Lovesong
廉の部屋に戻った二人は、揃ってはぁと大きなため息を吐くと、二人して顔を見合わせ力なく笑い合う。
「何だか疲れちゃったね」
変装のために付けていた眼鏡と帽子を外しながらそう言う廉に、そうだねー、お腹空いたね、と自分のお腹の辺りをさする葵。
その葵の変わらぬ態度を見て、廉は幾度か目を瞬かせる。
「また何か頼む?」
そう尋ねながら、靴を脱ぎ終わって部屋へ向かう廉とは対照的に、問いかけられた葵は未だ靴を履いたまま玄関に留まっている。
「うーん、頼むのもすっごく魅力的なんだけど」
少しも靴を脱ぐ気配のない葵。
そんな葵に訝しげな視線を送る廉。その廉を下から伺うように見ながら、帽子の上から頭を掻く葵は、
「庶民派の私としましては、毎回デリバリーだとやっぱり経済的に良くないと思うんだよね
だからーーー」
そう言ってにかっと笑うと、
「自炊しよう!」
廊下の途中で立ち止まっていた廉を手招きして、閉じられていたドアを勢いよく開いた。
「おお、近くにこんなにいいスーパーがあるなんて!」
最高の立地条件だね!
スマートフォンのマップで調べた、廉の家から徒歩十分のスーパーは、一流モデルの廉にはおよそ似つかわしくない庶民感溢れる、極々普通のスーパーマーケットだった。
そのスーパーに着くなり、テンションがうなぎ上りの葵と、その葵とは対照的な、ほとんど葵に引きずられるがまま、されるがままの廉。
「よし、じゃあ今日は疲れてるから、カレーにしよう!」
心なしかぐったりしている廉を尻目に、カゴを持つなりいそいそと店内に突撃してゆく葵。
上がりっ放しのテンションのまま、メニューを廉に一言も相談無く、独断と偏見で勝手に決めた葵は、後ろを着いてくる廉の事など気にした素振りも無く、どんどんと先へ進んでゆく。
「葵、俺がカゴ持つよ」
店内は程よく客で満ちている。
気を抜けば人に遮られ、離れてしまいそうになるため、廉はこれ以上葵に置いて行かれまいと、カゴを奪う。
これさえ持っていれば、置き去りにされる事は無いだろう。
そうほっと息を吐く廉に、葵は、おお気が利くね!ありがとう、と屈託なく笑う。
にんじん、じゃがいも、タマネギ。
人の波をすり抜けるように歩きながら、次から次へとカゴに投入していく葵と、その葵の後ろを必死で追いかける廉。
一応二人は念のために変装しているが、周りでカゴを持つ人々は自分の買い物に夢中で、二人の事など誰一人として興味を持っていないため、変装もほとんど意味がない。
そんな周囲を見て、始めは周りの目を気にしていた廉だが、葵を必死で追いかけ、彼女がカゴに放り込むものをしげしげと観察しているうちに、気がつけば周囲の目など忘れ去って、色々と葵に声をかけながら買い物に集中し始める。
「葵、肉はこれなの?」
「うん、私カレーはひき肉派なんだ。あ、廉は他のお肉が良かった?」
「いや、俺は特に希望ないから、葵の好きなのでいいよ。でも何でひき肉なの?」
「ひき肉だと、お肉が全体に混ざるから、どこを食べてもお肉が味わえるんだよ!だからだよ!」
「そうなんだ、それは楽しみだね」
ひき肉とバターとオリーブオイル。サラダ用に、アボカドとトマトとグレープフルーツ。
次から次へと放り込まれるそれらの品々を、廉は興味深げに見ている。
「廉、カレーは甘口、中辛、辛口、どれがいい?」
「辛さなんて選べるんだ、すごいね」
「そうだよ、辛さどころか、インドカレー、タイカレー、何でも出来ちゃうよ」
「へー、そうなんだ、スーパーって便利だね」
「でしょ!でしょでしょ!で、どの辛さがいいの?」
「俺は辛口がいいけど、葵はそれでもいいの?」
「お!いいよいいよー。私もカレーは辛口派だから」
「気が合うね」
「そうだね!」
様々なルーをしげしげと見つめている廉。そんな廉を見て葵が、ルーは廉が選んでいいよと笑う。
すると廉は、え、じゃあ、ーーー どうしよう、どれがいいかな、そう言いながら、裏箱の説明をしげしげと読み、あれでもないこれでもないと、ルーを次々と取っては戻し、取っては戻しし始める。
「お兄さん、これがオススメよ!」
そんな廉を見かねてか、近くで同じようにルーを選んでいた婦人が、くすくすと笑いながら箱を差し出す。
その瞬間、もしかして自分がモデルの廉だと気づかれたのではと、ハッと身構えた廉。
そんな廉に婦人は、これ、すっごく美味しいから。そう言ってルーを廉に手渡すと、後は廉の事など気にした素振りもなく、自分のカゴにも同じ物を放り込んで、もう用は済んだとばかりにすぐさま颯爽とその場を後にする。
「オススメだって」
婦人の後ろ姿を見送りながら、受け取ったルーを手に、何とも言えない表情を浮かべる廉。
モデルだと知られたのではなんて、勘違いをした上、子供みたいにあれこれ手に取ってうろうろしていたのを、見られていた挙げ句、さらには手助けまでされてしまった。
そんな風なことがありありと見て取れる廉の顔に葵は、
「そう、良かったね」
くくっと声を立てて笑いながら、再び買い物に戻る。
笑い過ぎだよ、そう言いながら後ろを着いて行く廉に、ごめんごめん、なんてちっとも悪いと思っていなさそうな声で謝る葵。
その彼女の背中をーーー 廉は温度の無い目で見つめている。
彼女はもう俺がただのモデル、"柏原 廉"ではなく、"五十嵐 廉"だということを知っている。
その上、母がいらぬ話をしたせいで、彼女は五十嵐というものが何なのかを知ってしまった。
さらには、自分が頼んだのはただの恋人のフリではなくて、その"五十嵐"の次男の恋人のフリだということさえも、知られてしまった。
彼女は知ったはずだ。五十嵐という名の大きさを。
なぜならその五十嵐という名の銀行が、生命保険会社が、不動産企業が身近にあって、その存在を嫌というぐらい知っているはずだからだ。
その五十嵐の中心部にいる人間に、一方的に近い頼み事をされている。
モデルの廉という立場でさえ"偽装恋人"だなんて突拍子もない契約を頼むにはリスクがあった。
もしかしたらモデルの名を傷つけるかもしれない。そんな風に考えたことが無かったとは言わない。
けれど同じリスクというものさしで考えるのであれば、"五十嵐 廉"にかかるそれは“柏原 廉"の比ではない。
普通ならそれを笠に着て、もっと違う振る舞い方をするはず。
うまくやれば、俺を脅す事だって出来る。
彼女の頭の回転は悪くはないし、物事の先を見通す力にも長けている。
だとしたら葵はーー あの女のように俺を欺いているのだろうか?
あの女のように、俺の金だけが、目当てなのだろうか?
今俺の目の前でこんなにも屈託なく笑う彼女が、果たしてそんなことをする人だろうか?
心の中には確かに、彼女を信じたいと思う自分がいる。
けれど信じて裏切られるのはお前だと、そう強く主張する存在の方が大きくて、彼女を信じようとする心がどうしても薄れてしまう。
「廉、冷蔵庫に飲み物って何かある?」
大型の冷蔵庫の前でこちらを振り返る葵。
「うーん、ペリエならあったと思うけど」
「ペリエかあーーー ペリエじゃあ、物足りないなあ」
今日は贅沢してもっとシュワっとするやつ、いっちゃおっかな。
そう言いながら、冷蔵庫の発泡酒コーナーを開けて、どれにしようかな、なんて選ぶ彼女。
「二人で買ったらたくさん飲めるし、だったら六缶入りのやつにしちゃおっかな」
やっぱカレーにはビールだよね、なんて言ってるくせに、彼女が手に持っているのはビールよりも安くつく発泡酒だ。
「割り勘なんだ?」
ビールは重たいから、私が持つね。そう言って、冷蔵庫から取り出した冷たいそれを腕に抱える葵。
そんな彼女に、探るような言葉をかける自分に反吐が出そうだ。
彼女を信じたいと思っているくせに、その反面こうして彼女を試すようなことを口にしている。
そんな臆病でどうしようもない自分が、心底嫌になる。
けれど葵はそんな俺の内心になど、少しも気づいていないらしい。
俺の投げかけた探るような言葉を、そのまま素直に受け取って、
「そうだよ!だからビールも三本ずつだからね!」
そう言ってカバンから取り出したらしい財布を振り回しながら、またあの笑顔で笑う。
その笑顔を見てーーー 俺はもう情けない笑みしか返せない。
嬉しいような、悔しいような、痛いような、苦しいような。
そんな言葉にできない気持ちが、この胸の中で渦巻いて、息がうまく出来ない。
「だったらちょっとリッチに本物のビールにしようよ」
発泡酒ではない、ちゃんとしたビールが並ぶ冷蔵庫を開きながら、葵を手招きする俺。
そんな俺に、先を歩いていた葵が、小走りで寄ってくる。
「おお!廉、いいねいいね!」
たたたたと軽い足音をさせて、俺の横で冷蔵庫を覗き込む葵は、
「いっちょここは思いっきり贅沢しちゃいますか!」
そのまま真っ直ぐ俺を見上げて、子供のような屈託ない顔で笑う。
そんな彼女のーーー
デリバリーするか聞いているのに、庶民派だから自炊がしたいなんて言って、わざわざスーパーを探してまで買い出しにきて、
カレーの中に入れる肉にひき肉を選ぶのは、全体に肉の味がするから、なんて子供のような理屈をこね、
今日は贅沢してビール飲もう!なんて言ってるくせに、選ぶのは安い発泡酒で。
俺の事なんて、本当にただの荷物持ちぐらいにしか思ってなくて。
極々普通に、割り勘だから贅沢しよう、そう言って財布を振り回す。
ーーー その顔を見て、どうして彼女を疑い続けることができるだろうか。
(彼女になら、だまされても、もういいーーーーー )
胸に詰まる思いに、言葉がうまく出てこない。
「そうだよ、思いっきり贅沢しよう」
せっかくのカレーなんだから。
そしてやっとの事で返した俺のその言葉尻が微かに震えていたのを、
ーーー 彼女は気づかないフリをしてにこりと笑って頷いた。
※ ※ ※
「カレーなんてすぐに出来るよ、だから廉は座って待ってて」
キッチンで腕まくりして準備万端の葵はそう言って、廉を振り返る。
「そう?でも俺"お手伝い"っていうの、やってみたいんだよね」
振り返った先に立つ廉は、葵を真似て自分の袖をくるくると巻いて、やる気を見せている。
「うーん、じゃあ廉はサラダを担当してもらおうかな」
そんな廉に苦笑する葵には、廉の初めてのお手伝いがどんな事になるのか簡単に想像がついてしまう。
けれど、分かった、そう言って楽しそうにしている廉を見ていると、自分でやるより倍以上の時間がかかるだろうそのお手伝いも、まあいいか、なんて思えてくるから不思議だ。
二人が横に並んでたっても充分すぎる広さのあるシステムキッチンは、新品同様に美しく輝いている。
そこに並べられた引っ越し祝いでもらったというキッチン道具は、どれもこれも名の知れた物ばかりだ。
「この鍋!いいねいいね!これで煮込んだら早いし、美味しいよ絶対に!」
引き出しから鍋を引っ張り出しては、わいわいはしゃぐ葵の脇で、廉はざぶざぶ音を立ててトマトを洗っている。
「廉、包丁は握った事あるの?」
「勿論、無いよ」
洗ったトマトをまな板の上に置き、握った包丁で自分の指諸共切ろうとしている廉を見て、慌ててその手を抑える葵。
「廉!それじゃ廉の指も切れちゃう!」
「え、そうなの?」
トマトに添えた廉の手は、包丁の真下まで真っ直ぐに伸びている。
「そうじゃなくて、こう!」
「こう?」
その手を横目で見ながら、自分の手で持ち方を実演する葵と、それを真似る廉。
「そうじゃなくって……」
けれどお手伝い初心者の廉は、軽く指を曲げて握るという葵の指と、自分の指がどう違うのかをうまく理解できていない。
そんな廉を見かねて、葵は廉の後ろに回ると、背後から廉の手の上に自分のそれを重ねて、トマトの握り方と包丁の持ち方を実演してみせる。
「ああ、そっか、なるほど」
廉の背が高いので、後ろからぎゅうっと抱きついた上に、横から顔をひょっこり出すような体勢になった葵。
そんな葵を腰の辺りに引っ付けたまま、廉はうんうんと頷いて、やってみていい?と葵の顔を覗き込む。
いいよ、と先を促す葵に、廉は、そのままそこで見ててね、と一言声をかけ、トマトに包丁を滑らせる。
「そうそう!!」
ただただ普通に半分に切っただけのトマトだが、葵は腰元にぎゅっと抱きついて、その出来をうんうんと頷きながら満足げに見つめ、そんな葵を廉もまた嬉しそうに見て笑う。
けれどまるで葵が廉を抱きしめているようなその体勢に、ハッと我に返った葵は、顔を僅かに赤くして、
「よし、じゃあこの調子でどんどんいこー!!」
そう言って廉から離れ、もう一つの包丁へと向かう。
そんな葵をくすくす笑いながら見つめる廉は、葵が僅かに耳を赤くしながらも真剣に野菜のカットに取りかかるのを見て、ゆっくり自分の手元にあるトマトへと視線を移す。
「最高に美味しいの作ろうね!」
タマネギを切ってぐずぐず泣きながら廉の方を向く葵に、うん、と笑い返す廉。
疲れたね、なんて言っていた事など、すっかり忘れ去った二人は、その後もゆっくりと時間をかけてカレーを作る。
「あとちょっとだけ煮込もうかな」
廉の手作りサラダと、葵のカレーがほぼ完成間近になって、二人は一先ず乾杯!と買ってきた"本物のビール"をグラスに移して、それをカチンと重ね合わせる。
「うまく出来てるかな?」
「私が作ったんだから、美味しくないわけないよ」
「そっちじゃなくて、俺が作った方。葵のカレーが美味しいのは分かってるよ」
「廉のも美味しいに決まってるじゃん!味見もちゃんとしたし」
「それに、廉が一生懸命作ってくれたんだから、美味しくないわけないよ!」
リビングに置かれたガラステーブルとソファーの間に、この間のように座り込む葵と、その葵のすぐ後ろのソファーに座る廉。
いい匂いするねー、とビールをちびちび飲みながら鼻をひくつかせる葵に、廉もそうだね、と笑う。
そして二人で他愛も無いことを話しながら、漸く完成したカレーをリビングに運び、今度は二人して先ほどの葵と同じようにラグの上に直接座って、もう一度乾杯をやり直す。
「「どう!?」」
お互いがお互いの作った物を食べて言ったその第一声に、二人は顔を見合わせて笑う。
「美味しいよ」
「廉のサラダも、最高に美味しいよ!」
初めてにしては中々やるじゃん。そう言って廉が作ったサラダをもりもり食べる葵。
その葵の姿を、廉は嬉しそうに眺め、
「俺こういうカレーって初めて食べたかも」
そしてテーブルに置いたカレーをじっと見つめる。
「こういうカレーって?」
廉の声が心無しか沈んでいるような気がして、葵は手を止めて廉の方へ顔を向ける。
その葵の視線を横顔に感じながら、廉はため息のような声音で小さく呟く。
「ーーー 家族の味がするカレー」
その今にも消えてしまいそうな声の後、廉は目を伏せてゆっくりと言葉を重ねる。
「葵もさっき知った通り、俺は"五十嵐"っていうそこそこ大きな家に生まれたから、食事を作るのも、掃除するのも、洗濯するのも全部通いの家政婦がやってくれてたんだ。
だからか、俺には家族って言う感覚があんまり無くて、幼い頃からずっと家族が何なのか良く分かっていなかったみたい。
だけど普通の家に生まれてたら、家族ってもっと身近だったのかなって考えたら、五十嵐の家なんかに生まれなければ良かったなんて思って、そこからはずっとそう思ってた。
小学校も中学校も高校も、どこへ行っても、何をしてても、五十嵐の名前が一番だった。
俺の周りに集まってくる人間はどこに行っても同じで、一つ目は俺に媚を売る人間、二つ目は遠巻きに見て関わってこない人間、三つ目が俺を蹴落とそうとする人間の、その三種類しかいなかった。
だから大学に入ったら、名前を出来る限り伏せて、格好だってもっと野暮ったくして、今までの俺の事なんか誰も知らないところに行こうって思った。
それはほとんど最後まで成功して、俺にはあんまり友達もいなかったけど、でも本当の俺を知ってくれる奴らが友達とーー あと恋人として側にいてくれたから、それで良かった。
それでいいと、思ってた」
静かな、静かな廉の声。
あえて感情を出さないように、押さえつけているのか、その声はまるで何かの本を読み上げてるみたいに、抑揚がない。
けれど廉の膝の上に置かれた手の震えが、抑えきれない感情を葵に伝えてくる。
さっきとは逆みたい。
廉のその手の上に、自分の手のひらを重ねながら、そう思って廉を静かに見つめる葵。
その葵の手と繋ぐように、自分の手のひらを裏返す廉。
先ほどの廉がしてくれたように、葵が優しくその手のひらを握ると、廉も同じ強さで指を絡めてくる。
「でもそう思ってたのは、俺だけだったみたいで、俺の彼女もその友達も、俺が五十嵐の人間だってことは知ってたんだ。
知ってて俺と付き合ってたーーーー そして影で俺を嘲笑っていた。
俺はただの金蔓だって。
あんなダサい奴、誰が好きになるかって。
俺と付き合うのは、親に言われて仕方が無くだって。
そんな風に馬鹿にされてたことも知らずに、俺は本気であいつらを仲間だって思ってた。
思ってたからこそ、本当の事を知ってから、ーー 人を信じるのが怖くなった。
次もまた裏切られるかもしれない。
そんな風に考えてばかりいて、気づいたら誰ともまともに付き合えなくなってた。
その後少しして、五十嵐の名前を捨てて、新しい名前でモデルを始めたけど、結局今度はその名前に集まる人間が増えただけで、あんまり何も変わらなかった」
「本当はずっと、五十嵐でも、柏原でもない、ただの俺を見てほしかった」
そう言って、でも結局誰にも見てもらえないままなんだけどね、と小さく苦笑する廉。
まるで全てを諦めたみたいな表情で、ぼんやりと宙を見る廉に、葵の体がぐっと近づき、そして。
ーーー パシン!
繋いでいない方の葵の手で、葵は廉の頭を思い切り引っ叩く。
「あお、い」
突然叩かれた廉は、驚いたように葵へ視線を向ける。
ぐるりと回した視線の先にいる葵は、怒ったような顔をしながら、それと同時に涙を流している。
「誰にもって、その中に私も含まれてるってこと?」
次から次へと流れる涙を、拭こうともせずに廉を見据える葵。
「廉は私がさっき言ってたこと、聞いてなかったの?」
「私が好きになったのは、"廉"というただの人なので、それ以外は些細なことですって、そう言ったの、聞いてなかったの?」
震えながらも真っ直ぐに廉に向けられた葵の言葉に、目を瞬かせるだけの廉に、葵は、もういい、そう言って繋いでいた手を振りほどいて、カバンを引っ手繰り玄関へと突進していく。
「葵!」
背後から呼ぶ声に振り返りもせずに、靴に足を突っ込んで、玄関の扉に手を伸ばす葵。
その葵の体に、廉の腕が巻き付くように伸びてくる。
「廉!離して!」
抱きかかえられるようにして、動きを封じ込められた葵は、両手をばたばた振り乱して、その腕の中から逃れようと暴れる。
けれどそんな葵の動き全てを自分の中に押さえ込むようにして、その腕にぎゅっと力を込める廉。
「ーーーー もう一回言って」
腕の中で暴れる葵の耳元に唇を寄せて、囁くように、願うように、懇願するように、廉は言葉を集める。
「え?」
強く強く抱きしめられたその腕とは対照的な、その今にも消えそうなほど微かな声に、葵は動きを止める。
「あの言葉を、もう一回言って、葵」
ぎゅっと抱きしめるその腕を、葵はポンポンと叩く。
そんな葵に、廉はまるで離したら消えてしまうと怯えるかのように、中々離そうとしない。
けれどその廉に葵は、
ちゃんと目を見て言いたいから、離して、廉。
そう言ってその腕から抜け出すと、そのまま廉の真っ正面に立ち、
「私が必要としているのは、"廉"というただの人だから、それ以外は全部些細なことよ」
真っ直ぐ廉を見て、そう言い放つ。
今度は届いた?
廉を射抜く葵の視線は、そう雄弁に語っている。
「ーーー 違う。さっきと言ってることが、違う」
けれどそんな葵の言葉に、廉は眉を顰めて首を横に振る。
「俺を好きだって、そう言ってくれたよね?」
あの言葉も、本当?
彼女の"フリ"で言ってくれたんじゃなくて、本心から言ってくれてたの?
玄関の扉を背にする葵と、その正面に立つ廉。
その廉の祈るような声音に、観念したように目を伏せ俯く葵は、ゆっくりと口を開く。
「ーーーーー 本心だったって言ったら、どうするの?」
"お互い本気にはならない"
そう約束したのに、私だけ破っちゃうことになるよ。
「それでもいいの?」
俯いたまま、自分のつま先をじっと見つめる葵。
その葵の視界に、廉の足が映り込み、そしてその一瞬の後、
「葵だけじゃなくて、俺もだから、いいんじゃない?」
そんな言葉とともに、その体は廉の腕の中にまた再び抱き戻される。
「廉、何言って、」
「俺ね、自分に何回も言い聞かせてたんだよね。"葵を信じるな"って」
「え?」
「だって信じたら、また裏切られるかもしれないでしょう」
「ーーーーー 」
「でもね、そんな風に自分に言い聞かせても、もう全然意味がなかったみたい」
「葵と一緒に居るうちに、何でかな、葵になら騙されてもいいやって、そう思ったから」
「廉」
「ーーーー 車の中で葵に好きだって言われて、心臓が止まるかと思ったよ
でもその後すぐに、これは演技なんだって思ったら、今度は胸が潰れるぐらい痛かった」
「私だって、廉が誰にも見てもらえないって言ったとき、胸が潰れたかと思った
それぐらい、痛かったよ」
「じゃあお互い様だね」
「違うよ、全然お互い様じゃないし。廉の方が悪いから、私に謝ってよ」
「何で?」
「だって廉は勝手に傷ついてたんじゃない。私は廉に傷つけられた方だもん。だから廉が悪い!」
「えー、お互い様でしょ」
「お互い様じゃない!」
「お互い様だよ」
「お互い様じゃ、ーーーーー」
「言う事聞かない唇は、こうするしかないよね」
「ーーーーーー チュ、」
「廉!」
「葵 ーーーーー びっくりするぐらい顔が赤いよ」
「う、煩い!」
「もっと良く見せて、葵」
「煩い!煩いうるさい!やだ、やめて、廉!」
「葵、好きだよ、好きだから顔見せて?」
「ーーーーーー」
「ねえ、葵は?言ってくれないの?」
「ーーーー し、知らない!」
「そんな赤い顔で知らないって言っても、全然説得力ないよ、葵」
「煩い!ーーーーーーー 私だって好きだ、ばか!」
「ばかって、子供みたい、葵、ふふっ」
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