4:少女

 二日目。

 金井は早くもげっそりしてしまっていた。

 朝食はきちんと出された。

 朝起きて、そーっと戸を開けると、廊下には、夕べ出しておいた夕食のお盆は片付けられて、朝食のお盆が置いてあった。気づかなかった。

 金井が半ば予想したとおり、朝食は夕べとおなじものであった。つまり、「あのご飯」に「あのみそ汁」に「あの野菜の煮物」に「あの漬け物」に「あのお茶」という内容である。

 海苔も卵も付かなかった。

 しぶしぶというかたちで、それでも一応食事を平らげた。夕べ残したので、腹が減っていたのだ。残したことは怒られなかった。食べ終えるとお盆を置き、声はかけずに、いそいで玄関の脇にあるトイレで用を足した。突然トイレのドアが開いてあの老人が現れるのではないかと気が気でなかった。

 トイレから戻ると、ほかの部屋には行かず、すぐに古文書の解読にかかった。今度はそれぞれの古文書を読み解くわけである。

 彼は急いで作業を終えようと決心していた。

 早く作業を終え、早くこの集落を去るのだ。

 でないと、体が持たない。肉体的にも精神的にも悪い。

 当初は一週間くらいを見ていた。二週間前に連絡したときもそう言う話でまとまった。しかし、そんなにいたらおかしくなってしまう。

 麗香さんは三、四日いると言っていた。その間に仕事を終え、一緒にこの村を去ろう。歩いてのんびりと村を離れたりした日には、あとからあの老人が走って追いかけてきそうな気がした。

 彼は文字辞典を置くと、白い手袋をはめ、ガラス製の文鎮を脇に置いて、一枚目の古文書を手に取った。



 金井が古文書の文字を読み始めた頃、麗香は、川原にいた。

 かたわらにテントとたき火のあとがある。テントのそばには四輪駆動車が停まっている。

 麗香は少し大きめの石に腰掛けて、あごに手をやって考えていた。

 少し向きを変える。集落の方を見た。

 仮屋川は、室木川と支流の仮屋川の合流点にある谷間の集落だ。小さな盆地は三角形をしており、三方は比較的高い山が連なっている。事前に調べた所では、仮屋川の集落人口は、二十人くらいだった。

 限界集落には違いないが、この山奥にしては多い方だろう。しかし、家の数から言えば、一戸あたり一人未満ということになる。

 昨夜、彼女は川原から石垣の積まれた護岸沿いに移動して、そっと村の様子を探った。昼間よりも夜の方が住人の様子が判る場合もある。しかし、日が暮れると、村はほぼ真っ暗闇だった。明かりが点いているのは、金井が泊まることになった川向こうの廃校そばの家、そして家並みの陰に隠れてよくわからなかったが、例の立ち入り禁止の「お屋敷」である。それ以外にも二、三軒、明かりの点いている家があった。ただ、一晩中明かりが点いている家もあったため、逆に住民がいないために消されないままなのかもしれない。あまりにも奇妙で気味が悪いため、車に閉じこもって、ほとんど寝なかった。

 麗香は昨夜のことを思い出しながら、考える。

 この村にはまだ数人の人間がいるようだ。だが、様子を探った限りでは、二十人もの人間がいるとはとても思えなかった。

 村人はどうなったのか。

 少なくとも、あの老人は生きている。昨夜の灯りのついた家のいくつかはいるのだろう。

 しかし、現在もいる村人は、いなくなった村人のことをどうも思わないのだろうか。

 これもおかしな話だ。

 警察や消防、病院などにも通報はしていないようである。していれば、それなりにニュースになっているはずだ。

 麗香は考える。

 つまり、仮に二十人いたとして、現在、三~四人しか残っていなかったとしたら、その三~四人は、他の十六~七人がいなくなったことを疑問にも思わないか、気づいていない、ということになる。

 気づいていない、というのはどうだろう。アルツハイマーか何かで考えもつかなくなっているのだろうか。そういう症状の人ばかりが残っているというのは常識的に見てありえない。その状況じゃそれこそ生存に関わる。

 となると、いなくなったことを疑問に思っていない、ということか。

 どうして?

 徐々に引っ越していなくなったというのならまだしも、事故の跡など、明らかに急にいなくなったような感じが見受けられるのだ。

 そしてもうひとつ。

 この村に来たはずの木田もいなくなっている。

「まさか……殺された?」

 うすうすそんな思いが頭をよぎっていたが、そうなると一体誰が、ということになる。生き残っている人が?

 村の中で、なにか非常に凄惨な事件が、急に起こったというのか?

 木田はたまたまそこに出くわして……。

 彼は傭兵の経験があると聞いている。

 それなりに修羅場をくぐっているはずの木田が、あっさり巻き込まれたというのだろうか?

 それは考えにくい。

 麗香の中に、ひとつの結論に似たものが浮かび始めていた。

 やはりこれは、木田が調査を主張した「ある可能性」が絡んできているのでは。詳細はわからないが、我々どころかヘタすると人類全体にも関わる非常に重要な「可能性」だ。

 それを解き明かすには、ここで何が起こっているかを調べることだ。

 今のところ自分や、あの金井という名の歴史学者には危害が加えられていないが、その可能性もありうる。

 慎重に行動しないといけない。

「どこから手を付けるかな」

 小さくつぶやいて、集落の方を見た。草っぱらの向こう、護岸の上に家並みが見えている。その家並みの向こう、山がせり出した崖の辺りにお屋敷がある。昨日対岸から見た感じでは、裏側の崖が崩れているらしい。それから目線を川の下流に向けた。

 すぐ向こうに支流仮屋川と室木川の合流点がある。古い石垣の護岸が見える。その向こうに木々に覆われた丘がある。金井が城跡があるとか言っていた丘だ。その丘に隠れているが、その向こうの方に、昨日通ったトンネルがあるのだ。

 麗香はしばらくその丘を見ていた。

「城跡があるなら、登れるかもしれないわね。あの高さなら集落の中が一望できるかも……」

 それから視線を室木川の方に戻す。対岸は山で、川面まで森で覆われている。道も何もない。さらに防水加工の腕時計に目をやる。目線を上げ、再度、視線を右の方、支流仮屋川の向こう岸を見る。城跡の丘の右の方に廃校となった小学校の長い屋根が見えるが、その脇にあるのが金井の滞在している家だ。

「昼過ぎにでも金井君の所に行ってみるか」

 もちろん、それにはちゃんと目的があった。

 麗香は、考えをまとめると、たき木に火を付けた。慣れた手つきで火は燃え上がる。木の枝をくべながら、拾ってきた石で作ったかまどに、水の入った鍋を乗せた。

 彼女はデイパックからレトルトのカレーとお湯で温めるパック詰めのご飯を取り出した。それを手にとって眺め、苦笑する。

「これじゃあ、アウトドア失格ね」

 彼女は手慣れた手つきでたき火を熾したように、アウトドアには慣れている。料理だって作ろうと思えば、かなり本格的に出来る。その方面の雑誌のライターをやっているのは本当の話だ。ただし、少々嘘が混じっている。ライターが本業ではない、という意味で。相応の経験があるから、アウトドアをネタにしたライターという表向きの仕事も出来た。嘘はリアリティがなければ信じてはもらえない。だが、今回のことは、急場だったので、準備不足の感は否めなかった。

「食材くらいは準備しておけば良かった。こんなとこ見られたらまずいわね」

 そうつぶやいて、泡がちらほら出てきた鍋にレトルトパックとご飯パックを放り込んだ。この種のレトルトパックは普段から車の中に入れているのだ。いざというときに備えて。

 石に腰掛け、立てた膝の上にひじをつき、手の上にあごを載せて、鍋の様子を見る。

 しばらくしてお湯も沸騰し、レトルトパックはゆらゆらと揺れだした。時間をおおよそ計ってから取り出すと、ご飯が出来ていた。ふっくら炊きたて、と言う感じではない。

 レトルトパックの上部を切って、ご飯にカレーをかけた。プラスティックのスプーンをつかむと、少し混ぜてから食べ始める。

「まあまあ、おいしいじゃないの」

 などとつぶやき、川の方を見た。川は水量豊かに流れている。食べながら見ていると、魚が一匹はねた。

「明日は魚でも捕まえて食べようかな」

 自分でもする気があるのか無いのか判らないことをつぶやく。釣り道具は車の中にあった。置きっぱなしのやつが。

「ここの川は管理組合とかあるんだろうか。こんな山奥の集落じゃなさそうな気がするけど」

 そんなことをつぶやきながら、キラキラ光る川面を見ていたら、左手の方で何か音がした。

 麗香はその方向を見た。

 動きが止まる。

 瞬間、背中に冷たいものが走り、心臓がどきんと鳴った。

 彼女の視線の先、草っぱらの中に、人影があった。


 少女が立っていた。


 白い服を着て、

 すごく無表情でこっちを見ている。

 まるで実物大の人形か、白日の下に現れた幽霊のように見えた。

 まさか、幽霊ではあるまい。

 自然の風景の中にとけ込んでいるように見えて、しかし、ひどくはっきりとその姿が浮き上がって見えた。

 少女はしばらくこちらを見ていたが、ゆっくりと近づいてきた。目線はずっとこっちを見すえたままである。

 麗香はご飯の入れ物を手に持ったままじっとしていた。身体が動かない。驚いてしまったからだ。鼓動が激しい。

 おちつけ、おちつけ。相手は子供だわ。

 子供でよかったじゃないの。兵士やスナイパーなら死んでいた。

 麗香は静かに大きく息を吸った。

 少女は近づいてきた。草の中から足が出てきた。子供用のジーンズをはいている。十歳くらいに見える。

 少女はすぐそばまで来た。

 目の前に来たところで、麗香は緊張感が解けてきた。

 少女からは生気が感じられたからである。昨日会った老人からは感じられなかった生気だ。無表情だけど、この子は、生きているし、しかも「人間」だ。

「こんにちわ」

 麗香は言った。

 少女は無言だ。

「急に現れたので、お姉さん、びっくりしちゃった」

 と言ってみたが、少女は何も応えない。

「……えーと、お嬢ちゃんは、この村の人?」

「あなただれ」

 少女はぼそっと言った。

「え? あ、おねえちゃんは、村文麗香って言うの。よろしくね」

「こんなところでなにしてるの」

 あまり抑揚のない口調で聞いた。

「え? ああ、ええと、お姉ちゃんはね、アウトドア雑誌のライターを……」と説明しかけて、子供に判るだろうかと気づき、言い直す。

「えーとね、河原でキャンプしたりする方法を本に書く仕事をしているの。それでね、この仮屋川は自然が豊かだから……」

「あなた、殺されるよ」

 少女は麗香の言葉を遮るようにしてとんでもないことを言った。麗香は思わず絶句した。

「殺される……って言ったの?」

 少女はうなずき、

「殺される。早くこの村から出ていった方がいい」

 今度は口調も確かにそう言う。

「殺されるって、どういうこと? なにかあるの?」

「『あの人』はずっとあなたを監視しているわ。あの男の人と同じ」

「男の人? それって金井くんのこと?」

 少女は首をかしげた。

「あの、向こうの家に泊めてもらっている学者さんのことだけど」

「その人じゃない。その人は殺されるかわからない。『あの人』はまだ様子を見ているだけ。でも、あなたは警戒されている。前に来た男の人と同じように……」

 麗香の目が鋭くなった。

「前にここに来た人ね。その人はどうなったの? お嬢ちゃん、何を知っているの?」

「男の人は取り込まれた。『あの人』の事を調べようとしたから。村の人たちと同じように」

「あの人って?」

 少女は黙った。

「お願い、教えて? あの人って誰? 村の人はどうなったの? この村に何があったの?」

「……帰った方がいいわ。でないと、あなたも殺される。『あの人』はあなたのことを見張っている。いまも」

「……」

 少女はぷいっと向きを変えると、走り出した。

「あ、ちょっと……」

 少女は護岸を上がるスロープのところで一度立ち止まって、麗香の方を見た。そして黙って集落の方へ走っていった。

「あの子は一体……」

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