Set Fire to the Rain
※手荒れを貶める発言をする表現があります。
お嫌いな方は、ブラウザをお閉じください。
ほとんど揺れる事無く進む黒塗りの車。その中をピンと張られた糸のような緊張が支配している。
口元に微かな笑みを浮かべたまま、葵の正面に座る女性は真っ直ぐに彼女を見つめている。
その女性と目線を合わせて、同じように笑ってみせようとする葵は、けれども向けられる視線の冷たさに、まるで顔が凍り付いてしまったかのように、表情を変える事が出来ないでいる。
口元を微かに歪め、何とか笑顔を作ろうとする葵は、無意識のうちに右手を口元に当てて、瞬きを繰り返す。
その口元にもっていかれた手は、指先が荒れて裂けていたり、赤みをもって腫れているところがある、美容師らしい手だ。
決して美しいとは言えないその手に、葵の正面に座る女性はチラリと視線を投げ、その後自分の手をおもむろに見やると、クスリと小さな笑い声を漏らす。
まるでみすぼらしいと言わんばかりのその笑い声に、葵はさっと自分の手を体の横に隠すように引いて、指先を丸め硬く握りこぶしを作る。
力を入れて握りしめているために、治りかけた葵の指先の傷は再び開いて鋭い痛みを葵に伝えている。
その痛みに気づかぬフリをして、もう一度ゆっくりと唇を笑みの形に動かそうとする葵。
美容師という仕事柄、葵の手には小さな皹がたくさんある。
指先に行けば行くほどその数を増やすそれは、鋭利な刃物で切ったように裂けているものもあれば、治りかけで赤い筋となって残っているだけのものもある。
美容師になってからずっと、葵はこの手荒れと付かず離れず付き合ってきている。
職業病だからと仕方が無いと葵自身も納得はしている。けれどもレジで支払いをする時に、握手で手を差し出す時に、微かに顰められる相手の眉に、ほんの僅かにだけれども、自分の手を恥じる気持ちがあるのもまた事実だ。
けれどそうだからといって、薬品を遠ざけることは出来ないし、水を使わず髪を洗うことは不可能だ。
だから葵は毎日必死になって薬を塗って、これ以上酷くならないようにと、また少しでもマシになるようにと願いながら布団に入る。
この手は自分が一生懸命仕事をしている証のようなもの。
だからそれを決して恥じたりはしない。
恥じたりはしない、けれど、こんな風に笑われるのは、ーーー 辛い。
葵は痛みを堪えるような瞳で、何とか笑い顔を作ろうと唇を動かす。
そんな葵を横目で流し見た廉は、彼女を励ますように、座席の上で硬く握りしめられているその彼女の指に、ゆっくりと自分のそれを重ねる。
決して奇麗とは言えない葵の手。それにそっと重ねられた廉の手は、葵の傷をいたわるように微かに撫でて、握りしめられていたその拳を優しく解いていく。
荒れて微かに血を滲ませているその指先など、少しも気にしていないような廉。
葵が強く力を入れて、これ以上傷が酷くならぬように、廉は葵の手に自分の指を絡ませてゆく。
まるで葵の手を守るように、包み込むように握られるその指先。
その手の優しさにーー 葵の胸に落ちた痛みは溶かされてゆく。
二人の繋がる指先に、葵の正面に座る女性の視線が突き刺さる。
「ーーー 廉」
女性の心無しかうんざりしたような声音が車内に響く。
「何ですか、母さん」
けれど呼ばれた当人である廉の声は、驚くほどいつも通りで、まるで彼女の不機嫌さになど気づいていないと言わんばかりだ。
「一体何時になったら貴方の"良い人"を紹介してくださるのかしら?」
そんな廉の態度に、女性のコメカミがぴくりと引きつる。
「何時になったら?それは貴方がお決めになった"一月先"のはずですよね」
ご自身で日にちまでお決めになったのに、もうお忘れですか?
にこりと笑いながら揶揄うような口ぶりでそう言う廉。
「廉!いい加減になさい!」
貴方と言葉遊びをしている暇など無くってよ。
その声を聞いて、女性は怒りも露に廉を睨みつける。
「いい加減にするのは、貴方の方ですよ。こんな風に無理矢理人を攫うような手口は関心しませんね」
けれどその怒りを真っ直ぐに受ける廉は、少しもそれに堪えている素振りはない。
「ーーー もういいわ、貴方には何を言っても無駄の様ね」
はあ、と小さく息を吐いたその女性は、自分の怒りをのらりくらりと交わす廉から、目の前に座る葵にターゲットを変え、にこりと笑みを浮かべる。
貴方はいったい誰なの?そう言わんばかりに、葵の頭の天辺からつま先まで視線を巡らせるその女性と、葵は冷や汗をかきながらも真っ向から視線をあわせる。
「母さん」
「廉、貴方はお黙りなさい」
自分から葵へと移ったその矛先をもう一度自分の方へ戻そうと、廉が声をあげる。けれど女性はその声を煩いとばかりに遮って、そしてもう一度、廉と葵のその繋がれた手に視線をあわせて、微かにその美しく整えられた眉を寄せる。
「私は五十嵐 佐代子と申します。
そこに座る不肖の息子、廉の母でございます」
冷ややかな視線で葵を見つめ、口を開いたそのーー 廉の母親だと言う女性。
「ーーー 五十嵐?」
その女性の顔は、葵の横に座る男 廉ととても良く似ていて、確かに親子と言われれば何の違和感もなく納得できる。
けれど葵の知る廉の名前は、柏原 廉であって、五十嵐 廉ではない。
不信感を僅かに滲ませた、小さな声でその名前を呟く葵。
「あら、廉はまだこの話を貴方にはいたしておりませんでしたの?」
その声を聞いて、廉の母ーー 佐代子は、婉然と笑んで、その五十嵐について口を開く。
彼女曰く、廉の本名は五十嵐 廉といい、柏原というのはただの芸名なのだということ。
そしてその五十嵐というのは日本でも有数のグループ企業であり、そこに連なるのは、名の知れた銀行や、生命保険会社、そしてさらには不動産企業等の、日本を代表する一流企業ばかりだということ。
「五十嵐に生まれたからには、家の発展に貢献せねばなりません」
最後に、そのグループ企業のトップが、廉の父親であり、ーーー ゆくゆくは廉の兄がその跡を継ぎ、廉もそのサポートにまわるのだということ。
「今はモデルだなどという、子供の飯事のようなことをしておりますが、ゆくゆくは廉も本社に入り五十嵐を守り立ててゆくべき人間なのです」
そう言ったことを、廉の母は美しい笑みを浮かべたままつらつらと話し続ける。
彼女の言葉の中には、どれだけ五十嵐という企業が素晴らしいか、また五十嵐というその名前が由緒あるものなのかが、食傷気味になるほどふんだんに詰め込まれている。
その中の"どうでもいい"五十嵐の事は流すように聞いて、葵は廉のところにだけ耳を澄ませる。
彼女の言葉によって、今まで知らなかった、いくつもの廉の事実が溢れ出てくる。
それを葵は必死になって掻き集めて、自分の中にぎゅうぎゅうと押し込んでゆく。
世界を又にかけるモデルであるばかりか、さらには国内有数のグループ企業の御曹司様。
天は二物を与えずとは良く聞くが、この男に対しては神様も随分と目を瞑ったらしい。
葵はそんな事を考えて、隣に座る廉に視線を向ける。
その葵の視線を受けて、廉は僅かに顔を強ばらせる。
廉の顔は葵の方を向いているけれど、ーー その視線は真っ直ぐに葵の目を見る事は無い。
そんな二人の間に流れる微妙な空気を遮るように、佐代子がまた再びゆっくりと口を開く。
「ねえ貴方、お名前は何とおっしゃるの?」
それとーーー 私の息子とはどういう関係でいらっしゃるのかしら?
彼女は唇に薄く笑みをはいたまま、葵を真っ直ぐに見つめている。
その彼女の視線を横顔に感じながら、葵は微かに唇を吊り上げる。
今の彼女は繋がれた指先から、廉の優しさが流れ込んできたおかげで、自分の手を恥じる気持ちもなければ、目の前の女性に対する恐れも微かな物となっている。
ーー さっきは廉が守ってくれた。
ならば今度は廉を守る番だ。
葵は、廉の母親だという女性にもう一度チラリと視線を投げた後、すぐに廉に視線を戻す。
そんな葵に廉は微かに笑って、頷いてみせる。
ーー これは一体どういうサインなの?
いっちょぶちかましてやれ、ということ?それとも、いやここは穏便にすませよう、ということ?
廉のその不思議な笑みからその真意を読み取ろうと、がっつり真剣にその顔を見つめる葵。
さっきは私を見て微妙な顔をしたくせに、今度は笑って頷くだけだなんて、全くもって意味が分からない。
じいいいと音がするほど廉を凝視する葵。その葵の強い視線に廉は何故か少したじろいだようだ。
パチパチと忙しなく瞬きして、廉はその視線を探るように見つめ返す。
そんな計らずとも見つめ合うような姿勢になっている二人に、葵の正面の女性の表情がさらに険しくなる。
ぎりっと噛み締められた唇が、彼女の今のその気持ちを雄弁に物語っている。
その女性の表情を横目に見た廉は、絡めていた指を持ち上げて、その荒れた指先に唇を寄せる。
「廉!」
ハッと息を飲んで、自分のその指先に口づける廉を食い入るように見つめる葵と、その廉の行動に耐えられないと言わんばかりに声を上げる佐代子。
「何という事を!貴方、そんなところに口を付けるだなんて!」
彼女は葵のその荒れた指先を指差して、今すぐお止めなさい!そう言って僅かに身を乗り出す。
その言葉を聞いて、葵は一瞬痛みを堪えるような顔をした後、
「そうだよ、廉。こんなところに口なんて付けたらダメだよ」
そう言って廉の口元から自分の手を引き抜こうと力を込める。
けれどそんな葵の行動を、優しいけれど有無を言わさぬ力で押さえ込んだ廉は、
「俺にはこの指が何よりも美しく見えるよ」
そう言って葵を真っ直ぐに見つめる。
「だから"こんなところ"だなんて言わないで」
廉の真摯な視線を真っ正面から受け止めた葵は、泣き笑いのような顔で笑い、そしてそのまま軽く頷いてその視線を廉の母親へと移す。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。
私は、廉さんとお付き合いをさせていただいております、仁木 葵と申します」
真っ直ぐに廉の母を見据え、口元に柔らかな笑みをはく葵。
その葵の視線に、廉の母 佐代子はかすかにたじろぎ、そしてフンっと軽く鼻を鳴らすと、
「お付き合いなさっているのに、息子の本名もご存知ないんですわね」
何ともおかしなお付き合いだこと。
そう言って、挑発するような視線で葵を射抜く。
そんな二人のやり取りに、ハッと思わず葵の手から唇を離す廉。
そんな廉を励ますように繋がれた手に力を込めた葵は、廉の母親の挑発になど少しも怯まずーー それどころか、にこりと笑みさえ浮かべたまま、彼女に向かって口を開く。
「私が好きになったのは、"廉"というただの人なので、ーー それ以外は、些細な事なんです」
「ですから本名などという物は、私にとっては特に重要なものではないんです」
その葵のストレートな言葉に廉も、そして廉の母親もまた、ハッと息を飲む。
「ーーー 奥様、お時間です」
そしてその後彼女が何かを言い募ろうと口を開こうとしたその瞬間、助手席に座っていた男の声がそれを遮る様に車内に響く。
その言葉に慌てて周囲を見回す葵は、その景色が見慣れたものであることに気がつく。
どうやら車は廉のマンションへとまわされたらしく、部屋まで歩いて3分とかからないところに、車は再び音も無く停車する。
そして助手席を降りた男が、乗り込んだときと同じように頭を下げてドアを開く。
開かれたドアを見た後、廉に視線を向ける葵。その葵に頷く廉に促されて、葵は車の外へと足を下ろす。
「廉、会食にはそのお嬢さんをつれていらっしゃるおつもり?」
車から降り立った二人を、車内から佐代子の声が追いかける。
「はい」
その声に振り返り、廉は母親と似た顔で婉然と笑んで返す。
そしてすぐさま踵を返すと、横で目をパチパチさせている葵の手を取って、自分のマンションの方へ足を踏み出す。
「ーーー 貴方、自分が何をしているか、分かっていらっしゃるの?」
その二人を、再び佐代子の声が追いかける。
けれど今度は振り返らず、廉は聞こえていない素振りで、マンションへ向かってゆく。
「廉!」
振り返らない廉に、佐代子の苛立った声が覆い被さる。
その声のあまりの強さに、手を引かれるままの葵が、ちらりと視線を後ろに流す。
そこには恐ろしいほど怒りに満ちた表情で、二人を睨むように見据える佐代子の姿がある。
その佐代子の表情を見て、ーーー 葵は思わず、繋いだ手に力を込める。
(廉がこの手を握ってくれる限り、私は廉を守っていこう)
二人の姿がマンションに消えるのを睨みつけるように見ていた佐代子は、おもむろにバッグからケータイを取り出し、手慣れた手つきで一つの番号を選び出し、そこへ電話をかける。
三度目のコール音で繋がったその電話の向こう側へ、一方的に言葉を告げる佐代子のその瞳は、ぞっとするほど冷たく瞬いている。
「ーーーー 私よ、調べてほしいことがあるの」
「廉のお付き合いしている、仁木 葵という女性のことを調べて頂戴」
「お金はいくらかかっても構いませんわ、ーーー 出来る限り早く、調べて頂戴」
「あの女ーーー きっと碌でもない女に決まっていますわ」
要らぬ虫は早く排除しなくてはね。
そう言って笑う彼女の唇はーー 酷く歪んでいた。
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