第88話 暴君竜と珊瑚の女王②

【暴君竜】カーンは海にあるマーメイドの王国で暮らし始めた。

 マーメイド族の指導者である【珊瑚の女王】イオナがカーンに言った。


「貴方が覚えるべきことは多い。神の教え、他者への労わり、優しさ。つまり愛です」


「愛か」


「はい、愛です。愛こそこの世界で唯一絶対のものと言えるでしょう。ですがそれにも優先して解決せねばならない問題があります」


「なんだ?」


「食料の確保です」


 ドラゴンであるカーンは巨大であり、これほど巨大な生き物が生きていくには、自身が膨大な食料を取ってくるしかなかった。


「なるほど、食い物か」


 かつてのカーンには翼があり、世界中の全てが狩場であった。

 無敵を誇る爪がすべての生き物を餌に変え、どんなに硬い物も噛み砕く牙があった。


 しかし【火炎山の魔王】ガランザンとの戦いで、カーンはその全てを失っている。


「案ずることはありません。空が果てしなく高いように、海は果てしなく深い。魚を取ることができれば、偉大なる海が貴方を養ってくれるでしょう」


「我が、魚を捕るのか」


 カーンには自信がなかった。

 生まれてから数百年。もしかすると千年近い時の中で、カーンは泳いだことが一度もない。その必要がなかったからだ。


「魚を取れなければどうなる?」


「貴方が飢えて死にます」


 その点において、イオナ女王は冷酷であった。

 冷酷にならざるを得なかった。

 魚を取れないマーメイドを一人養うことは出来るが、ドラゴン一人を養うことは出来ない。

 ドラゴンの食料を皆で狩ろうとすると、全てのマーメイドたちが飢えてしまう。

 死を恐れるドラゴン、カーンは飢死の一言に震えた。


「わかった、努力しよう」


 それからカーンの苦難の日々が続いた。

 初めて浸かる海水に慣れる事から初め、そして泳ぎを習った。

 教官役はイオナ女王である。

 他のマーメイドたちは、空腹で我を忘れたカーンが自分らに襲い掛かるのではないかと怖がっていた。


「教え子に怯えながら、教育ができますか!」


 果たして、イオナ女王が教官役になるしかなかった。


「違います、それでは早く泳ぐことはできません。もっと前脚で水を素早く掻き分けるのです」


 イオナ女王が身振り手振りを交えて教えるが、なかなか泳ぎは上達しなかった。

 泳ぐことは出来ても、目標は魚より早く泳ぎ、捕まえることなのである。

 ドラゴンの身体能力をもってしても、それは容易ではない。


 三日経っても、カーンは未だ魚が取れなかった。

 空腹に耐え切れず、暴君竜は浜辺で見つけた貝や、蟹を口に入れた。


「女王よ。我は今まで生きてきて、これほどの屈辱は初めてだ」


 小さく砂だらけの甲殻を折れた牙で砕きながら、カーンが言った。


「何を言いますか。他者を恐れ、死にたくないと叫ぶ貴方の方がよっぽどみっともなかったですよ。食べるために汗する貴方は光り輝いています。素敵です」


「素敵か」


 そう呼ばれたのも初めてだ。

 マーメイドの王国に居ついてから、カーンは初めての出来事だらけであった。


 空腹と屈辱に耐えながら、カーンは来る日も来る日も魚を取る努力を続けた。

 そしてようやく、カーンが満足できる魚を取ることができた。

 海中で大型の回遊魚を一匹、仕留めたのである。


「丸飲みにすれば、美味そうだ」


 カーンは頭からその魚を貪ろうとした。

 限界を超えるほどに腹も減っている。

 だがカーンんの脳裏に、今までか泳ぎと狩りを教えてくれたイオナ女王姿が映った。


「……獲物を見せてからにするか」


 カーンは魚を咥えたまま泳ぎ、地上へと戻った。


「女王よ。ようやく我も魚が捕れたぞ」


「素晴らしい。見事な獲物ですね。もう一人前と呼んで差し支えないでしょう」


 イオナ女王は、カーンがしとめてきた大物に驚き、その狩りの腕を褒めた。


「一人前か。そう呼ばれたのも初めてだ」


 カーンは獲物を見せて、褒められたことに喜んだ。

 だが何かが足りない。

 これで魚を頭から丸呑みすれば満足かと言われると、そうではない気がする。


「女王よ。ようやく我も魚が取れた」


「それは先ほど聞きましたよ」


「ああ、そうだな。いや、違う。ええと。どう言えばいいのか」


 これもまたカーンにとって初めての経験であったので、どう言葉をつむげばいいのかわからずに迷った。

 言葉が浮かばなかったので、カーンは行動で示すことにした。


 僅かに残った牙で乱暴に大型魚の身を切り分け、より美味そうな方を女王に差し出した。


「偉大なる【珊瑚の女王】イオナよ。これを受け取ってくれ」


 イオナ女王は驚いたが、しばらくしてカーンの意図を正確に理解した。


「また一つ愛を知った貴方に祝福を」


 イオナ女王はまるで母親のように、カーンの頭を撫でた。

 カーンにとって、その日は今までの長い生涯の中で最も嬉しい日となった。



《自分からありがとうと言えました。これでようやく揺りかごを卒業できます》

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