第9話 悪は『絶対』に負けてはならない

 白薔薇探偵団と名乗るロイとニコラたちを置き去りにしてからいくらか経った頃、俺たちは周りをごみと瓦礫の山で覆われた荒れ果てた土地を走っていた。


「ここは放置区域トラッシュエリアさ。業人街ですらまともに暮らすことのできない人間が、最後に流れつく場所。人のゴミ箱だよ」


 そう事も無げに麻里さんは言う。

 確かにさっきまで戦いを繰り広げてきた業人街だってスラム街の様な雑然とした街並みだったが、ここは『街』という言葉など思い浮かばない程の荒れ具合だった。

 そもそもここに人が住むという想像自体、俺には考え付かない。


「麻里ねえちゃん、じーぴーえす?の動きが止まったよー」

 サイコちゃんは後部座席から身を乗り出すようにして、薄い液晶端末を俺と麻里さんの間に置いた。


 いつ作られた物か分からない端末には、綺麗に区画整理されたマップが映し出されており、その上に赤い丸が映し出されている。

 だが俺たちの目に映る外の光景は整理された町並みなんかじゃ無く、うずたかく積まれたゴミと放置された瓦礫の山だけだ。


「サンキュー、サイコ。……大した距離じゃねえな。車の音でばれても面倒だし、歩いていくぞ」


 そう言うと麻里さんは俺たちに降りるよう促し、一人さっさとゴミの山々の間へと進んでいく。その後ろを美奈さんとサイコちゃんがさっさとついていき、俺も遅れまいと慌てて後を追った。


 空をも覆わんばかりに積まれたゴミの山からは、生臭い匂いやすえた匂いやらが絶え間なく漂ってくる。時折、ゴミの間を駆け巡るようにネズミか何かが闇に目を光らせて駆けまわっていた。


「なんか凄い所ですね、ここ……ってうわひゃぁぁっ!?」


 顔をしかめて歩いていた俺は、突然目の前のごみ山の一つがその中腹から雪崩を起こして崩れるのに驚いてしまい、思わず腰を抜かしてしまう。

 崩壊した山から現れたのは、骨と皮ばかりになった薄汚い人間だった。


「左京さん……ああいうのに関わらないで……目も向けないで。行くわよ……」


 ゴミ屑だらけの地面にへたり込んでしまった俺の手を引っ張り、美奈さんは先導するように歩く。

 彼女に連れられて行く最中、つい気になって、俺はゴミの山から出てきた人間の方へちらりと目を向けた。


 そいつは四つん這いになってゴミ袋の間を必死に掻き分けていたかと思うと、おもむろに犬や猫のように顔を埋めだした。それから聞こえてきたのは、下品な咀嚼音と水音。そして「キィ、キィ」と鳴く、か細い小動物の悲鳴だった。

 俺は全身に悪寒が走るのを感じ、えづきそうになるのを堪え、すぐに目を逸らして美奈さんに手を引かれるままに歩いた。


「……おぉっと、あれが市長殿んとこのクソガキが捕まってる場所かねぇ?」


 麻里さんは足を止め、暗闇の向こう側を指さす。

 そこには、ゴミの山に埋もれるようにして建っている小さな倉庫があった。

 細長い窓からは薄く明かりが漏れており、誰かがいることを窺わせる。


「そうみたいだね麻里ねえちゃん。じーぴーえすもあそこで間違いないって言ってるみたいだよー」

「機械は喋らないんだぜ、サイコ。んじゃ、ちゃっちゃとあのガキを連れ戻して、この小汚い場所からおさらばだ」


 そう言うと、麻里さんは肩にかけていたリュックサックから弾倉を取り出し、もう一つの拳銃に込める。


「うーん、中に何人か護衛がいるっぽいけどまぁいいか。よし、それじゃ作戦決行だ」

「えぇ!? ホントに大丈夫なんですか? それに作戦って……何をすればいいんですか?」

「まあそんな大げさなもんじゃないんだけどさ。……そうだな、左京くんにちょっとやってもらいたいことがあって――」





 麻里さんから一通りの作戦を聞いた後、俺は倉庫の入口のドアに手をかけていた。

だけど俺の手は――汗でべちゃべちゃになり、心臓は早鐘の様に脈打ち、その音すら聞こえそうになっていた。


(マ、マジでこんな事するんすか麻里さん……!?)


 俺の周りに雨宮事務所の面々は誰もいないが、俺は心の中で一人突っ込む。

 月光と倉庫から漏れ出る光以外何もないこの放置区域で、俺は一人で倉庫の前に取り残されていた。


(中に入ったら銃をぶちかましてド派手に暴れろ、後は何とかするから――なんて言ってたけど、これどうにかなるもんじゃないだろ……!?)


 しかも「左京くんの好きなタイミングで始めていいから」なんて言いながら彼女らはどこかに消えてしまった。


(やばいって、これホントにやばいって!)


 馬鹿正直に開けて中にいる連中に撃ち殺されるのは嫌だ。いくら今までいろんな仕事をしてきたといっても、それは俺自身が死に面することを意識する必要がないものばかりだったからだ。

 さっきのカーチェイスだって、結局は麻里さんと美奈さんがいたから何とかなった。


 そう、彼女らは業人街で生き抜くだけの力があるから、好きなことも言えるだろうし出来るんだろう。


(だけど今は……)


 何も出来ない自分がいるのみ。それを意識すると、とてつもなく恐ろしかった。

 でもそれ以上に――もしも指示に従わなかった時、あれだけ凶暴で恐ろしい麻里さんが俺をどうするかと考えれば、逃げ帰る選択肢はとっくに消えていた。


(やるしかない……!男を見せろ、四戸左京!)


 一体誰に俺の男らしさを見せ付けるのか――なんて突っ込むよりも早く、俺は素早く扉を開けて中に飛び込む。




「あ、ああああ『悪女探偵 雨宮事務所』、ただいま見山んんんんん!」


 声を裏返しながら名乗りを上げる。

 広い倉庫には乱雑に机やコンテナが散乱していた。その一画で談笑していた数人の スーツ姿の男達は俺の姿を認めると、即座に手に持っていた得物をこちらに向けて構える。


 直後、俺の脳内は即座に『撤退』の二文字をはじき出した。


「すっ……すんませんでしたっ! さよならぁあぁぁぁぁぁっ!」


 しかし俺の足は極度の緊張のせいか、入ってきたドアに向かって走るどころかもつれてしまい、すぐ横にあったロッカーに倒れこんでしまう。

 次の瞬間、男達は一斉に弾丸を放った。


「ぎゃあああああ麻里さあああああん!もう十分ですっ!オッケーですうううううう!」


 連続する銃声とマズルフラッシュに煽られ、俺は頭を抱えて叫んだ。

 間一髪で俺に当たらなかった弾丸は、机の上に置かれていた小物や窓ガラスをたちどころに砕き、破片をまき散らす。

 拳銃でド派手に暴れるなんて、俺には到底無理だった。


「はっ早くーーー!死ぬーーー!」


 鳴り続ける銃声の最中、祈る様に叫ぶ。

 の後、銃声が鳴り止み、空になった薬莢が冷たいコンクリート貼りの床を叩く音が響いた。

 同時に男達が俺の方へと近づいてくる足音と、空になったマガジンを投げ捨てる音が聞こえる。


(あっ……これもう駄目だ、死んだ……)


 助けに来る気配のない麻里さん達に少しばかりの恨みを込めつつ、死を覚悟する。

 どんどん近づいてくる足音に心臓が潰れそうになり、目をつぶった。

 だがその時――


「――!? な、なんだ!?」


男達の狼狽える声と共に、倉庫内に爆発音が鳴り響いた。


「くそっ、こいつは囮か!?」

「――へーい、真打登場だぜぇぇぇ!」


 麻里さんの歓喜の叫び声。


「オラオラァ! お前らの出番はもう終わりだあぁぁぁ!」


 何発かの銃声がすると、次いで男達の悲痛な叫び声が響く。

 俺は恐る恐る倒れた机の影から様子を窺うと、そこには素手で壁をぶち破って入ってきた麻里さんが嬉々として拳銃を連発する姿があった。乱入に慌てた護衛達は反撃する暇すら与えられず、バタバタと倒れてゆく。


「ヒャッハー! 一丁上がりだあぁぁ!」


 瞬く間にスーツ姿の護衛達を倒すと、麻里さんは勝利の雄叫びを上げる。

 俺は震える足を何とか立たせて、彼女の方へと近寄った。随分情けない格好だと自分でも思うが、仕方がない。


「おっ、左京くん! どーだい、良い体験だっただろ?」

「いやもう、ホントに死ぬかと思いましたよ……」

「大丈夫だって! その内慣れるさ。……ん?」


 麻里さんは訝しげな表情を浮かべると、今しがたぶち破った壁とは反対側の方の壁を睨みつける。俺はそのただならぬ気配に身を固くした。

 壁の向こう側から、ガリガリと地面を引っ掻くような大きな金属音が響いてくる。それはどんどん大きくなっていった。


「なんかまた来やがるぜ……! 左京くん構えろ!」

「えっ、あっ、はい――」


 言われるがままに拳銃を壁に向かって構えようとしたその瞬間。

 数発の銃弾がめり込んだコンクリート壁が、轟音と土煙を上げて目の前で崩れ去った。そして倉庫の中に飛び込んできたのは――ついさっき俺たちとカーチェイスを繰り広げたあの真っ白なセダンだった。


「なっ、なんでこいつらがまた来たんですか!?」

「知るかよ! くそっ、避けろぉ!」


半分ひしゃげた車体を無茶苦茶に引きずり、凄まじい勢いで火花を散らしながら俺たちに迫る白セダン。しかし狭い倉庫の中で早々逃げる場所などそうそう無く、あっという間に俺たちは壁際に追いつめられた。


「うわああああ麻里さあああああん!潰されるううううぅぅ!」

「――チッ!」


 麻里さんは一つ舌打ちをしたかと思うと、今にも俺たちを押し潰そうとする車に向かって突進する。


「うおおおらあああぁぁぁっ!」


 見る見るうちに両者の距離が狭まったかと思うと、麻里さんは全身の勢いを乗せた渾身の右ストレートをボンネットに叩き込む。車は一瞬跳ね上がると、火花を散らしボンネットからモクモクと黒煙を吐きだしながらその動きを止めた。


(こ……この人やっぱり人間じゃない……)


 素手でコンクリートの壁をぶち抜いたり、突っ込んでくる自動車にパンチをかまして動きを止めたりするなんて、尋常じゃない。化け物そのものだ。


「けほっ、けほっ……坊ちゃん、大丈夫ですかぁ?」


 完全に沈黙した車の中から、二つの人影が転げ落ちるように出てきた。


「ニ、ニコラ……。こんな無茶苦茶な突っ込み方をするなんて、僕は聞いてないぞ……!」

「だって坊ちゃん、『依頼人の無事が最優先』だって言ってたじゃないですかぁ……。ニコラはぁ、ロイ坊ちゃんのお役に立ちたくってぇ……」


甘ったるい女の声と少年の声。さっき俺たちを襲った連中のものだった。


「でも坊ちゃん、ニコラはちゃあんと悪い奴らを倒したはずですぅ!さっき思いっきり轢き殺して……あれれ?」

「ニコラ……あの悪人ども、死んでないぞ……!?」

「ひゃあああぁっ! ホントですぅ!」


 ボンネットに拳をめり込ませた麻里さんの姿を見つけると、二人は驚愕の表情を浮かべる。……きっと俺も、同じ表情を麻里さんにいつも向けてるんだろう。


「よう、また会ったな。えーと、何て言ったっけお前ら」

「ぼ、僕らは! 正義の白薔薇探偵団だ! 僕は所長のロイ、こっちは助手のニコラエヴナ――」

「オッケー、自己紹介どうも。んじゃサヨナラ!」


 ロイの話を遮り、麻里さんは手にしてた拳銃を気怠げに放った。マズルフラッシュと発砲音が、蛍光灯が明滅する倉庫に広がる。


「おっ? やるなあお前」


 ニコラは両手を掲げ、ロイをかばう様に立ちはだかった。

 麻里さんの放った弾丸は、フリフリのメイド服を着たニコラの豊かな胸元で動きを止めていた。ニコラの両手からは、いつの間に編み出されたのか、細いピアノ線が蜘蛛の巣のように何重にも張り巡らされており、間一髪で弾丸が貫通するのを防いでいた。


「すげぇなぁメイド服の姉ちゃん。さっきアタシらと追いかけっこをしていた時もそんなの見せてくれたけど、何なんだよそれ?」

「……ただのあやとりですしぃ! それ以上言うことはありません! それに、坊ちゃんに危害を加える者はこのニコラが絶対に許しません!」

「そうかい。でも、敵はアタシと左京くんだけじゃないんだぜ?」


麻里さんは不敵に笑う。


「何だと……?一体何を――ぐぁっ!?」


ロイが問いかけようとした直後、彼の頭上に大きな石の塊が落ちてきた。鈍い打撲音を響かせ、幼い少年の頭を強く打ち付ける。


「坊ちゃん!?」

「あー、ほら。上見てみ?」


 麻里さんは淡々を倉庫の天井を指さす。そこには、サイコちゃんがいつの間にか屋根の穴をくりぬいて俺たちを見下ろしていた。


「ホントはアタシが突入した後にあいつに入ってきてもらう予定だったんだけどね。予想以上に護衛共に手ごたえがなくてな。ずっと上で張ってもらってたって訳」

「……おどれらぁぁぁ……!」

「ん?なんだよメイドの姉ちゃんよぉ」

「――!?舐めた真似しくさりよってぇぇぇ!おどれらよくも坊ちゃんに手を出してくれたもんじゃのお!?覚悟は出来とるんじゃろうなぁ!?」


 鼻にかかったような声から一転、ニコラは獣のような声で吠えた。

 ブチ切れた麻里さんに勝るとも劣らない勢いである。


「うひょー、怖いなこの姉ちゃん! メイド服着て怒鳴るなんてキャラ作りが崩壊してんぜ?」


 麻里さんはひょうひょうとした口調で煽る。

 それを受けてニコラは麻里さんに掴みかかろうとした。


「おっと、動くんじゃねえぞブチ切れメイド。アタシを狙うってんなら――上にいるアタシの妹がテメエの坊ちゃんをぶっ殺す。妹を狙うんなら、アタシがテメエをぶっ殺す」

「くうぅっ……!」


 ニコラは悔しそうにぎりりと歯ぎしりすると、その場で動きを止める。

 完全に状況は麻里さん達によって支配されていた。


「まあでも、アタシらだってテメエと争いたいわけじゃねえんだ。市長殿の息子さんを連れて帰りたいだけ。見たとこメイドの姉ちゃんは強そうだし、喧嘩したらただじゃ済まなさそうだしさ。だから――」


 麻里さんは拳銃を構えたまま続ける。


「とっととここから出ていきな。その坊ちゃん連れてさ。正義の探偵だか何だか知らねえが、廃業してメイド喫茶でも開けよ。それで良いだろ?」

「――ふざけるなよ、悪人共め……!」


 麻里さんの提案に噛みつく様に、倒れ伏していたロイがよろよろと立ち上がる。彼の額からはだらだらと真っ赤な血が流れ出ていた。


「おっ、死んでなかったのか。自称正義の探偵さんよ」

「馬鹿にするなよっ! 僕は……僕らはお前らみたいな悪人共をこの世にのさばらせちゃいけないんだ……! 悲しむ人を……辛い思いをする人を……これ以上この世に生み出しちゃいけないんだ……!」


 幼い少年の瞳は、麻里さんの言覚めるような視線に貫かれてもなおまっすぐ前を向いていた。

 俺はそんな彼の瞳を――何故か直視できないでいた。


「随分カッコいいこと言うじゃんか、正義の探偵さん。で、それならどうすんだよ?」

「何度だってお前らを倒しに立ち上がるさ……!正義は……正義の味方は絶対に屈したりなんかしない!悪に負けたりなんかしない!」


 ロイは両の拳を握りしめて叫んだ。

 しかしその言葉に、麻里さんは眉をひそめる。


「いいねぇ。悪に負けたりなんかしない、か。確かにアタシらは正真正銘の悪人だもんな」

「そうだ……! だからこんな所で……僕らは逃げたりしない!」


 そう力強く決意を示したロイは、汚れてしまった白いタキシードの懐からナイフを取りだすと麻里さんに向かって駆け出した。


「坊ちゃん!?」

「うおおぉぉぉぉぉぉぉ!」


 だが麻里さんは、表情を一つも変えること無く銃を放つ。


「くっ!」

それを受けてニコラは二人の間に立ちはだかり、再び弾丸を防いだ。

だが――


「――やれ、美奈」


 麻里さんの声と共に、ロイの真後ろにいきなり現れた美奈さんが、ナイフを彼の首筋に突き立てた。


「ふん……これで正義の探偵なんて……笑わせないで」

「かはっ……!い、いつの間……に……!?」


 ロイは口から血を吹きだし、それだけ言うと床の上に崩れた。灰色のコンクリートの上に、真っ赤な血の川が染み込んでゆく。


「坊ちゃん!……おどれらよくも……!」


 目の前で自分の主が刺された光景を目の前にして、ニコラは目を血走らせる。

 目にも留まらぬ速度で無数のピアノ線を張り詰めさせると、美奈さんの首を断ち切ろうと振りかぶる。


「殺すっ!殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ!!」

「――おい、こっちも忘れんなよクソメイド」


 ニコラが一瞬振り返ったその隙を見逃さず、麻里さんは無慈悲にも銃を撃った。

 放たれた弾丸はニコラの右肩に食いこみ、彼女の真っ白なエプロンをたちまち赤く染め上げる。


「だから言ったろ?とっととここから出ていけって。正義の味方気取ってるからこんなことになんだよ。分かるか?」

「おどれらぁっ……! 絶対に、絶対に殺す! ――次こそなぁッ!」


 そう叫ぶと、ニコラは倒れたロイを抱えて倉庫の外へと駆けだす。


「ニ……コラ……僕たちは……あの人……の依頼を……」

「坊ちゃん! 今はここから離れることが先決です! ニコラは坊ちゃんを――あなたを死なせるわけにはいきません!」


 肩に弾丸を受けたというのに、ニコラは怯むこと無く走り去ろうとする。


「ま、麻里さん! あいつら逃げちゃいますよ! 放っておいていいんですか?」

「……まともにやりあってタダで済む相手じゃ無さそうだしな。銃の弾薬費だって馬鹿にならねえ。アタシは損になることはしない主義でね」


そう言うと麻里さんは拳銃を無造作にスカートに挟みこむ。


「でも……また襲ってくる、ってことですよね……あいつら」

「その時はその時さ。今がその時じゃないってだけだよ」


 俺の不安などどこ吹く風、麻里さんはつまらなさそうにそう言うと、駆け出した二人の後姿を見つめていた。

 倉庫の壁穴から走り去っていたニコラとロイの姿は瞬く間に宵闇に溶けていった。


「さあて、これで今度こそ邪魔者は居なくなったな。とっととあのクソガキを連れ帰って――」

「……た、助けてくれ……」


 麻里さんが倉庫の奥の方へと歩みを進めようとしたその時、瓦礫に押し潰されたスーツ姿の男がくぐもった声でささやいた。

 さっきの銃撃戦の最中で負傷して、そのままニコラ達が突っ込んできたときに瓦礫に潰されたのだろう。


「なんだ、まだ護衛の連中が生き残ってやがったのか。ほれ、とっととくたばりな」


そういうと麻里さんは再び拳銃を抜き、男に突き付ける。


「待ってくれ……! さっきのあいつらは逃がしたじゃないか……!だったら俺も……!」

「おっさん、てめえは何のために護衛やってんだ?」

「えっ……そんなの、仕事だからに決まっているだろう……!」


息も絶え絶えに呟く男と対照的に、麻里さんは深く、長い溜息をついた。


「仕事だから、か。そうだろうな。ああ、きっとそうなんだろうな」

「そ、そうだ! 金を積まれて、やることをやってるだけだ! さっきの連中みたいに御大層なことも言わねえし、あんたらを復讐しに行くこともねえ! だから――」


 パンッ、という銃声がやけにクリアに響く。

 男の命乞いを聞き終えるよりも早く、何事もない、ただ日常の動作の様に慣れた手つきで麻里さんは黒光りする拳銃をうずくまる男に向かって放った。

 男は額に空いた小さな穴から鮮血を散らすと、それきり動かなくなってしまった。


「ふぅ。さ、仕事終わらせんぞ」

「ま、麻里さん……」

「ん?どうしたんだい、左京くん。随分顔色悪いけど。今更気分悪くなってきたってか?」

「そ、そうじゃなくて……! 何もこの人を殺す必要なんて無かったんじゃないですか……?」

「なんでさ」

「だって……! さっきの白薔薇探偵団とかいう奴らを逃がすのに、この人を殺すなんて訳が分からないじゃないですか!? 変でしょう……!?」

「どこが」

「だっておかしいじゃないですか! 麻里さん、損になることをしないんですよね……?だったらわざわざこの人を殺すことなんて許されることじゃない――」

「左京くん、君、随分喋れるようになったな」


麻里さんは男の死体を見つめたまま続ける。


「悪とか正義ってさ、何だろうね? 誰が定義したんだよそれって?」

「一体何を……」

「許すとか許されるとか、あるいはどちらにも信念があってどちらも正義でぶつかり合って、それで争いが起き――何て言うけどさ。そういう問題について君はどう思う?」

「麻里さん、だから何を……」

「アタシはさ、現実で起きたことだけが正解だと思ってる」

「はぐらかさないで下さい!麻里さんがどう言ったって、無抵抗な人を殺すなんて許されることじゃ――」

「だからさぁ……ここでこいつらをぶち殺したことだって、咎められるだとか許されるだとか、そういう次元の話じゃねぇーんだよ。現実はいつだって正解なんだ。嘘なんざ存在しない」



 彼女は頬に着いた返り血を素手で拭いながら、ゆっくりと俺の方へと振り向く。彼女は楽しそうにでもなく、悲しそうにでもなく、ただただ面倒くさそうな表情で口を開いた。


「おかしいと思うよなぁ?じゃあ何をしたっていいんですか――って顔をしてるもんな。そうだよ。何したって問題ねぇんだよ。誰もホントは物差しなんざ持ってねぇんだからさ」

「そんな、何をしても良いだなんて……」


 お構いなしに麻里さんは続ける。


「もうアタシら生きるために生きてんだ。生きるってのはつまり、なんだ、その――簡単だろう?でも誰もホントの物差しを持ってないから迷っちまうだろ?だからアタシらは自らを悪だと規定するんだ。誰も決めてくれないからな。それが君にはないんだろう、左京くん?だから君はいつも無気力でなあなあに過ごしてきて掴みどころがないんだ」


 彼女が何を言わんとしているのか分かりそうで分からない。自分の中に浮いては沈む感情が沈む気配は全く無い。

 しかし、答えに詰まって無言になっているこの状況こそが、彼女の想像した答えそのものになっていることだけには薄々と気付いていた。


「左京くんさ、君には信念ってもんがあるかい?」

「……それは……」

「君はどうしてこの男を助ける必要があると思ったんだ? 確固たる信念があるから? それとも君が培ってきた世間の良識が囁いたからか?それに君を殺そうとしてた他の連中はもう死んじまってるけど、そいつらはいいのかい?」


 ……答えられない。


「メイ婆さんの店に買い物に行った時もそうだったな。襲ってきたあのイカレ野郎を助けようとしてた。何故? 信念があったからか? それともまた世間の良識が囁いたからか?」


 ……また答えられない。


「そもそもだ。?」

「それは……行く所がなくて、考えた結果仕方なく……」

「本当に?本当にそうなのかよ?自らの理性を駆使した結果がこんなクソみたいな街に来る結果を導いたと?」


 ……三度、答えられない。


「君って実はさぁ、何も考えてねーんじゃないかってアタシは思ってる訳。じゃなきゃその場にふさわしくない、どこかで見たり聞いたりしたようなカッコいい言葉だの行動だのがポンポン出てくるわけないから」

「そんな、ことは……」

「それってつまりさ、信念ってもんが無いわけだろ。……アタシはね、この世で最も嫌いなのは信念がない連中だと考えてんだよ。生きるためだけに生きて、その癖迷う様な奴らさ」



 ドクン、と俺の心臓が強く脈打った。

 全身が急に熱くなった感覚に襲われているのに、心臓だけは凍る様に冷たい。



「信念もなく、知ることを知らず、知らないことも知らないままでいる連中。そういうのが本当の悪人って奴だと思うんだけどね。そしてそういう人間が世の中の大部分を作り上げている。左京くん、君は――そういう人間側なんじゃないのかな」


 気が付けば俺の全身は小刻みに震えていた。

 滴る汗がコンクリート張りの床を打ち、小さな飛沫を散らす。


「アタシはそんなもんになりたくないし、忌むべき存在だと思ってる。だからアタシはアタシの信念を持ってアタシなりの悪人になってやったんだ。そしてこの業人街はそんなアタシでも受け入れてくれる。もちろん、左京くんも。嬉しいことだよなぁ?」

「分かり……ません……」


 気が付けば、呼吸は浅く、早くなっていた。

 俺は確かに麻里さんの表情を見ているはずなのに、その顔に焦点が合わない。


「俺は、俺は悪人なんかじゃ……!」

「じゃあ何だ、君は正義の味方になりたいのかよ?」

「それも……分かりません……」

「もし正義と言うものがいるんだったら、そいつは絶対負けたり挫けたりしちゃあ駄目なんだよ。何度膝をついても血反吐を吐いても、立ち上がって殴りかかってこなきゃあな」


 麻里さんは少し嬉しそうに語りだす。


「それに比べて、悪はどうだろうね? ……負けたらそこで終わりさ。二度と陽の目を見ることは無い。正義の味方と違って、倒れても立ち上がる権利なんざもらえない。だからね――」


 麻里さんは恍惚の表情を浮かべ、俺の胸倉を掴んで引き寄せた。

 ゆるふわパーマのかかった栗色の髪の毛が俺の頬をくすぐり、甘く爽やかな彼女の香りが硝煙の匂いと混じって鼻腔をかき乱した。



「悪は絶対に負けられないんだよ。正義の味方以上にね」

「……じゃあ麻里さんの言うような、本当の悪で作られた世の中は――」

「残念なことに、絶対負けられないんだ。負けちまったら、世界は終わりさ」

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