Rumour Has It



 大きなガラス窓の向こうには、真っ赤な太陽がゆっくり沈みゆく姿が見えている。





 誰が見ても本当の彼氏彼女だと思うように、お互いの事を一つでも多く知っておこうと提案した廉に、じゃあお互いに一つずつ交代で質問し合おうと返した葵。


 「じゃあまずは俺からね。葵の歳は?」

 「来年の2月で29になるアラサーですよ。廉は?」


 お互い敬語も辞めて、自然に振る舞おうと言う廉の言葉に頷いて、葵はぎこちない敬語から自然な口調に切り替える。


 「俺は10月で26になるよ。俺のこと、どこまで知ってる?」

 「有名なモデルってことと、10月生まれの25歳ってことぐらいかな。もしかして廉って、かなりの有名人なの?」


 ガラスのテーブルとソファーの隙間の、毛足の長いラグの上に座る葵と、その斜め後ろ辺りのソファーに浅く腰掛ける廉。

 夕飯時ということもあって、何か頼むかと聞いた廉に返事をしたのは、葵の腹の虫だった。その音を聞いた途端、声を上げて笑った廉。


 「街を変装無しで歩いたら、10分で囲まれちゃうぐらいには、有名かな。というか、葵って本当に俺の事全然知らないんだね。

  仕事柄そういう情報には詳しくなるんじゃないの?」

 「えっ!そ、そうなんだ・・・それは中々だね・・。

  美容師仲間でファッションが好きな人は詳しいかもだけど、私はどっちかと言えばヘアーオタクで、有名スタイリストとかそういう人とかばっかり見てるから、あんまり詳しくないかな。

  あっ、廉はなにオタク?」


 そんな廉は様々なデリバリーのチラシを持ってきて、葵に手渡す。

 葵はその中からピザやパスタの載っているものを手に取って、中を隅から隅まで吟味している。


 「・・・・何でそこで俺が何かのオタクだっていう前提で聞いてくるの?」

 「え?あれ?もしかして、オタクじゃなかった?」


 ペンケースから出した黒いペンで、チラシに丸をつけていく葵の手元を、廉は背後から覗き込むようにして見ている。


 「ーーー オタクって程じゃないけど、まあ、何て言うか、収集癖が人よりちょっとだけ強いとは思うよ」

 「収集癖?例えば何の?」


 その言葉を聞いて背後に座る廉を振り返った葵の眼からは、好奇心が溢れかえっている。


 「例えば、海外のパブのコースターとか、切符とか、ポストカードとか、そういう何でも無いものばっかり集めてるよ」


 見る?そう首を軽く傾けて尋ねた廉に、葵は思い切り首を縦に振りながら、うん!と答える。

 分かった。そう言って廉はソファーから立ち上がり、部屋の隅にあるラックからB4サイズのスクラップブックを手に取る。

 顔の造形は勿論のこと、爪の形まで美しく整った廉が差し出すそのブックは、そんな彼が持つと違和感を感じてしまうような、くたびれて日焼けしたものだった。


 はい、と手渡されるそれを両手で大事そうに受け取る葵。

 日焼けのせいでか、端が今にも破れてしまいそうなページもあるそのブックを、葵は丁寧に開いて眺める。

 そこには、不思議な絵が描かれているポストカードや、どこを走っているか見当もつかない列車の切符の半券、ビールに濡れて端がよれてしまっているコースター、パブのリーフレット、植物園のチケットの半券、そういった物達が所狭しと貼付けられている。


 「うわあ!すごい!」

 所々にパブの名前らしき文字や、列車の目的地などが雑に書き込まれているそれは、まるで子供がお気に入りを片っ端から集めて貼ったみたいに、めちゃくちゃだ。

 「これはどこ?」

 そのスクラップブックを隅から隅までじっくり見ながら、葵は興奮を隠しきれない瞳で、そこに貼られている美しい建物の描かれたポストカードを指さして、廉を振り返る。

 「これは、カナダのモントリオールにあるノートルダム大聖堂だね」

 廉がよく見えるように、スクラップブックを横にずらす葵。その葵の横から覗き込んで答える廉の瞳は、その時の事を思い出しているのか、楽しげに細められている。

 「じゃあこれは?」

 「これはドイツのパブのコースターかな」

 「へえ!何だか不思議なデザインだね。面白いなー」

 葵は次から次へとカードやリーフを指さして廉を振り返る。

 その葵の瞳に写る廉は、モデルの柏原 廉ではなく、ただの一人の柏原 廉という男だ。


 「そうだね」

 その当たり前なのに新鮮な事実に、廉は自分の胸のどこかが引っ掻かれたような感覚を覚える。

 何だかくすぐったいような、少しもやもやするような、そんな何とも言えない感覚から逃れるために、廉は思い出したように口を開く。


 「そういえば、どれを頼むか決まったの?」


 その声に、ハッとなって先ほど丸をつけていたチラシを手に取る葵。

 二人で食べるには多すぎる丸のつけられたそれに、廉はため息を吐いて、


 「・・・・食べられる分だけしか、頼んじゃだめだよ」


 そう言って手元に電話を引き寄せた。





 「いつもこんなのばっかり食べてるの?」

 モデルなのに、そんなのでいいの?まるでそんな風に言わんばかりの葵。


 「まあ、大体そうかな」

 作るより頼んだ方が楽だしね。

 そんな葵に笑って答える廉は、右手と左手の両手に違う種類のピザを持っている葵を見てくすくす笑う。


 「別に葵の分まで取って食べたりしないよ」

 「これはね、そう言うのじゃなくて、ただ純粋に食べ比べしてるだけだから」


 そんな廉をキッと睨む葵は、そう言って、


 「おいしかった方を、家でも作れるように、じっくり味わってるの」


 また両手に持つピザをもぐもぐと頬張る。


 「家でピザなんか作るの?」


 そんな葵に眼を見開く廉は、まるで信じられない、と言わんばかりに驚いている。


 「作るよ。私こう見えて、結構なんでも作れるんだからね」


 ピザだって生地から作るタイプだし。そう言ってにししと笑う葵の表情は、まるで28とは思えないほど子供染みている。


 「じゃあ、その腕前はどれぐらいなの?」

 「凝った料理は無理だけど、普通の料理ならそこそこ旨いって言われるよ」


 味は薄いみたいだけど。

 そんな葵に笑って尋ねる廉。その廉にそう答えた瞬間、僅かに陰った葵の顔を見て、廉は、


 「じゃあ今度食べさせてよ。葵の手料理」


 彼女の手料理一度も食べてないって知られたら、マズいからね。

 そう言って、その顔に気がつかなかったみたいに葵を茶化す。


 「いいよ!食べさせてあげる」


 私もいろいろ学習したし、今度は味も濃いめに作るわ。

 廉のその穏やかな気遣いに微かに息を吐いた葵は、そう言って今度は何かを吹っ切ったようににこりと笑う。


 その笑みを見て、同じように笑って頷く廉。


 「その代わり、残したら許さないからね」


 その廉の優しさに、葵はわざと戯けたようにそう言って、またピザを一枚口の中に詰め込んだ。










   ※   ※   ※







 葵の働くdélicatは、街の中心から少し外れたところにある、こじんまりとした美容室だ。

 スタッフは4人だけで、その4人全員がスタイリストとして働いており、アシスタントは居ない。

 席の数もたった5席だけだが、そもそもスタッフが4人しかいないために、店は基本的に満席になることはない。


 彼らはデリカのオーナーの個人的趣味から、皆デザイナーと呼ばれている。

 ヘアスタイルをデザインするんだから、デザイナーだろう!と豪快に笑うオーナーの山田 明は、いい歳をしたおっさんのくせに、無精に伸ばした髪をワイルドヘアーだと言い張って聞かない、子供みたいな内面を持つ男だった。

 美容室のオーナーなのに、そんなぼさぼさの頭で業界誌に出るのはやめてください!と悲鳴をあげるスタッフを、笑って煙に巻く山田はその反面、デリカの他にも、hardi、harmonie、erêer、étincelleという4店舗を都内に構える、やり手のcouperグループ代表としての顔もまた併せ持っていた。


 デリカ以外の4店舗は全て、都内の一等地に建ち、スタッフ数も席数も充分に備える、いつも中々予約が取れないと評判の人気店だ。

 スタッフの中にはファッション誌の専属ヘアメイクとして活躍する者も多く、また店自体も顧客に女優やモデルを抱えていることもあって、その知名度は抜群で、都内ではファッションに興味がある者なら知らぬ者の少ない超有名店だった。


 しかし葵の働くデリカはそれらの4店舗と同じクーペグループに属してはいるが、その実名前もグループのホームページに載せられていない、隠れ家サロンであった。


 広告も一切打ち出さず、純粋な口コミだけで続く一風変わった経営スタイルを取るデリカ。

 そこは働くスタッフ達もまた、皆変わった者たちばかりが集められていた。




 規模も売上げも人気も超一流の有名店であるクーペグループのトップデザイナーとして働く事は、クーペグループ内では勿論、美容業界でも成功者として認められることだった。

 毎日彼らを希望してやってくる顧客は引きを切らず、仕事に対する充実感は勿論、形として月々にもらえる歩合制の給与もその辺りのサラリーマンとは比べ物にならない。


 デリカで働く4人のスタッフも皆、元々はクーペの別の店舗で超人気のトップデザイナーとして働いていた。


 そしてそんな彼らの全てが、オーナーから直接、ちょっと面白い店舗があるから、もし良かったらそこで働いてみないかという打診を受け、ただ単純に、面白い店?なんだ、そりゃ。そんな風な純粋な好奇心から売れっ子デザイナーという花形のポジションを降りて、デリカへやってきた変わり者たちばかりだった。



 デリカはオーナーの山田がクーペグループの中に作った唯一の道楽の為の店だ。

 生産性を求めず、効率を顧みず、自分の選んだお気に入りのデザイナー達がのびのびと働ける環境を整える。ただそれだけをモットーに作られたその店は、だから希望すれば必ず配属されるというわけではない。

 他の4店舗への配属は各店の店長達の会議で決まるのに対し、デリカへの配属はオーナーの意向のみで決定される。


 腕のあるおもしろいデザイナーが働く、おもしろい店が作りたい。

 そんなよく分からないコンセプトをもとに作られたデリカ。

 そこに面白い店があるから働いてみないか、というただそれだけの打診で、花形のポジションを降りていそいそとやってくるのは、どこをどう考えても変わり者以外には居ないだろう。


 だからデリカには一風変わった者達ばかりが集まっている。



 デリカでは基本的に、デザイナーは自分の客は自分で、最初から最後まで担当する。

 カットは勿論、シャンプーから仕上げまでを一人で担当するので、一日にたくさんの客数をさばく事ができない。だから予約の電話をもらっても断ることも度々だ。

 それに加えて彼らのカット料金は、他の店と比べても少し高めに設定されている。

 それ故たかがカットにそんなに払えない、という者はデリカへはやってこない。

 予約が中々取れなくともじっと我慢し、なんとか予約の取れた日に、必ず決まったデリカのデザイナーを指名する、そう言った者たちが、そこへ決まった周期にきっちりと顔を見せる。



 デリカのデザイナー達は、自分たちの仕事に誇りを持って働いている。


 店長である梅谷 晋太郎の腕前は、退いて何年も経つクーペグループの本店 アルディで、未だにゴッドハンドと呼ばれているぐらいだ。

 癖毛を切らせたら梅谷の右に出るものはこの地球上に居ない。

 そう自分自身で言って憚らない梅谷であったが、その腕前は確かにその言葉を僅かも裏切らない。

 黙って髪を切らせていたら、その野性味のある男臭い容姿も相まって、いい男に見えるのだが、如何せん下半身が非常にだらしがなく、常に何人もの女を抱え、バッティングさせては殴られて顔に痣を作っているため、梅谷は仕事以外では全く尊敬されていない。


 そんな梅谷を拳を交えながら厳しく、また時には僅かな飴をちらつかせて躾けるのは、副店長である芦谷 敬一だ。

 梅谷とは対照的なノーブルな容姿と、上品な物腰でもって、デリカのくせ者ぞろいのスタッフを巧く纏め上げるその手腕は、眼を見張るものがある。

 カットの腕も勿論、デリカのそれも副店長に指名されるぐらいなので、相当のものだ。

 彼の顧客はダントツ男性の方が多く、その顧客達は皆彼の腕前を"マジックカット"と呼び、崇め立てている。

 何でも切られた後の方が、髪が増えた気がする、という薄毛に悩む男心をがっちり鷲掴みにする、その謎のテクニックにかかった者は、最早信者のようになって彼の前に列をなす。


 そしてその二人の下で小突き回されながらながらも、チーフとして腕を振るうのが、葵だ。

 葵はその人の髪を、顔のパーツを、輪郭を、また肌の色、服装、そう言ったもの全てから、その人だけにぴったり合う髪型を作り出すことに長けている。

 似合わせのプロ。

 葵の事をそう呼ぶ彼女の顧客のオーダーはいつも、軽い希望だけ伝えた後は全部"おまかせ"だ。

 どれだけ長さを切るかも、どんな色に染めるのかも、パーマをするのもしないのも、その全部を葵に任せる顧客のその絶対の信頼に、葵は仕上がりの完璧な満足でもって応える。


 最後に、仕事に熱中すると寝食を忘れ、デザインを書きなぐり、ウィッグと呼ばれるカット用のマネキンを一心不乱に切り刻む葵の、そのお目付役であるのは、彼女の同期である野宮 佳奈だ。

 すれ違う男の多くが涎を垂らすような、黒髪ストレートの妖艶な美女である彼女は、セクシー系と個性派ビビット系のスタイルを得意とし、担当する顧客も一風変わった者達が多い。

 襟足を短く刈り込み、真っ白にブリーチしたそこに、赤いヘアマニキュアでトライバルを描くことが出来る彼女には、毎日毎日最高にクレイジーなヘアスタイルの依頼が舞い込んでくる。

 それら全てを嬉々としてこなし、さらにウィッグの前で鋏をがっさがっさ動かす葵の口におにぎりをぶち込み、時々奇襲をかけてくる梅谷の何番目かの女を、彼の本命の彼女のフリをして追い払う野宮は、デリカでも一番の苦労性と言えた。


 そんな4人がお互い思い思いに働く場所、それがdélicat(優美な 繊細な)だった。




 「じゃあ、今日の予約チェックー」


 店長の梅谷の声で、残りの三人が台帳に書き込まれた予約の名前をチェックする。


 「伝達事項ある人はいませんか?」


 その予約表に眼を走らせながら芦屋が、葵と野宮に声をかける。


 「私は特にありません」


 葵は顧客情報の書かれたカルテを捲りながら、首を振り、


 「私も特にありません」


 その後、同じように野宮も芦屋に返事を返す。



 「じゃあ今度は私生活チェックー」


 にやにやと笑って三人のスタッフの顔を見る梅谷に、うんざりしたような息を吐くのは勿論芦屋だ。


 「毎日思うんですけど、この私生活チェックって本当に必要なんですか?」

 「これセクハラじゃないですか?」

 「そもそも店長が言いたいだけじゃないですかね」


 芦屋の言葉に、野宮と葵が続けてぼそぼそ零す。


 「じゃあ俺から!俺は昨日 洋子ちゃんと別れて、有理沙ちゃんと付き合いました!」

 だから洋子ちゃんが来たら、佳奈!頼んだぞ!


 そんな三人の言葉をまるっきり無視して、がははと笑いながら言う梅谷。


 「頼んだ!じゃないですよ!ていうか洋子ちゃんって誰ですか!

  昨日まで付き合ってたのは、茜さんって方でしたよね!」


 その梅谷の言葉を聞いて、ツヤツヤの黒髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す野宮に、葵はまあまあと声をかける事しか出来ない。


 「店長の私生活のツケを、スタッフに払わせるのはやめてください」


 そんな二人を背にして、絶対零度の視線で梅谷を見て吐き捨てる芦屋に、


 「俺たち運命共同体だろ!そう言うなって!」


 ちっとも堪えた風も無く返す梅谷は、


 「そんじゃあ次は、敬!お前は?」


 そんな自分にコメカミをピクピクさせている芦屋に向かって、笑いながら尋ねる始末だ。


 「私はいつも通り、何も変わりありません」


 その梅谷を見て、はあと深い息をついて、コメカミを揉み解す芦屋。


 「お前ほんと、枯れてんなあー」


 俺がいい子紹介しようか?

 ため息を吐く芦屋に近づいて、肩に手を置き覗き込むようにそう言う梅谷。

 その梅谷の手を勢い良く払いながら、


 「よけいなお世話ですし、貴方の紹介の女なんて死んでもごめんです」


 そう吐き捨てる芦屋の眼は、完全に据わっている。


 「そう?じゃあまあ、紹介してほしくなったら言えよ?

  んじゃあ次は、佳奈!お前は何かあったか?」


 「そんなに毎日毎日何かあるわけないじゃないですか!」


 先ほど掻き乱したためにボサボサの頭のまま、叫ぶように答える野宮。


 「そうか・・・しかし、お前もいい女なのに、何で彼氏出来ないんだろうな」


 いっそ敬とくっ付いたらどうだ?

 そう言ってがはははとまた笑う梅谷に、今度は野宮のコメカミもピクピク引きつっている。


 「いつかセクハラで訴えますからね」


 おどろおどろしい声で返す野宮に、そうなったら俺が仲人だなーなんてのたまう梅谷は、自分に都合が悪いことは全く聞こえなくなる、恐ろしいほど都合のいいタイプだ。



 「じゃあ最後に、葵!お前はどうだ?

  確か昨日、彼氏に実家に来てもらう日を確認するとか言ってた気がするが、どうだった?」


 そして最後に梅谷は、そのままの流れてごく当たり前に葵に声をかける。


 昨日までは彼氏とうまくいっていて、いよいよ結婚を見越して親に紹介すると息巻いていた葵。

 なので聞いた梅谷も、のろけが返ってくるぐらいでさほど大した答えでもないだろうと高をくくっていたし、他の二人もそんな梅谷と似たり寄ったりのスタンスで葵の返答を待っている。



 「それがですね・・・」


 けれど返ってきた葵の声は、その想定に反して随分沈んで、今にも擦れて消えてしまいそうなぐらい小さくて、


 「・・・・別れました」


 「え?」

 「はあ?」

 「何ですって?」


 そう返した葵に、三人がずずいっと近寄ったのも、致し方ないことだった。






 「何でだよ、お前、昨日まではうまくいってたじゃねーか」

 「そうですよ。親御さんに紹介するって、」

 「そうよ!何があったの!!」


 どんどん近づいてくる三人から距離を取ろうと、少しずつ後ろに下がる葵。

 けれどすぐに壁に背中があたってしまい、これ以上逃げようがないところにまで追いつめられる。


 「ですから・・・うまくいってたと思ってたのは、どうも私だけだったみたいで・・・」


 壁際に追いつめた葵の前に立つ三人は、皆葵より背が高く、上から覗き込むようにして、その葵の言葉を待っている。


 「二度と顔も見せるな不細工、なんて言われちゃいました・・」


 応援してくれてたのに、すみません。

 そう言って泣き笑いのような表情を作る葵に、カッと目を見開いて梅谷を仰ぎ見たのは葵の同期であり、親友でもある野宮だった。


 「店長!今日私休んでいいですか!?」

 「おい!佳奈!お前何するつもりだ!」

 「何って、決まってるじゃないですか!ヤるんですよ!!」

 「やるって!ヤメろ!早まるな!ーーおい!敬!お前、黙ってないで佳奈を止めろ!」

 「佳奈、貴方の腕じゃ為留めきれませんよ。私に任せておきなさい」

 「ってお前もかよ!!おい!いつもは冷静なお前がどうしちまったんだよ!!」


 野宮は眼を血走らせ鋏をシザーケースから取り出し、それを慌てて止めに入る梅谷の後ろで、芦屋が自分の鋏の歯に指を滑らせてその切れ味を確かめている。


 「葵!待っててね!私がアイツをこてんぱんにノシてきてやるわ!!!」

 「葵、安心してください。あの男こそ、二度と見れない顔にしてきてあげますよ」

 「おい、おまえら!!!ーーったくしょうがねえな!お前らのなまっちろい腕じゃだめだ!俺がやる!!」


 そしてついには止めに入っていたはずの梅谷まで、やる気満々で腕まくりをし始める。



 「ちょっ!ちょっと!三人ともヤメてください!!!」


 今からまさに営業が始まろうとしているのに、そんな事など奇麗さっぱり忘れたかのように、鼻息荒く玄関を見る三人。

 その今にもそこから飛び出していってしまいそうな三人の前に滑り込んで、慌てて出口を塞ぐ葵。


 「安心しろ!お前の敵は俺が取る!」

 「店長・・頼もしいです。

  すみません、いつもはクズでどうしようもない野郎だと思っていましたが、今日からその考えを改めます」

 「おい!敬!お前そんな風に俺の事思ってたのかよ!」

 「店長が女を引っ掛ける以外で使えるなんて、思っても無かったです!」

 「佳奈!お前もかよ!!」

 「だからヤメてくださいって、言ってるじゃないですか!!」


 両手を広げてドアの前に立つ葵。その葵の肩に手をかけ、どかせようとする三人。


 「正当防衛だ!」

 「何がですか、店長!」

 「葵、貴方は安心してここで待っていなさい」

 「副店長まで!」

 「お土産にシュークリーム買ってきてあげるから!」

 「佳奈!何言ってるのかもう全然よくわからないよ!!」


 ぐぐっと力を入れる梅谷に、どかされまいと足を踏ん張る葵。

 その脇を通り抜けようとする芦屋と、葵の身体を横からひっぱる野宮。



 「うおーー!!」


 最早何が何だか分からない雄叫びをあげ、ごちゃごちゃ揉み合う四人。




 その後ろで、本日一人目の顧客が、


 「ーーーー みんな、どうしちゃったの?」


 そう言って扉を手に困惑した表情で立っていた。





 聞こえた声にハッとなった四人は、慌てて体勢を整えると、

 「「「「いらっしゃいませ」」」」

 そう言って、今までの揉み合いがまるで幻だったかのように、いつも通りの満面の笑みを見せる。

 そしてその顧客の担当者である梅谷以外は、そそくさと自分の持ち場の準備に戻る。


 「すみません、見苦しいところをお見せしてしまって」


 四人の揉み合う姿を見ておかしそうに笑っていた梅谷の古い客に、梅谷は頭を下げながら荷物を預かっている。

 そんな梅谷の姿を視界の隅に入れながら、一番端の鏡の前で鋏の準備をする葵。

 その後ろから野宮が、

 「・・・今日、飲みにいくわよ」

 そう言って鏡越しに右手でジョッキを傾ける仕草をする。


 「僕も行きます」

 するといつの間にか隣に来ていたらしい芦屋も、同じ仕草をしながらにこりと笑う。

 そしてさらには、

 「ーーー 俺も行くぞ!!」

 顧客の髪を洗いながらも、地獄耳で三人の会話を拾ったらしい梅谷もまた、少し離れたシャンプーブースからそう大声を張り上げる。


 「ーーーー はい、」


 その三人に眉を寄せて困ったように笑って返事を返す葵。

 鋏をシザーケースに戻しながらも、頭の中には昨日の怒濤の展開で溢れかえっている。


 別れたことより、その後の事の方が大変だったんだけど・・・。

 フラレて、泣いて、蹴飛ばして、偽装彼女の契約して。

 その話をどこからどこまでしたらいいのか、考えるだけで頭が痛い。




 「朝までコースよ」




 そう据わった目で言って葵を見る野宮に、葵は頭痛がさらに酷くなった気がした。


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