第32話
あれから二日経った。
フィルはほとんど食事をとることも眠ることもせず、壁を呆然と見続ける。フーリムも言葉を発さないまま、フィルへ寄り添っていた。
お互いにあるのは同じ気持ち。助けられなかったという感情。奇しくも二人は、戦うことから逃げ出すという同じ状況にあった。
「お兄ちゃん、これからどうするの?」
「……」
聞こえているはずなのに返答は無い。今、フィルの中にあるのは空虚な感情と、諦観の念だけ。どうするかなど、分かるはずもなかった。
しかしフーリムは焦っていた。ここに入れば、また人狼が襲って来るかもしれない。
戦いたくなかった。戦えないと蔑まれた。父に、仲間である魔族に。
人間と共にいることは許されない。彼女は先頭に立って戦わなければならないし、逃げることは認めてもらえない。
虚ろな目で父に従っていた時を思い出す。父の言葉は絶対で、逆らうことはできない。
優しくされたことはない。厳しく当たられ、強くあることだけが少女には望まれた。
だから……逃げ出した。城から逃げ、追手から逃げ、この村近辺に潜んだ。しかし空腹には抗えない。
何か食べる物をもらえないかと、人の村へ恐る恐る入ったフーリムの前に現れたのは、優しい少年だった。
取り入ろうと優しくする者、使えないと蔑む者。そのどちらでも無かったフィルの手は温かく、フーリムにとっては忘れられない物。
この人と一緒に入れば、温かいままでいられるのだろうか? 冷たい城を忘れられるのではないか?
まだ幼い少女にとって、初めて触れた優しさという感情は、他のあらゆる物に勝る魅力があった。
弱く小さく、聞こえないかもしれない声で、聞こえてほしいと思いながらフーリムは呟く。
「一緒に逃げよう……?」
「……逃げる? 逃げてもいい……のかな」
逃げてはいけないと言い聞かせていたフィルにとって、それは麻薬のような甘美さがあった。
自分の中で声がする。できる限り頑張った、もういいじゃないか。どうせ自分は、この時代の人間じゃないんだから。
スクイードが命を投げ出して自分を助けてくれたことは分かっている。だがそれ以上に、この場にいたくなかった。
逃げてはいけないという感情を押さえつけ、ふらりとフィルは立ち上がる。
「どこに行けばいいかな?」
「北東に向かおう。竜族が住む場所の近くなら、人も魔族もいないよ」
「……分かった」
夜、見張り以外の者が疲れ切って眠っている中、二人は身を隠しながら村を出た。
自分の責任を感じていたリナは眠れなかった。他の人を起こさないよう静かに起き上がり、歩き出す。向かう場所はフィルが休んでいる天幕だった。
辿り着いたリナは、そっとフィルが休んでいるはずの天幕へと入る。
中は暗く、人の気配すら感じない。しかし気付かないまま、リナは優しく声を掛けた。
「ねぇフィルくん。もう戦えないと言っていたよね? 別にそれは構わない。王都で新しい生活を見つけるんでもいい。フーリムちゃんと一緒に、私の帰りを待っているのはどうかな?」
暗闇から返事は無い。リナは少しだけ待つ。
だが当然なにも答えは無く、話をそのまま続けた。
「ごめんね、無理に戦わせちゃって……。でもね、逃げ出してもまた戦う日はきっと来てしまう。フィルくんと同じように悲しい目に会う人もたくさんいる。そういう人を減らすためにも、本当は……」
そこまで言葉を紡いだところでリナは気づく。おかしい、あまりにも音が無さすぎる。指一本動かさなかったとしても、息遣いや僅かな気配は感じられる。
なのに、今いるこの場所からはなにも感じず寒かった。
慌ててリナは魔法で明かりを灯す。天幕の中がぼんやりと明るくなり、見渡して気付いた。……誰もいないことに。
「フィルくん……!?」
リナはその場から飛び出し、ベイとルアダの元へ駆け出した。
見つからないよう、森の中を進む。寄り添う二人は、お互いだけを支えに足を進めた。
フィルの手には武器もなく、フーリムの手には杖替わりの槍があるだけ。自分で槍を持つことも考えたが、握ることすら憚られていた。
歩きながらフィルは考える。きっと逃げ切ったとしても、安全な生活は無い。むしろより厳しい暮らしを強いられるだろう。
……それでもいいのかもしれない。この少女を守って生きて行く。決して間違っていないはずだ。
少女の手を強く握る。先の恐怖より、今の絶望から逃げることのほうが、フィルにとっては優先順位が高かった。
一人ならば逃げられなかっただろう。戦うことはできなくても、留まり続けたかもしれない。
しかし今は違う。フーリムを理由に使い、自分が逃げ出すことを許容できた。
「寒くないかい?」
「大丈夫だよ。でもお兄ちゃん、本当に良かったの? 今ならまだ戻れるよ?」
「いいんだよ。きっとこれでいいんだ……」
二人は自分たちが間違っているということに気が付いていた。だが、お互いの手を強く握り誤魔化し続ける。
だが……許されるはずがない。二人の周囲でガサリと物音がした。
フィルはフーリムを背に隠し、音へ対する。次の瞬間、周りを三体の人狼が囲っていた。
油断していた二人は、自分たちの甘さを理解する。暗がりを進めば大丈夫だと思っていたが、そんなはずはない。
特にフィルは匂いでバレることを知っている。にも関わらず、逃げ出したいという衝動のままに行動した結果がこれだった。
ここで終わりか。フィルは死ぬことへの恐れは無く、ただ諦めにも似た気持ちを持っていた。
近づこうとする人狼たちに聞こえないよう、フィルは小さくフーリムへと伝えた。
「僕が時間を稼ぐ。その間に逃げるんだ」
「駄目だよ、殺されちゃうよ」
「いいんだ。もう……これでいいんだ」
己の身をせめて盾にしよう。そう思い身構えたフィルの前で、三体の人狼が跪いた。
咄嗟のことで、フィルはたじろいだ。しかしフーリムは慌てて彼の手を引っ張った。
「お兄ちゃん! 急いで逃げよう!」
「え? そ、そうだね」
「お待ちくださいフーリム様!」
フーリム『様』と呼ばれた少女の体が、びくりと震えた。強く、強く手が握られる。理由は分からずとも、フィルはそれに答えて握り返した。
人狼は立ち上がり、二人へと相対する。攻撃する素振りが見えず、フィルの動揺はさらに大きなものになった。
「人間よ、その方を渡せ」
「……この子は渡せない。守らないといけないんだ」
「守る?」
訝し気な顔を人狼はする。この場で一人事情が分かっていないフィルは、より頭を混乱させた。
だが手は離さない。それに気づいた人狼たちが武器を抜く。
身構えたフィルの手を、フーリムがゆっくりと離した。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「フーリム?」
フーリムは悲し気な表情を見せた後、人狼へと進み出た。フィルは慌てその細い肩を掴む。だが肩に乗せられた手も、優しく解かれた。
人狼は武器をフィルへと向ける。もう用済みだと、武器が月明りでギラリと光った。
「やめなさい。その人に手を出すことは許しません」
まるで人狼たちの上官であるかのように発せられた言葉。それは静かで暗く、月明りしかない森の中に響いた。
混乱の渦中にあったフィルは、ゆっくりとフードを外したフーリムの頭を見て驚愕した。
フーリムの頭には羊のような二本の角があり、それがはっきりと目に取れたからだ。
「君は……」
「……」
何も答えず、静かにフーリムは首を振る。見せたくなかった、気付かれたくなかった。自分が魔族であるということに。
しかし否定することはもうできない。今フーリムにできることは、せめてこの優しい少年の命を守ることだけだった。
「行きましょう」
「なりません。人間は殺します」
「これはわたしの命令です」
「残念ながら……魔王様から、人間は殺すよう言われています」
ギラギラと光る人狼の眼を見て、フーリムは理解する。このままでは助けることができない。
彼女を連れ戻すように言われてはいるが、従うようには言われていない。それが分かってしまった以上、全力で抗う必要があった。
フーリムは地面へ魔法を叩きつけた。周囲に砂埃が上がる。視界が悪くなったことを確認し、杖替わりに持っていた槍をフィルの足元へと放った。
「逃げて!」
フィルは……動けなかった。逃げ出して来た自分が、どこへ逃げればいいのだろう。守ると決めた少女を見捨てて、なにをすればいいのだろう。
ずっと守られて来た。ずっと助けられて来た。そして今なお、自分より小さな少女に守られて、助けられようとしている。
砂埃が収まり、月が見えた。前へ立ったフーリムは、泣きながらも必死に人狼を止めている。
一人では立ち上がることもできず、なぜか槍に縋った。
三騎士の末裔に出会い、楽しいということを知った。
リナに出会い、生きようと思えた。
フーリムの手を握り、自分が逃げることを許した。
視線を落とすと、足元には一本の槍がある。
逃げることはできず、生きるために戦えず、楽しかった生活は失われた。
結局自分にはこれしかなかったのだ。それを理解させられたフィルは、ゆっくりと槍を手に取った。
二日程握っていなかっただけなのに、妙に懐かしく感じる。
逃げるために戦わなければならない。生きるために殺さなければならない。帰れなくても進まなければならない。
あれ程殺したくないと願っていたのに、今は違う。しょうがないんだと、本当は分かっていただろうと、自分の声がした。
それは劇的な変化ではなく、逃げることをやめたことで、自分の感情を認めただけである。
……ピシリと、また全身に罅割れるような音がした。
隙を窺っている人狼に対し、フィルは笑った。自分がこの時代の人間である限り、殺さないことはできないのだ。
戦わなければたくさんの人が死ぬ。戦ってもたくさんの人が死ぬ。ならば……戦おう。
せめてこの少女の涙を止め、信じてくれた人の命を守るため、殺そう。
それでも逃げ出したかった、悲しかった、辛かった。なのに決めてしまうと、少しだけ心が軽くなった。
頭の中で三騎士の末裔が悲しそうに微笑み、スクイードが強く頷く。名前も思い出せぬ銀髪の女性が……背中を押した。
弾けるように、フィルは人狼へと駆けだした。
フーリムを一体の人狼が無理矢理下がらせる。二体の人狼は真っ直ぐに突っ込んで来たフィルを迎撃しようと、剣を振り下ろした。
一体の攻撃を避け、もう一体の攻撃を槍先で逸らし、そのまま喉へと槍を突き刺す。人狼の体を蹴って槍を抜くと、血が噴き出した。
全身に浴びた血を拭うことすらせず、後方へ槍を振るう。ガギンッと音がし、人狼の剣が弾かれた。
すぐに左手を前へ突き付け、弱く風の魔法を放つ。パシッと音がし、人狼の眼の前で風が小さく破裂した。
ほんの一瞬視界が塞がれた人狼は、空いた手で目を拭う。だが手を退けた時には、喉元に槍が刺さっていた。
最後の人狼は体を震わせる。この人間が大狼を倒したところを、彼はたまたま見ていた。
だがそれはあくまで、もう一人の人間の力があってのもの。この少年の力は些細な物だ。むしろ最後の最後まで殺すことができず、足を引っ張ってすらいた。
……なのに今は違う。倒れた仲間の喉元から冷静に槍を抜き、自分へと槍を向けている。目に涙すら浮かべているのに、隙が無い。
人狼は、雄叫びを上げた。
「ウオオオオオオオオオオオ!」
それは仲間を呼ぶためではなく、己を奮い立たせるためのもの。戦士として、震えて縮こまることはできない。
しかし人狼のそんな決意を無視し、フィルはゆっくりと距離を詰めた。迫り来る死神のような槍使いに、人狼の体がまた震える。
だが背を見せることはできない。人狼は大きく振りかぶり、フィルへと飛び掛かった。
剣は槍で払われ、体勢が崩れたところに槍が打ち込まれた。転がりながらなんとか避けるが、立ち上がろうとしたところに風の魔法が飛んで来て吹き飛ばされる。
木に打ち付けられた人狼が顔を上げた瞬間、シュッと二回音がした。人狼の両膝から血が噴き出す。
ガクリと膝をついた人狼の前では、月を背にした少年が嗤っていた。
フィルは躊躇わず、槍を人狼の喉へと突き刺した。
槍を引き抜いたフィルは、フーリムの前まで歩き止まる。そして屈み、手を差し出した。
「もう逃げられる場所はなくて、戻ることもできなくて、進むことしかできない。……それでも一緒に来るかい?」
フーリムは震えながらも、フィルの手を掴んだ。この少年、いやこの人の道が自分のせいで変わってしまったのなら、せめて一緒にいなければならない。
あれ程までに苦しんでいたのに、殺したくないと願っていたのに、茨のような道を選ばせてしまった。
逃げ出すことをやめた少年と共にいることを、フーリムは望んだ。
「行こう。人を救うためでもなく、魔族を倒すためでもなく、戦いを終わらせるために殺そう」
「……はい」
フーリムが掴んでいるフィルの手は、あれほど温かく感じていたのに、血に濡れて冷たく感じた。
そして少女は責任から逃げることをやめ、少年は終わらせるために殺すことを決めた。
悲しむ人や魔族を減らすため、進むことを選んだ。
まだ誰も気づいていない。本人すらも分かっていない。
人は成長することはあっても、すぐに順応する生き物ではない。
小さな切っ掛けで、殺すことができるであろうか? ……答えは否である。
それは成長ではなく、順応でもなく、壊れたということでしかない。
人が壊れるということは、人の枠から少し外れるということ。
人の枠を外れた者。人はそれを『英雄』と呼んだ。
今の状況は、フィル自身が望んでいても望んでいなくても、『英雄』への一歩を踏み出したということに他ならなかった……。
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