Turning Tables
腕を引かれた葵が連れてこられたそこには、空に程近い、ガラス張りの窓が広がっている。
その窓の内側には広々とした部屋がある。
部屋には必要最低限の家具しか置かれておらず、空いたスペースがそこを少し寂しげに見せていた。
「じゃあ早速なんだけど」
好きなところに掛けて、と示された三人掛けソファーの、その端ぎりぎりにぎくしゃくと腰を下ろした葵。
わんわんと子供のように泣き叫んだせいで、その顔のメイクは剥げてぼろぼろになってしまっている。
「貴方の名前は?」
そのソファーの前に置かれたガラスのローテーブルの上に、入れたばかりのコーヒーを置いて、廉はゆっくりと葵とは反対側の端に腰を下ろす。
コーヒーを口に運びながら、廉はよれよれの服のまま呆然とソファーに座る葵を眺める。
名前も知らない相手を家に引っ張り込んだ事が、世間やマネージャーに知られれば、大変な事になるだろうことは分かっていた。
けれど顔をぐしゃぐしゃにしながら泣くその姿を見て感じた、"この女は面白そうだ"という彼女に対する純粋な興味に、面倒事は後でまとめて片付けたらいいだろうと結論付けて、この部屋まで強引に引っ張ってきた。
ーーー 誰かに興味を覚えるのは、随分久しぶりのことだったから。
「仁木 葵です」
カップの隣に置いた砂糖やミルクには目もくれず、葵はふうふうと息を吹きかけながら、そのコーヒーに口を付ける。
その辺のファストファッションで揃えたような服を着た、極々普通の女。
けれど廉を蹴り飛ばして芝生へ突っ込んだ時に見えたその後頭部は、彼女の服装に良く合った緩い編み込みのアレンジでまとめられていて、仕事柄なのか、廉はその絶妙なバランス感に思わず目を奪われた。
手に持つコーヒーをまるで親の敵のように一心に凝視する葵。その葵を見て、廉はやれやれと言ったように口を開く。
「・・・俺が名刺を見せたんだから、貴方も見せるのが礼儀じゃない?」
その言葉に、葵はびくっと身体を震わせると、今度はあさっての方を見て、
「名刺はあいにく、今切らしてまして・・・」
そう言って、また今度はやけに白々しくコーヒーに口を付ける。
「君ね、嘘が下手だって、よく言われない?」
もしコーヒーが無ければ、口笛を吹いてやり過ごそうとしていたんではないか。そんな風にさえ思えるぐらい、葵のそのどぎまぎとした態度はあからさまだ。
「そっ!そんな、ことは・・・・」
無い、と続けようとして、視線を廉の方へと戻した葵は、その先に居る男の唇が一ミリたりとも笑みを刻んでいないのを見て、
「・・・・・すみません」
オイルの切れたブリキの人形のような、ぎこちない動きでカバンの中から、淡いゴールドの名刺入れを取り出し、その中から抜き取った一枚を男に差し出す。
「délicat チーフデザイナー 仁木 葵」
表面が僅かにざらついた、厚みのある紙の真ん中に、シンプルな黒い文字が彫り込まれたように打たれ、その文字の横に、くすみがかったゴールドで、アンティークの鋏のシルエットが箔押しされている。
「美容師なんだ」
ラフに編み込まれた葵の頭と、名刺を差し出すその指の間接にある傷を見て、なるほどといった風に頷く廉。
「そうです」
およそ客商売とは思えない素っ気ない態度で、ぼそりと返事をする葵。そんな葵の態度に、廉は片眉をぴくりと吊り上げる。
まるで少しも廉などーー ミラノやパリのショーモデルとして世界を飛び回る、この柏原 廉という男など、興味が無いといったように振る舞う葵は、彼がモデルになってから出会った女たちとは、全く違うところに住む人間のように感じる。
「美容師だったら、貴方の"偽装彼女"として不合格ですか?」
それどころか、厄介な事に巻き込まれた。こんな茶番からはとっとと退散するべし、そんな風にさえ思っていそうな口ぶりで、未だに手に持つコーヒーのカップをふーふーしている。
「まさか。何の問題もないよ」
葵の差し出した名刺をガラスのテーブルに置いて、廉は葵を真っ直ぐに見る。
「大体、偽装彼女って何なんですか?
私は貴方の事を何も知らないのに、そんなことしたって絶対にボロがでると思いますよ」
その廉の視線を真っ向から受け止めた葵は、手に持っていたコップをテーブルに預けて、身体ごと廉の方へと向き直る。
「それに貴方は有名なモデルなんでしょ、
だったらこんな不細工な私なんかに頼まなくたって、他にいくらでもいるでしょう?」
廉に向かって滔々と語る葵は、不細工、と自分で言った後、僅かにぶるりと身を震わせる。
街頭を腕を引かれて連れられたときも、このモデルハウスのような部屋のソファーに座ったときも、今まで見た事ないぐらい美しい男と向かい合って話している、今この瞬間も。
葵の頭の中ではずっと、何度も何度も裕吾が去り際に残した言葉が響いている。
この不細工。
その言葉が、何度も何度も、繰り返し、繰り返し。まるで壊れたレコードのように繰り返し響いて、頭から離れない。
裕吾から好かれていると思っていたし、自分自身もまた彼の事を好きだと思っていた。
一緒に過ごした二年の間に、彼の事を知り、彼もまた自分の事を知ってくれて、理解してくれていると思っていた。
私が自分の顔にコンプレックスを持っていることを、彼はちゃんと分かってくれていると思っていた。
付き合う前も、付き合っている時も友達は、遊ばれているだけだよ、と何度も私に言ってくれてきた。
あんなに格好良くてモテる人が、葵を選ぶと思う?
そう言って私の肩に手をかけ揺さぶった友達の言葉は、いつだって私の胸に鋭く突き刺さった。
「裕吾はね、私の内面に惚れてるんだよ」
いつだってそう言って笑っていたけれど、本当は大声で泣き出したくて仕方が無かった。
自分だってこんな顔になりたくて、生まれてきた訳じゃない。なれるなら、もっと美しい顔に生まれたかった。
でも父も母も、私の事をかわいいかわいいと言って育ててくれたから、だから私は自分の顔を出来るだけ嫌わないでいようと、ずっと努力してきた。
その努力を、裕吾は分かってくれていると思っていた。
彼は一度も私の容姿について、何かを言う事は無かった。
可愛いとも言わなかったけれど、決して不細工とも口に出しはしなかった。
その裕吾の気持ちを、私は勝手に、勘違いしていたみたいだった。
言わないだけで、心の中では思っていたなんて。
そんなこと、知りたくなかった。
ぐすっと小さく鼻をすする葵。その葵の耳に、廉の静かな声が届く。
「偽装彼女っていうのは、さっきも言った通り、俺の彼女のフリをするってこと」
泣いている葵を見る廉の瞳は、彼女を哀れむ色も無ければ、揶揄う色も無く、ただただ真摯に葵の姿を映している。
「でも確かに貴方の言う通り、リハーサル無しで本番を迎えても、きっと気づかれてしまうと思うから、」
だから今日から一ヶ月後の本番まで、本当の恋人のように振る舞う練習をしよう。
そう言って廉は葵に向かってガラステーブルの下に置かれていたテッシュボックスを差し出す。
「それに貴方は自分の事を不細工だと言ったけれど、俺にとってはそんなこと些細なことだよ」
人間はみんな表の皮を剥いだら同じなんだし、
それに俺はそんなどうでもいい外側じゃなくて、あそこであんな風に大声で泣く貴方の中身を見て、この件を頼むと決めたんだ。
「だから、葵。俺は貴方に引き受けてほしい」
ーーー 引き受けてくれるよね?
廉の差し出すテッシュを受け取り、鼻水を抑えて、事態を整理しようと頭を働かせる葵。
ほんの一時間前までは、自分には勿体ないぐらいの彼氏がいて、その彼氏といつかは結婚するんだ、なんて淡い夢を描いていた。
けれどその三十分後には、その夢をハンマーで欠片も残らないぐらい粉々に砕かれた挙げ句、こっぴどくフラれ。
そのあまりのショックに居ても立ってもいられず、がむしゃらに走りながら周りも見ずに突っ込んだ芝生で、世界を股にかけるモデルを蹴っ飛ばし。
そのせいでモデルの身体に傷を付け、お詫びにその男の偽者の彼女になれと脅されている、今。
まるでジェットコースターに乗ってるみたいに、事態が次々めまぐるしく移り変わって、頭の中はパンク寸前で、まともに考えもまとまらない。
けれど。
まとまらない頭の中で、男の言った言葉の欠片が、優しく光っていることだけは、なぜだかはっきりと感じられる。
廉は葵が自分を不細工だと卑下したことを、"そんなこと"だと言った。
そんなことは、些細な事なんだと。
モデルという仕事で食べているくせに、容姿のことはどうでもいい、ただの外側だと言った男。
「貴方が私の願いを一つ叶えてくれるのなら、私も貴方に協力します」
その男の真っ直ぐな眼を見て、葵の頭の中に浮かんだ、一つのイメージ。
「・・・願い?」
「はい。私が貴方に協力する代わりに、貴方も私に協力してほしいんです」
「そもそもこれは葵が俺を怪我させたお詫びであって、」
そのイメージは、今までずっと何をどうやっても、何ヶ月も欠片だって浮かんでこなかった、ーー探し続けていた、イメージ。
それがこのタイミングで、唐突に、けれどはっきりと形を持って、葵の頭の中に浮かび上がる。
そのイメージをどうしても逃したくなくて、何も考えずに勢いのまま、葵はまだ何かを言い募ろうとする廉に身体をずいっと近づけ、
「でももう何ともなって無いんでしょ!」
先ほど見せられた赤くなっていた場所を覆う服を捲るべく腕を伸ばす。
「・・・・・葵、君って中々いい歳だと思うんだけど、」
急に勢い良く近づいてきた葵に驚き、咄嗟の判断で身体を後ろに逃がした廉。
そのせいで廉の身体はソファーに倒れ、葵はその上に覆い被さるようにして乗り上げ、さらにはその服をまくり上げて腹を見ている。
「これは無いんじゃないかな」
ため息を吐く廉の腰の上に乗り上げ、ほら!もう何ともない!そう言って眼を輝かせる葵には、廉の声などこれっぽっちも聞こえていない。
それどころか最初はぎこちなく使っていた敬語も、すっかり忘れ去っていつもの地の葵が全面に出てしまっている。
「ねえ!いいでしょ!ねえってば!」
そしてさらにはその腹の上で、身体を前後に揺すりながら、廉の肩をぐいぐい押してさらに言い募る。
「うげっ・・・く、苦しい、葵、ねえ、葵ってば!」
腹の上で暴れられて、さらには肩まで揺すられ、廉はその眼を白黒させながら、その身体を止めようと葵に向かって手を伸ばす。
けれどそんな手など気にもせずに、葵は次に肩に触れる長さの廉の髪に指を通し、うん、うん、そうそう、などと頷いたり、また時には掴んだそれを引っ張ったりして何かを確かめたりしている。
「わ、わかった!分かったから!!」
まるで廉に襲いかかるようにして、身体ごと覆い被さる葵には最早、廉の髪の毛しか見えていない。
その身体を腕で掴んで押しとどめ、廉は一気に腹に力を込めて、身体ごと起き上がらせる。
「本当!?やったーーー!!!」
まるで向かい合わせに抱き合うような格好になった二人だけれど、頭の中に浮かんだイメージをつなぎ止めておく事と、廉に頼み事を了承してもらったことで頭がいっぱいな葵は、そんな事になどこれっぽっちも気がついていない。
そして自分の膝の上でわいわい喜ぶ葵に、一体何を了承したのかさっぱり分からず頭を抱える廉もまた、そんな事は少しも気にも留めていない。
「じゃあ早速かき留めておかないと!!!」
「ちょっ、ちょっと待って!!」
廉から了承の言葉をもらい、喜びそのままに、ソファの横に隠すように置いたカバンに飛びつこうとする葵。
その葵の身体を両手で何とか押しとどめて、廉は、
「一体俺は、何に協力することになったの?」
そう言って、葵の眼を真っ直ぐに覗き込む。
もしもその願いが、碌でもないことならば。
例えば葵がーー 廉の持つ人脈で、モデルの誰かを紹介して欲しいだとか、そんなどうしようもない、くだらない願いをするような、そんな人間なのだとしたら。
だとしたら、偽装彼女を頼むことすら、愚かしいとしか言いようが無いし、彼女がそんな人間だと見抜けなかった、自分の見る目の無さに、反吐が出る。
そんなことまで考えて、真剣な瞳で葵を見つめる廉。
その視線を今度は、何のためらいも無く真っ直ぐに受けて、葵は、
「ヘアモデル!!!!!ヘアモデルに協力してもらいたいの!!!」
ふんっー!と鼻息も荒く、はっきりとーー ちょっとばかり叫び気味に言い放つ。
「こんなにいい髪質で、さらにこの毛量!多すぎず、少なすぎず、硬すぎず、柔らかすぎず!
癖もそれほどキツくなくて、でも全くないわけでもない!
長さもこれだけあれば....うん、そう、ここをこうして、こう切った時に...
やっぱり!!この角度で見える顎のラインが、頭頂部と繋がるこのラインと絶妙にマッチする!!!
そこから反対側につなげてきて....
サイドはやっぱり思い切って刈り込んだ方が...いやでも、2ブロック手前で残して、セニングで繋ぐだけでも...」
そして今度こそ押しとどめる廉の腕をすり抜けて、カバンへと一直線に突っ込むと、そこからA4サイズのスケッチブックを取り出し、白紙のページを開いて、また勢い良く元の場所に滑り込む。
鉛筆を取り出し、ざっざっと音を立てながら廉の今の髪型をそこへ書き込んで行く葵。
前髪の長さ、耳周りの長さ、襟足、頭頂部。全ての長さをしっかり抑えるためにか、時には鼻と鼻がくっつきそうなぐらい近くに顔を寄せて、その長さをしっかりチェックし、指ですくってその髪が落ちる位置を確かめ、またスケッチブックに細かく記していく。
真っ直ぐ正面から見た廉、サイドから、または後ろから見た姿をスケッチし終わると、今度は新しいページを床に開いて、そこに今までとは全く違う長さのスタイルをデッサンし始める葵。
思った通りに行かないところは、思いっきり消しゴムをかけて、その粉をモデルルームと見まがうばかりの部屋にまき散らす。
最早その頭の中には、今ここがどこで、そもそもこの部屋の持ち主は誰で、なぜ自分がここに連れてこられたかなどは、欠片も残っていない。
ただ今この頭に浮かんだイメージを形に残しておきたい!その事しか頭に無い葵。
そんな彼女の事を良く知る人は、皆こぞって彼女をこう呼ぶ。
「・・・・美容馬鹿」
突然微に入り細に入りデッサンされ、終わったら終わったで唐突に放り出された廉は、ガリガリ床でデッサンを続ける葵を、珍獣でも見る目つきで見ている。
「そもそも、ヘアーモデルって、一体何の?」
そうぼやく廉に、勿論葵は一言だって返事を返すそぶりはない。
葵は廉のイメージがしっかりその頭に残っているのか、デッサン中も廉の事など少しも振り返ることなく鉛筆を動かしている。
その一心不乱な姿を見ているうちに、廉は先ほど浮かんだ彼女を疑う気持ちが、自分の中からすっかり奇麗さっぱり消えていることに気づく。
「大体、本当は葵が俺の願いを叶えるだけだったはずなのに...」
なのに気がつけば、お互いがお互いを助けることになってしまっている。
その事に、廉は自分でも気づかぬうちにその唇を綻ばせる。
今日、ついさっき会ったばかりの、名も知らなかった女。
初めに見た時は、いい歳をして公園の芝生で大泣きする、変わった女としか思わなかったその存在。
自分の事を不細工だと卑下して、暗くなったかと思えば、そのすぐ後に、人が変わったように俺に襲いかかって、無理矢理自分の要求をのませる強引な姿を見せたりもする。
顔が近づくぐらい真っ直ぐに俺を見たり、床に寝そべって子供みたいにデッサンしたり。
まるで万華鏡のようにくるくる移り変わるその表情や動きが、ーーー 面白くて、眼が離せない。
「・・・変な人だな」
ああでもない、こうでもない、いやここはこうした方がいい、まてまて、やっぱりこっちの方がいい。
一人でぶつぶつ言いながら、床を消しゴムのカスで汚していく葵。その姿を、唇に微かな笑みを浮かべて、面白そうに見ている廉。
二人は決して気がつかない。
今日のこの瞬間に、二人の運命が少しずつ変わり始めたのだということに。
そして、葵のデッサンが一息つき、部屋の片隅に消しゴムカスが溢れかえった頃、二人は漸く落ち着いてその関係の詳細についての話し始めた。
その後暫く決まった契約事項を2枚の紙に記し、お互い一枚ずつ保管することとし、
そうして二人の偽装恋人契約は、スタートしたのであった。
「偽装恋人契約」
一、お互い本気にはならない。
(葵はもうしばらく男には懲り懲りだといい、廉はもう女には飽きたと言った)
二、お互い本当の恋人のように振る舞う。
(どこで廉の母が見ているか分からないため、極力本物のように行動をすると決めた。
メールなども積極的に交換する、という決まりも設けられた)
三、本当の恋人のように振る舞うが、それはキスまでとし、身体の関係は無しとする。
(これは葵が断固として拒否をしたためそうなった。
本当はキスも禁止にしたがったが、それでは信憑性が薄くなるといい廉が譲らなかった)
・期限は一月後の、廉の両親との会食の時までとする。
その時に葵を彼女と認めさせ、彼への見合い話を二度と持ってこないようにさせる。
・偽装彼女に協力する代わりに、廉は一月後にある葵のコンテストのヘアーモデルなることとする。
「それじゃあ、宜しくね、葵」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
「葵、ほら、ちゃんと呼ぶ練習しないと」
「・・・・・」
「聞こえないよ、もう一回」
「・・・・・ん」
「だめ、」
「廉!!」
「はい、宜しく」
「(ぐわあああ!!はずかしいいいいい!!!)」
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