした。
「……青梅くん、何か変なにおいしない?」
しかし、福生さんのその言葉で僕は足を止めた。試しに鼻で大きく息を吸い込むと、確かにやや刺激のある臭いがする。
「ほんとだ。でも、このにおいって……たしか……」
そうだ、灯油だ。そう口をつく前に、府中家の二階の窓から勢いよく黒煙と炎が立ち上った。窓が割れて炎が噴き出し、屋根瓦から煙と湯気が立ち上っている。
呆然とそれを見てた僕の手を福生さんが強く引いて敷地の外へと出た。
「なんだ……なんだこれ! 火事!?」
「わざわざ自分で火を点けたのが火事というなら、これも火事じゃないかしら」
「どういうこと……?」
突然の出来事にまったく頭の回らない僕に、福生さんは至極冷静な表情で答えた。
「まぁ、一家心中ってやつじゃないかしら。借金まみれで仕事をクビになり、義母が倒れて妻は病気。トドメに息子がコンビニ強盗未遂ときたら、ねぇ?」
同意を求められても僕は頷くことも否定することもできない。ただ、燃え盛る家がそこにあるという事実だけがあった。
「あ……そうだ! 消防車! 消防車呼ばないと!」
慌てて携帯電話を探すが見当たらない。学校に置いてきたのか、どこかで落としたのか。どちらにせよ、この切迫した状況で焦り出した脳ではまともに思考ができない。
「福生さんケータイ!」
「持ってないわ」
「最寄りの家!」
「あっちかしら」
指差した先は、五百メートルほど先だろうか。丁度この辺りだけ住宅がほとんどなく、府中家だけが孤立しているような状態になっていた。
「と、遠いけど走れば……!」
「ねぇ、青梅くん」
走り出そうとした僕を、福生さんが呼び止める。炎は家屋全体を包み込み、巨大な一つの炎となる。
「死なないことが必ずしも幸せとは限らない。生きていれば無数の不幸に塗れてもがき苦しむ。蔑まれ、見放され、屈辱を味わい続ける。だから、これ以上不幸になる前に、自分で死にたいと思うほど不幸になるその前に、自らの手を汚してでも殺してあげる――――」
その炎を背に映し出された彼女の影が、静かな顔で小さく微笑んだ。
「――――もしかして、これが『愛』ってやつなんじゃないかしら!」
柱が燃え尽きてバランスが保てなくなった木造家屋は、音を立てて崩れ落ちた。
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