第12話

「雪竹政斗、様?」


 小さく呟かれる自分の名前。初めて聞く彼女の声は、まるで鈴を転がすかのように耳触りが良い。胸の奥が、小石を投げられた泉のようにさざめいた。


「幸丈、久しぶりに来たと思えば不法侵入ですか? 貴方の立場もあるから、御用があるなら私の方からお茶会と称して出向くと言っているでしょう」

「悪い悪い。一応こいつに、お前の部屋までの道のりを覚えて欲しかったんでね」


 幸丈が政斗を指さすと、莉桜がちらりと視線をこちらに向けた。澄んだ目が、政斗の右目をとらえて少しだけ細められる。


「なぜこの方が?」

「ほら、最近お前、何か変な目にあってんだろ? 紗雪から相談されてな」


 莉桜が紗雪を少し睨む。彼女は縮こまって『申し訳ございません』と言ったが、後悔はしていないようだ。


「オレが公に動くわけにもいかないから、腕がたちそうなこいつを雇ったんだ。御前試合見て知ってるだろうけど、名前は雪竹政斗。今は戦衛府の特別隊員だ」

「存じています。また貴方は無茶なことを」


 やれやれといったように息を吐いた莉桜は、今度こそ真正面から政斗を見た。視線は合っている。しかし、ハッキリと見えない姫巫女の姿に、言いようのない苛立ちが募る。


「雪竹様。ご足労まで頂いて申し訳ありませんが、幸丈の我儘につき合わなくても結構ですよ。彼は昔から周りを巻き込んで無茶をするのです」

「おい、莉桜!」

「莉桜様! そんなっ、せっかく親王様がお心を砕いてくださったのに!」


 主の身を心配する紗雪が御簾に取りすがる。だが、莉桜は冷めた目をして自分の乳姉妹を見下ろした。


「お黙りなさい、紗雪。あれしきのことでうろたえ、親王殿下の御手を煩わせるなど、一女官がしてもよい行為ではないわ。私の乳姉妹といえど、立場をわきまえなさい」


 淡々とした言葉だったが、紗雪の意見は一刀両断されていた。莉桜の言うことは正論であり、説得力もある。

 そんな彼女に反発したのは、立ち上がった幸丈だった。


「紗雪を責めるな。『あれしきのこと』とお前は言うが、二度もお前の部屋の付近で火が出たのが偶然だとでも? 何度も物がお前目がけて落ちてくるのが些細なことか? 落ちてきた物の中には刃物もあったと聞いたぞ。紗雪が心配するのも当然だ!」

「偶然とは言いません。ですが、あれは私の手で収束できる範囲です。親王である貴方が私のために動くことで、表面上は落ち着いている継承問題を活発化させる気ですか?」

「だからっ、そうならないようにこいつを雇ったって言ってんだろうが!」

「それがなお悪いのです。無関係の方を巻き込むなど……」


 口調の荒れる幸丈と違い、莉桜は終始冷静だった。そのまま、何の感情もこもらない目で政斗に向かって口を開く。

 やはり、政斗の心の内に苛立ちが起こった。


「雪竹殿、そういうわけですので、今回のお話は……」

「悪いんだけどな」


 政斗は片方の手で頭を掻き、もう片方の手を腰にあてた。そして、一度閉じた目を睨みつけるような鋭さに変えて莉桜を見る。


「顔もちゃんと見せねぇような奴の言葉を聞き入れるほど、俺は安くないんだ」


 態度も口調も言葉も、そのどれもが姫巫女に向けるには無礼千万だった。莉桜の目尻がピクリと動く。だが、彼女が言葉を発するより先に紗雪が爆発した。


「なっ、何と無礼な! この方をどなただと思っているのです!」

「地位も身分も知らないね。人の目を直に見て話せない奴に権威なんて無意味だ。それとも何か? 見せられない顔立ちだとでも?」

「このっ」

「……良いわ、紗雪。御簾を上げて」

「しかし、莉桜様!」

「上げなさい」


 主に断りなく幸丈に頼みごとをしていた負い目があるのか、紗雪は渋々ながらも命令を聞き入れ御簾を引き上げた。


 政斗が最初に見たのは、表が白、裏が紅梅の雪の下の襲だった。その白い袿に長く艶やかな黒髪が広がり、同じぐらい白い肌が姿を現す。額の花子紋様が華を添えていた。

 そして、ほのかに赤く染まった頬の上に、あの黒曜石の目を見つけた。

 黒く深く、だが湧水のように澄んだ色をした目。

 魅入るとはこういう状態をいうのかもしれない。莉桜の姿を目の当たりにした瞬間、政斗は指先すら動かすことができなくなった。金縛りにあった時のように、体を動かす機能が全て吸い取られてしまったようだ。


「これで、ご満足ですか?」


 響いた鈴の声に、政斗はハッと我に返った。


「あ、ああ……ちゃんと見られる顔してるじゃねぇか」


 動揺を誤魔化すようにぼそりと言うと、莉桜はスッと扇を口元にかざした。そして――


「無礼者」


 彼女は小さいがハッキリとした声で言った。

 その時、莉桜の扇を中心にパッと開く魔力を政斗は見た。複雑な文字と淡い薄紅の模様。だが、その模様が何か判断する前に、政斗の体は大きく弾き飛ばされた。


「どわ!」


 横手から襲った強烈な風。しかも、その風の中に重い毬のような空気の塊があった。塊は見事、政斗の腹部にぶち当たる。

 予想以上の速さと強い力。見えていても、襲ってくることが分かっていても、避けるどころか反応することもままらない。


「っ、なんっつぅ威力だ……」

「だから言ったじゃねぇか、莉桜は古代魔術の使い手だって」


 腹を押さえて膝をつく政斗に向かって、いち早く避難していた幸丈が木の陰から青い顔で言った。

 廊下の上に目をやると、莉桜が持つ扇に何か呪文のような言葉と模様が描かれているのに気づいた。彼女が古代魔術を使う際に用いるのは、あの扇のようだ。


「それとな、莉桜は怒らせると怖いからな」

「それを先に言え!」

『あんたが莉桜ちゃんに、失礼なこと言うから悪いんでしょ!』

「痛っ、このクソ狼! 噛むなって言って…………あ?」


 足に噛みついてきた華那を放そうとして、政斗は今この狼からあり得ないものを聞いた気がした。

 じっと胡乱気な目で見つめると、華那はその視線に気づいて牙をさらに剥きだした。


『何よ! 今さら謝ったって許してあげないんだから!』

「お、おまっ……しゃべっ!」


 灰色狼から少女らしい声が響く。初めて出会う衝撃の光景に、さすがの政斗も上手く言葉が出てこなかった。

 パクパクと口を動かしながら幸丈に説明を乞うと、彼は何を思ったのかこう言った。


「華那、政斗が驚いてる。喋るか噛むかどっちかにしとけ」

「ガウッ!」

「で、即行噛む方を選ぶのかよ! 選択肢自体ずれてんだよこのアホ主従!」


 政斗は華那の首元を掴み、思い切り幸丈に向かって投げつけた。かなりの力を込めたので勢いも強い。しかし、正面からぶつかるかと思われた狼の体は、宙で一回転すると、スタンと軽やかな音で地面に降り立った。

 四本足ではなく、二本足で。


「あんたほんと何なのよ! 幸丈様が怪我したらどうすんの!?」

「狼に噛みつかれた俺の方がヤバいわ! つぅかお前が何だ! 文句言う前に人間か狼か根本的な種族をハッキリさせろよ!」

「人間よ! 目ぇ悪いんじゃない!?」

「不本意ながら、幽霊が見えるほど良いわ!」


 今目の前にいるのは、右目を使って見ても人間の少女だった。


 莉桜とそう歳は変わらないだろう。狼の時と変わらず、緑の目と灰色の髪をゆったりと結んだ少女だった。その身に纏うのは莉桜達と異なり、伝統衣装を大きく改造したものだ。

 上位はさほど変わりないが、下は膝上ぐらいまでの丈しかない。逆に履物は膝を覆うぐらいに長い革製の靴。靴の一部と肩には柔らかな毛皮がついていた。

 見栄えも女官特有の嗜みも何もない。動きやすさだけを重視した衣だ。


「おいおい、こんなところで喧嘩するなって。政斗、華那は〈森の民〉っていわれる特殊な一族でな、血が濃いと獣に変化できるんだ。代々帝の血を守護してる一族、楪家ゆずりはけの娘でもある。言っただろ、女の子だって」

「人間なら最初からそう言っとけ! 分かりにくいんだよ!」


 幸丈に頭をポンポンと叩かれ、華那は甘えるような笑みをこぼした。しかし、すぐに目つきを鋭くして政斗を睨む。


ゆずりは華那かな。十六よ。兵部省近衛府このえふ所属で、幸丈様の護衛を仕事としてるわ。先に言っとくわね。あたしあんた大っ嫌い!」

「安心しろ。俺もお前には好意の欠片も浮かばねぇから」


 火花が散るほど睨み合っていた華那は、ぶすっとむくれた頬のまま莉桜に向き直った。そして、その足下まで近づき、訴えるように見上げる。


「莉桜ちゃん。こんな奴はいらないけど、あたしが守ったげる! あたし莉桜ちゃんのこと大好きだもん。何かあったら嫌だよ!」


 幸丈と同様、華那のことも幼い頃から知っているのだろう。莉桜は表情を少し柔らかくすると、階きざはしを数段下りて華那の頭をなでた。


「気持ちは嬉しいわ、華那ちゃん。でもいけないわね。貴女は幸丈を守ることが仕事だもの。そう自分で決めたのでしょう?」

「うん……」

「だったら、彼から離れては駄目ね」


 莉桜の諭しに、華那は強く唇を噛んで幸丈を見た。

 二人の主に仕えることはできない。華那はもう主人を幸丈と決めてしまっているようだ。それでも、良い友人である莉桜も守りたくて堪らないのだろう。

 嫌いだと豪語する政斗が莉桜を守ることに異を唱えなかったのも、ひとえに彼女の身を思うが故のことだ。

 莉桜は改めて政斗に顔を向けた。


 階を下りて目線が近くなった分、先程よりも少し身近に感じることができる。だが、やはり政斗を見る顔は人形のように冷たく、何の感情も込めていない。

 消えていた苛立ちが、また靄のようになって胸中を支配する。


「先も申しましたとおり、この件は私の手で収束できるものと思っています。それ故、貴方の手をお借りする必要性は全く……」

「断る」


 政斗は莉桜の言葉を一刀両断した。

 軽く驚いた莉桜の顔に小さな満足を覚え、政斗は腕を組んでニッと笑う。傍らで幸丈と華那が『悪人の笑顔だ』と言っているのが聞こえた。


「俺は戦衛府の総隊長を飲食街で殴っててね。アンタを守るって仕事をこなさないと、この親王と交わした条件が無効になるんだ。牢屋へ逆戻りで、逃げたとしても人相書がばらまかれて指名手配犯だ。冗談じゃねぇ」


 吐き捨てるような乱暴な口調で言いながら、政斗は一歩ずつ莉桜へと近づいていく。


「旅の路銀も尽きてきたとこだ。報酬も貰えるなら願ったり叶ったりだからな」

「ですが……」


 近づく政斗に莉桜が一歩下ろうとした。その刹那、政斗は腰の刀を抜き放ち、一瞬にして莉桜の首元に刃を突き付ける。


「政斗!」

「莉桜様っ!」


 姫巫女に攻撃するという信じられない行動に、幸丈が制止の声を、紗雪が悲鳴を上げた。

 政斗の横では華那が短刀を抜き放ち、後ろではいつの間にか現れた砕が千本という投擲とうてき武器を投げようとしている。

 当の莉桜は、刃を見た瞬間は体を強張らせたが、すぐにいつもの冷静な顔に戻っていた。憎らしいぐらい表情を変えない女だ。


「この状態なら、あいつらが俺を仕留めるより、俺がお前の首を斬る方が早い」

「……そうですね」

「お前がどれだけ魔術の腕に自信があるか知らないが、世の中にはそれだけで防げない攻撃方法を持つ輩もいる。お前を狙ってる奴がそうじゃないとは言えない」


 この少女はおそらく強い。強大な魔術を使えば、隊を組んだ武人でも難なく片づけてしまえるだろう。それでも、無敵というわけではないのだ。

 長年部屋の奥で過ごしてきた少女が、殺しも戦いも知る玄人に勝てる確率は低い。どんなに強大な魔術を使っても、ちゃんと発動しなければ、戦いの中での使い方を覚えなければ、それは『武器』ではなく『芸』だ。


 政斗は刀を鞘に納めると、この日一番近くで莉桜の顔を見つめた。

 冷めていた目に、わずかだが戸惑いと不安を感じ取った。だから、できる限り、安心できるような笑顔を作ってやる。


「せっかくあのアンポンタン親王が力貸してくれるってんだから、甘えとけ。お前が頷くだけで狼娘も静かになるしな」

「誰がアンポンタンだ!」

「ちょっと、あたしはうるさくないわよ!」


 後ろで文句を言っている二人を、莉桜は眉を下げて見やった。心配してくれること自体は嬉しいのだろう。ただ、彼女にとっても大事な二人だから、巻き込みたくないのだ。


(つまり、素直じゃねぇんだ。このお姫様は)


 上手く感情を表現できない。きっとそんなところだろうと政斗は思った。

 性格が把握できれば、苛立っていた人形のような表情にも可愛げが見えてくる。政斗はごく自然な動作で、莉桜の額を小突いた。


「それに、知った顔が危険に合うのを黙って見てるのは性分じゃないんだ。ましてや女だとなおさらな」

「…………それは、男女差別です」


 小突かれた額を押さえてしばし目を丸くしていた莉桜は、憎まれ口を叩きながらも政斗を見る目に感情を宿した。

 驚き、期待、羞恥、優しさ。そのどれかのようで、全てが混ざったような感情だった。

 そして、幸丈、華那、政斗の順に顔を見て、静かに答えを述べる。


「分かりました。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 承諾の言葉に、紗雪は安堵の息を吐いて廊下にへたり込んだ。

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