3:老人

 古文書は、全部で二九点あった。そのうち他の領主から受け取った書状が一六点、領主が家臣に発給した書状の案文らしきものが八点、領内への布告文が四点、それに家系図が一点。元号や人名などから判断して、書状一六点の内、四点は江戸時代のもので、二点が南北朝時代、十点が室町・戦国時代のものであった。これらはかなり貴重なものである。南北朝期の古文書なんてまず見つからないものだ。発給文書のうち五点も戦国時代のもので、残りは江戸時代。布告文は一点が戦国時代で残りが江戸時代。系図は江戸時代前半頃に書かれたもので、信憑性で言えば、他の古文書よりやや劣るが、時代が古いし、系図は幕府や大名との関係で作成されることも多いので、十分おもしろい内容であった。

 初日に大まかに分類を終えた金井は、古文書類をデジカメで撮影した。本来ならスキャナーで読み込みたいところだが、持ってこれなかった。デジカメは接写機能もあるので、ある程度は補える。

 撮影データはすぐにパソコンへ取り込み、さらにメモリーカードにバックアップを取った。本来なら、これにさらに、ネット上に借りているクラウド系サイトの自分のディスクスペースにデータを送信しておくのがよい。そうすれば、仮にパソコンやメモリーカードに問題が生じてもデータを失わずに済む。その上、パソコンさえあればどこからでも引き出せるのだ。

 が、パソコンケースをあさってみて、携帯でネットにつなげるケーブルを忘れたことに気づいた。こんな田舎じゃ無線LANの機能も使えない。しかしパソコンを普通の電話につなげるLANケーブルはパソコンケースに入っていた。まあ、仮にケーブルがあっても、人のうちで回線を使わせて貰うのはやや気が引けた。こんな山奥じゃ光ケーブルも来てないだろうし。

「スマホにした方がいいなあ。やっぱガラケーはこういう時不便だ」

 いわゆるガラケーこと従来からの携帯電話と違い、小型のPCであるスマホなら、直接写真を撮ってディスクスペースに転送すればいい。

 ふと、下流の室木の集落にいたおばあちゃんの家にネットにつなげられる電話があったことを思い出した。

 いざとなればあそこまで戻って電話を借りてもよい。麗香さんに頼んで車を出してもらうという手もある。

 麗香さんに声をかける口実も出来るというわけだ。

 彼はそこまで考えてから、おばあちゃんに作ってもらったお弁当を思い出し、それを食べ始めた。酢漬けの川魚が結構おいしかった。

 夜、古文書のおおまかな解読をして、それをノートに書き写し、分類作業が一段落着いた彼は、ふと食事はどうなるのだろうと思った。泊めてもらえるのだから当然食事も出るのだろうが、それを要求するというのも図々しい気がする。それとも、どこか食堂にでも行って食べた方がよいのだろうか。こんな集落に食堂はあるのだろうか。一軒くらいはあると思いたいが、下流の室木の集落でもそれらしいのは見あたらなかったのだから、さらに山奥のここでは期待する方が無理というものだ。

「そういや、麗香さんはどこでキャンプしているのかな……」

 彼女なら当然食料も持ってきていることだろう。それとも川で魚でも釣って食べるのだろうか。


 バンッ!


 と突然障子戸が開き、あの老人が現れた。

 金井はびっくりして振り向いた。手にしていた携帯をノートパソコンの上に落っことしてしまった。

 どうもこの老人は心臓に悪い。

 老人は柱の脇に立って、なぜか身体を斜めにして上半身だけを見せている。

「あ、あの……」

「食べ物を持ってくる。ここで待て。ほかの部屋には入るな」

 金井は食事が出ることがわかりホッとしつつも、食べ物、と言われてちょっと嫌な気分になった。が、とりあえず礼を言い、それからおずおずと、

「あのお、お風呂とかはどうなんでしょう」

「オフロ……?」

 老人はまたあのうつろな表情になった。すぐに意識が戻る。どうもこの老人は妙なところだらけだ。

「風呂に入るのか?」

「ええ、できますれば……。今日は途中まで歩いてきたので」

 老人は無表情だ。

「ああ、いや、あの、ダメならダメで別に。どこかにお風呂屋さんなどはないでしょうか」

 と金井が早口で言い始めると、

「風呂。明日だ、明日は風呂だ」

 と怒鳴るように言われた。

「ど、どうも。おそれいります」

 金井は消えそうな声でお礼を言った。顔を上げるともう老人は姿を消した。

「……」

 古文書はひどく魅力あるものだったが、どうもこの家の老人はやりにくい。田舎がよそ者に閉鎖的なところがあるのは知っている。しかし、はじめは警戒していても、慣れてくると逆に親切度が増す。常に人間関係に一定の距離を置く都会とは違い、田舎は警戒と親切のメリハリがはっきりしている。これまでにも何度か田舎で調査をして、地元の人に手伝ってもらったことがある。今回だって下流の室木の集落では親切にしてもらった。あれが普通の対応だろう。基本的には素朴なのだから。

 にもかかわらずこの家の老人の態度ときたらなんだろう。

 いや……、と金井は思った。

 あの老人は不親切だとかそう言うのではない。

 なんというか、官僚的とでもいうべきか。あらかじめ予定されたこと以外にはひどく不親切な態度をとる官僚によく似ている。古文書を見せてくれと事前に連絡した自分に対しては、それなりの対応をとるが、不意にやってきた麗香さんには冷たい態度で接した。食事と風呂にしてもそうだ。食事までは気が回ったが、風呂にまでは考えが至らなかった、と言う感じである。もっとも食事を「食べ物」と言われると、ひどくペットか何かのような感じで、いい気分はしない。

 どうも、言葉遣いがおかしい。

 こういうふうに考えるのもどうかと思うが、痴呆症か何かなのでは……。

「餌と言われないだけましか…」

 そうつぶやいて、ますます不愉快になった。

 金井は沈黙した。

 古文書に目を落とす。

「……」

 いままでこういうフィールドワークは、大変でもそれなりに楽しいものだったが、今回はどうも予想外の展開だ。

 ま、なにもかもうまくいくわけではないからな。仕方ないか。

「でも、電話した時とどうも違うよなあ……」

 なんか奇妙に違和感を感じた。なんだろう。

 顔を上げた。

 目の前に庭がある。

 庭には明かりがなかったが、月の光で白く照らされていた。木々が生い茂り、草花が彩っている。豪勢な庭だ。

 田舎なのか、ひどく静かである。

 虫の声が少し聞こえる。

 庭にでも出てみようかな。そしたら、少しは気も晴れるかも。庭なら怒られないかもしれない。

 

「食べ物だ!」


 突然背後から声がして、金井はまたびっくりした。またも携帯をノートパソコンの上に落としてしまった。

 いつの間にか現れた老人は、障子戸そばの廊下の所にお盆を置いていた。お盆の上に茶碗と皿があり、料理が盛ってある。老人は部屋の中まで持って入る気はないらしい。

「ど、どうも」

 といって金井が立ち上がると、老人はすっと後退した。

「あ、あの」

「なんだ」

 老人は動きを止め、視線の定まらないような表情で金井を見た。金井の顔を見ているのか、その背後を見ているのか、いまいちわからない。この表情も、口調とちぐはぐな感じがして気味が悪い。

「た、食べ終わったら、どこへ持って行けば……」

「どこにもっていく……」

 と老人はその質問に、少し首を動かした。よくわからない様子である。再度金井が聞こうとしたとき、

「ここでいい。ここに置いておけ」

 と老人はいい、そのままスッと姿を消した。

 金井が障子戸のそばに置かれたお盆を取ろうとして、廊下の方に顔を出した。なにげに奥の方を見た彼は、暗い廊下の向こう、曲がり角を老人がすっと消えるのが見えた。一瞬、老人の顔が見えた。

「……!」

 金井は絶句した。

 老人がこちらを向いたまま姿を消したからだ。つまり、老人は廊下を後ろ向きに歩いていって、角を曲がったと言うことになる。

 金井はしゃがんだ姿勢のまま、身体を硬直させた。心臓がドキドキする。

「ま、まさか……」

 もう一回廊下の向こうを見てみようかとも思ったが、なんとなく角の所で老人がこっちを見ているかもしれないと思い、それはやめた。

 まだ心臓は激しく動いていたが、ぎこちなくお盆を持ち、部屋の中へ戻る。テーブルにお盆を載せた。急いで部屋の障子戸を閉めた。廊下の方は見なかった。

 はあ、と大きなため息をつき、少しほっとしてから、あらためて料理を見る。

「……」

 料理はご飯、おみそ汁、野菜の煮物、漬け物、それに湯呑みにお茶が入っている。急須はなかった。ひどく質素だ。しかも雑に盛ってある。廊下に置いた時の衝撃か、お味噌汁は少しこぼれていた。

「偽物の精進料理みたいだ……」

 しかし文句を言うと怖いことになりそうな気がしたので、黙って食べ始めた。

 料理はひどくまずかった。

 ご飯はぱさぱさで芯があり、明らかに米を炊く前に水に浸していないのがわかる。洗ってもいないのではないか。みそ汁は味噌の味しかしなかった。ダシを取っていないらしい。野菜の煮物はしょう油味しかせず、かろうじて漬け物だけが普通の範疇に入れても良い程度であった。

 野菜の辛さにお茶を飲むとそれは渋茶であった。

 食欲が無くなってしまった。

 なんだろう、これは。

 まるで、一回も料理をしたことのない人間が、見よう見まねで作った食事のようだ。

 ふと、この家にはあの老人しかいないのだろうか、と考えた。

 二週間前のことを思い出してみる。最初に電話をした時を含めて、事前に四回電話で話をしたが、最初の時と二回目はあの老人ではなかった。あきらかに女性の声だった。話し方も親切だったし、おしゃべり好きなようで、色々話をした。その内容から、この家の人だったと思う。二回目に電話した時に、見に来ても良い、と言う話になった。三回目に電話した時は、あの老人の声に似た男性らしき人が電話に出たが、この人物も「いつでもかまわんよ」と穏やかに対応してくれた。その時、古文書の準備もしておく、と言う話をしていた。女性ほどではないが、親切そうだった。

 四回目、つまり昨日電話したときはどうだったろう。

 あの老人の声だったろうか。男の声だった。くぐもっていてちょっとわかりにくかった。言葉がぎこちなく、話がなかなかスムーズに進まなかった。その時は、迎えには行けないと言う話になり、既に不親切な感じがした。

 そう、今日のあの老人の対応によく似ている。

 金井は、その前に何か失礼なことを言っただろうか、と考えた。

 目の前に視線を戻す。

 少ししか手を付けていない食事がテーブルに乗っていた。

 彼は老人の顔を思い出し、残そうかどうしようか迷ってしまった。



 深夜。

 金井は古文書の部屋で、布団にくるまって寝ていた。

 布団は自分で押入れから出した。

 あの老人が一切、寝具について話をしなかったので、迷った彼は、自分で押し入れをそーっと開け(そーっと開けたのは、開けることすら怒られそうな気がしたからである)、中に布団が入っていたので、それをそーっと出して寝たのである。

 さすがに少しだが途中まで歩いてきたこともあって、疲れていた。

 不気味な老人を気にしつつも、まもなく眠りについてしまった。

 廊下には夕食のお盆を出しておいた。

 全部は食べられなかった。

 残しておくと、確実に怒られそうな気がしたが、どうしても食べきれなかったのだ。だらだらと食べ続けて、またも突然襖が開いて、「まだ食べているのかっ」などと怒鳴られたらどうしよう、と迷った挙句、食べ残しのまま出したのだ。

 怒られることを気にして、

『ごちそうさまでした。とても美味しかったですか、今日は少し疲れていましたので、残してしまいました。ごめんなさい』

 そんな言い訳めいたメモを添えておいた。こんなことで老人の怒りを抑えられるとも思えなかったが、案外、態度が変わって親切になってくれるかもしれない。

 そんな想像をしつつ、彼は寝たのだ。

 それからどれくらい時間が立っただろうか。

 静かに襖が開いた。

 老人が立っていた。ひどく表情がない。

 立ったまましばらく動かなかった。

 寝ている金井の顔をジーッと見下ろしていた。何か様子を探っているようにも見える。

 変化があったのは、何分も経ってからだった。

 暗闇の中、すーっと奇妙なものが金井の顔のそばまで伸びてきた。それは布団の上を行き来し、それから顔に近づいてきた。額の辺りを軽く触る。ぴくっと戻り、また触った。

 金井は全く気付かない。

 老人は無表情のまま、見下ろしている。

 奇妙なものは、金井の額に触ると、今度はそのまま触り続けた。

 うーん、と金井が呻き声をあげた。それはビクッとして離れた。また額の辺りを触っていたが、すーっと離れていった。

 襖戸は静かに閉じた。

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