第2話:白猫と生き物


 愛。今まであまり具体的に考えたことがないくらいにありふれたものであり、しかし持っていると思ったら持っていなかったり、持っていないと思ったら持っていたりと実体の掴めないものでもある。

 ひょんなことから僕は福生美空という少々個性的な女子に『愛』のなんたるかを教えなければならなくなったのだが、そもそも僕自身が愛とは何かという漠然とした答えさえ持っていなかった。

 そこで、従妹から少女漫画を借りて読んでみたのだが、結論を言うとどれもあまり参考にならなかった。どれも『愛の結果』については描かれていたが、具体的にそれがどういったものなのかという説明はなく理解できなかったのだ。


 布団の上に寝そべり、日よけのようにしながら借りた漫画を純粋に読み耽っていると、部屋の扉が控えめに数度ノックされた。どうぞ、と僕が言うと、扉はゆっくりと押し開かれて、その隙間から漫画の持ち主である京子ちゃんが顔を覗かせた。

「あ、あの、漫画」

「あ、ごめん。すぐ返すよ」

 名残惜しくもページを閉じると、京子ちゃんは小さく首を横に振った。

「ううん、いいの。まだ読んでて」

「そう? ありがと。これ面白いね」

 そう言うと、彼女の表情が僅かに明るくなった気がした。彼女はゆっくりと部屋に踏み入って、僕の対面にゆっくりと座り込んだ。

「どれが一番面白かった?」

「うーん、これかな」

 僕はつい一時間ほど前に読み終えた漫画を手に取った。いわゆるボーイ・ミーツ・ガールものであり、主人公の少女が飼っていた犬が脱走し、盲目の少年がその犬を保護するというところから始まる物語だった。

「人と人を繋ぐ役割を動物が担っているというのはよくある話だけど、まさか飼い犬が犬神の末裔だとは意外だったなぁ」

 正直な感想を言うとトンデモ展開に置いて行かれそうになって一時的に評価は下がったのだが、その後の華麗な伏線回収やセリフ回しによって評価を回復させた作品だった。なかなかマニアックな構成の漫画を読んでいるあたり、京子ちゃんはインドアカルチャー寄りの人間なのかも知れない。

「じゃぁ、もう一個気に入りそうなのがあるから、明日また持ってくるね」

 京子ちゃんは嬉しそうにそう言って部屋を出て行った。と思いきや、再び扉を開けて顔を覗かせ、

「あの、あの……な、なんて呼べばいいのかな」

「え? なにが?」

「あの、その……き、あ、あなたのこと」

 そう言われ、僕はまだ今まで一度も名前で呼ばれたことはなかったことに気がついた。しかし自分のことをなんと呼べばよいかと訊かれてそれを指定することというのはなかなか恥ずかしいものがある。

「好きに呼んでいいよ」

 この言葉は相手の要望を完全無視した上で相手に選択肢を与えるという一見すると善意に満ちた答えなので僕はとても好きである。思考停止と責任放棄の兼用は、しかし彼女を悩ませることはなかった。

「うん、じゃぁおやすみなさい、カズにぃ」

 カズにぃ。一也だから、カズにぃ。

「……悪くない」

 扉が閉まってから一人でそう呟き、この歳になって突然できた年の近い妹に、世間に対して全く見当違いな優越を感じていた。




 クラスメイト達が皆受験勉強に勤しんでいるかと言えば、そうとは言い切れない。将来的に有名大学進学を目指している者はまるでそれが生命の命題であるかのように勉強しているが、この田舎という呪縛に囚われ、甘んじて受け入れる者達は地元の高校に腰を落ち着ける気でいるらしい。残暑厳しい教室の昼休みに参考書を開いている者はほんのわずかで、残りはあまりの暑さに机に突っ伏し、上履きを脱いで少しでも露出を高め、女子でさえ胸元を開けて教科書で風を送り込んでいる。

「あついー、なんか今年の夏、きつすぎるよー」

 武蔵野さんも僕の目の前でボタンを一つ多く外し、大きく開いた襟をぱたぱたとやって涼しさを得ていた。その胸元につい視線が行ってしまうが、しかし転校早々むっつりスケベなどと渾名されては不名誉極まりない。

「ちょっと歩(あゆみ)。男子の前でそんなだらしない格好しないの」

 武蔵野さんをそう諌めたのは、この蒸し風呂のような暑さの中でブラウスのボタンをきっちりと首元まで閉めている立川さんであった。

「でも暑いよぉ」

「暑いのと胸見せるのどっちがいいのよ」

「だってぇ……汗かいたら結局恥ずかしいよ? ほら、咲だってブラ透けてるし」

 そう言って武蔵野さんは立川さんの胸元を指でなぞった。立川さんは一瞬の硬直の後、思わず見惚れてしまった僕を鋭い目つきで睨みつけ、

「じろじろ見るな! この変態二号!」

「まって、もしかして一号ってこれ?」

 僕は福生さんを指差すが、立川さんの返事はなかった。踵を返して体を手で隠しながら教室を出て行き、すぐには戻ってこなかった。振り返りざまに見えた彼女の顔がやや笑っていたような気がしたが、それはこの茹だるような暑さのせいだろう。

「青梅くん嫌われちゃったね」

「うーん、武蔵野さんの責任が七割くらいあるような気がする」

「ええー、青梅くんがえっちな目で見るからだって。十割だよ」

 男性の地位の低さに嘆きつつ、視線を机に落として視界の端からも武蔵野さんの胸元を排除した。ちらちらと見ているのがバレたら訴訟されるかもしれない。

「あと、女の子は胸見られてるのちゃんとわかるからね」

 訴訟される。

「いやね、それは仕方ないんだよ武蔵野さん。だって明らかにそれは存在を主張しているのだから。急に車が飛び出してきたら反射的にそっちに目が行くでしょ?」

「青梅くん開き直ったね……」

 そう言いながらもこちらを向いて胸元を開いたり閉じたりをしている武蔵野さんは、その見た目以上に性に開放的なのかも知れない。中学生男子には少し刺激が強すぎるが、負の方向に刺激が強すぎる隣の白髪よりは健全と言えるだろう。

「あ、そう言えば部活決まった?」

 武蔵野さんは胸元から手を離して小さく手を打ち、思い出したようにそう言った。僕は首を横に振って否定の返事をする。

「こうも暑いと運動する気起きなくて」

「文化系にすれば?」

「楽器も苦手だし、漫画も描けないし……あと文化系って?」

「なら生物部においでよ。エアコンあって涼しいよー」

「うん、そうしよう。エアコン万歳」

 人間は即時決断能力が大切だと僕は思う。あれこれ悩んでチャンスを逃すくらいなら、即物的と思われても食い付いた方がよい。

「ところでなんでエアコンあるの? 職員室だってないのに」

「去年の夏に、資金分配会議で『暑いと生き物が死に物になるのでエアコンつけてください』ってお願いしたら、紆余曲折の後に取り付けてもらったの」

「その紆余曲折のところ一番大事じゃない?」

「動物虐待で訴えるって」

「武蔵野さんって割とえげつないね」

 それほどでも、と照れて頭を掻く武蔵野さん。褒めたわけではないのだが、本人が嬉しそうならそれでいいだろう。

「にしても、生物部かぁ……どういうことするの?」

「どうって……生き物飼うの」

「飼って、どうするの」

「飼って……観察する……?」

「もうすこし自信を持って欲しい」

「観察する!」

 観察するらしい。

「生き物って、どんなの飼ってるの? 犬とか?」

 冗談でそう言うと、武蔵野さんは額に汗を浮かべながら明るく笑った。

「まさかぁ、犬なんていないよぉ。ゾウガメとか、ブタとかしかいないって」

「なんか犬より手間かかるのいるよね」

「小さいのもいるよ。ハムスターとか……グッピーとか……あと、ミドリガメとか」

「カメまだいるんだ……」

「カミツキガメ、はこないだ逃げちゃった」

「それ逃げたらダメなやつだよね」

「スッポンは校長先生が食べちゃった」

「なんかカメっぽいの多くない? っていうか食べちゃったの!?」

「私じゃないよ! 校長先生だよ!」

「食べるの黙って見てたの?」

「だって、ねぇ……?」

 武蔵野さんは目を逸らしながら指を二本立てた。恐らくは諭吉先生の数だろう。それでいいのか生物部。

「あ、そういえば観察以外にもあったよ、活動!」

 取り繕った表情を張り付けて、ぽんと小さく手が打たれる。

「ハムスターが増えすぎた時に、近隣住民に売る」

「売るの!? 無償じゃないの!?」

「だって部費が……他の生き物のごはんが……」

 悪質な詐欺の手口のような気がしてきたが、それでもエアコン完備はありがたい。冬も暖かく過ごせるのは大きなアドバンテージだ。

「まぁ、そんな感じの部活だから。青梅くん参加決定ね。いえーい」

「いえーい……?」

 妙なテンションでハイタッチを交わす。とにかく、これで僕の新学校生活はある程度の青春水準を保つことができるだろう。福生美空の相棒、という不名誉なレッテルがすでに貼られていることが大きな障害とならなければよいのだが。




 そんなこんなで放課後。先に部室で用意していると武蔵野さんは先に部室へと行ってしまい、僕は三十分ほどしてから生物部部室へと向かった。

 生物部の部室は学校敷地の端にあり、いくつかのプレハブ小屋と、バスケットコート大の面積を柵で囲ってある放牧場で構成されていた。武蔵野さんが言った『ブタ』というのを、僕は漠然とミニブタのことだろうと思っていたのだが、正真正銘の普通のサイズのブタだった。

 生物部の看板が掛かったプレハブ小屋の戸をノックして、中からの返事があってから戸を開くと、

「いらっしゃい青梅くん! 生物部にようこ……ってうひゃぁ!」

 歓迎のクラッカーと、悲鳴。その悲鳴は僕にではなく、僕についてきた福生さんに向けてのものだろう。

「だ、ダメだからね! ウチのはダメだからね!」

「あら、心外ね。私だって他人が管理してる畜生で実験したりはしないわよ」

 ミドリガメの水槽に飛びついて飼育している生物を身を挺して守る武蔵野さんと、まるで冗談のように冗談でないことを言って笑う福生さん。僕だってこんな草食動物の群れにライオンを連れてくるようなことはしたくなかったが、僕自身が草食動物の仲間なので仕方がない。弱肉強食は世の常である。

「な、なななんで福生さんが」

「ごめん、なんかいつの間にかについて来てた」

「いつの間にかに、なんてひどいわ青梅くん。ちゃんと教室出たとこからあとつけてたわよ」

 全く気付かなかった。この気配を消す技術が野良猫の捕獲に使われている可能性を考えると身の毛もよだつ。

「青梅くんったら、私に『愛』のなんたるかを教えてくれるって約束したのに、早速仲間外れにするんだから」

「あ、愛!? まさか青梅くん福生さんと」

「いや、武蔵野さんは多分誤解してるよ。福生さんの『愛』についての解釈はまだ全然その域に達してないから。まず命の尊さあたりからだから」

「そ、そうなの……?」

 向けられる疑いの眼差しを手で遮る僕の隣を福生さんはするりと抜けて行った。

「なんかカメ多いね」

「う、うん……」

 福生さんのストレートな感想に武蔵野さんは呻くように肯定する。福生さんは物珍しそうに、金属ラックに並べられた大小さまざまなカメとその他動物を見て回った。いつ懐から『福生スペシャル』を取り出すだろうかとはらはらしたが、ついにその正体不明の毒物が登場することはなく、満足した福生さんはハムスターにペット用のクッキーの欠片を与え始めていた。心なしかその顔には優しさが籠っているような気がする。

「そ、それだ! それが愛ってやつだよ! 世界はそれを愛と呼ぶんだぜ!?」

 すかさず指摘するが、福生さんは笑顔のまま首を傾いでハムスターの頬袋を両手で横に伸ばし、

「そうかしら? 小動物相手に自らの脅威を示して指先で弄ぶのって愛なの?」

「そんな不純な動機で戯れてたんだ」

 がっかりすると共に、福生さんの中に深い闇を見たような気がした。しかし傍から見ればハムスターと楽しく(一方的ではあるが)遊んでいるようにしか見えず、これを愛と呼ばぬならばこの世に愛などあるのだろうかと不安にさせられてしまう。

「ねぇ、一体なんなの? 何が起きてるの?」

 ひそひそと武蔵野さんの耳打ちを受けて、僕もその耳元に言葉を返す。不覚にも、近いその顔にただならぬ感情を抱いてしまったが、この緊張感の中ではその感情など後回しである。

「実はかくかくしかじかで……」

 昨日のことについて、省略。

「えー……なんでこう、ヌ―の群れにライオン連れてきたみたいな……」

「だから連れてきたんじゃなくってついてきたの」

 武蔵野さんは難しそうな顔をしてハムスターと(で)遊ぶ福生さんをまじまじと見つめた。

「うーん、色々とヤバい噂しかない子だけど……この光景を見るに、にわかには信じがたいというか……」

「猫殺し以外にも噂あるの?」

 もっとも、猫殺しは噂でなく事実なのだが。

「……あるよ。それが誰も福生さんに近寄らない理由」

「猫殺しのせいじゃなかったんだ……」

「それは最近になってからだし」

 てっきり生業となっているのかと思ったが、まだキャットキラー初心者らしい。

「で、その噂って?」

 僕が訊くと、武蔵野さんはさらに表情を曇らせ、ちらと背後を振り返って誰もいないことを確認し、

「殺人。それも両親と小学校の時のクラスメイト」

 僕は完全に思考が停止した。口をぽかんと開けてその言葉の意味を考え、なぞるように同じ言葉を口にする。

「飽くまでも噂、なんだけど……でも福生さん本当に両親いなくて親戚のおじさんの家で暮らしてるらしいし」

 どこかで聞いたような設定に親近感を覚えるが、事故で亡くなったのと殺したのでは雲泥の差である。

「小学校のクラスメイトの話はよくわからないんだけど、そんな話を先生達がしてるの聞いた子がいるって」

 僕はなんと感想を漏らせばよいのか判らなかった。そんな内緒話をしている傍で福生さんはハムスターを指で突きまわしており、それはどこからどう見ても楽しげであって――――もし次の瞬間にハムスターを握りつぶしたとしたら、僕はもう人間の笑顔というやつを信用できなくなるだろう。

「噂、だよね」

 僕はそう訊ねる。

「噂は嘘から生まれるものが多いけど、真実から生まれることもあるよ」

 武蔵野さんは困った顔でそう答えた。




 結局その日は生物部の活動を見学することはできず、延々とハムスターを指で弄んでいる福生さんを引き剥がして連行することになった。しかし、彼女を連れて行くはずが僕の方が道が判らないということに気付き、逆に福生さんに道案内を頼むことになってしまった。

「また明日も行こうかしら」

 そんな物騒なことを口にする福生さんの後ろを歩き、上機嫌に揺れる白髪を目で追って、時折見慣れぬ周囲の風景に視線を泳がせた。

 自動車一台分の道路の両側に迫る白い岩肌と、その上に乗った土に生える無数の竹に見下ろされ、竹の隙間を縫うように降り注ぐ夕日がとても眩しい。朝も通った道であるのに未だに慣れぬのは、僕が両親の死を自分のことと受け取れないことと何か関係があるのだろうか。

「……福生さん」

 気付けば、僕はその背に声を掛けていた。夕陽の補正によってどこか寂しげに見えたからかも知れないし、ただ口寂しかっただけかも知れない。福生さんは顔だけ振り向いて、その透き通るような瞳で返事をした。

「福生さんさ、なんとも思わないの?」

「なにが?」

「クラスのこと、とか」

 とても出会って二日目で投げかける質問ではないと、口にした直後の自分でもそう思ってた。しかし、今の内に訊いておかなければいけないような気がしたのも事実だ。今訊かなければ、後でもっと泥沼にはまってからでは、もう訊くことはできなだろう。

 福生さんの表情はとても穏やかで、それでいて何を考えているのかさっぱり見当がつかない。その薄紅色の唇が小さく動いて、僕ははっと我に返った。

「――――何も」

「何も?」

「なんとも思ってないわ。私の立ち位置だとか、誰が私のことをどう思ってるだとか、そんなことを気にする必要はないもの」

「でも、寂しくない?」

 そう言うと、福生さんの口元が愉しそうに笑った。僕はその妖しい笑顔に胸が苦しくなって、その表情につい見惚れてしまっていた。

「青梅くんはどうなの?」

「僕?」

「そうよ。だって、青梅くんもハブられているじゃない」

 僕はしばらく放心状態で立ちつくし、

「そうなの?」

「そうよ。だって、あなた転校生なんていう特異な存在なのに、ほとんど誰も寄ってこないじゃない」

 そう言われてみれば、なんとも静かな一日であった。話しかけてきたのも武蔵野さんと立川さん、そして福生さんだけだ。

「まぁ、半分は私のせいね。でももう半分は他でもない青梅くんのせいよ」

「僕がなにかしたかなぁ」

 福生さんが笑う。僕の不幸が面白いのか、それともそれを不幸だと実感していない僕が面白いのか。

「なにもしなかったわ。青梅くんは徹底してなにもしなかったわ。拒絶もなければ許容もない。ただそこにいるだけの存在だったじゃない。私が言うのもなんだけど、あなた」

 かなりヘンよ。そう言って、また彼女は歩き出した。彼女の綺麗なだけで奥が見えない瞳が網膜に焼き付いて離れなかった。明らかに褒められてはいなかったにも関わらず、僕はその目が嬉しくてたまらなかった。




■  ■




「というわけで、ペットショップ行こう」

 生物部のハムスターを付き回しながら何がどういうわけかさっぱりといった様子の福生さんに、僕は懇切丁寧にこの度のプランを解説した。

「ズバリ、福生さんはペットを飼い、育て、そこからじっくり愛を学ぶべきだと思う」

 とても丁寧だと思う。

 福生さんは首を傾いで見せ、それからハムスターの首筋をつまんで持ち上げる。嫌がっているのか、特になんとも思っていないのか(少なくとも嬉しそうには見えないが)ハムスターは小さく抵抗を見せるが、福生さんはハムスターをつまんだまま首を傾いだ。

「そもそも愛がなければ飼えないんじゃないかしら」

「卵か先か鶏が先かは判らないけど、とりあえず何かしら手頃な動物を飼ってみればいいと思うよ。例えばハムスターとか」

 そう言われ、福生さんはつまんだハムスターをじぃっと見つめ、

「ここで増えたのを適当に攫っていくのじゃダメなの?」

「ふっふっふ、そこがポイントなんだよ福生さん。例えば、福生さんは野良猫ならば容赦なく『福生スペシャル』の実験台にしてしまうけど、もしそれが自分のお小遣いで買ったものなら……? きっと、お金がもったいなくて殺せないはずだよ!」

「うっわ、愛ねぇー」

 ゾウガメにキャベツを与えている武蔵野さんから痛烈なツッコミを受けるが、今はお構いなしだ。

 福生さんは腕を組んでじっくりと考え、それから何か結論に辿りついたように小さく頷いて、

「そうね……まぁ、青梅くんが立てたプランならば試してみるわ」

 そう言ってつまんでいたハムスターを開放し、興味を失ったと言わんばかりに生物部部室を後にした。僕はその後を追わずに福生さんに弄られていたハムスターをじっと見つめ、根本的な質問をした。

「ねぇ、武蔵野さん」

「なに?」

「ハムスターって、肉とか食べるの?」

 その時の武蔵野さんの諦めに満ちた表情は、生涯忘れることのできないほどの完ぺきな諦めを表現していたという。




 さて、そんなこともあって、その翌日の土曜日にさっそく福生さんとペットショップへ行くことにした。この村には商店街はあってもペットショップなどというハイカラなものは存在しないので、バスを乗り継ぎ山を越えて街まで赴くことになった。事前に武蔵野さんから聞いた話によると、この村の若者は皆片道一時間かけて街まで出て遊ぶらしい。準都会育ちの僕からすれば耳を疑う話であるが、しかし車窓から見える一面の田畑と山と丘などを見れば一瞬の内に納得させられてしまうのであった。

「福生さんはよく街まで出掛けるの?」

 盆地から抜けだす山道の景色をバスの窓から眺め、僕はなんとなしにそう訊いた。福生さんは小さく開いた窓から吹き込む風に白髪を揺らしながら、小さく呻くように呟いて、

「街にはあんまり行かないわ。遠いし、用事もないから」

「遊んだりしないの?」

「一人じゃつまらないもの」

 なるほどね、と僕は車窓から視線を切って、携帯電話の時計を確認する。残暑厳しい九月の午前十一時。太陽光の反射で見にくい文字盤を、手で影を作ってじっと見つめた。

 バスは山道を舐めるように蛇行して上って行く。木陰に入ると、青々とした木々の葉をすり抜ける木漏れ日が美しく、それをなんとも思わぬといった表情で憂鬱そうに見つめる彼女はさらに美しく――――しばらく見惚れていると彼女がこちらを見て、不思議そうに眉を傾けた。

「顔に何かついてる?」

「あ、いや、別に」

 咄嗟に顔を逸らすが彼女は口元を笑わせたままこちらを見つめていた。一体何を考えながらこちらを見つめているのか全く想像がつかない。笑いながら毒入りの餌を野良猫に与える彼女の笑みが意味するのは、『親愛の情』ではないのだろう。


 やがてバスは坂道を下り、大きな河が貫く街へと辿りついた。あの盆地に比べればずっと文明的であるが、それでも都心のそれと比べれば遥かに人口密度が低い。僕は想像よりずっと寂れた街並みにややがっかりしながら、武蔵野さんに描いてもらった地図に目を落とした。

 目的のペットショップはバス停のすぐ近くのようだが、ぐるりと周囲を見回すがそれらしきものはない。

「おかしいなぁ。その辺にあるはずなんだけど」

 とは言ったものの、この地図は精度にやや疑問が残る。ざっと見渡しただけでも道の本数やその配置に差異が認められ、今現在降りたバス停の名前くらいしか一致していないのではないかというほどであった。

「どうしよう。ペットショップの前に交番探そうか」

「嫌よ。国家権力は嫌いなの」

「あー、だろうね……」

 今ならもれなく動物愛護法違反で国家権力のお世話になれるだろう。しかし警察の手を借りないとなると、自力でこの暗号めいた地図を解読してペットショップへ辿りつかねばならない。

 頭を捻ってどこから探すべきか考えていると、福生さんがふらりと歩き始めた。

「どこ行くの」

「どこって、ペットショップに決まってるじゃない」

「だから探さないと」

「知ってるわ」

 僕はその言葉を一度反芻し、

「え? なにを」

「ペットショップの場所。その通りを一本裏に入ったところよ」

「……なんで知ってるって教えてくれなかったの」

 僕の言葉に、彼女は小さく笑っただけで言葉では何も答えなかった。


 辿りついたペットショップは思っていたよりもやや大きな店であった。地方ならでは、と言ったら地元住民に殺害されるかも知れない。ショーウィンドウの向こうには犬猫が丸くなって眠っており、僕はその可愛さについガラスに迫ってしまった。

「うわわっ、ほら見て福生さん! コーギーだよ、ほら!」

「ふぅん……」

 福生さんはガラスの内側に貼られた値札の、出生日の項目を見て、

「もう五ヵ月ね。そろそろ潮時かしら」

「え……?」

「もう仔犬とは呼べない大きさだから、そろそろ殺処分されちゃうかもね、って話」

 スマイル七十パーセントでそんなことを言われると反応に困ってしまう。僕は幸せそうに眠っているコーギー犬のその末路を想像し、込み上げてきた胃酸をなんとか留めて飲み込んだ。

「ほんと、無邪気なもの猫の中で最後まで寿命をまっとうできるのなんてほんの数頭なのに。この小さな檻の中で餌と睡眠を与えられるだけの幸せを貪ることが死へのカウントダウンだなんて、思ってもいないんでしょうね」

 福生さんの笑みの理由。それは僕には解らない。これからもずっと解らないかも知れないし、いつか解るかも知れない。けれど、なぜか僕はその笑みが彼女の強がりに思えてしまったのだ。何の根拠もなく、ただ直感の一言に尽きてしまうのだが、僕はそう思ったのだ。

「……もしかして福生さん、よくここ来るの?」

 僕は頭に浮かんだ疑問をすぐに訊ねてみた。

「……前を通るだけよ」

 福生さんは答える。さっきは街には滅多に来ないと言っていたのに、それを取り繕うような素振りもない。

「さぁ、入りましょう青梅くん! 早くネズミ畜生を買って帰りましょう」

 福生さんは満面の笑みでそう言って、僕の手を引いて店の中へと踏み込んだ。優しげな店員の挨拶がどこか遠く、僕は動物特有のそのにおいにやや意表を突かれながらも可愛らしいその姿に見惚れてしまっていた。

「あ、ほら福生さん。ハムスターいるよ」

 僕が指差す先には、小さなケージに数匹ずつ入れられたジャンガリアンハムスターがあった。福生さんはそれをじっと見つめ、そして小さく溜息を吐いた。

「なんか少し小さいわね」

「ゴールデンハムスターに比べたらだいぶ小柄だけど、ハムスターには違いないよ」

 我ながら素晴らしく他人事のような発言である。自分が飼うわけではないのでジャンガリアンだろうがロボロフスキーだろうがなんでもよいのだ。

「こちらのゴールデンハムスターなら多少大型ですよ」

 どうやら冷やかしではないと判断した店員がフレンドリーに話しかけてくるが、しかし福生さんは店員のセリフを右から左へ聞き流してカメのいる水槽へと食い付いた。

「ところで青梅くん、カメの亀頭はカメの頭より大きいって本当かしら」

「いきなり何言ってんの福生さん」

 突然の下ネタに僕の思春期真っ盛りの心は小刻みに震え始めた。女子の、しかも小動物に毒を盛るその性格さえ考慮しなければ規格外に可愛い彼女の口から発せられる男性器の名称は僕をしゃがみ込ませるには十分であり、それを知ってか知らずか福生さんはなんとも楽しそうな顔でカメを見つめていた。

「今度部室のカメを観察してみようかしらね」

「か、カメは今は置いておいてさ、ハムスター買おうよ、ね?」

 福生さんの視線が一瞬だけ僕の脚と脚の隙間に落ちた。

「そうね。ハムスター買って帰りましょう。活きがよくって目が曇ってないやつね!」

「それは魚じゃないかな」

 しかも死んでるやつ。

 福生さんはゴールデンハムスターが蠢くケースを見つめ、その中から一匹のハムスターを鷲掴みにした。手の中でもがくハムスターをじぃっと見つめ、

「これにするわ」

「なんかすっごいテキトーじゃなかった、今」

「どうせどれも同じようなものよ。本人たちだって見分けついてないんじゃないかしら」

「そんなことないと思うんですけどねぇ」

 ぼんやりとした表情の店員が鷲掴みにされたハムスターを受け取りながら福生理論に水を差す。福生さんの表情は笑っていたが、その目は笑っていないように見えた。少なくとも僕には。

「へぇ、さすがですね。違いが判るんですか?」

 ゼロ円スマイルでそう訊ねる福生さんに、悪意の欠片も感じられない店員の無邪気なスマイルが答える。

「ええ、もう何年も働いてますから。今まで扱った動物はみんな憶えてますよ」

「なるほど。嫌になったりしません?」

「嫌に? どうして?」

 店員は首を傾げてそう訊ねる。福生さんが笑っているのは口元だけだ。

「今まで誰にも買われず殺処分した動物も全部憶えてるんでしょう?」

 僕は目を閉じて耳を塞いでみたが、それを解いた後もここはまだペットショップの中だった。悪夢であれば覚めて欲しいと願っても、ここはどうしようもなく現実らしい。あまり面倒事には関わりたくないのだが、冷静に考えてみれば福生さんそのものが面倒事の塊ではないだろうか。

「……た、確かにそういうことはありますけど」

 どう反応すればよいのか困っている店員がさすがに可哀想になってきたが、その手にあるハムスターと福生さんが笑ったまま物色している飼育ケージの会計が終わらないとこの無意味な問答も終わらないのだと気付いていない様子であった。

「で、でも、そこから命の大切さを知ったりしましたし、お客さんに買われていく子たちを見送るのはとてもいい仕事だと思います」

「そうですね。生命に値段を付けて売るなんて、とてもいい仕事だと思いますよ」

「あの! このケージとこの餌でお会計お願いします!」

 これ以上は店員の心に傷を残しそうなので、僕は適当な大きさのケージと安い餌を選んで店員に押し付けた。店員は深く考え込んでいるような顔をしてレジの向こうへと回り、福生さんは財布を取り出して代金を支払った。そのやり取りが終わるのを見届けてからやっと僕は深く息を吐いて胸を撫で下ろすことができたのだった。




■  ■




 昼食をファーストフードで済まし、再びバスに乗って揺られること一時間。バスを降り立った福生さんはどこか上機嫌であり、今にも鼻歌でも歌いだしそうな様子であった。

「名前どうするの?」

 僕がそう訊ねると、福生さんは振り返らず答えた。

「そうね……青梅くんが決めてくれない?」

「僕が?」

 そう、と振り向かずに頷かれる。僕は歩きながらしばらく頭を悩ませ、

「……ハム星」

「すごいセンスね」

「いや、やっぱ福生さんが決めるべきだよ。福生さんが育てるんだから」

 福生さんは楽しそうに空を見上げて考えている。もしや早速愛が芽生えたのではないだろうか、と己の手腕を自画自賛してしまうが、そんな業績などどうでもよくなるくらいに楽しそうな笑顔であったので、僕は歩きながらつい見惚れてしまっていた。

「そうね……まぁ、家に帰ってから考えるわ」

 その日はその言葉を最後に彼女とは別れた。僕は福生さんが更生されたと気を良くして家に帰り、休日が空けてからの彼女の様子を楽しみにしていた。




 そして翌週、月曜日の朝。僕が生物部朝の活動である餌やりを終えて教室へ戻ると、すでに福生さんは自分の席に座ってイヤホンを耳に差し、心を無にしたかのような表情で佇んでいた。

「福生さん、ハムスターどう?」

 周囲に影響がないように音量小さめにそう訊くが、イヤホンに流れる音楽か何かが邪魔をしているのか福生さんは反応がない。顔の前で手をひらひらとやると、やっと視線をこちらに向けてイヤホンを片方外した。

「ハムスター、あれからどう?」

 僕はてっきり楽しそうに遊んだことでも話すのかと思っていた。どうしてそう思っていたのか――――あの福生さんの笑顔を見て僕は様々なことを忘れてしまったのだろうか。

「……たわ」

「え?」

 あまりにも小さな声でぽつりと呟かれ、僕はイヤホンもしていないのにその言葉を聞き取れなかった。あるいは、聞こえていたけれどそれを信じたくなかったのか。

「殺しちゃったわ」

 僕は何も言葉を返すことができなかった。僕の中のあらゆる熱が――――例えば情熱であったり、体温であったり、希望であったり、そういったものが一気に失われていくような感覚があった。

 福生さんはそうとだけ言って再びイヤホンをして窓の外へと視線を向けた。僕は自分の席に座って、武蔵野さんの挨拶にも気のない返事しか返すことができなかった。


 ただ――――これは強がりで気のせいで、それでいて希望を多分に含んでいるかも知れないのだが、僕には福生さんがとても悲しんでいるように見えたのだ。けれど野良猫とハムスターの違いがなんなのかとか、彼女の中の基準といったものが全く理解できず、理解できるような気もせず、ただただ僕は胸の中に渦巻く不思議な感情を宥めながら授業を受ける姿勢だけは整えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る