第46話

 空に銀の軌跡を残しながら飛ぶレヴォネ。

 目的の場所を視界に収め、速度を落とす。羽をはためかせ、地に降りたレヴォネは、掴んでいたフィルを泉へと投げ込んだ。

 ドボンと大きな水音。少し待つと、むせ返る声が周囲に響いた。


「ごほっ、ごぼっ、え? なに? 鼻、水が……」


 足が着かない深さの泉。突然のことで慌てながらも、フィルはもがくように岸辺へと泳ぎ着いた。

 岸へ片手をかけ、鼻に力を入れ水を出す。鼻の奥、喉の奥。ツーンとする嫌な感触を振り払い、少しだけ落ち着きを取り戻す。

 そして視線を上へあげると、そこには黒いドレスを着こなした銀髪の女性がいた。

 両腕を組み、不愉快そうな態度を崩さぬ女性。彼女に対し、フィルは思ったことをそのまま口にした。


「僕は崖から……助けてくれたんですか?」

「……」


 助けたという言葉が気に入らず、レヴォネは足でフィルの頭を踏みつける。また水中に戻されたフィルは、命からがらその足から逃げ出した。


 地に上がったフィルは、水を吸い重くなったマントを絞る。本当は火を起こし、服を脱ぎ乾かしたいが、女性がいる前で脱ぐことには躊躇いがあった。

 ぶすっとした表情のレヴォネを、服を絞りながらちらちらと眺めるフィル。聞こえるように彼女が舌打ちをすると、フィルは困った顔で笑った。


 フィルから目を逸らしていたレヴォネは、自分の選択が間違っていたのではないかと、大きくため息を吐き、近くの岩へと腰かけた。

 助けたことは、助かったことは運命だった? それを認められず抗いたいと彼女は思ったが、人の顔色を窺っているフィルを見ると、苛立ちが募る。

 ……全て無かったことにし、戻ろう。そう思い立ち上がったとき、話しかけようと意を決したフィルが目の前にいた。


「あの、自分はフィルと言います。助けていただきありがとうございます」

「別に助けたわけではない」


 話しかけられたことにより機を逸したレヴォネは、もう一度座り直す。足を組み、仕方なくだが話を聞くことにした。


 苛立たし気なレヴォネとは逆に、フィルは戸惑いを隠せずにいた。自分を立ち上がらせてくれた、そんな恩人が目の前にいる。

 ずっと自分は忘れてしまっていた。それがなぜか分からないし、今の彼女はそんなことも知らない。

 いくらお礼を言っても足りないが、伝えても伝わらない。ならば、何を言えばいいのか? 悩みに悩んだフィルは、一番聞きたかったことを聞くことにした。


「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

「聞きたいことがあるならさっさと聞かないか! 女々しくおろおろとしているのではない!」


 とても優しく、美しく、自分の心の支えとなっていた人。忘れていても、なおどこかで渇望していた。

 しかし、その幻想は一瞬で打ち砕かれた。

 優しくはなく、常に苛立たしげ。美しくはあるが、温かさは感じない。

 本来ならば、その事実だけで立ち直れなくなる。だが、それ以上に話ができるということが、フィルには嬉しかった。


 怒鳴りつけたレヴォネも困っていた。

 聞きたいことを聞いてきたが、話すタイミングが被ってしまった。レヴォネも一度告げた言葉を撤回することはできず、口を噤んだ。


「すみません、自分が悩んでいたせいで困らせてしまいました。名前を聞かせてもらえませんか?」


 レヴォネは気まずく感じていたのに、フィルは平然と口を開いた。そのことに驚き、なんとも言えない感情がレヴォネを包む。

 彼女の内にある胸のもやもやが、さらに大きくなった。

 ……しかし、目の前では目を輝かせ喜んでいる少年の姿。額に手を当て悩みながら、レヴォネは質問へ回答した。


「……レヴォネだ」

「レヴォネさん。その名前を知るために、長い時間をかけた気がします。繰り返しになりますが、本当にありがとうございます」

「礼は要らないと言っただろう」


 どうにもやりづらい。レヴォネが頭を抱えていると、フィルは頭を下げた後、歩き出した。

 唖然としていたレヴォネは、慌ててフィルの肩を掴んだ。


「待て、聞きたいことはそれだけか?」

「え? いえ、そうではありませんが……仲間が待っていますから、行かないといけません」


 振り向いたフィルの顔は、先程までのように照れたり困ったりはしていない。優先すべきことがある。決意を秘めた男の顔だった。

 自分を蔑ろにされた苛立ちと、妙な感情でレヴォネの胸が高鳴った。

 だが、レヴォネはその感情を邪魔だと判断し立ち上がる。そして座っていた岩に拳を振り下ろし砕いた。


 岩が砕かれたことに驚きは隠せなかったが、彼女の機嫌が悪いことはフィルにも伝わった。

 足を止め、無言のままレヴォネを見つめる。不思議なことに彼女が手を動かすと、紅き槍が手に現れた。


「その槍は……」

「もういい、不愉快だ。我の力を感じることも、恐怖を抱かぬ瞳も、全てが気に入らない。ならば……壊そう。それで終わりだ」


 強烈な圧がレヴォネより発せられる。力の奔流に耐えようと、フィルは自分の顔を腕で覆った。

 戦闘態勢へと移行したレヴォネ。抗わなければ殺される。槍は崖で落としたらしく、近くにない。武器は腰にある一本の剣のみ。

 フィルは剣を強く握りしめ、抜き放とうとし……手を放した。


 武器を手にせず、無防備に立つフィル。レヴォネはそれを、何かの作戦だと判断した。

 真紅の槍を二回振り、バツ印を描く。くるくると回した後、回転を止め、フィルへ向け構えた。

 しかし、フィルは動かない。棒立ちのまま、目を瞑る。まるで槍を受け入れるかのような立ち姿だが、レヴォネは油断しない。


 直感、心眼。そういった類の技術を身に着けているのかもしれない。もしくは油断を誘い、裏を欠く。

 慎重に対処をと考えたが、首を横へ振る。最強種たる竜の一族が、人間相手に慎重を期す。それは屈辱であり、認められない。

 細く、長く息を吐き……レヴォネは強く地を蹴った。


 一足飛びで届く距離。すでに槍の射程範囲内。しかし、フィルは動かない。

 だがレヴォネは余計な思考を捨てさり、真っ直ぐに胸へ向かい槍を突きだした。


 槍が僅かにフィルの胸へ刺さり、肉を貫く感触が手に感じられる。しかし……槍は何かに弾かれ、レヴォネの手から放れ、宙をくるくると回った。

 宙を舞った真紅の槍はフィルの前へ落ち、大地に突き刺さる。

 理解できず、レヴォネは狼狽した。だがフィルは不思議な感情のまま、槍へと手を伸ばした。

 真紅の槍の柄を握ろうとしたが、バチリと電流のようなものが指先に走る。フィルは痛みから手を戻した。


 確かに槍はフィルを守った。この人間を穿ちたくない、と。

 だがそれと同じく、拒絶した。我が主はお前ではない、と。


 レヴォネは戸惑いを隠せないまま、深紅の槍へ恐る恐る手を伸ばす。だが拒絶されることはなく、しっかりと握りしめることができる。

 数多の強敵を屠った竜族の至宝は、初めて竜族が理解できない行動をとった。長い槍を撫でながら、レヴォネは思いに耽る。


 答えは無くとも、はっきりと分かったことがある。竜族の至宝は、この人間を殺すなと伝えたのだ。

 ……ならば、その意思に逆らうべきではない。この人間には、なにかがあるのだと、明確に分からせてくれた。

 考えが纏まったレヴォネは、フィルを見る。唖然としている少年に、聞き流したことをもう一度問うた。


「名をもう一度教えろ」

「え? フィ、フィルです」

「フィル、か。なぜ抗おうとしなかった。あのまま事が進めば、お前の命は無かったぞ」


 フィルは頭を掻き、気まずそうに苦笑いをする。

 そして、困りながら答えた。


「レヴォネ……さんは、自分を殺さないと思ったからです」


 フィルの言葉に、レヴォネは呆れかえる。彼女は間違いなく彼を殺すつもりであり、一切の躊躇いはなかった。

 しかし、フィルは信じていた。理由は分からずとも、結果はその通りになっている。……ならば、会わせるべきだろう。竜族の王に。


 神ではなく、竜の意思。それに逆らう必要はなく、抗う必要もない。自分の行動を決めたレヴォネが頷いたとき、ガサリと物音がした。

 振り向くと、木の陰から現れたのは屈強な体をした竜族。地を司る竜、ランディルだった。


「おぉいレヴォネ。どういうことだぁ? なんで、人間といるんだぁ? ……あぁ、これから殺すところだったのかぁ?」


 にたにたと笑うランディルに、レヴォネは舌打ちをする。見つかったこと事態に問題はない。ただ会いたくない相手に会ってしまったということは、間違いなかった。


 言葉から相手が竜族だと理解したフィルは、すかさず剣を抜く。ランディルの目から溢れている悪意に、体が勝手に反応していた。


「あぁん? まさかやるつもりなのか、人間? 竜二体相手に戦うってのかぁ?」

「……残念ながら、そうはいかない。我はフィルを王の元へ案内する」

「はぁ?」


 レヴォネの言葉に、ランディルは触れていた木を握り潰す。抉り取られた木は、大きな音を立て、横に倒れた。

 ランディルの目が、ギラギラと凶悪な光を帯びる。それに気づいたレヴォネはフィルの前へ立とうとしたが、それよりも早く、フィルはレヴォネの前に立った。


「下がっていろ」

「それはできません。僕は……あなたを、レヴォネさんを守ります」


 守ると言われ、レヴォネは胸を押さえる。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。


 普段とは違うレヴォネの様子に、ランディルは大きく唸り声を上げる。そしてその姿を、大きな地竜へと変えた。

 だが、フィルは下がらない。歯牙にも欠けられないほどの実力があることは、本人も気づいているにも関わらずだ。

 レヴォネは僅かに微笑んだ後、足を前へ進ませる。そしてフィルの横に立った。


「補佐しろ。あいつを倒す」

「でも仲間では……?」


 フィルの言葉を、レヴォネは鼻で笑い返した。


「ただの馬鹿だ。嫌らしい目で見られるのにも、うんざりしていたところだ」


 澄ました顔で言うレヴォネに、フィルは困った顔で笑った。

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