第31話

「砕、術の中に入れてくださいね」


 莉桜が見えない姿に声をかけて足を進める。すると、一瞬だけ辺りの景色が陽炎のように揺らぎ、すぐ元に戻った。違うのは、全ての音がないこと。そして、彼がいたこと。


 廊下に座り込み、政斗は無言で梅花殿の坪庭にある梅を眺めていた。


「梅の季節は、とうに終わってしまいましたよ」

「だな……もうすぐ春だし。何となく、幸丈は梅っぽいなと思って見てたんだ」


 莉桜は、隣ではなく少し斜め後ろの方に腰を下ろした。微かに見える横顔が、何か苦しんでいるようにも見えて、話を合わせるように言葉を選ぶ。


「そうですね。寒さの中でも逞しく花をつける梅。確かに幸丈のようです」

「純粋で真っ直ぐな白梅みたいな意志を持ってて、雪の白さの中でも目を引く紅梅のような苛烈さと、勢いを持ってる。つい、手を貸しちまいたくなるような奴だよ」


 どんな窮地にいても諦めない強さ。俯かない姿勢。幸丈が何かを成そうとした時、その背を見ているとついていきたくなる。彼の願いが実る時を見てみたくなる。


「その点お前は、桜だな」


 政斗が前を向いたままそう言った。驚いて顔を上げると、彼はこちらを見るでもなく、庭に目をやったまま続ける。


「春を告げる花。見れば不思議とホッとするんだ。満開になるのを心待ちにして、咲けば綺麗だと心から言えて、散る姿すら豪奢で凛として、目が離せない」


 肩ごしに振り返った隻眼に、莉桜は初めて見た。泣きたいのに泣けない。苦しいと叫びたいのに叫べない。そんな政斗の弱さを。

 咄嗟に、莉桜は政斗の衣を握った。放っておいたら、どこかに行ってしまいそうで。


「怒っても良いんだぞ。気づいてるんだろ? 俺があいつに早く会いたいがために、こんなにも急に動こうとしてるってことを。だからお前を、囮に使うって言ったことを」


 莉桜は何も答えず首を横に振った。怒るなど、罵るなど考えてすらいない。

 気づいていた。敵が、政斗の右目を作った者と関わりがあると察知した時、彼の目の色が変わったことを。

 分かっていた。政斗はあの襲撃者に個人的に会いたいのだと。


「会ってどうするかなんて考えてない。何がしたいのかも分からない。ただ、あいつに会えば、この右目を作った奴のことも分かるかもしれない。そう思ったら……」


 いてもたってもいられなくなった。政斗は掠れたような声でそう言った。


「憎んでないのかと問われれば、憎んでると答える。でも、居場所が分かったら殺したいのかと言われたら、違う気がする。俺はただ、あの時に決着をつけたいんだ」


 再び前を向いた政斗の目は、遠い過去を見ているようだった。彼が逃げてきたと言った、大切な仲間を失ったあの夜。

 どれだけの月日が流れても、政斗の心はあの日においてきたまま。動き出したいのに、一歩を踏み出して良いのか分からないのだ。


 莉桜は彼の背中に額をつけた。少しでも良いから、一人ぼっちの彼の心に温もりが伝われば良いと思った。

 政斗は莉桜を、春を告げる花のようだと言ってくれたのだから。


「怒らないのか? 囮にされるのに……」

「怒りません。だって、政斗は嘘をついていないでしょう? 私達に手を貸したいと思ってくれている気持ちも、嘘ではないのでしょう?」


 しばらくの沈黙のあと、『ああ』と答える声が背中から響いた。


「だったら、一緒に決着をつけにいきましょう。この国を取り巻く闇と、そして、貴方が抱える苦しみ、悲しみに決着を」


 静かに言った莉桜に、政斗はゆっくりと振り向いた。その動作に合わせて、莉桜は軽く背伸びをする。

 政斗の髪が頬をかすめ、唇に、硬質な感触が触れた。

 彼が忌々しいと思い続けたこの右目に、少しでもこの唇から温もりが伝われば良い。


「なっ、莉桜っ」

「おまじないです。全てが終わったあと、貴方の心にも花が咲くように……」


 右目を押さえて慌てていた政斗は、莉桜の願いに目を細めた。そして、背中の衣を掴んでいた手を軽く、だがしっかりと握り返される。


「必ず……」


 その後に続く言葉が何なのか、莉桜はあえて聞かなかった。自分が考えたものと同じでも、違っていても、どちらでも良いと思った。

 政斗が未来につながる何かを強く誓ってくれた。それだけで、大丈夫だと思えた。


「はい」


 莉桜もまた短く答え、政斗と一緒に夜空を見上げた。以前見上げた白く清浄な輝きをもつ星が、あの時よりいっそう眩い輝きを放っている。

 それはまるで、二人の背を後押しするように、いつまでも光り続けていた。

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