7:襲撃Ⅱ

 どれほどの時間が経っただろうか。

 金井は、異様に静まりかえった家の中の様子に気が付いた。ただでさえ静まりかえっているが、それ以上になんの存在も感じられない。虫の鳴き声すら聞こえない。

 時計を見た。

 午後八時三十二分。

 そう言えば、食事はどうなっているのだろう。お風呂も今日は入れるようなことを言っていたけど。

 金井は落ち着かなくなってきた。

 また突然あの老人がぬっと現れて、お盆を置いていくのだろうか。予想もしていなくてその場面に遭遇すると、かなり驚くが、先にそうなることがわかっていて、ただし何時そうなるかわからない時の怖さというのもある。

 一度そのことに気づくと、金井は老人が何時現れるのか、びくびくするようになった。

 しかし、九時になっても、老人は現れない。屋内のどこにも気配すらない。昨日も気配に気づかなかったが、予想していれば、気配くらいはわかるだろう。

 九時半になっても、何の反応もなかった。

 金井は、麗香にもらったおにぎりがテーブルの隅に転がっているのを目にし、それを口にした。冷えたおにぎりだが、予想以上においしく思えた。

 一方で待てど暮らせど、食事は出てこなかった。

 十時になると、さすがに金井も変だと思うようになった。あの不気味で何を考えているかわからないじいさんでも、ここまで何の反応もないようでは、何かあったと考えた方がいい。

 どっかで倒れているんじゃないだろうな。

 昼間、顔を合わせた時、糞尿の匂いが漂っていた。

 あのじいさん、体もおかしくなっているんじゃないか?

 金井は立ち上がった。

 障子戸を開ける。大きく息を吸って廊下にそっと顔を出した。廊下の角からあのじいさんが顔だけ出してこっちを見ているのではないか、と言う恐怖感がわき起こった。

 思い切って廊下の奥を見たが、暗い廊下の向こうには誰もいないように見えた。

 目が慣れてくるまで見ていたが、やはり誰もいない。

「す、すいませーん」

 声を出してみた。我ながら小さい声だと思った。

 何の反応もない。

「すいませーん」

 少し大きな声を出した。それが思った以上に廊下に響いたが、やはり何の反応もなかった。異様なくらいに静かだ。

「もう、なんなんだよ」

 と小さく愚痴をこぼし、それから部屋を振り返って、テーブルの上に置いてあるものを見回す。見たところで何かになるわけではない。

 はあ、とため息をついて、金井は廊下に出た。障子戸は閉めない。別に何事かが起こって、あわててその部屋に飛び込めるように、と言うわけでもないのだが、やはりその部屋だけが金井の心の安定が保てる場所のように思えた。

 廊下に出ると、金井は意を決して奥の方へと歩き出した。

 床板がきしんで音を立てる。

 廊下には明かりも点いてなくて真っ暗に近い。部屋部屋も電灯は消えたままで、わずかに窓を通して入る外の明かり、庭のライトの明かり、が、廊下を真の闇から救っているものの、それも青白く見える程度で不気味さはなお増す。

 金井は携帯をとりだした。この画面の明かりで廊下を照らそうと思ったのだ。

 明かりを見ることで、いくらか落ち着くことができたが、自分の周囲だけが少し明るくなった程度なので、廊下の向こうの暗闇はよけい際だった。明かりに目が慣れると、その暗闇が見えない。

 バッテリーも無駄遣いになる。

 金井は考えて携帯をしまった。また、あたりが暗闇に戻る。

 暗さに目を慣らしつつ、少しずつ進む。

 あのじいさんが顔を出す角まで来た。

 今日の昼のように、この角の右側にじいさんが立っていたら……。もう少し様子を見てから来れば良かったかな、と後悔したが、ここまで来た以上、先に進むしかない。

 金井はつばを飲み込むと、思い切って角に出た。

 右の通路は真っ暗だった。

 誰もいない……、様に見える。

 左には部屋が、前方にはまだ廊下が続いている。その左右にさらに部屋があり、突き当たりはよく見えないが、そこにも部屋があるようだ。

 大きな家だと言うことだけはよくわかる。

 右の廊下の奥はどうなっているかさっぱりわからない。食べ物を持ってじいさんが出てきたのだから、台所があるのではないだろうか、と金井は思った。

 どちらを行くか。まっすぐ行って見ようかと思ったが、通り過ぎたあとにこの右の通路からあのじいさんが現れたりしたら……。

 たぶん、相当怖いだろう。変な叫び声を上げて、襲いかかってきやしないか。

 そんな嫌な想像が頭に浮かんだ。

 でも、それは右の通路を行っても同じである。

 通路の雰囲気でより不気味なのは、右の方だ。

「……」

 金井は考えたあげく、まず前方に行ってみることにした。この先はたぶん行き止まりだ。終着点がわかっている方から先に調べた方がいい。

 廊下を進む。

 左右に部屋があるが、金井はその入り口に立つごとに、そのふすまや障子戸をそっと開けた。どの部屋にも誰もいない。電気も消え、庭に面した方だけ、窓からはいる庭の明かりで様子が少しわかる。

 廊下の突き当たりまでに、庭に面した左の部屋は二つあったが、客間だったのか、家具も何もない殺風景な部屋だった。右の部屋の方も二つあったが、こっちには箪笥や鏡台などがあり、人の住んでいることがはっきりわかった。

 少なくとも、あのじいさん以外に人が住んでいる感じはした。が、入ろうとはしなかった。部屋に入ってもしょうがないし、入ったところで、いきなり何者かに戸を閉められたりするのでは、という理不尽な思いが浮かんだ。

 そして、右の二つ目の部屋のふすまを開けた時、金井は異様な寒気を感じた。

 携帯を出して、画面を部屋の中にかざすと、その明かりの中、その部屋の真ん中に、布団が敷いてあるのが見えた。というより、敷いたままになっていた、と言った方が正しいか。

 布団は、明らかに寝るために用意したものではなく、誰かがそこから起きた様なあとがあった。掛け布団が半分ほどめくれていたのだ。敷き布団も少しよじれている。そして、ずっとそのままになっているように見えた。何日も何日も。それはその部屋から妙にかびくさいような、あるいは無機質な臭いがしたからだ。生活臭の感じられない雰囲気だ。地方史研究のために、しょっちゅう自宅アパートを留守にしている金井には、それがよくわかった。少なくとも一週間くらい、その部屋には誰も入っていない臭いだ。そこに入るのはためらわれた。部屋の真ん中には電灯があるが、点ける気になれない。

 金井は思わず後ろを振り向いた。

 廊下には誰もいない。屋敷中、誰もいない。そんな感じがする。

 するのだけど、なんとなく気味の悪い気配を感じたのだ。

 無人の怖さに、脳が勝手に背中の方を敏感にしてしまっている。夜中にシャワーを浴びていると、なんとなく誰かがいるような感じがするのと同じだ。きっとそうに違いない。

 そのまま部屋を出ると、彼は早足で廊下の突き当たりまで行った。

 そこはきちんとドアの付いた部屋だった。

 こんこんとノックをする。

 何の反応もない。部屋の中には誰かのいるような気配はしない。

「どなたかおられますか……」

 そうつぶやいて、その返事を待つまでもなく、金井はすぐにドアを開けた。

 そこは、大きな居間だった。携帯をかざす。決して、特別な部屋ではなく、主人の部屋というものでもなかった。和室ではあるが、家族が団らんするための部屋だった。

 その部屋の雰囲気に、金井は奇妙な思いにとらわれた。

 屋敷の位置、ドアの作りなどから、ここには主人の部屋でもあるのかと思ったのだ。

 それは、あの不気味なじいさんのイメージがあったからでもある。

 だが、そこは普通の部屋だった。

 それは、事前に電話で話した中年の女性のイメージであった。

 その部屋もまた、誰も使わずに一週間は経っているような臭いがした。

 金井はどう解釈して良いかわからなくなってきた。

 まるで、自分が来る少し前までは、あの中年の女性の声からわかるように、ここには数人の家族が仲良く暮らす一家がいたのだ。しかし、自分が来た時には、その一家に変わって、あの不気味な老人だけになっていた。

 どういうことなのだ?

 あの老人は、この家の家族なのか?

 今まで思いもしなかった考えが浮かんできた。

 もし家族でなかったとしたら。

 そう考えると、奇妙なことのつじつまが合う。妙にまずい食事のこと、お風呂のこと、外や家の中を出歩くなと言ったこと、こちらの質問に妙に反応が鈍いこと、みな、あの老人がこの家の人間でなければ、理屈が通じるのではないか。家の中のことは、どうしていいかわからないから……。

 ただ、史料の調査をすることになっていたことは、あの老人も知っていた。

 なぜだ?

 家族と顔見知りなのだ。しかも知っていることを明らかにしているのは、家族であるふりをしているということになる。

 どうして?

 つまり僕から何かを隠し、あるいはごまかすために、すでに決まっていた話をそのまま受け入れて僕に示したのではないか?

 では何をごまかそうとしていたのだろう。

 何かとんでもなく嫌な予感がする。

 知ってはまずい、非常にヤバイ何かがあるような気がした。

 金井は突き当たりの部屋を出ると、廊下を戻った。

 またあの横へと廊下が続く場所に出た。

 この横の通路。この奥に何があるのだろう。

 ここは真っ暗で何も見えない。相変わらず電灯のスイッチなどは見あたらない。というより、廊下の天井に電灯がない。古い家だからだろうか。

 部屋中の電気を点けていけばよかった。

 懐中電灯かロウソクでもあればまだマシだが。

 この家のどこかにはあるだろうけど、少なくとも手元にはない。手元にある明かりと言えば、携帯の画面だけである。

 台所はあるに違いない。今のところ台所らしい部屋はないから、おそらくこの奥にあるのだろう。

 行ってみようか。

 朝になるまで待てば良かったかな、と少し思った。

 しかしここまで来た以上、先に進むしかない。朝になるまで部屋でまんじりと待つのは出来そうになかった。少なくとも何が起こっているのかを確認しなければ、寝るに寝られない。

 また、聞いて間もない麗香の携帯に電話をかけるのもためらわれた。まだ大騒ぎするようなことは起きていないのである。それに彼女に助けを求めるようで、いささか恥ずかしくもあった。

 俺も男だ。軟弱であるのは認めるが。真っ暗で人の気配がしないから、妙な想像が浮かぶのだ。余計なことは考えない。

 金井は大きく息を吸うと、暗闇の中へ足を踏み出した。

 廊下はいつまでも続くように思えたが、意外に短かった。

 すぐに左側に部屋が現れた。引き戸を開けて中を覗くと、そこは物置のようで、食料品らしきものや、使っていない生活用具などが所狭しとおいてあった。さすがに古い屋敷だけに、家の中にもこういう部屋があるのだ。

 その先にあったのは、台所だった。廊下からそのまま続く部屋全体が台所である。何かの光で青く薄暗い中、金井は、電気のスイッチがないか、壁のあたりを見たがわからなかった。しかし、高い天井には大きな丸い蛍光灯がぶら下がっているのがぼんやりと見える。どこかにスイッチはあるだろう。

 いわゆるキッチン、といったものではなく、昔ながらの土間である。廊下から二段下りて、サンダルなどが並んでいた。天井も高く、ここまでの屋敷とは別の作りになっているような感じだ。

 廊下からの段差の横に食器などを入れている大きな水棚と台のようなものがある。たくさんの陶磁器が整然と置いてあった。台の上にはお盆が積まれていた。

 足に何か当たったので、見下ろして携帯の明かりをかざすと、段差の手前にお盆が置いてあり、食器がひっくり返っている。昨日出されたお盆だとわかった。廊下に出しておいたら、片づけられていたが、それがここに放り出されているような感じである。ここまでは持ってきたが後は知らない、といった風だ。

 そこだけ妙に生々しい人の痕跡を見たようで金井は身震いをした。あの老人の痕跡だ。いったい、あの老人は、何者なのだ。

 段差を降り、サンダルを履いて土間に出る。

 右側壁沿いに流し台はあったが、ステンレスの比較的新しいのと、石造りの古いのが両方並んでいて、その間の石で出来た台の上にガスレンジが乗っていた。左側の壁には真新しい大型冷蔵庫が立っている。電気が通っていて、ダイオードが光っている。その青い光が、わずかに台所を照らしていた。

 冷蔵庫の向こう側は段ボールが積まれていた。右側の流しの向こうには、昔ながらの竈があった。それを見たときだけ、金井は恐怖を忘れた。古い物好きが顔を出したのだ。

 その先は、再び廊下が続いている。暗がりの向こうに勝手口のようなものが見える。その手前、左の方に何かある。ガラス戸が見えた。

 そこまで行ってみると、どうも風呂場のようだ。磨りガラスの向こうは真っ暗だった。

 金井は、左のガラス戸を見て、前方の勝手口を見た後、再度左のガラス戸に手をかけた。ここを見て、それから勝手口のドアの向こうを確認すれば、一通り見たことになる。それで少しは安心できるというものだ。あの老人はどこかへ出かけていないだけなのかもしれない。

 風呂場のドアをゆっくりを開ける。そこは脱衣場だった。右手にもまたガラス戸があった。中は浴場らしい。ガラス戸を通して、浴場から青白い光が差し込んでいる。浴場の窓を通して、外の明かりが入ってきているのだろう。

 たぶん、今もそうかもしれないが、昔は外から薪で火をたいてお湯を沸かしていたのだ。だからだろう。風呂場は建物から飛び出るように建っているようだった。

 金井は脱衣場の壁に電灯のスイッチがあるのに気づいた。

 スイッチを入れようと思い、金井は、脱衣場へ一歩踏み出そうとした。

 そのとき、奥の浴場の方に何か陰が動いた。脱衣場との間を仕切っているガラス戸の磨りガラスを通して何か黒いものが動いているように見えた。

 金井は足を止めた。そろそろと体を外に戻し、そーっと、浴場の方のガラス戸を見る。何も見えない。しかし、つい今、外からの青白い光が遮られるように動くのが見えた。浴場には何かいるのではないか。

 人か?

 誰かが入っているのか?

 電気もつけずに?

 それに水音もしないし、お湯が入っているのなら感じられるであろう熱気や湯気のようなものもない。

 では、薄暗い浴場に何がいるのか。

 野生動物か何かが入り込んでいるのだろうか。

 金井はできるだけ安心できそうな理屈を考えてみた。

 つばを飲み込む。

 このままでは、気づかなかったふりをして戻ることもできない。戻る途中で後から何かがついてきて、襲われるような、いやな発想が浮かんだ。

 脱衣場の壁のスイッチが見える。

 電気をつけてみよう。

 体を脱衣場へ入れずに、なんとか手を伸ばしてスイッチを探った。この体勢ではスイッチの位置がよく見えない。手を上下に動かす。

 指先に触れた。

 力を入れる。かちっと音がして、パッと明かりがついた。

 まぶしさに思わず目を細めた次の瞬間!


 バシャーーーン!!!


 ガラスの割れる大きな音がして、浴場と脱衣場の間のガラス戸が吹き飛び、何かが脱衣場へと飛び込んできた。一瞬、人のようにも見えた。

 心臓が止まるかと思ったのもつかの間、飛び込んできた何か大きなものは、うなりをあげて金井の方へ飛んできた。金井が腕を前に上げて顔をかばったとたん、衝撃を感じてはじき飛ばされた。

 廊下の壁に激突する。前のめりに倒れる。

 息が詰まり、全身に痛みが走る。

 それでも金井は、とっさに相手の正体を見極めようと目を開いた。本能のなせる技だっただろうか。

 一瞬だけ、何か太いうねうねとしたものが見え、それが大きくはねると、パーン、という音が響いて脱衣場の明かりが消えた。

 金井は立ち上がった。あちこちに痛みが走った。

 そして無言のまま、彼は振り返りもせずに台所の方へとかけだした。サンダルは吹っ飛んでいたので、靴下のままで土間を走り抜ける。

 今のが何だったのか、などという考えをしている余裕もなかった。ただひたすらに、逃げなければ、と思った。

 金井は走った。

 段差につまづきながら駆け上がり、真っ暗な廊下に入った。前方、突き当たりの部屋の手前、左右に続く廊下の左からわずかに明かりが差し込んでいる。金井が寝起きしている部屋の明かりだ。

 あそこまで戻れば、という思いが浮かんだ。

 戻ったところでどうなるかわからないがそう思った。後ろから大きな音が響いた。金属の鍋か何かがひっくり返る音がする。さらに陶器が割れるような派手な音が連続した。何かが迫ってくる気がした。

 金井は早く廊下を曲がろうと気がせいた。

 だが、突き当たりにたどり着く直前、ぞわっという感覚が背中に走り、彼は思わず振り返った。そこに何かが接近してきた。瞬間、あの老人の顔が見えた。それが物凄い勢いで迫ってきた。

 金井が思わず悲鳴を出しかけたとき、何か弾力のあるものが、うねりながら彼を直撃した。激痛とともに目から火花が飛び散り、一瞬にして意識が遠くなりながら、彼は自分の体がはじき飛ばされ、廊下の突き当たりの部屋の戸を突き破ったことがわかった。息が詰まり、そして何もかも真っ暗になった。

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