第47話
岩のような鱗を携えた、地を這う茶色のトカゲ。その姿を見て、フィルは驚愕した。
他の面々は知っていたが、フィルは知らない。人が竜に変異するということを。想像もしていなかったことで、戸惑いがどうしても隠せない。
気を緩めないようにしながらも、口を開き唖然としていると、背中を強く叩かれた。
「気合を入れろ」
「ですが、人が竜に?」
「あぁ、我ら高位の竜は力を抑えるために人の姿をとっている。ずっと竜の姿では、魔力の消費が大きく燃費が悪いからな」
さも大したことではないようにレヴォネは告げた。フィルもそれを聞き、胸に手を当てる。
たったそれだけのことで、スーッと心が落ち着きを取り戻し、どうでもいい余分な情報は頭の隅へと追いやられた。
息を吸い、吐く。一度深呼吸を行うと、体も頭も戦闘へと集中することができた。
「ギヒャッ、グヒャハハハハハハハ」
ランディルは歪に笑い、手を大地へと叩きつける。魔力が地面へと浸透し、巨大な岩が浮かび上がった。
岩を握り潰しそうなほど強く握る。ピシリと岩が音を立てたが、気にせず二人へと放り投げた。
視界を埋め尽くすほどの大きさの岩。魔法で迎撃しても、防ぎきることは難しい。
しかし、このまま受けるのは愚の骨頂。フィルが空いた手に魔力を集めた時、レヴォネが前へと出た。
「あぶな……」
「下らん」
彼女が左手を振ると、破裂したように岩が砕かれる。残ったのはレヴォネの魔力が残した、銀色の粒子だけだった。
間断なく次々とランディルは岩を放る。しかし、その全てが悉くレヴォネに打ち払われた。
圧倒的で混ざることすらできない戦い。フィルの胸中では、無力さよりも驚愕が勝った。
自分が成りたかった、目指した強さがここにある。人と竜の違いよりも、憧れが前へと出た。
ぶるりと身震いをしたフィルは、油断なく隙を探し続ける。自分にできることをしようと、体が身構えた。
「ギヒャヒャヒャヒャ! いいぜぇレヴォネ! いつかお前を屈服させたいと思っていたからなぁ!」
「そういう台詞は我に勝ってから言え三下」
何気なく話す二人。しかし、油断なくお互いのことを睨みつけていた。
その視界に、フィルは映ってすらいない。自分が警戒されていないことに気付き、足へ力を入れる。飛び出そうとしたのだが、レヴォネが前に手を出し押し留めた。
ちらりと振り返ったレヴォネの目が訴える。足手纏いだ、下がっていろ、と。
その視線だけで十分だった。フィルは自分が警戒されていないどころか、歯牙にも欠けられていないことに気付く。
二人にとって、フィルはただの脆弱な人間。例え攻撃をして来ようと、鱗を貫くどころか傷一つつけられない。
蟻が一匹歩いていたからと、気にする人間はいない。フィルと竜の間には、それ以上の実力差があった。
それを認識させられてなお、フィルは強く剣を握りしめる。退くわけにはいかないと、心が訴え続けていた。
幾度も打ち払われる大岩。ランディルはそれに苛立つどころか、当然だと笑う。
レヴォネの実力は、竜族でもトップランク。自分よりも性能は上、真っ当な勝負では勝ち目はない。……そう、真っ当な勝負では、だ。
一方レヴォネは、同じ攻撃を繰り返すランディルに苛立ちを覚える。
巨体を活かし接近戦を挑むのではなく、近づかせないように岩を放り投げる。児戯にも等しい戦い方は、彼女に飽きも覚えさせた。
「……もう良い」
久々の竜族との戦い。もう少し楽しめると思っていた彼女は、ランディルの企みも見抜けず、戦いを終わらせようと決めた。
レヴォネは片手を大きく上げる。彼女の魔力が周囲を取り巻き、銀色に輝きだした。
竜族で一番美しいと言われる彼女は、その姿を本来の姿。銀竜へと変貌させる。
しかし、その瞬間こそがランディルの狙いだった。
変異を遂げようとしていたレヴォネを見て、攻撃を止めたランディル。彼はほんの僅かな隙を狙い飛び出した。
「ギシャアアアアアアア!」
「な……」
ランディルをすでに用済みとばかりに考えていたレヴォネは、予想もしていなかった突撃に反応ができない。だが、頭の中は冷静に状況を判断していた。
竜と化した瞬間、もしくはその少し前。ランディルの大きく開かれた咢は、自分の喉元へ食らいつく。
己の失敗を理解したが、対応策はない。ただ少しでも早く、竜へと変じるよう集中するしかなかった。
勝負は決した。確実に勝利を得た。ランディルがにたりと笑ったとき、風が眼前を奔る。マントを翻し、宙を舞うフィル。
相手にする必要もなく、視界の端にすら置いていない。虫けら以下と判断した人間が、ランディルの両目を風の魔法で狙い撃った。
「邪魔だ人間がぁ!」
勢いのまま片腕を振る。空中で防ぐこともできなかったフィルは、魔法ごと殴り飛ばされた。
だが、目だけは相手を見続ける。最後の抵抗とばかりに腕を振り、そのまま地面へと叩きつけらるように落ちた。
稼げたのは、ほんの僅かな時間。しかし、それはなにも状況を変えはしない。
レヴォネの変異は間に合わず、ランディルの牙は食らいつく。……そうなるはずだった。
終わったと判断し、ランデイルはすでにフィルへ目を向けてすらいない。だからこそ、横から風を裂き飛ぶ剣に気付かなかった。
その身は届かなかった。その魔法は打ち払われた。しかし、最後まで諦めずに投じた剣だけは、油断していたランディルの眼前を通った。
当たったわけではない。ただ、横切っただけである。だがそれは、ランディルの足を止めた。彼の本能が、予想すらしていなかった眼前の異物へ警戒を発したからだ。
「しまっ……」
後一歩のところで足を止めたランディルは、自分の失態に気付く。慌ててもう一度足を進めようとしたが、すでにレヴォネは銀色の竜へと変異していた。
それでもまだ間に合うと信じ、大きく口を開く。だがその頭は握り潰すように掴まれ、地面へと叩きつけられた。
「グアアアアアアアアアア! 人間! 人間がぁ!」
「……ははっ」
レヴォネは笑う。もし一対一の戦いであったならば、確実に負けていただろう。
しかし、意にも返していなかった人間が、戦況を覆した。油断、屈辱、そういった負の感情よりも、違う感情が前へと出た。
それは初めて覚える感情。侮りではなく、敬意に近い感情。
蹲り、満身創痍。だが一度竜の動きを止め、立とうとしているフィル。彼を見て、彼女の口角が上がる。人間は、ただ弱いだけの存在では無かった。
……今は勝負の途中。妙に昂る感情を押さえ、レヴォネは眼前で呻くランディルを力任せに持ち上げた。
「くそっ! くそがっ! くそがぁっ!」
頭を掴んだ手を振り解こうと、ランディルは暴れる。何度も何度も銀の鱗を殴りつけたが、力の入らない攻撃は傷一つつけることができなかった。
レヴォネは巨大な地竜の体を、軽々と空へと放り投げる。そしてランディルが翼を広げ体勢を戻すよりも早く、口から銀色のブレスを放った。
銀の閃光は真っ直ぐに伸び、ランディルの体を包み込んだ。
山をも吹き飛ばしそうな魔力の奔流。強大なブレスを、フィルはぼんやりとした目で見つめた。
圧倒的な実力、防ぐことすらできない攻撃。自分の時代には存在しなかった、竜の代名詞ともいえるブレス。その威力を目の当たりにした。
銀の軌跡が消え、それでも目を放せない。呆然としているフィルの前に、銀色の竜が立った。
「驚いたか? 我ら竜と人間の違いは分かっただろう。その身に恐怖を刻み、忘れるな。決して逆らおうなどとは考えないことだ」
「……綺麗だ」
「は?」
レヴォネは固まった。人に竜の偉大さを教えたつもりだったのに、なぜか褒められていた。
もちろん、今までにも同じような歯の浮く台詞を告げられたことはある。それこそ無数にだ。
しかし、今回は違う。脆弱だが強さを持つ人間が、己へ媚びへつらうわけでもなく、思うがままに自分を美しいと言っている。
初めての体験は、レヴォネの胸にむず痒いものを覚えさせた。
レヴォネは竜化を解き、人の姿へと戻る。フィルはその姿を見て、はぁっとため息を吐いた。
幼きころより持っていた自分の感情が、届かぬ憧れだと気づいてしまう。初めて会ったときから、彼女の全てに惹かれていた。
しかし、それは決して届かないもの。人と竜という垣根があるからではなく、自分に自信が持てないフィルは、届かぬ憧れに胸を押さえた。
至れぬ強さ、守れぬ存在。圧倒的な差が、フィルの胸を締め付けた。
ならせめてと、決意を言葉に秘め、口を開く。
「レヴォネさん」
「な、なんだ?」
「僕は、もっと強くなります」
幼き頃、自分を立ち上がらせてくれたように、今度は自分があなたを助ける。届かなくても目指します。言葉にせず、告げる。
フーリムを守りたいと思ったときとは違う。届かないと分かっているからこそ、辛く苦しい決意だった。
だが、レヴォネはそれどころではなかった。真っ直ぐに目を見て、フィルは強くなると告げる。
竜にとって強さとは絶対。そして絶対的な強さを持つと自負する彼女に、強くなると言った。それは竜であり混乱の渦中にある彼女にとって、告白にも近いものに感じられた。
「わ……」
「はい」
「我はそんなに軽い女ではない! 精進するがいい!」
「はい、頑張ります」
レヴォネが何を言いたいのかは分からなかったが、フィルは笑って頷く。
その行動がまた、彼女を惑わしていると、フィルは気付きもしなかった。
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