Take It All


 「じゃあ、今日も元気に予約チェックからいくぞー!」


 今日のdélicat(デリカ)では、店長の梅谷が独断で勝手に決めたチェックシャツデーが催されている。


 スタッフ全員チェックシャツを着てくること!

 唐突に昨日の終礼で、葵を含める三人のスタッフにそう言い放った梅谷が着ているのは、鮮やかな黄色と緑が目に痛いチェックのシャツだ。

 それに、はいはい、と力なく返事をした三人も、この梅谷の言い出したらきかない"いつもの"思いつきを慣れた風に軽くあしらい、皆思い思いのスタイルで、チェックのシャツを着こなしサロンに立っている。


 変わり者ばかりが集まっていると、couper(クーペ)グループの中でも実しやかに噂されるこの店のスタッフは、チェックシャツといても誰一人として同じ着こなしをしていない。

 チェックのシャツを軽く羽織るだけの梅谷と、それとは対照的に首もとまでボタンをきっちり止めている副店長の芦屋。

 最早腰元にぎゅっと巻き付けている野宮と、シャツワンピーススタイルの葵。


 お互い示し合わせたわけではないのに、必ず今日のようにバラバラになる彼らの着こなしは、店に訪れる客達の目も充分に楽しませる。




 「おお、今日は田中さんがいらっしゃる日か」


 梅谷の指が、葵の予約欄を指差し、彼女の客の名前を読み上げる。

 田中という名の彼は、葵を気に入って一月に一度必ず予約を取ってくれている、彼女の指名担当の顧客だ。


 「と、いうことは、差し入れかな?!」


 その名前を聞いて、野宮は目をキラリと輝かせ、やった!とガッツポーズしながら、その場で小さく飛び上がる。

 なぜなら田中は来店する度に、スタッフに何かしらの生菓子の差し入れを持ってくる、スウィーツ好きの野宮を筆頭にその来店をみんなから心待ちにされている客だからだ。


 「こらこら、お客様からの差し入れなど、期待してはいけませんよ」


 飛び上がって喜ぶ野宮を、彼女の正面に立つ副店長である 芦屋は苦笑しながら諌める。


 「そうだよ!そもそもあの差し入れは、田中さんが私に持ってきてくれてるんだからね」


 芦屋の声を受けて、ガッツポーズした腕を下ろして、反省の色を見せる野宮に、葵もここぞとばかりに声を挙げる。

 それもいつもは野宮に一方的に言われるばかりなので、反論を封じる為に芦屋を盾にし、影から子供のようにいい募る小狡いスタイルでだ。

 そんな葵の言葉には、毎回差し入れの菓子を、先に野宮に食べられてしまっている恨みが、ふんだんに込められている。


 「葵が差し入れそっちのけでカットレッスンしてるのが悪いんでしょ!」


 私はね、ちゃんとあんたに断ってから食べてるわよ!

 けれどその葵の策など何でも無いように、すぐさま野宮の怒れる反論にあう葵は、ひい、と芦屋の後ろで小さくなる。


 「ふくてんちょー、何とか言ってやってくださいよー」


 小さくなりながらもまだ諦めずに、母親に告げ口するような口調で芦屋に縋る葵に、正面の野宮のコメカミがぴくりと引き攣る。


 「葵!」

 「だって!佳奈が!」


 いい歳をした大人が子供の様に言い争うのを、まあまあと宥めるのは、店長の梅谷ではなく、やはりこの店の影のボスである芦屋だ。


 「二人ともいい大人なんですから、くだらないことで喧嘩するのはやめなさい」


 芦屋の落ち着いた声に、猫の喧嘩のようにふうふう息を荒げていた二人も、はい、と大人げない自分を恥じるように大人しくなる。



 「そうそう、お前らが喧嘩するようなら、俺が一番に選んでやるから、なっ!」


 そんな三人のやり取りを、今までにやにや笑いながら見ていた梅谷が、いい事を思いついた!とでも言うかのごとく、野宮の肩をパンっと叩きながらそう声を挙げる。


 「「「「店長は黙っててください!!」」」


 瞬間示し合わせたように、これで万事解決だな!とがはがは笑う梅谷に向かって、三人は同時に叫ぶ。

 その思いがけず重なった台詞に声をあげて笑った三人は、お菓子は私たちだけで山分けしましょう、と頷き合って、視線を再び予約台帳へと戻す。






 今日の予約台帳は、どのデザイナーの欄も、ほとんど空欄無く埋まっている。

 それはつまり、今日の予約はほぼ満席、ということを示す。


 オープンからクローズの時間までの予約を、端から端までしっかりチェックしながら、注意事項のある顧客の情報を、スタッフ全員で共有してゆく。

 そして一通りの情報が出終わると、最後に芦屋の視線が三人の上をすっと横切り、


 「他に何か伝達事項がある人はいませんか?」


 いつも通りそう周りを見回しながらそう尋ねる。



 ——— その声に葵が珍しく、はい、と手を上げた。





 「今日の私の予約六時からラストまで、切っておいてもいいですか?」


 délicatは、六時がカットの最終受付時間だ。

 葵が言う、予約を切る、というのは、仮に六時の予約の電話を受けても、そこへは予約を入れないという意味だ。


 葵の予約欄はその時間以外の全ての時間が、彼女を指名する客の名で埋められている。

 唯一空いているその時間を切ってほしいという葵の頼みに、梅谷は、いいぞ、と軽く頷いて、その予約欄を予約無しから予約有りに書き換える。


 「誰か知り合いでも来るんですか?」


 予約有りを示す斜線の引かれた六時台の予約欄をチラリと横目で見ながら、首を微かに傾ける芦屋に、


 「そうなんです。ちょっと知り合いが髪を切ってほしいらしくて」


 頭を人差し指でかきながら頷く葵。


 「珍しいねー、誰が来るの?私も知ってる人?」


 友達は家でぱぱっと切っちゃうから、店に連れてくるまでもないよ。

 そう常日頃から言って、滅多に自分の知り合いを連れてこない葵なだけに、野宮は興味津々の様子で葵に尋ねる。


 「うん、多分、知ってると思うよ」


 その野宮にぎこちなく視線を反らしながら返事を返す葵。

 何かを隠そうとするその態度を見て、葵以外の三人は、これは何かあるな、とお互いの顔を見合わせる。


 (どうします?)

 (追求するか?)

 (下手に追いつめるより、ここは泳がせた方がいいのでは?)


 長く一緒に働いているため、三人のアイコンタクトでの意思疎通は最早完璧に近い。

 葵に気づかれぬよう、一瞬のうちにやり取りしたその視線で、お互いの意見を交換し合った結果、


 「そう、じゃあ楽しみにしてるわ」


 この場は追求しないでおくという方向に纏り、一先ず泳がすことにした三人。

 けれどそんなアイコンタクトにはちっとも気づかず、何とかごまかせたと勘違いした葵は、

 何か面白いことになりそうな気がする!

 三人の視線がそんな風に煩いぐらい爛々と輝いているのには気づかず、ほっと小さく安堵の息を吐いたのだった。






 「いつもありがとうね」

 「こちらこそ、いつも差し入れ共々、本当にありがとうございます。またお待ちしてますね」


 5時に予約を受けていた田中の会計を終え、エントランスで最後の見送りをする葵。

 彼の背中が雑踏に溶けてゆくのをしっかり見届けて、サロン内に戻ろうとくるりと身を翻そうとしたその瞬間、彼女の視界に見慣れた姿が映り込こむ。


 「今日は宜しくね」


 葵に気づいて手を振りながら、にこりと笑うその人を、彼女も笑いながらサロン内へ案内するために、入り口のドアを開く。


 「うん、こちらこそ宜しく」


 キィと小さく音を立てて開かれたそのドアに、中にいた三人が振り返る。


 「いらっしゃいま、」


 せ。

 葵が案内する人物の姿を視界に入れた途端、最後まで言えずに中途半端に口を開いて止まってしまった三人は、その人物が誰かを十二分に分かっているようだ。



 「か、か、か、かしわばら、れん!」



 何でここに!!??

 鋏を止めて廉を指差す梅谷に、握っていたブラシをポロリと床に落した芦屋と、座っていたカットイスからずり落ちそうになる野宮。

 彼らが担当する客もまた、驚きに彩られた表情で、今しがたドアをくぐったばかりの廉を見つめている。



 そんな彼らの驚き様に、少し居心地悪そうにする葵は、


 「だから、その、あれですよ、あれ」


 "佳奈も多分知ってる人"が来るって、朝礼で言ってた、あれですよ。

 廉から受け取った荷物をクロークに預けながら、そうぼそぼそ答える。


 一気に集中する皆の視線から逃れるように、落ち着き無く視線を泳がせる葵。


 「言ってなかったの?葵」


 そんな葵を上着を脱ぎながら、ちらりと見た廉は、


 「初めまして、柏原 廉です、葵がいつもお世話になってます」


 そう言って三人に向けて軽い会釈をする。



 「初めまして、店長の梅谷です。こちらこそ葵にはいつも助けられ、って——— え?」


 その廉に同じように軽く会釈しながら返事を返した梅谷は、その言葉の途中でまたしても固まってしまう。


 「れ、廉!」


 お世話になってって言った、今?

 廉の言葉に、頭上にいくつもクエスチョンマークを飛ばしている梅谷を見て、葵は慌てて廉の腕を引っ張り奥のシャンプーブースへと連れてゆく。


 「何言ってるのよ!」

 「何って、挨拶しただけだよ」

 「挨拶しただけじゃないっ!なんであんな挨拶したのよ!」


 小声で廉に怒っているらしい葵の声と、普通に何でも無いように返事を返す廉の声が、しんと静まり返ったフロアに零れる。

 最早このフロアに居る者達は皆、二人の関係が気になって、カットどころではない。


 「何でって、——— 熱っ!熱いよ、葵」

 「熱くない!熱くても我慢して!」

 「我慢できないよ!熱い!」

 「うー!私の顔の方が熱いわ!ばか!」


 ごくりと唾を飲みながら、耳を大きくしてその声を拾う彼らと、周囲などそっちのけで自分たちの世界に入っている二人。


 シャンプー台に横になる廉の長過ぎる足が、収まり悪そうにもぞもぞしているのを見て、くくっと笑う葵。

 そんな彼女はばしゃばしゃガシャガシャ荒々しい音を立てながら、廉の髪を洗い始める。


 「長過ぎる足も、困りものだね」

 「笑い過ぎだよ」

 「——— 笑ってないよ」

 「声が笑ってる」


 葵が一言話すと、すぐさま答える廉。

 シャワーを使っている最中なのに、囁くように言葉を交わしているため、廉の声が聞き取り辛いのか、葵は体を曲げて耳を廉の口元に近づける。

 その姿は誰が見ても、心を許し合う者達のそれにしか見えない。





 「今日はどんな感じにするの?」


 シャンプーが終わり、廉を三人から一番遠い壁際の席へと案内する葵。


 「お任せでいいよ」


 鏡越しに真っ直ぐ葵を見て笑う廉に、


 「かしこまりました」


 軽く頷いて櫛と鋏を手に取る葵。


 柔らかい癖を持つ廉の髪は、丁度今肩にかかるぐらいの長さだ。

 それをラフに落とすと、淡い色の髪も相まって、彼の持つ雰囲気は一気に甘くなる。


 「コンテストもあるから、長めに残したいんだけどいい?」


 その髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら、ガラス越しに覗き込む葵。


 「いいよ。お任せします」


 パッと見ただけではただボサボサにされただけのように見える自分の髪に、廉は少し目を丸くする。


 「もしよろしければ、こちらの雑誌はいかがですか?」


 そんな廉にワゴンの下にこっそり隠していた雑誌を取り出し手渡す葵は、


 「——— やっと見てくれたんだ?俺が出てる雑誌」


 手渡された雑誌の表紙を見て、彼が微かに驚きの表情を浮かべるのを、悪戯が成功した子供のような顔をして見ている。


 「結構有名人だね。これだったら十分で囲まれちゃうのも仕方ないね」


 手に鋏と櫛を持ち、腰掛けているカットイスを廉の左横から、真後ろ、右横まですーっと滑らせながら移動する葵。

 その彼女は、よし、と小さく呟くと、またイスを滑らせて廉の背後にぴたりと止まり、そして迷いの無い手で髪を手に取り鋏を入れ始める。


 シャキ、シャキと一定のリズムで鋏を動かす葵のその表情は、先ほどの悪戯っ子のような表情とは打って変わって真剣そのものだ。

 彼女はキュっとイスを軋ませ、近づいたり離れたりしながら、廉の頭のバランスを見てスタイルを作っていく。


 そんな彼女の真剣な表情を、廉は口元に微かな笑みを浮かべながら真っ直ぐに見つめている。



 「モデルって髪の毛勝手に切っていいの?」


 両サイドの長さを鏡越しにチェックしながら葵が問いかけると、


 「今は大きなショーも入ってないから大丈夫だよ」


 ショーがあると、ダメって言われたりもするけどね。

 彼女の仕事を邪魔せぬ様、手渡された雑誌をパラパラと捲っていた廉も視線を上げて返事を返す。


 「コンテストでは結構ばっさり切って、イメージを変えたいんだけど、それは大丈夫かな?」

 「うん、問題ないよ」


 似合うように切ってくれるんでしょ?

 葵の目を見ながらそう笑う廉。そんな廉に、

 当たり前でしょ、私を誰だと思ってるのよ。デリカの葵は、似合わせの天才なんだからね。

 鋏をカチャカチャ言わせながら、フフンと誇らしげな表情を見せる葵。



 そんな二人のやり取りを葵の同僚三人は、自分たちの顧客を丁寧かつ迅速に仕上げて退店させ、何でも無い風を装いながらも、思いっきり耳をそばだてて盗み聞きしている。



 「コンテストって、あのコンテストの事ですかね?店長」

 「葵が出るヤツっていったら、あれしかないだろ」

 「ずっとモデルが見つからないとぼやいていたと思っていたら、最近急に大人しくなったので漸く見つかったのだと、一安心していたんですが」


 葵たちの前の鏡に映らないところで、顔を寄せ合いながら小声でヒソヒソと話す三人。


 「まさかこんなモデルを捕まえてたなんて…」

 「葵とは一体どういう関係なんだ?知り合いか?佳奈、お前知らないのか?」

 「まさか!聞いた事ないですよ!——— でもそういえばさっき、廉変な事言ってませんでした?」

 「ええ、確か、"葵がいつもお世話になってます"でしたっけ?」

 「そういや、そんなこと言ってたな。うーん、マジでどんな関係なんだよ」


 顔を近づけながら、円陣を組むようにしてこそこそしている三人は、客も帰ってガランとしたこの店内では異様に目立っている。




 「コンテストで優勝したら、何かもらえるの?」


 そんな三人を奇麗さっぱり無視して、葵だけを見つめる廉。


 「トロフィーと副賞かなあ、多分。うーん、そっちは全然気にしてなかったから、あんまり良く分からないなあ」


 そんな廉の視線を受ける葵の視線は、自分の手元にひたりと合わせられている。


 「それ以外に欲しいものが何かあるの?」

 「ん?何で?」

 「いや、なんとなく、葵の口調からそうかなって」

 「うん、良く分かったね」


 シャキン。

 最後の一束を切り終わった葵は、ゆっくり顔を上げて、廉の方へ視線を向ける。


 「私ね、ずっと叶えたい夢があって、その為には、そのコンテストで優勝したっていう実績が必要なの」

 「夢?」


 ドライヤーを緩くあてながら、その髪を梳くように手櫛を通す葵。


 「うん。——— 私、ロンドンに行きたいんだよね」


 サラサラと流れる髪に指を滑らせながら、何かを確かめるように掴んだり離したりする彼女は、自分の言葉によって廉の瞳が微かに見開かれたことに気がつかない。


 「ロンドン」

 「うん。そこでもっとカットの勉強がしたいの」


 ロンドンには、私がどうしても通いたいプロの美容師の為のアカデミーがあって、そこのマスターコースに入る為には、コンテストの優勝経験が必要なんだよね。


 手に持っていた雑誌を静かに閉じる廉は、何かを思案するように、僅かな時間瞼を閉じる。


 「そっか。じゃあ、絶対に優勝しないとね」


 そしてその後開かれた廉の瞳からは、先ほど浮かんだ何かは奇麗さっぱり消え去っている。


 「うん!——— よし、出来た!」


 そんな廉に満面の笑みで頷く葵は、自分の手に鏡を持って廉の首元を映し出す。



 「これ、は———」



 鏡には、切る前に甘い雰囲気を漂わせていた後ろ髪は襟もと近くまで切られ、サイドの髪もそれに合わせて同じくすっきりと整えられてた廉の姿が映っている。

 元々もっている癖を生かすように、軽くワックスで遊ばせたそのスタイル。

 すっきりと全体が切り落とされたことによって、甘さは微かに香る程度になったの対して、今度は清潔感のあるノーブルな雰囲気が漂うようになっている。


 「どう?気に入った?」


 気に入らないはずが無い。そんな風な顔で笑う葵に、


 「勿論。今までと雰囲気が変わってすごくいいよ」


 満足した顔で頷く廉。



 そんな廉の髪型を見て、思わず野宮も、


 「素敵ですね、お似合いですよ」


 側に近づきながら、そう声をかける。

 そこには美容師としての純粋な、がらりと変えたスタイルが似合う彼への賛辞しか含まれていない。


 「ええ、本当に」


 いつの間にか近づいてきていた芦屋もまた、そのスタイルを目を細めながら見ている。


 今までの柏原 廉は淡い髪色と肩までの柔らかくうねる癖っ毛から、甘い王子様のような雰囲気だったが、今回葵のカットでスタイルをがらりと変えた事によって、それが爽やかさとノーブルさが混ざり合うようなものに変化している。


 「いいじゃんか、葵、お前やっぱ、似合わせだけは天才だな」


 入り口の近くでがははと笑う梅谷は、廉の為に玄関にかかるオープンの札を、こっそりクローズにひっくり返してやる。


 「なんですか、その似合わせ"だけ"っていうのは」

 「他はとろくせぇし、どんくせぇしで、おまけに顔もいまいちだからな、仕方ねぇだろ」


 そう言って揶揄うような声音で声を挙げて笑う梅谷。

 そんな梅谷に、



 「そこが葵のいいところですし、——— それに、俺の彼女の顔は"いまいち"なんかじゃないですよ」


 愛嬌があって——— とても可愛い。

 そう、廉は口元には緩く笑みを浮かべながら、柔らかい口調ですぐさま言葉を返す。



 その口元は笑んでいるくせに、目だけは冷たく光らせる廉に、背筋をひやりとさせながら、それでも三人は耳に届いたその声に、仕事中ということも忘れて声をあげる。



 「え、」

 「か、の、」

 「彼女おおおお!!??」



 目をぱちくりさせる三人に満足そうに頷く廉。


 その廉を尻目に、あわわ、なんて言いながら口をパクパクさせる野宮に、まさか、と言わんばかりに目を見開く芦屋。

 そして信じられない!!そんな気持ちがありありと伝わる顔で、葵をあんぐりと見つめる梅谷。



 そんな彼らを見て、頭が痛いといった風にコメカミを緩く揉む葵は、果たしてこの後どう説明するべきかを考えて、小さく息を吐いたのだった。











    ※    ※    ※










 「この娘では、あの子に相応しくありませんわ」


 今まで手に持っていた数枚の報告書を、重厚なテーブルに投げ出すように放つのは、廉の母親である五十嵐 佐代子、その人だ。


 至急速やかに。

 その彼女の命に忠実に仕上げられたその報告書には、葵の情報が最大漏らさずぎっしりと書き連ねられている。



 「家も、仕事も、容姿も、何一つとして釣り合っていないのに、あの子はどうしてこんな娘を」


 深い色をした革張りのソファーに腰をかけ、視線を遠くに馳せる彼女。

 その彼女の脇に、ぴたりとしたスーツを隙無く着こなす背の高い女性が影のように控えている。


 「いけませんわ、——— 廉の目を、醒させなくては」


 彼女は数度瞬きをすると、その視線をゆっくりと隣に立つ女性へ向ける。


 「乾、分かっているわね」


 乾と呼ばれた女性に向けられた、佐代子の視線は驚くほど冷たく濁っている。

 それを正面から受け止めとめ、きっちりと頭を下げる乾の顔には、対照的に何の表情も浮かんでいない。


 「はい、全てお任せください」


 その乾の返事を聞いた佐代子は、——— 満足そうにその唇を綻ばせ、ゆっくりと頷く。




 (勝手は許しませんことよ、廉)




 乾から視線を外し、目の前に広がる窓へと移す彼女の瞳には、——— 星一つ見えない闇夜が映っている。










     ※    ※    ※











 ベッドサイドに置かれたライトが、オレンジ色の明かりで柔らかく部屋を照らし出す。

 部屋の主は既にベッドに沈み、寝息を立てている。





 部屋には柔らかい夜が満ちている。


 ——— けれど突如として鳴り響く、無粋なコールがそれを切り裂いてゆく。





 『——— ただいま、留守にしております。


ご用件のある方は、"ピーッ"という発信音の後に、メッセージを録音して下さい』









 「…もしもし、廉、私——— 優花。

  番号が変わってないってことは、まだ私との連絡手段を残しておいてくれてたってことだよね。

  …私の事、まだ怒ってる?

  ねえ、廉、会いたいよ、会って話がしたいの。

  あの時のこと、もう一回謝りたいの。

  本当に、本当に廉を傷つけるつもりなんて無かった。

  お願い、廉、———私、廉の事が今もまだ、」




   好きなの。








 切り裂かれた夜は、ベッドで眠る廉の足下に落ちて、その闇を濃くし、



 ———そしてゆっくりと彼を浸食し始める。




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石に花咲く夜もある @matsumoto

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