第6話 ク・ソ・ガ・キ☆

 翌朝。うだるような暑さで俺は目覚めた。

 狭苦しい雨宮事務所の物置スペースが、今では俺の居住地だ。人間、生活する上で必要なのは精々とは言うが、それでも寝返りを打ったり着替えたりするのには結構きつい。

 換気用に取りつけられた小窓を押し開け、通りの様子を窺う。

 時計を見ればまだ5時半前だが、夏真っ盛りの空は既に青々としていた。


「……業人街でもセミの鳴き声って聞こえるんだな……」


 ぱぱっと着替えを済ませ、顔を洗いに共用の洗面所へ向かう。

「ふわああぁ~……」


 のんきに欠伸をしながら洗面所のドアノブに手をかける。今は早くべたついた汗を流し去って、寝ぼけた頭をしゃっきりとさせたい。

 立てつけの悪くなったドアがギシギしと軋みながら開かれる。

 その瞬間、俺の目に入ってきたのは――


「んん……?んあぁ、左京くんかぁ……おはよぉ……」

「まっ、麻里さん!?」


 ――そこには、姿で顔を洗っていた麻里さんが立っていた。

 突如目の前に現れた天からの送り物とも地獄への片道切符とも判断のつかない光景に、俺は立ちすくんでしまう。


「すっ、すすす、すみませんっ!すぐ出てきますんで!」

「んあぁ~いいってのぉ~。アタシ、もう顔洗ったからさぁ~……ふあぁ……」


 可愛らしい花の刺繍が縫い込まれたお揃いの白のショーツとブラジャーを俺に見られているというのに、恥ずかしがったりキレたりする気配は全く無い。

 ゆるふわパーマのかかった栗色の髪の毛は、寝起き直後だからかあちこちに髪が跳ねていた。


「左京くんもちゃっちゃと顔洗っちゃってね~……。すぐ仕事だからさぁ……ふへぇ……」


 俺の視線を気にすること無く、目をごしごしとこすりながら麻里さんは俺の横を通り抜けていった。

 寝起きの麻里さんの残り香は――甘い花の様だった。

 (あのブラジャーのサイズ……。意外と着痩せする人……なんだな)

 驚愕の光景に、俺の心臓は早鐘の様に漠々と脈打つ。寝起きの時以上に汗が流れ出ていたが、意識は間違いなく覚醒していた。




「――さてっ!準備は万端!そんじゃ一丁、仕事しに行きますか!」

「おー!皆、お仕事がんばろうねっ!」

 昨晩レンさんの用意してくれた痛車の中で、麻里さんとサイコちゃんが楽しそうに声を張り上げる。

 俺は助手席に座りながら後ろの様子を窺う。後部座席に座った美奈さんは、サイコちゃんを抱き枕の様に抱えながらうとうとしていた。


「美奈ねえちゃーん!あっついよぉー!」

「うん……そうね……暑いわね……」


 生返事を繰り返す美奈さん。

 傍から見れば、まるで遠足に行くために早起きした家族の様である。


「あっはは!アタシもだけど、美奈は特に寝起き直後の調子が悪いんだよ。サイコだけかな、朝から元気なのは。左京くんも朝は強いタイプみたいだな」

「いえ俺は別にそんな……アハハ」


 俺に関して言えば――初めて探偵助手としての仕事が始まると思うと緊張してしまい、助手席で体を強張らせていた。


「初めての仕事だからって緊張しなくていいっての。もしかしたら何事もなく依頼が終るかもしれないんだからさ。いつも通り、いつも通り!」


 流石に緊張が伝わっていたのか、見抜かれていた。

 やっぱり探偵を自負するだけあって観察力がすごいのだろう、と俺は素直に感心する。

 麻里さんは話を切り上げると痛車を発進させた。目指すは市長の自宅。重厚感のあるエンジンが唸りをあげ、業人街の表通りへと躍り出る。



 ――車を走らせてから小一時間ほど経った。

 途中で止まることなく、車はスムーズに進む。ただ、スムーズに進めることが出来たのは、別に信号がないからではない。


「あ、あの、麻里さん……。また信号赤でしたけど、止まらなくてよかったんですか?」

「この街で赤信号の度に止まっちまう様な奴は、真っ先に追い剥ぎ連中に襲われちまうよ。狙ってください、って言ってるようなもん。信号なんてずっと昔の時代の名残さ」


 麻里さんは事も無げにそう言ったが、俺は改めて業人街の恐ろしさを再認識させられた。

 俺は彼女たちと一緒に居るから、さして危険な目に合わずに過ごせているだけで、その庇護がなければたちまち食い散らかされるのだろう。……騙されて借金を背負わされてしまったが、業人街で俺が生きていくためにはその方がよっぽど幸福だったのだと思う。


 やがて話は昨晩の出来事についてに変わる。


「しっかしなぁ……メイ婆さんが左京くんに惚れるとはねぇ……」

「惚れるなんてそんな……。そもそもメイさんって何者なんです?」

「うーん、若作りが趣味の婆さんなんじゃね?でもありゃ間違いなく恋する乙女の顔だったよ。年をちょっとは考えろって言いたいけどさ!」

 前を見据えたまま麻里さんは軽快に笑った。


「……そうね、メイさんが左京さんのことを気に入ってるみたいだから……私が大名商店に行けない日があっても大丈夫そうね」

「そういえば麻里さん、大名商店に行くのに美奈さんが絶対必要だ、って言ってましたよね?あれってどういうことなんですか?」

「姉さんって……大名商店に行くたびにメイさんをいじって喧嘩ばっかりしてるのよ。おかげでまともに話が進まないことも何度かあったわ……」

「そうだったんですか……」

「いわば私は、仲介役ってところね。……姉さんはいつも面倒ばかり押し付ける……。でも左京さんがこれから代役を務めてくれるなら楽ね……。ふわぁ……」

「おいおい美奈、それだけじゃないだろう?お前だってレンさんの衣装、毎回楽しみにしてるじゃないか」

「そっ、それは……!」


 欠伸をしていた美奈さんは、慌てて窓ガラスの方へそっぽを向いた。

 端正な横顔はすぐに分かるくらい赤く染まっている。……余程恥ずかしいのだろうか。

 からかうように麻里さんは続ける。


「レンさんってな、大名商店の助手の他に衣装づくりの仕事もしてるんだ。んで、美奈は何とかっていうよく分からんバンドが好きなんだが……その衣装を作っているのがレンさんなんだよ」

「そーなんだよー!なんだっけ、美奈ねえちゃんみたいな人を、ばんぎゃ?って言うんだよねー?」

「そうそう、バンギャ。こいついい年して悪魔だの天使だの、そういうのが好きだからさ。面白いよな!」


 楽しそうに笑う二人とは対照的に、美奈さんは俯いてプルプル震えていた。

「うっさいわよ……。いいじゃない、別に好きなものがそういうのだったんだから……」

 

 声をわななかせる姿に、少し可哀想になる。

「俺も昔はそういうの好きでしたから分かりますよ!俺なんて昔、堕落した人類は神罰の代行者、堕天使ルシフェルによって粛清される――とかなんとかって想像してましたし!」

 いたたまれなくなって思わす声をかけた。

 だが、美奈さんの反応は予想外だった。


「ふ、ふふ、ふふふふふ……!そうよね……!いつだって世界の真の姿を見つめているのは裏切り者、いわばイスカリオテのユダなのよ……!彼こそが真の神の愛を伝える伝道者で――」

「はいはいそこまでだー。うるさくするなよー」

 麻里さんは話しをぶった切ると車のスピードを落とす。


 窓の外に目をやると、今まで見てきた廃墟やバラック小屋の姿は見る見るうちにまばらになり、代わりに鈍く銀色に光る高層ビルや整理された緑豊かな公園が見えてきた。

 とても同じ業人街とは思えない。


「す、すごいですね……。ここだけ別の世界みたいだ……」

「この辺りは業人街でも一握りの連中しか住めない場所さ。行政区、なんて言われてっけどね」


 綺麗に舗装された道を進んでいくと、一際巨大なビルを中心に据えた区画へとたどり着く。そこには線引きされるように金網で境界線が作られ、検問所が設けられていた。

 検問所の前で車を止めた俺たちに気付いたのか、清潔な軍服を着た若い男が厳めしい顔をしながら俺たちの方へ近づいてくる。


「貴様ら何者だ。行政区に来るとはそれなりの理由があるんだろうな?」

「ほれ、アタシらは市長から内密の依頼を受けた雨宮事務所のモンさ。話聞いてねぇの?」

「話だと?貴様何を言っている?」

「あー?あんたこそ何言ってんだよ?」


 二人の間にあっという間に険悪なムードが立ち込める。ピリピリとした空気が嫌というほどに俺の肌に伝わり、細かい針で肌を突き刺されているようだ。


「それ以上訳の分からないことを言うのならこの場で――」

男がそう言いかけ、軍服の懐に手をかけた瞬間。検問所の中から初老の男が血相を変えて飛び出してきた。


「ば、馬鹿者!余計なことをするんじゃない!」

「しかし上官殿……この連中、市長から内密の依頼があるなどと言ってまして……」

「黙れ、貴様は下がっていろ。関係のない話だ!……雨宮事務所の所長、雨宮麻里だな。市長から事の次第は聞いている。ついてこい」

「あんたが話の分かる人でよかったよ。ほら、道案内頼むぜ」


 上官と呼ばれた男が手元の無線に指示を出すと、検問所の扉が開いた。そして金網の向こう側に停められていた大型の装甲車が、先導するように走りだす。


「さぁて、いよいよ市長殿のお宅にお邪魔するんだ。皆礼儀正しくしとけよー。アタシを見習って、ムカついてもおちょくらないようにな!あははっ!」

 一番市長をおちょくりそうなのは麻里さん自身だと思いますが――とは心の中で呟くだけにしておいた。



 先導する車についていってしばらくした頃、俺たちは大きな邸宅の車庫前で停まった。

 その一画だけ周りのビルが避けるように建っており、邸宅に負けない位広い庭には色とりどりの花が咲き乱れている。

 俺たちが暮らす事務所の周りでは到底見ることのできない光景だ。こんな場所で自由気ままに振る舞える人生を一度は送ってみたいと思う。


「すごいお金持ちの家、って感じですね。業人街に来る前でもこんな大きな家は見たこと無いですよ、俺」

「アタシも実際に来るのは初めてなんだけどね。左京くんもびっくりするぐらいなら相当なモンなんだろうな」


 装甲車から降りた男が手招きしたのを見届けてから、俺たちも車を降りる。


「やっぱりレンさんの車……こんな綺麗な場所だと尚更目立ちますね」

「んなこと気にしてもしょうがないっての」


 高価そうな石畳の上を歩き、大きな屋敷へと俺たちは進む。

 玄関前に立っていたプロレスラーの様な黒スーツの大男は麻里さんの姿を認めると、無言で扉を開けて屋敷の奥を指さした。


「話は聞いている。あちらの応接室で市長殿がお待ちだ。くれぐれも粗相のないように」

「へいへい、ご丁寧にどうも。…ところであんたは何者?軍服着た連中とは違うみたいだけど。ルームサービス?」

「下らない冗談はよせ、探偵屋。市長殿に雇われたご子息のボディーガードだ」

「へぇ、立派なもんだ。アタシらを雇う必要なんてなかったんじゃないの?」


 いつものように軽口を叩く麻里さん。ボディーガードの男が苛立たしげに舌打ちをしたのも意に介さず、彼女はずかずかと屋敷へと入っていった。


「おい、そのガキは何だ?貴様らの仕事に必要なわけではあるまい」

 一緒に入ろうとしたサイコちゃんを見咎め、大男は声を張り上げる。

 サイコちゃんはきょとんとした表情を浮かべると、大男を指さした。


「ねーねー美奈ねえちゃん、サイコいらない子なの?」

「……そんなことないわ……。この子も雨宮事務所の職員よ。ちゃんと仕事を……してくれるわ……多分」

「何を馬鹿なことを。市長殿のご子息をお守りするのにこのガキが必要とは――」


 大男がサイコちゃんをつまみ出そうと襟首を掴んだその瞬間。

 急に目つきが変わったサイコちゃんは、ごつい手を振り払い威圧するように口を開いた。


「いかなる手段を用いても迅速な依頼達成を至上とするのが我々の責務である。諸般の複雑な事情を含む一定の問題領域内において、適切な問題解決プロセスを構築する上で安易な二元論および固定観念、先入観をもって職務に当たることは禁忌として――」

「……はい、ストップよ、サイコ。……ね?何となくこの子がただの子供じゃないのは……分かるでしょう?」


 氷のような微笑を湛えて美奈さんはボディーガードに静かに語り掛ける。

 サイコちゃんの豹変ぶりを目の当たりにして狼狽えた男は、それっきり黙ってしまった。

 満足げな表情で二人は堂々と屋敷に入っていく。その後を、俺もすかさず追いかけた。

 雨宮事務所の面々と違って、俺はただの一般人に過ぎない。そもそもこれが初仕事だ。下手に詰問されて面倒なことになる前に、彼女たちと一緒に行動した方が良いだろう、と思ったのである。


 応接室に通されると、そこには業人街の市長と奥さん、そして彼らの息子と思しき少年が待ち構えていた。

 煌びやかな刺繍が施されたビロード貼りのソファにふんぞり返りながら、市長が片手を上げる。


「来たな探偵屋。この子が私の息子、蓮司れんじだ」

「へぇ、この子が。利発そうなお子さんですねぇ。初めまして蓮司君。アタシは『悪女探偵 雨宮事務所』の所長の麻里だ」

「ふん、悪女探偵だって……?お前みたいな胡散臭い人間に守られるほど、僕は馬鹿じゃねぇよ。とっとと帰れよ!」


 何ともいきなりすぎる物言いである。

 マッシュルームカットに色白の肌なんていう、絵に描いたようなお坊ちゃま然としながら、麻里さんに負けない位皮肉屋だ。

 ――というか、ただの嫌味である。


「父さんも母さんもこんなアホ面した連中雇う位ならさ、もっとマシなボディーガード雇えって。こいつら本当に役に立つの?」

「落ち着け蓮司。こいつら以外にも手配できる連中は全部手配したんだ。……まぁ確かに、この探偵屋どもは一番安く雇える人間だから役立つかどうか怪しいかもな」

 そう言うと市長は嘲るように笑った。


「安っぽい探偵ですみませんねぇ。市長殿もお財布事情が苦しいんでしょう?同じ貧乏人として、同情しますよ」

 早速売り言葉に買い言葉。


 ムカついてもおちょくらないように――なんて言ってた癖に、舌の根の乾かぬ内に麻里さんは喧嘩を売った。余りに早すぎるカウンターに肝が冷える。

 だが市長は挑発に乗ることなく言葉を続ける。

「同情されることなど無いわ。来い、探偵屋。貴様らがこれから一週間、蓮司と一緒に過ごしてもらう部屋に案内してやる」


 案内された場所は部屋――というより、ちょっとしたホールの様な広さを誇る所だった。

 随所に立ち並ぶ豪華な調度品や置物に混じってベッドやテレビが置いてあるので、なんとか人が生活するスペースなのだと分かる。

 ひとしきり部屋を眺めた後、麻里さんは矢継ぎ早に質問を繰り出す。


「これまたずいぶん立派な寝室だ。ガキには過ぎたもんですよ」

「口を慎めよ、女狐」

「ああ、これは失礼。ところで一週間ここで過ごすって事ですが、市長殿のお坊ちゃまは学校に行かなくてもいいんですかね?」

「その点は問題ない。私の名で、この子の内申に響かないよう公欠にしてもらっている」

「もしかしたらお子さんが勝手に抜け出すかも」

「馬鹿なことを言うな。それに、万が一何かあっても、蓮司の体には超小型GPS発信器を埋め込んである。それを使えば抜け出しても問題はあるまいよ」

「外を歩いているボディガード連中は素性を調べてあるんでしょうね?」

「当たり前だ。貴様ら以上に信用できる連中さ」


 ――大したVIP待遇だ。

 早くに親を亡くした俺から見れば、こんな恵まれた環境で生活を送れる子供がいるなんて信じられなかった。


「んじゃ、別室で今一度仕事の内容の確認をしましょうか、市長殿。美奈も一緒に来い」

「えっ、えっと俺は何をすればいいですかね、麻里さん……?」

「左京くんはサイコと一緒に、お坊ちゃまの相手でもしてやっててくれ。それが仕事だ」

 それだけ言うと、麻里さんと美奈さんは市長と一緒に寝室から出ていってしまった。




 後に残された俺たち。

 市長の息子、蓮司君の方へと目をやると、つまらなさそうにベッドの上で本を読んでいた。

 正直、この子とどう付き合えばいいのかまるで見当が付かない。

 さっきの物言いだって随分なものだったし、話しかけない方が良いんだろうか……。いや、でも、仕事と言われた以上、無視するわけにも……。

 

 結局、意を決して俺は話しかける。


「えーと、蓮司君、はじめまして。俺は雨宮事務所の新人職員、四戸左京って言うんだ。よろしくね!」


 普段なかなかしない笑顔を作り、にこやかに握手を求める。

 だが、蓮司君はうっとうしそうな目をして吐き捨てた。


「お前、新人なの?……どこまで適当な連中に任せたんだよ、あのクソジジイ……!」

「こ、こらこら、いくら何でもお父さんのことをクソジジイなんて言っちゃ――」

「うるっせぇよ!お前みたいな貧民に指図されたくねぇんだよ!」


 突然がなりあげ、持っていた本を投げつけてきた。

 咄嗟のことに反応できず、本が額にぶち当たる。慌てて本を拾うと、背表紙の角に血が付いていた。


「左京にいちゃん!おでこから血が出てるよ!大丈夫!?」

「うっ……大丈夫だよ、サイコちゃん」


 慌てて傍にかけ寄ってきたサイコちゃんを見て、蓮司君はまた大声をあげた。


「大体なんだよそいつ!そんなガキにこの僕を守れんの!?出来なかったらどうしてくれんの?なぁ?なぁおいっ!」


 自分と大して背格好も変わらないのに、サイコちゃんのことをガキ呼ばわりする蓮司君。

 彼の勢いは止まらない。


「僕はさぁ!お前らみたいなのと一緒に生活するなんて最っ高に嫌なんだよ!僕は最高の教育を受けていて、最高の医者がいて、最高の召使いがいて、最高の人間になるべく成長しているんだ!お前らみたいなのとは訳が違うんだよっ!」


 そう叫ぶと、蓮司君は枕元の棚から本を何冊も抜き取り、手当たり次第に投げつけてくる。それが無くなると、今度は枕を。次に布団を。次にシーツを。それもなくなれば身近にある物をなんでも。しっちゃかめっちゃかに投げてきた。


「やっ……やめてよぉ……!」


 次々に飛来する投合物を避けようと屈んだサイコちゃんが、涙ながらに訴える。

 だが少年の理不尽な激昂は止まることなく、むしろ激しく燃え上がった。


「うるせぇんだよ、ブース!お前みたいなのと一緒に居ること自体、ありえねーんだよ!」


 ベッドの周りに何も投げる物が無くなってしまうと、今度はサイコちゃんに掴みかかった。

 幼い少女の可愛らしいおさげが力任せに引っ張られる。


「痛いよぉ……!やめてぇ……!」

「黙れよっ!お前みたいなのはさ、僕と話す権利もないんだからさぁっ!」


 無理やり引っ張られたおさげがほどけ、引き抜かれた髪が何本か床に散らばる。

 しかし暴力の化身と化した蓮司君は一向に止めようとしない。


 ――このままじゃ大変なことになる。


 そう思った俺は二人の間に割って入り、一方的な暴力を止めさせた。


「も、もう止めようよ、ね!蓮司君!その、俺たちが気に食わないのは分かったからさ、女の子をいじめるのはダメだって!」

「はぁ?だから何で僕に指図してんの?それにこんなもん、いじめじゃねぇよ!大体お前、僕を誘拐犯から守るために来てんだろ?だったらその仕事だけしてりゃいいんだよ!」

「そんな無茶苦茶な……!」

「お前……僕より年上の癖にまともに反論できないのな!金ならクソジジイが払うんだから、僕がすることに文句言うんじゃねえって言ってんだよ!バーカ!」

 ――唖然としてしまった。幼い少年がこれほどまで口汚く罵るなんて。


「うう……左京にいちゃぁん……!」


 サイコちゃんは悪意の塊から逃げるように、俺の背中にしがみつく。

 険悪という言葉すら生温い空気が、この広い寝室に満ちていた。

 目を血走らせながら、蓮司君は傍らに置いてあった金色のトロフィーを握る。何かの賞で取ったのであろう煌びやかなそれを振り上げ、飛沫を飛ばしながら彼は叫んだ。


「目障りなんだって!死ねよっ!!」


彼が今にもそれを投げつけようとしたその瞬間――


!」


 ――響き渡る麻里さんの怒鳴り声。


 その場にいた全員が一斉に怒鳴り声のした方を見ると、綺麗に塗られた漆喰の壁に拳をめり込ませた麻里さんが立っていた。


「ま、麻里さん……!」

「おい、クソガキ。テメェがアタシらを毛嫌いすんのはよぉーく分かったよ。だがな、そこにいるサイコも左京くんも、うちの大事な職員なんだ。怪我でもさせてみろ。アタシがただじゃぁすまさねぇからな!」


 鬼気迫るその語調に、蓮司君は一瞬狼狽える。

 だがすぐに調子を取り戻すと、また吠え出した。


「なっ、なんだよお前……!僕はお前みたいな悪人に説教される筋合いなんて――」


 しかし麻里さんは一切怯むこと無く、つかつかと歩み寄る。

 蓮司君の前に立ちはだかると、先程までの怒鳴り声とは違う、努めて冷静な声で話し始めた。


「アタシらはテメェの護衛に来てんだ。でもアタシらが近くにいんのが嫌なんだろ?だったらテメェの目に入らない場所で護衛しといてやる」

「僕の目に入らない場所で?お前何言ってんだ?」

「テメェの親父に許可もらって、クローゼットの中にでもアタシらは引っ込んでるよ。こんだけ広い寝室なんだ、4人入れるスペース位あんだろ。もし何かあればすぐに呼べばいい。……いいな?」

 麻里さんはそう言うと、俺の顔を一瞥した。


「ほぉ……。クソガキ、うちの左京くんに傷つけてくれたみたいだな。同じ分、どっかで痛い目に合うと思えよ……」


 湧き上がる怒りを隠さずに麻里さんは呟く。

 そのまま俺と、泣きじゃくるサイコちゃんの肩に手を置くと、寝室の出口へと押し出した。


「さて、市長殿にお願いしに行こうか。一緒に寝泊まりするんじゃなくて、アタシらをクローゼットの中に置いてやってください、ってな」

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