5:神隠し

 昼すぎ、家の前に人影が差した。

 玄関の横開きの扉が開く。

「こんにちわー」

 麗香が中に声をかけると、すぐに金井が部屋から出てきた。待ってましたとばかりに。

 麗香は少しだけおかしくなった。直前までの警戒心が少しゆるんだ。

「どうしました麗香さん」

「どう、進んでる?」

「ええまあ……」

 金井はちらっと奥の方を見た。

「天気も良いし、ちょっと息抜きしない?」

「しますします」

 金井は即座に答えた。

「でも、どうします?」

「村の中を見て回らない?」

「……大丈夫ですかね」

 金井は声を潜めた。

「大丈夫って、何が?」

「だって昨日、おじいさんに、あまりうろつくなって言われたじゃないですか」

「ああ、そうねえ」

 麗香は困った顔をし、それから表情を明るくした。

「そうだ、あそこに行ってみない」

「どこです?」

「そこの丘。城跡があるって言ってたじゃない」

 と麗香は後ろを振り向いて指さした。こんもりとした独立丘のような低い山がある。

「あれだったら、研究の一環でしょ。城跡ってのがあるんだから」

「なるほど」

 たしかに言い訳できる。

 金井は行って見る気になった。

「ちょっと待っててください」

 金井は引っ込むと、部屋で少し片づけをして、それから廊下の奥の方に声をかけた。一応、声をかけておいた方がいいだろう、と思ったのだ。

「すみませーん」

 奥からはなんの反応もない。少し進んで、

「すみませーん」

 再度声をかけてみるが奥の方は静まりかえっている。大体この奥の方に入ったことがない。

 ちょっとつばを飲み込み、金井は廊下を奥の方へ進んだ。薄暗い。

 異様に静かだ。ぎし、ぎし、と廊下の板を踏む音すら響く。

「すみませーん……」

 廊下の曲がり角のところで、金井は小さく声をかけたその時、

 角の右側から老人がぬっと顔を出した。

 目の前である。近づく気配も何も感じなかった。まるで角の向こう側でずっと立って待っていたかのようだ。

「っ……!!」

 金井は驚いてあやうく腰を抜かしかけた。

「なにをしている」

 老人はなぜか廊下の角から顔だけ突き出すようにして、金井を見た。当然、顔は斜めになっている。

 なにやら異臭が漂ってきた。糞尿の匂いだ。まさかこの老人、トイレに行かず、漏らしたのだろうか。

「いや、あの、ちょっと外に出かけてきます」

「なぜだ」

「て、天気が良いので、ちょっと息抜きに……」

 金井は老人が何か言う前に、急いで言葉を続ける。

「あの、あまりうろつきませんので。ちょっとそのあたりを。……だめですか?」

「そのあたり……」

 老人はまたあのうつろな表情になった。暗がりでもわかるほどに雰囲気が変わる。金井はますます気味悪くなった。

 すぐに老人に表情が戻った。

「認める。村の中をうろつくのは許さない。そのあたりだけダ」

 と言葉も鋭く言い放った。

「わ、わかりました」

 金井は、二、三歩後ずさりしたあと、くるっと向きを変え、作業をしている部屋に戻ると、財布を持って廊下に出た。ちょっと振り向くと、老人はまだ、薄暗がりの中で、角のところから顔だけ出してこっちを見ている。

 かなり不気味であった。

 金井はちょっと会釈すると、急いで玄関をでた。

 扉を閉めると、大きなため息をつく。

「どうかしたの?」

 風景を見ていた麗香が不思議そうに尋ねた。金井はうんざりしたように、

「もうやってられませんよ」

「……?」

 麗香は首をひねった。

「とにかく、ここでは」

 そう言うと金井の方から進んで坂道を降り始めた。

 坂の下、道路を挟んで反対側にある小さな丘、それが金井が「城跡」と呼んでいる場所である。

 高さは四〇mくらいだろうか。道路側は緩やかだが、川沿いは崖のように切り立っている。全体は木々で覆われて自然の山のようだが、よく見ると石垣のあとのような物が見える。それほど大きな山ではなく、独立した丘陵といったところだ。

 道のそばに石の階段があった。摩耗していて、苔むした階段だ。落ち葉が重なっている様子では、ここしばらく人が来た様子はない。

 結構急な階段である。蔓草などが這っていた。

「上がるのちょっと面倒そうだな」

 金井がそう言うのを聞いて、

「運動すれば気分転換にいいわよ」

「そうですね」

 仕方ないか、と言うそぶりで金井は階段を上がり始めた。

 半分ほど上がったところに広場があった。そこには木が生えていない。膝下程度の草が生い茂っているが、地面は固く、歩きやすかった。そこからさらに上に上る階段があったが、そっちは木の枝が生い茂っていて歩きにくそうだった。

 広場の縁には、川の方からぐるっと村の側にまで石垣があった。つまりこの広場は小さいながらに「郭」の一種なのだ。昔は数棟程度の小屋も建っていただろう。戦国期の砦のようなものか。

 村の方の石垣に近寄ると、斜面に木々が生い茂っていたが、隙間があった。その隙間から村が見えた。村とは反対の、南側にあるトンネルの方は開けていてよく見える。

「見晴らしいいわね」

 麗香はそう言って見回した。

 金井が石垣に腰掛けると麗香も隣に座った。金井は少しどきどきしてきたが、麗香をちらっと見ると、麗香は樹木の隙間から村の中心の方を見ようと首を伸ばしていた。

「どうしたんです? なにか気になる物でも?」

「え? ううん、そうじゃないけど」

 と昨日同様様子が変だ。

「そうそう、さっきなにか言おうとしていたようだけど」

「え? なんでしたっけ」

「ほら、もうやってられないとかなんとか」

「ああ……」

 と金井は顔をしかめた。

「なにかあったの?」

「なにかもなにも、あのおじいさんですよ」

「あのおじいさんがどうかしたの?」

「不気味なんですよ」

「不気味?」

 麗香は思い出すような表情をして、

「まあ、ちょっと不気味な感じはしたわね」

「それだけじゃないんですよ」

 金井は老人の不気味な動きについて説明した。

「顔しか出さないって言うわけ?」

「気味悪いでしょう。電気も点いていない廊下の角から顔だけ出すんですよ。それも毎回」

「夕食は部屋まで持ってきたんでしょう」

「部屋の入り口までです。それも入り口の陰から顔だけ出して、廊下にお盆を置いて」

「廊下に……、じゃあ、部屋の中までは入ってこなかったわけ」

 ええ、と金井はうなずき、

「しかも、僕がお盆を取りに行ったら、もうそのときは廊下の端の方へ戻ってたんですよ。見てませんけど、さーっと戻っていった感じです」

「で、顔はこっちに向けたままで?」

 ええ、と再度うなずき、

「おそらくバックしながら廊下の向こうに消えたんです」

 麗香は顔をしかめ、首を軽く振った。

「ほんとに? うえ~、それは気味悪いわね」

「でしょう?」

「食べたあとは片づけたわけ?」

「廊下に置いておけというので、置いておくと、朝にはなくなってたんです。でも、取りに来た気配はなかったんですよね。夜中に来たのかも」

 そう言ってから、金井は身震いした。あのじいさん、夜中に部屋とか覗き込んでいないだろうな。

 そういえば、ゆうべ、変な夢を見たような気もするが……。

 ふーん、とつぶやいたあと、麗香は村の風景を見ながらなにか考えているようだが、

「その家の人、他にいなかったんだっけ」

「いえ、前にアポイント取った時にはおばさんらしき人が電話に出ました、親切な感じの声の人で、あのおじいさんとは違うと思います」

「その女性は?」

「みかけません。ただ、屋敷の奥までは入っていないので、奥におられるのかもしれませんけど」

「でも、挨拶とかには出てこないの?」

「ええ。出て来ません」

「ふーん……、おじいさんは、その家の何なのかしら」

「何っていいますと?」

「主人なのか、隠居したおじいさんなのか、雇われ老人みたいなのか。もし雇われている人なら、その人に任せておばさんが出てこないのかも」

 うーん、と金井は首を傾げた。

「全く顔を見せないのも変ですけど。それに雇われ人には見えないですね。むしろ、あの家の主人のような態度ですよ」

「変な話ね。主人なら自ら食事のお盆を運んだりはしないでしょう。おばさんがいるんだから」

「僕もそう思います」

「おばさんはなぜ出てこないのかしら」

 金井は黙った。

 今度は金井の方が考え込んでいるようだったが、

「おばさん……、いないんじゃないかと思うんです」

「いない?」

「はっきりとそうだとは言えないんですが、あそこには」と木々の間から見える屋敷を見て、「あのおじいさん以外に誰もいないような感じなんですよ」

「そうなの?」

「そんな雰囲気です。もううんざりなんですよね、あの雰囲気」

 麗香は黙った。

 麗香は村の雰囲気をつかんでいる。村にはほとんど人の気配はない。ないが、全く無人という感じでもない。現に麗香は今朝、不思議な少女に出会っている。

 そのことは金井には言わないでおこう、と麗香は思った。元々、彼女は目的があってこの村にやってきたのだ。そのことに金井を巻き込むつもりはない。望ましいのは、金井がなにも知らずに仕事を終えて、この村を立ち去ってくれることだ。

 金井は口を開いた。

「麗香さん」

「なに?」

「僕、こんな話を聞いたことがあるんです」

「なに?」

 麗香がさりげなく金井の横顔に視線を強めると、

「この村の事とはっきりした訳じゃないんですけど、昔話が記された古書を前に見たことがあるんです」

「昔話?」

 麗香はまばたきした。昔話なら、あまり重要な話では無さそうだ。

 金井はうなずきながら話し始めた。

「江戸時代の初めの頃、山中のある村に、一人の女性がやってきたそうです」

 麗香はうなずいた。

「その女性は、六部……つまり巡礼者かなにかで、各地を回っているようだったんですが、病気にかかっているようだったので、村長の家に泊めてもらうことになったんです。女性は一月ほどして回復し、お世話になったからと、家の手伝いをするようになったんです」

「うん。それで?」

「それで、その女性はいろいろと気が付くし、まめで働き者だったので、村長の家でも気に入って、もう少し、もう少し、と言っては彼女を引き留めたんです。そのうち、村長の次男が彼女を嫁にもらいたいと言い出した。村長としても、彼女ならいいだろう、と言うので、彼女に話を持ちかけたんです」

「それで?」

「その女性は、少し困惑した様子だったけど、結局話を受けて、次男の嫁になったわけです。村長は自分の屋敷の敷地に二人のための離れ家を造り、仕事はひきつづき母屋の手伝いをすることにしたんです」

「いい話じゃない」

「ところが、そのころから村では奇妙な出来事が起こるようになったんです」

「奇妙な出来事? どんな?」

「神隠しです」

「それって、いつの間にか人がいなくなるって言う……」

 金井はうなずいた。

「初めのうちは、山に入って熊にでも襲われたのだろう、とか、崖から川に落ちたのではないか、とか、そう言う話だったんですが、日に日に村人が姿を消していく。それも猟師や農民だけでなく、その妻や子までが、家にいて消えてしまうんです」

「それで神隠しと」

「そう。ところが、どうにも原因がわからない。神隠しとは言っても、以前にはこういう事はなかったわけですから、なにか理由があるはず。山の神の怒りにふれるような事をなにかしたのだろうか、と言う話だったわけですが、ふと、その神隠しが起こるようになった頃のことを思い出して、今までと違うことがひとつあったことに気づいた」

「それは?」

「例の女性が村に来たことです。そもそも、その村は山奥にあり、決して街道沿いにあったわけではない。全く旅人がないわけではないけれども、その女性が村を通りがかったにしては変だと思うようになったわけです」

「まさか、村人は女性のせいにしたんじゃ」

「したんです。昔は、村に異変があったりすれば、よそ者を犠牲にすることが良くあったと聞きます。民話とかに良くそう言う話が残ってますからね」

「そうなんだ。私、そういうのはよく知らないから」

「村社会としては、村人として受け入れたとは言っても、よそ者であれば、当然そうするでしょうね。残酷な話ですけど」

「それで、どうしたの?」

「村人は、彼女を尋問した。彼女は何のことかわからないと答えたのだけど、結局、村長が村人に命じて彼女を山の社の裏に生きたまま埋めたというのです。彼女の夫だった村長の次男はもちろん反対したけど、結局どうしようもなかった。神隠しが彼女のせいかどうかもですが、人身御供というやつをして、神の怒りを静めようとしたのでしょう」

「ひどい」

「ところが、この事件のあとも、村人が神隠しにあうことが続いた。彼女のせいではなく、まして彼女を生き埋めにすることが供物として効果はなかったということです。それどころか、彼女を生き埋めにしたことが、さらに神の怒りを買ったのじゃないか、と言うことになった。つまり、元々村人に神の怒りを買うなにかがあって、その上、彼女に責任を押しつけて犠牲にした、ということです」

「当然でしょう。私だってそう思うわ」

「それで村人は、村長が原因だと追及するようになった。そう思ったのには、彼女を犠牲にしようとしただけでなく、村長の関係者は誰も神隠しにあっていなかったから。村人は村長の家を襲い、抵抗した一家を捕らえて殺してしまった。しかしその中に女の夫だった村長の次男はいなかった。それで、次男を捜すため、次男夫婦が住んでいた離れ家に行ってみると、村人は家の裏から物音がするので、裏にあった薪を置いておく小屋を覗き、そこで大変なものを見てしまった」

「何を見たの?」

「首です」

「首?」

「神隠しにあった村人の生首です。首は半ば腐っていて、ひどいにおいを放っていた。その首のそばで次男が人間の肉を塩漬けにした瓶をいくつも並べて異様な様子で座っていたわけです」

「それじゃ、村人がいなくなったのは、神隠しなんかじゃなくって……」

「そう。村人は、どういう事なのか次男を問いただした。次男は村人を殺したのは自分だと言った。村人がなぜそんなことをしたのか、と聞くと、次男は奇妙なことを言い出した」

「何、奇妙な事って」

「自分は、先の日向太守、つまりここの戦国大名だった伊東三位入道の一族のものだ、と。一族は家臣の裏切りにあって薩摩の島津氏に攻め込まれ、国を捨てて豊後大友氏の元へと去った。みなはその逃避行に加わったが、冬の山越えだったために、特に女子供に落伍者が相次いだ。私は当時、まだ十代半ばの少女だった。両親とともに一行からはぐれてこの村に迷い込み、助けを求めた。しかし村人は島津勢を恐れて両親を殺し、自分を手込めにしたあげく村の社の裏に生き埋めにした。だから私はその恨みを晴らすために村人を一人一人殺していったのだ、とね」

「……こわい話ね」

「村人はおびえたわけですよ。村長の次男がそんな話をするのですから。なにかにとりつかれたとしか言えない。仮に彼の妻だったあの女性がそうだったとしても時代も年齢も合わない。つじつまは合わないが、戦国時代には、合戦のようなかっこいい話ばかりではなく、凄惨な落ち武者狩りや人身売買なども頻繁にあったと言われていますから、村人も何かあったのではないかと思い、村の生き字引のような老人にその話をすると、老人は青ざめて、実際にそう言うことが過去にあったことを明かした。そこで村人は、村長の次男を蔵に閉じこめ、いそいで村の社に数十年前に殺されたという伊東一族のものと、生き埋めにして殺してしまった次男の嫁を祀る社を新しく造って祈りを捧げた。次男はその後、閉じ込められたまま食事もせず、間もなく死んでしまった。それで神隠しはなくなったそうなんですけど、その後も村には災難が相次ぎ、結局村人は逃散してそこは廃村になってしまった」

「ふーん……」

「後に旅の僧侶がその話を知り、村の跡を訪れて、廃社となっていた場所にお堂を建ててお経を上げたという。……その僧侶の話を聞いたある藩の学者が記録した江戸時代の古書の写本を僕は読んだわけなんですが」

「そんな話があったんだ」

「と言っても、この村の話かどうかはわからないですよ。それどころか、どの村の話かもわからない。どこかよそから伝わってきた話がいつの間にか地元の話のように変化したものとも考えられるし……。というのは似たような話は全国各地にありますからね」

「そのなんとかっていう大名の話は本当なの?」

 金井はええ、とうなずき、

「日向の国、つまり今の宮崎県に勢力を持っていた戦国大名の伊東氏が、島津氏に追われて豊後へ落ち延びたのは本当です。冬の山間部での逃避行で大変だったという話は、今でもその道をハイキングするイベントがあったりするくらいだから、この辺りでは有名な話です。のちに生き延びた伊東氏の一族が豊臣秀吉の家臣となり、地元に復帰して飫肥というところの大名になっているんですが、その時、かつて裏切った家臣の一人が、罪を償いたいと処罰を覚悟してやってきて、許された話なども伝わっています」

「じゃあ、そのお話のようなことも実際にあったかもしれないのね」

「かもしれません。まあ、呪いが実際にあるとは思いませんから、言い伝えを聞いたものが、それを殺人事件の動機に仕立てあげたのかもしれません」

「ふーん」

 と麗香はなにか感心したようにうなずいた。それから少し笑みを浮かべて、

「で、金井君は、今の話を思い出した訳ね、不気味なおじいさんを見て」

「……まあ、似たような話ではないんですけど、なんかあのおじいさん以外に誰もいないような雰囲気が不気味で……」

 金井は黙った。要するに怖くなったわけだ。なにかあの家では悲惨な事件でも起きたんじゃないだろうか。

 麗香は笑い出した。金井は顔をしかめて、

「麗香さん、なにも笑わなくても」

「ごめんごめん。でも、そんなに心配なら、仕事はさっさと切り上げて帰ったら? なんだったら、麓の町まで送ろうか?」

「うーん、送ってもらうのはぜひともお願いしたいんですけど、すぐにというわけにも行かないです。せっかく新しい史料を見つける機会に遭遇したので。こんな事滅多にないんですよ、学者の世界では」

「その資料ってのはどうするの? どうにかしたら仕事は終わりなんでしょう?」

「写真を撮って、整理と解読をしたら終わりなんです。本当はスキャナーも持ってきて精密に撮りたかったけど、とりあえず接写できるデジカメがあるんで」

「それって、何日くらいかかるの?」

「ざっと見た限りでは、それほど難しい字体の古文書じゃなかったから、二、三日もあれば、大まかな解読は出来ると思います。写真は昨日の内に終わったし、その写真と比較して記録用のメモを取ることもやったから」

「ならもういいんじゃない? 写真さえあれば、解読はどこでも出来るんじゃないの? 詳しくはわかんないけど、この村を離れてどこか図書館とかで写真を見ながら解読してもいいんじゃない?」

 なんだか帰るのを促されているようで、金井はちょっと気にしたが、

「そうなんですけど、実際に古文書の文字を解読する時は、写真やコピーより、本物の方がわかりやすいんです。文字全体の形だけでなくて、墨の濃淡で筆の運び方がわかりますから」

「文字って、あの筆で描いたようなくねくねした文字?」

「そうです」

「良く読めるね、あんな文字」

 そう言われて金井は苦笑した。

「簡単には読めませんよ。ですから、本物を見て解読したいんです。読めるんだったら、もうさっさと画像データを持ってこの村を離れてますよ」

 そう言いながら、金井は、そうなると麗香さんとはもうお別れか、と思った。その前に携帯の番号でも聞き出せないもんか。どうやって切り出そう。などと彼女の表情を伺いながら考えた。

「古文書を借りていくことは出来ないかしら」

「え? ああ、それは難しそうです。普通は貸してくれないでしょうし。見せてもらえただけでも御の字ですよ。もっともそこまでは親切だったんだけど、今は……」

「親切だったのは、電話に出たおばさんってわけね。でも、あのおじいさんじゃダメか」

「はい。それに、古文書の解読だけでなく、所有者の話も聞きたかったんです」

「それもむずかしいんじゃない?」

「あのおじいさんでは確かに。でも、この村の長だった家の人にはまだ会っていないんですよね。いまの家は、その親戚筋なので」

「ああ、例のお屋敷の人ね」

「何とかしてお話だけでも聞きたいんですよね。古文書を見せていただいたお礼もしたいし」

「そっか」

 そう言って、麗香は木々の間だから村長の家のある村の中心部の方を見たが、

「木が邪魔して、よく見えないなあ。でも、裏山はけっこう崩れてるようだし、家の人は他に移っているんじゃないかしら。立ち入り禁止だと言うんだし、あの感じじゃ、相当壊れているかもよ」

「そうですね。その辺りもおじいさんに聞いてみますか……」

「あの不気味なおじいさんに聞けて?」

「……自信ないです」

 そう言って金井は、疲れたように笑った。

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