第15話

 夜も深くなり、紗雪が鬼灯に明かりを灯していく。淡く照らし出された部屋の中で、莉桜は一枚の紙を文机の上に広げていた。


 一番外側を四角の線が囲い、東西南北の印がついている。

 北側の真ん中には陽と桜の紋章のついた囲い。その下に月と桜の紋章がついた囲い。それ以外は碁盤の目のように縦と横の線で均等に分けられている。

 この大和国の都、咲耶京さくやきょうの地図だ。


 その上に、莉桜は数個の水晶球と黒い砂を置いた。手をかざし、ゆっくりと魔力を放出する。しばらくすると、砂と水晶はまるで生き物のように動き出した。

 水晶は大内裏の上で、そして、黒い砂は天照家の敷地と、右京の中ほどより少し下辺りで止まった。 だが、次第に左京の方へと手を伸ばすように蠢いていく。


「この辺りは確か市のある場所……一番濃いのは、病が流行っているところね」


 莉桜は苦痛を堪えるように目をつむり、首を振った。


「分かっているのに、なぜ動いてはならないの? 使わないのなら、この力は何のためにあるというの?」


 紗雪に聞こえないように呟いて、莉桜は拳を握った。白い手が、さらに白くなる。


「あの、莉桜様。その、怒っておいでですか?」


 几帳の陰から、紗雪が恐る恐るといった風に顔を覗かせた。莉桜の顔を正面から見られないのか、俯いたまま縮こまっている。


「怒る? 何に対して?」

「その、親王殿下にご助力をお願いしたことと、あのような無礼者を招き入れたことです」


 莉桜はめったに声を荒げることがない。笑う時も口元だけで、泣く時は涙を零すだけ、怒る時は声を荒げず非難するように。そういう風に教育を受けてきた。

 感情を悟られるな。いつも天照家の威光を忘れず、それにふさわしい所作を行え。

 莉桜の父は、そう莉桜に教え込んできた。天照家を継ぐのはお前だから、と。


 思うところはあったが、いつしか莉桜は父の教え通り感情を表に出すことが少なくなった。唯一、昔馴染みの幸丈や華那、紗雪の前では少し出せる。

 その紗雪ですら、読めない時はあるのだろう。自分の不用意な行為が、主にどのような感情を抱かせているのか不安になったのだ。

 莉桜はふっと息をつき、紗雪に向き直った。


「そうね。あの時は少し怒っていたわ。幸丈は、本人はそう見せないけれど、とても不安定な立場にいる人だもの、巻き込むことは私の本意ではないから」

「も、申し訳ございません!」


 平伏した紗雪に苦笑して、莉桜は面を上げさせた。涙をため、震えていることから、彼女がどれだけ大それたことをしたのか、それを反省しているのかが分かる。


「でももう良いわ。貴女は私の身を案じてくれただけ。私の側にそれだけ親身になってくれる人がいることを、今は嬉しく思うわ」

「莉桜様…………ですが、まさか親王殿下があのような無法者を連れてくるとは」

「ああ、雪竹様のことね」


 莉桜は先程ここへ来た旅の青年の顔を思い出す。

 よく会う貴族の者達と違い、しっかりとした体つき。刀を腰に履く姿も自然だった。そしてあの目だ。


 最初に気になったのは布に覆われている右目だった。強い魔力を感じる目。それでいて純粋な魔力ではなくどこか歪んでいる。きっと、魔巧器の義眼か何かなのだろう。


 しかし、あの時莉桜が引きつけられたのは残った彼本来の目。左目の方だった。

 自分とは違う黒の瞳。リオの目を黒曜石と評する者が多いが、彼の目を例えるのならきっと晴れた夜空だろう。

 黒く深く、全てを闇に閉じ込め、けれど星の瞬きを持つ夜空の色。


「莉桜様?」

「あの人は、思うほど無礼でも無法者でもないわ」

「え?」

「だって……」


 莉桜は自分の額にそっと触れた。彼が小突いた額だ。そんなこと、生まれてこの方されたことがなかった。

 小さな衝撃と同時に、彼は笑って莉桜を見ていた。御前試合で見せたような凶悪な笑みではない。どこか優しげで甘やかな笑顔。

 冷たい夜空の目に、静かに灯る星が宿っている気がした。

 思い出すだけで、胸が一つ高鳴るような目と笑顔。


「莉桜様、いかがなされました? 頬が赤いようですが、まさか熱でも!? す、すぐに部屋の温度を上げますゆえ、お早く寝台に!」

「え、ち、違うわ紗雪。大丈夫よ。とにかく、あの雪竹様も幸丈が連れてきた御仁。彼の人を見る目は信じられるから、きっと大丈夫よ」

「そう、ですか? 莉桜様がそうおっしゃられるのなら、私ももう何も申しません」


 そう言うと、紗雪は頭を垂れて場を下がった。寝屋の準備は整っているから、あとは莉桜が呼ばない限り側にくることはないだろう。


 完全に人の気配がなくなったのを確かめ、莉桜は懐から扇を取り出した。

 そして、魔力を複雑怪奇な文様の形に変えて扇を中心に広げる。一瞬の後、莉桜の周りに薄紅の模様と文字が弾ける。

 ただそれだけだった。もしここに政斗がいたなら、陽の宮の屋敷を覆う結界の幕を見たかもしれない。


 と同時に、都の地図の上で、陽の宮の上にあった黒い砂が白い砂へと変わった。

 その様子を認め、莉桜は肩から力を抜く。

 陽の宮を取り巻く空気が、ほんの少し和らぎ清浄なものへと変化したように思えた。


「この力を、もっと広く使えれば良いのに」


 重い口調で唇に乗せた言葉は、白い息とともに夜空へと吸い込まれていった。

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