Rolling In The Deep



 「今度の月曜をオフにしてもらったんだけど、何か予定はある?」


 毎週月曜と金曜日、そして時々日曜日という決まった休みの葵と、撮影やショーのスケジュールにもよるが、それでも彼女よりは休みに多少融通が効く廉。


 「ううん、無いよ」


 だから二人で出かける時は大抵、廉が休みを合わせ、そしてその後葵に確認を取って出かけることにしていた。

 もう既に、二人が偽装恋人の契約を交わしてからは、より本物に近づけるためにと言って、何度か一緒に出かけているため、葵も自分の休みの日には極力予定を入れないようにしていた。


 「じゃあまたどこか出かけようか」


 それに二人は休みの日だけではなく、例えば葵の仕事終わりなどにも、何度か一緒に食事へ行っていた。

 食事をする日は、朝に廉からご都合伺いの連絡が入る。

 そしてそのまま廉が店を予約したり、時には葵が知り合いの店を紹介したり、あるいは予約などせずにぶらぶらうろついて、デパ地下なんかで買った物を薄暗い公園で食べたりする。


 「いいよ。どこに行く?」


 最初に決められていた廉の両親に会う日が一月後ということもあって、二人は出会ってからこちら毎日のように連絡を取り合い、三日と開けずに食事やどこかに出かけている。


 それが多いのか少ないのかは、今までたった一人としか付き合ったことがない葵には、判断がつかない。





 けれど、

 まるで本当の恋人のように送られるメール、見つめられる視線、差し伸べられる優しい手。

 廉から贈られるそれらに触れる度に葵は、もしかしたら自分は本当に大切にされているのでは、と勘違いしそうになって、その度葵は自分自身に、これは"フリ"なのだと言い聞かせる。


 どうせ期限が来たら切れる関係なのだ。

 そう頭では分かっていても、心がそれを裏切って勝手な行動をする。


 ーーー 廉の優しさを信じたいと思う心が、信じたところで無駄だと諭す理性を簡単に裏切ってしまう。



 「俺はどこでもいいよ。葵に行きたいところがあるなら、そこにしよう」


 今目の前に居る人と、過去に一緒に居た人を比べるのは、よくないと分かっていても比べてしまう。

 今まではどこかへ出かける時に、希望など聞かれた事はなかった。

 いつも裕吾が行きたいところに行き、葵の行きたかったところには一度だって一緒に行った事はない。

 それが当たり前なのだと思っていた。

 二人の関係を長く続けるためには、どちらかが我慢する必要があるのだと。

 そしてそうするのは、いつだって自分なのだ、と。


 「私は前も言ったけど、行きたいとこは美術館とかそういうところだから、廉には退屈だと思うよ」

 「そうでもないよ。それに葵が楽しそうにしてるとこ、見てるだけで俺も結構楽しいしね」


 だからこんな風に優しくされることに慣れていないから、それを当たり前のように差し出されると、どうしていいか分からなくなる。



 「じゃ、じゃあ、次は期間限定の展覧会でもいい?面白そうなのやってて観てみたいって思ってたんだ」

 「いいよ。どこでやってるの?」

 「これはね、えっと、ミッドタウンガーデンでやってるみたい」

 「分かった。じゃあそこに行こうか」


 枕元にある時計は、夜の12時半を指している。

 メールだけの日もあれば、こうして電話をする日もある。

 それを楽しみに感じるようになったのは、いったいいつからだっただろうか。


 「うん!ありがとう。あ、でもミッドタウンってすごい人だよね、そんなところに私と行って廉は大丈夫なの?」

 「大丈夫だと思うよ。それにもし気づかれたとしても、俺は芸能人じゃないから問題はないしね」

 「え、そうなの?でも一応私も変装とか、した方がいいんじゃないの?」

 「葵が変装するの?ははっ、それ面白そうだね。

  本当は変装なんて必要じゃないけど、俺が変装した葵を見てみたいからしてくれる?」

 「面白いって・・・必要じゃないならしなくてもいいじゃん」

 「そうなんだけど、俺が見たいんだよね、葵の変装」

 「うーん、分かった、じゃあしてみる。でも大した変装なんか出来ないよ。

  せいぜい眼鏡かけて帽子かぶるぐらいだけど、それでもいいの?」

 「いいよ。じゃあ俺も眼鏡と帽子かぶっていってお揃いにしようかな」

 「お揃いにしたら目立っちゃうんじゃないの?」

 「まあまあ、細かい事は気にせずに、ね」


 電話越しに廉の微かな笑い声が響く。

 廉はあのがらんとした部屋の、あのソファーにかけながら電話をしているんだろうか。

 それともあの大きな窓から、外の景色を見ている?

 廉の事を考えるたびに、近づきすぎてはいけない、と自分自身を止める声が、頭の奥底で響く。


 近づきすぎると、戻れなくなってしまう。

 だから近づきすぎては、いけないと。


 「そう?まあ廉がそう言うなら・・・」

 「そうそう。じゃあ待ち合わせは10時にしようか」

 「うん、分かった」

 「それじゃ、また月曜日にね。お休み、葵」


 「お休み、廉」


 だからそれ以上近づかない様にと、その場から動き出さぬ様動きを止めていると、その奥でもう一人の私が笑ってこういう。




 ーーー もう、遅い。と。








   ※    ※    ※









 待ち合わせた場所で、手元の時計を見ながら葵を待つ廉。

 その廉の元に、時間ぴったりに葵が息を切らしながら駆け寄ってくる。


 今日の二人の格好は、お揃いにしようと言った廉の言葉通り、伊達眼鏡と帽子をかぶった変装スタイルだ。

 それに加えて偶然にも、二人ともデニムのシャツを羽織ってきており、それもまるで二人で揃えてきたかのような格好になっている。

 そんな自分たちの姿を見て、待ち合わせ場所に来るなり、声を立てて笑う葵。

 歩きやすいようにと思って履いてきたスニーカーも、色と形は違うけれど同じメーカーの物で、こんなとこまでお揃いになっちゃってるね、なんて言いながら自分と廉の靴をくっつけている。

 汚れ一つない廉の靴と、履き潰されて少しくたびれている葵の靴。

 その二つの靴を見比べて、私の靴汚い、なんて笑っている葵に、廉は、変装似合ってるね、と声をかけ、彼女を促して会場の中に入る。




 月曜日ということもあって、展覧会の会場にはまばらにしか人がいない。

 そのまばらな人に紛れるようにして、葵と廉の二人も展示されているものたちを眺めている。


 入り口で渡されたパンフレットを眺める廉と、手に持っているスケッチブックに走り書きをしている葵。

 葵のカバンの中にはいつだってスケッチブックが入っていて、美術館や博物館、または展覧会などに行く時には、彼女はそのスケッチブックに必ず何かを写し取って帰ってくる。



 気に入った物があれば、細部まで細かく書き写す為に、全て見終わるまでにはかなりの時間がかかる葵。


 一番始めに葵と廉が美術館に行った時には、廉を待たせては悪いと思った葵は、気になった物があっても、さほど時間をかけずに軽くスケッチする程度に留めていた。

 そんな葵の姿を見て、いつもこんな感じなのだと思い、何も考えずに自分の見たいペースで歩いていた廉。

 けれど途中ベンチに座って休んでいた時に、その葵のスケッチブックを借りて中を見た瞬間、廉はその考えを改める。


 一つのページに三つ、四つぎゅっと、また時には丸々一ページを一つの絵画やオブジェのスケッチで費やされたそれは、今日彼女がスケッチしている物とは比べ物にならないほど精緻に描かれていた。

 それを見て、廉は彼女が自分を慮っていることを悟り、そして隣に座る葵の顔を見た。


 廉から真っ直ぐな視線が向けられている事に、少しも気づいていない葵は、いつもよりも満足に描けていないことになど、少しも気にした素振りも無く、いやーやっぱりいいねー、なんて笑いながら、きょろきょろと辺りを見回している。

 そんな葵を見て、廉は彼女の表に出ない優しさに小さく息を吐き、そしてそれ以降は葵が気になっていそうな物のところでは長く立ち止まったり、またあるいはその場から離れたりして、彼女が満足するだけの時間を作るようにした。



 ベンチで休憩してから、廉の歩くペースが落ちた事に、所々立ち止まってスケッチをしている葵もすぐに気づき、隣に立つ廉を伺うように見上げる。

 「描きたいだけ描いてていいよ。俺の事は気にせず、空気とでも思っていてくれればいいから」

 何で急に遅くなったの?とでも言いたげな葵に廉は笑って、小さな子供を励ますみたいに、葵の頭をくしゃりと撫でる。

 「でもそうしたら、すごく時間かかっちゃうし、廉に悪いよ」

 廉の手を受けながら、手に持っているスケッチブックにぎゅっと力を込める葵。

 「どれだけ時間がかかってもいいよ、別に急いでいるわけでもないしね」

 そんな葵の頭をくしゃくしゃした後、そのままほつれている彼女の髪を耳にかけながら廉は、

 「でも途中でどうしてもお腹が減って俺が倒れそうになった時は、葵も一緒に食事に付き合ってね」

 そう言って笑う。

 「勿論!それともし途中で休憩したくなった時も、遠慮なく言ってね」

 私一つのことに集中すると、周りが全然見えなくなるタイプだから、廉が疲れててもきっと気づいてあげられないと思うし。

 その廉の笑顔に力強く頷いて、葵は拳を握りながら廉を見上げる。

 そんな葵に、うん、分かった、と頷いて、廉は葵に先を促す。


 それからは二人が美術館などに行く時は、いつだって丸一日をそれに費やすようになった。




 写真が撮れるゾーンでは、廉もじっくり立ち止まって何枚か写真を撮る。

 そんな廉を真似て、葵も撮影が許可されているところでは、デッサンを止めて写真を撮るようになった。

 そしてそんな二人が、館内を見終わった後に取った写真を見せ合うようになるのは、極々普通の流れだった。


 葵の撮る写真は大きなオブジェの一部分だけをフォーカスしたものや、何も飾られていない廊下に差し込む木漏れ日であったり、イスの足下に出来た影だったりで、ぱっと見では何を撮っているのか良く分からない物が多い。だからその写真を見る廉はいつだって、何これ、と笑いながら一つ一つを指差し葵に尋ねる。

 そしてそんな廉が撮る写真は、会場全体を適当に撮ったものや、一風変わったオブジェなどをこれまた適当に収めたもの、またそれらを一心不乱にデッサンする葵を撮ったものたちだ。

 廉に撮られた葵の視線は、真っ直ぐに目の前だけを見ていて、まるでそこに廉がいることなどすっかり忘れてしまったようにさえ見える。

 その自分を見て葵は、何か変な顔してるこれ、と恥ずかしがって隠そうとし、そんな葵に廉は、そうかな、と微かに首を傾げながら写真を見つめていた。





 微かに口元を緩ませながら、自分の撮った写真を眺めている廉の横顔を見ながら、葵は廉に向かって勝手に走り出そうとする心を必死で抑えこむ。


 いつだって自分の希望を聞いて、美術館や博物館、それに古書店巡りなどに付き合ってくれる廉。

 探しているデザイナーの本があれば、一緒に古本屋で探すのを手伝ってくれ、時には私が気に入りそうだと思ってといって、廉のオススメの絵画展のチケットを贈ってくれて、一緒に行ってくれたりもする。


 もっと女の子らしいところにーーといっても、それがどこなのか、ちっとも思い浮かばないのだけれど、でもそう言ったところに誘えればいいのに、それがどこなのか分からないから誘いようも無くて、だから結局いつも自分の趣味にばかり付き合わせてしまう。


 いつも自分ばかり楽しんでいるから、次こそは廉を楽しませてあげたいと思うのに、そうしてあげられない自分が情けなくて、胸が痛む。

 そもそも私と一緒にいて廉は楽しいのだろうか?

 そんな風に考えて、すぐさま頭を振って、これはあくまで"フリ"なのだから、彼にとっては楽しいも何も無いだろう、とすぐにその考えを打ち消す。


 頭の中をぐるぐる廉が回って、気がつけばいつでも廉の事ばかり考えている。

 与えられてばかりで、だから何かを返したいと思うのに、そう出来ない自分が歯がゆくて仕方が無い。

 どうにかして廉にーー。そんな事を考えて、そしてまた堂々巡りのように"これはフリなのだから"という結論に至って、鋭く走る胸の痛みを押さえ込む。


 けれどーー

 こんな風に廉の事ばかり想っている時点でーーー 最初に決めた約束を、少しずつ破りかけている自分に嫌でも気づかされてしまう。




 廉と出会うきっかけになった、裕吾との別れ。

 あんなに泣いて、泣いて、泣き喚いて、自分を振った裕吾を、そして無様に振られた自分自身を消し去りたいと思ったのに。

 なのにその思いは、廉との日々を過ごすうちにすっかり消えてなくなってしまった。


 ふとした瞬間に送られてくるメール。夜にかかってくる電話。何度も一緒に食事をして、お互いの好き嫌いを知ったり、どこかへ出かけてその趣味を共有したり。

 そんな風に一緒に過ごしているうちに、自分の中にある裕吾との記憶が、少しずつ廉とのものに上書きされていき、気がつけば裕吾との思い出がもうほんの僅かしか残っていないことに気づく。


 だから、今ではもう裕吾の事を考えても、胸が痛む事はないし、彼の為に流す涙ももう、枯れ果てた。



 廉と出会えた事によって、裕吾との傷は癒され消えた。

 癒されて、もう何も煩う必要もないはずなのに。


 なのにーーーー 今は、確実にやってくる次の別れに怯え、震えている。






 気がつけば廉の両親と会う予定の日まで、もう半月を切ってしまっている。


 "本気にならない"


 一番始めのこのとんでもない契約をスタートした時は、住む世界が違うモデル、"柏原 廉"になど、本気になるわけがないと高をくくっていた。

 自分は不細工だと言われて振られたのに、ミラノやパリで活躍するモデルに本気になるほど、馬鹿ではないし、身の丈を知っていると思っていた。


 普通にしていれば出会うはずも無い、住む世界が違う人間。

 その人と一ヶ月間だけ振りをして、自分の夢を叶える為のヘアーモデルになってもらう。


 それ以上無いはずだったのに。


 なのに ーーーーー



 なのに、少しずつモデル"柏原 廉"ではない、ただの"廉"を知り、その優しさに、暖かさに触れるうちに、自分の中で生まれてはいけないものが、芽吹いてきてしまった。


 このままではダメだ。そう思って距離を取ろうとしても、本当の恋人のように振る舞う廉に気持ちが引きずられて、全くもってうまくいかない。



 あの天下の柏原 廉なんだ。

 女一人本気にさせることなんて、わけも無い。

 それも振られたばかりで、さらには今までに一人としか付き合った事が無い、恋愛偏差値の低い女だ。

 いい気持ちにさせることなんか、赤子の手を捻るより簡単だろう。


 これは全部演技だ。

 何でも無い時に送られてくるメールも、優しい言葉も、この"偽装"のおまけみたいなものだ。


 相手はあの柏原 廉なんだ。

 何時間もかかる美術館鑑賞にだって、一つも嫌な顔しないのも。

 一緒にご飯を食べて、私を欲張りだって笑う、その笑顔も。

 階段から落ちそうになった時に、慌てた顔して助けてくれた、その態度も。


 全部、嘘で、


 全部、演技なんだ。



 そう何度も何度も頭の中で繰り返して、勘違いしそうになる自分を必死に押さえつける。


 この優しさも、繋ぐ手の温もりも、期限が過ぎれば消えてなくなってしまう。

 だから本気になど、なるな。

 そう必死になって自分に言い聞かせる。



 ーーー 言い聞かせていないと、もうどうしようもないところまで来てしまっている。







 「葵」

 会場の出口で足を止めた葵を振り返って、廉が自然な態度で手を差し出す。

 その手を握り返して、葵は少し引っ張られるようにして足を前に進めてゆく。


 「あれ、モデルの廉じゃね?」

 「うそ、本当?」

 「いや、マジで廉じゃん」

 「一緒にいるの彼女?」


 ゆったり歩く廉に手を引かれながら進む葵。

 そんな二人の後ろから、廉に気づいたらしい人たちの声が追いかけてくる。


 「彼女もモデル?」

 「いやー、違うだろ、だって体系が」

 「そっか、だよな、あれでモデルとか無いよなー」


 葵が変装しているおかげでか、顔までは見られていないようで、ひそひそと囁かれているのは彼女の体系や格好のことばかりだ。


 顔を見られていたら、不細工すぎて廉に変な噂が立ってしまっていたかもしれない。それを考えると変装をしていて正解だった。

 そう思ってホッと小さく息を吐いた葵に、廉は微かに口元を歪めて、そして繋いでいる手に力を込めて彼女の体を自分の方へ引っ張った。


 「えっ!!」

 「うわ!」

 「何あれ、すげー大胆!」


 道の途中で抱き合っているような体勢になった二人を見て、後ろを追いかけてきていた人たちがざわめく。

 これはマズい!そう思ってその腕から逃れようとする葵を、廉は片手で簡単に押さえ込む。


 「廉!ちょっと!」


 こんな不細工と噂にでもなってしまったら、廉のイメージが崩れる!

 モデル柏原 廉のイメージを守ろうと、必死になって暴れる葵に、廉はあろう事か、


 「葵、ちょっと大人しくしてて」


 そう言って内緒話をするみたいに顔を近づけ、何故かそのまま帽子と眼鏡の隙間に、唇を押し付ける。


 「うわっ!!」

 「マジかよ!」

 「すげー!!」


 その瞬間後ろを着いてきた人たちが一斉に大声を上げる。


 声からすると男ばっかりみたいだから、えと、まだ女の子に見つかったんじゃないからマシかな、いや、でも、見つかってたらそんなの関係ないか、ていうか写真撮られてたらどうしよう、ケータイ壊してでも破棄しないと、そうだ、とりあえず携帯を奪おう、それから中をチェックして、


 廉の唇をなぜか額に感じているというその状態のまま、葵の頭の中をいろいろな事が高速で飛び交って行く。




 と、いうか、


 「廉!長いっ!!」


 いつまでデコにチューをしてるんだ、廉!今はそんな場合じゃないでしょ!


 少し焦った風な葵の声に、漸く唇を外した廉は、そのまま彼女の頭を自分の胸元に抑えつけるように手を回してぎゅっと力を込める。

 そのせいで、ぼふっと音を立てて廉の胸元に抱きつくような格好になった葵。


 その彼女の頭の上から、廉の冷たい声が響く。


 「一言だけいいかな?」


 その声が向けられた先に立っているのは、二人を追いかけてきていた男たちだ。

 彼らは先ほどあれほどまでにざわめいていたのに、今はまるで息をひそめて一言も発する気配がない。


 「俺の事は何を言おうと構わないけど、ーーー でも、彼女を傷つけるなら、俺も黙ってないよ」


 息をのむようにして、廉の冷たい視線を真っ向から受ける彼ら。

 その彼らに向かって廉の言葉が冷たく響き、そしてその後何事も無かったかのように包容を解いた彼は、また再び葵の手を引いて歩き出す。


 真正面から廉の冷たい怒りにさらされた男達はもはや、足を進める二人を追いかけることなど出来ないようだった。





 「ごめんね、葵、嫌な気分にさせて」


 男達を置き去りにするようにして少し歩いた廉が、葵の方に視線を落としながら、そう眉を潜める。

 そんな廉に、


 「いやいや、こっちこそ、廉を嫌な気分にさせてごめんね」


 葵は首を振りながらそう答える。



 「嫌な気分になんて、俺はなってないけど」


 心無しか落ち込んだ声音の葵を励ますように、廉は繋ぐ手に少し力を込める。


 「でも一緒にいるのが私じゃなかったら、廉もこんな思いしなかったかもしれないし」


 やっぱ不細工は、後ろ姿でも伝わっちゃうんだね、いやはや参りました。

 その廉の手を、微かな力で握り返す葵は、そんな風に言って自虐的に笑う。



 「そんなこと、」


 「ーーーーー 廉」



 ない、そう廉が続けようとしたその声を遮って、彼の名を誰かが呼ぶ。



 その声の持ち主を知っているのか、廉はあからさまに表情を曇らせ、そして声の聞こえた方に視線を向ける。


 廉の視線の先には、大型の黒い車が停まっている。

 いつから停まっていたのか分からないほど、音も無く現れたその車の後部座席の窓が降り、その向こう側にいる、遠目から見ても美しい顔立ちをした女性が廉を真っ直ぐに見つめている。


 その女性の微かに眉をひそめている表情は、ーー 葵の隣で表情を曇らせる男 廉にとても良く似ている。



 彼女は廉から視線を外さずに、


 「お乗りなさい」


 そう吐き捨てるように言い放つ。

 そしてそれと同時に彼女のその言葉を受けて、助手席に座っていたスーツ姿の男が車を降り、廉に向かってドアを開いて頭を下げる。

 けれど呼ばれた廉は車の中の女性にぴたりと視線を合わせたまま、その場に立ち尽くしている。


 少しも動く気配のない廉に焦れてか、女性がもう一度彼を苛立ちの混じった声で呼ぶ。


 「廉、いい加減になさい」


 その言葉に反応してか、葵の手を握る廉の手の力が少し強くなる。

 そして諦めたように、ーーー 廉は葵の手をつないだまま、その車の元へ一歩ずつ足を進める。


 「廉、ちょ、ちょっと」


 そんな廉に引きずられるようにして、車へと連れて行かれる葵は、自分に一体何が起こっているのか少しも理解できていない。


 「ごめんね、葵、一緒に付き合ってくれる?」


 そう疑問系で聞きながら、最早決定しているかのように繋いだ手の力を少しも緩めずに、開かれた扉の前に立つ廉。


 「え、ちょ、なんで、」


 車の中から廉を呼んだ女性は、今度は葵を睨むように見つめている。

 その廉と良く似た顔に浮かぶ青筋を見て、葵は顔を青ざめながら隣に立つ廉を仰ぎ見る。



 「こんなところで呼び止められては困ります、ーーー 母さん」



 その葵の視線をばっさりと切り捨てて、廉は車に葵の手を引きながら乗り込んで行く。


 美しい皮の張られた向かい合わせの4シート。

 運転席を背にして、廉が座りその隣に葵、そして葵の向かい側に廉が"母さん"と呼んだ女性が座っている。


 女性は真っ直ぐに葵を見つめ、そしてゆっくりと唇に微かに笑みを浮かべる。

 その驚くほど冷たい笑みに、葵は体の芯から震えあがる。


 そしてその笑みから逃れようと、今にも車から飛び出そうとするその目の前で、ーーーー 無情にもドアは微かな音を立てて閉じられる。






 そして彼らを乗せた車は音も無く発車し、後の葵が、今まで生きてきた中で一番長く感じたといった三十分のドライブは、こうして唐突にスタートしたのだった。






 (ちょっ、ちょっ、ちょ、なんだこの展開は・・・・!)


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