第87話 暴君竜と珊瑚の女王①

 平和に暮らしているマーメイドの王国に、ある日事件が起こった。


「女王さま、大変です。ドラゴンが攻めてきました」


「なんですって!」


 マーメイドを統べる【珊瑚の女王】イオナは、兵隊を連れてドラゴンが出たという河口へと向かった。


 大河が海へと流れ出る河口付近の砂浜に、山のように巨大なドラゴンはいた。


 体中が傷つき、牙が折れ、爪もなく、翼がもがれて、息も絶え絶えのドラゴンであった。


 ドラゴンはただひたすら、「死にたくない」と呟き続けていた。


「この状況を説明できる者はいますか?」


 イオナ女王の問いに、部下のマーメイドたちは首を横に振った。


 女王は仕方ないので、ドラゴンへと直接話しかけた。


「ドラゴン様、貴方はどこのドラゴン様ですか?」


 ドラゴンは珊瑚の女王をチラリと見て、「暴君竜である」とだけ答えた。


 マーメイドたちがざわめいた。


 出会った者の全てを殺すと言う悪名高きドラゴン、【暴君竜】カーンがマーメイドの王国にやって来たのだ。


 マーメイドの兵士たちは武器を構え、戦闘が始まった時にイオナ女王をすぐに助けに行けるようにした。


「恐ろしい……。貴様らも我を殺すつもりなのだな」


 武器を構えるマーメイドたちを見て、カーンが言った。


「恐ろしい? 世界で最強のドラゴン様が、我々マーメイド族を恐ろしいと言うのですか?」


「ああ、恐ろしい。我はこの世の全てが恐ろしい。皆が我を殺そうとしている。我は世界が怖くて仕方ない」


 カーンは怯懦としか形容のできない、己の恐怖心を隠そうともせずに言った。


「我々は、ドラゴン様を殺そうとは思っていません」


「皆がそう言った。だが我は信用できない」


「どうすれば信用できるのです?」


「お前が死ねば、我は信用しよう」


 単純明快なカーンの論理に、イオナ女王は絶句した。


「……貴方は重症です」


「わかっている。満身創痍だ。もはや爪も牙も翼もない」


「そういう意味ではありません」


【珊瑚の女王】イオナはマーメイドの指導者であると同時に、この世界に唯一実在する神を祭る最高位の司祭であった。


 イオナ女王の優しい心と神の説く博愛の精神は、傷ついて倒れてもなお精神の闇を払えないカーンへと向けられた。


「貴方の心が重症なのです」


「意味が分からん」


「貴方の為に死んで上げることは出来ませんが、貴方の心に近づきましょう」


「だから意味がわから……」


 カーンが言う前に、イオナ女王は更に歩みを進めた。


 女王の鯨の骨で作った大槍が、カーンへと届く距離だ。


 カーンは怯えたが、しかし足が傷つき、体力も尽き、逃げることも出来ない。


「その槍で我を殺すのか?」


「いいえ」


 イオナ女王は槍を投げ捨てて、更に近づいた。


 短刀があれば、届く距離だ。


「服の下に、毒の塗った短剣を忍ばせているのだろう」


「いいえ」


 イオナ女王は服を脱ぎ捨てて武装がないことを示し、更に近づいた。


 女王の拳が、カーンへと届く距離だ。


「我を殴り殺すつもりなのだな?」


「いいえ」


 イオナ女王は拳を開いて、更に近づいた。


 カーンの喉を締め上げることが出来る距離だ。


「我を絞め殺すつもりなのか?」


「いいえ」


 イオナ女王は血が流れでるカーンの口へと、更に近づいた。


「我が出血で死ぬのを眺めているつもりだな」


「いいえ」


 カーンはイオナ女王が近づくたびに怯えたが、女王はまるで気にしない。


 そして驚くべきことに、イオナ女王は近づくだけでは飽き足らず、巨大なドラゴンの顎を広げ、その口内に入った。


 カーンはここに至り、その恐怖に支配されていた心に迷いが生じた。


「……我が飲み込めば、お前は死ぬぞ」


「そんなことにはなりません」


 イオナ女王は巨大なドラゴンであるカーンの口内を泳ぐように進み、その舌を強く抱擁した。


 舌が抱きしめられ、カーンは激しく動揺した。


 離せと言いたいが、喋れば舌が動き、折れた牙の破片と、ざらつく長い舌によって、女王を手ひどく傷つけるであろう。


 はずみで女王を飲み込んでしまうかもしれない。


 女王の行為と自分に生まれた感情に戸惑い、カーンは沈黙するしかなかった。


 喉を鳴らすことも出来ず、舌を動かすことも出来ず、ただ舌と女王との肌が触れ合っていることを感じながら、カーンは沈黙を続けた。


「……」


 長い沈黙のなかで、カーンは今までの記憶を遡っていた。


 それは死の直前に訪れると言う走馬灯のようであった。


 過去のすべての時間、すべての時において、カーンは敵を殺し続けていた。


 だがその『敵』は、本当に殺さねばならない『敵』だったのだろうか?


 カーンは顎を大きく広げ、舌を外へと突き出し、イオナ女王を口外へと出した。


「マーメイドよ、お前の名前は何と言う?」


「【珊瑚の女王】イオナです」


「そうか。では【珊瑚の女王】イオナよ。我は聞きたいことがある」


「なんなりと」


 イオナ女王は質問を促した。


 カーンには女王に聞きたいことが山ほどあったが、もっとも優先して聞かねばならないことがあった。


 その問いはそれまでの長いカーンの半生をすべて否定することである。


 しかし聞かないわけにはいかなかった。


「イオナ女王よ。我はもしかすると」


「はい」


「もしかすると、我は……間違っていたのか?」


 カーンの自身すべてを否定する言葉を聞き、イオナ女王はカーンの鼻先を撫ぜた。


「貴方はあまりにも幼い。未熟な赤子のようです」


「そうか」


 カーンはその言葉を肯定と受け取った。


「赤子を見捨てることは出来ません。傷の手当てをしてあげましょう。そして貴方が学ぶべきことを一から教えて差し上げます」


「我は今まで長い時を生きてきた。そして間違い続けてきた」


「はい」


 一切の容赦なく、イオナ女王はカーンの過ちを認めた。


「その愚かな我を、お前は導いてくれると言うのか?」


「それを貴方が受け入れるのであれば」


 イオナ女王の言葉を聞き、カーンは頷いた。


 カーンはドラゴンの巨体を可能な限り砂浜に沈めた。


 そして頭を出来る限り下げ、偉大な女王を見下ろさないように心を配った。


 それはカーンが生まれて初めて行う、他者への敬意であった。


「では女王よ。我はお前の導きを受け入れよう。お前が信じるものを、我もまた信じよう。お前が守る者を、我もまたを守ろう。お前が愛する者を、我もまた愛そう」


 カーンはイオナ女王の招きに応じ、マーメイドの王国で暮らすこととなった。




《それは自由ではなく無軌道。それは服従ではなく信頼》

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