第31話

「俺が前へ出る! フィルは回り込め!」


 スクイードは人狼へ向け駆け出す。しかし、人狼は合わせるかのように大剣を横へ薙ぎ払った。

 防げないことは明らかだったので、しゃがみこみ、ぎりぎりのところで避ける。スクイードの左耳の上が裂け、血が噴き出した。


「スクイードさん!」

「いいから前を見ろ!」


 想定以上の射程と知り、スクイードは立ち上がった後に一歩下がった。フィルも同じように一歩下がる。これ以上近づけば、相手の間合いに入ってしまうだろう。

 大型の人狼は怯むこともなく一歩前へ出る。二人は二歩下がる。歩幅は倍か、それ以上。前へ出なければ、どんどんと追い込まれる。

 二人には前へ出る以外の選択肢が残されていなかった。


 遥かに大型の存在に見下ろされる中、前へ足を進ませることには恐怖しかない。今なのか、まだ待つのか。プレッシャーに耐えながらタイミングを見計らう。

 じわりじわりと距離を詰める中、スクイードが飛び出す。フィルも恐怖を押し殺し、続くように特攻した。


 突撃してきた二人を見て、にたりと笑った大狼の剣が振られる。スクイードは地を這う蛇のように駆け、剣の下を潜った。

 フィルは避けきれず槍で剣を逸らす。しかし勢いを殺し切ることはできず、ピシッと槍の柄に嫌な音を残しながら、吹き飛ばされた。

 慌てて確認をしたが、折れてもいなければヒビも入っていない。今、槍を失うことは死に直結する。フィルは安心して立ち上がった。

 目の前では、懐に潜りこんだスクイードと大狼の戦闘が行われていた。


「おらあああああああああ!」


 嵐のように剣を振る大狼の剣を避けながらの攻撃。スクイードの槍は少しずつ相手を穿ち削る。その痛みに大狼は歓喜した。

 人間であろうと魔族であろうと関係がない。強敵との戦いこそが喜びだった。


「ウオオオオオオオオオオ!」


 咆哮を上げる。その強い雄叫びに、ビリビリと空気が震える。

 これが命を獲り合うということなのだと、フィルは二の足を踏んだ。あの猛攻の中に踏み入る勇気が、どしても出ない。

 次も防げるだろうか? 今度は両断されるのではないか? 脳裏には最悪の結末しか浮かばなかった。

 前を見ると、気怠そうな笑顔を浮かべる中年の兵士の姿はそこにはなく、鬼のような形相だけが目に入る。


 援護を期待せず、スクイードは戦い続けた。この逃げ出したい圧倒的な絶望の中、横に立っていてくれただけで十分。

 フィルがいてくれることで、彼もまた足を前に進ませることができていた。


 幾合も剣と槍を交り合わせる。槍が右足を穿ったのと同時に、大狼の体がぐらりと体勢を崩した。スクイードはその機会を見逃さない。チャンスだと、思い切り踏み入った。

 ……しかし、それは罠だった。大狼は近づいて来たスクイードに対し、左の拳を真っ直ぐに撃つ。


「なっ!?」


 スクイードは焦りながらも槍を拳に刺し込む。だが大狼は怯むこともせず、そのまま拳を進ませた。

 大狼の拳に視界を包まれたスクイードは、槍を手放し両腕で庇う。

 ガギッと鈍い音がし、体ごと後方へ吹き飛ばされる。左腕は折れ、鎧がへこむ。ゴボリと、口から血を吐き出した。

 地に伏したスクイードは立ち上がろうとしたが、それより先に大狼の剣が振り上げられた。


「止めだ人間よ!」


 振り下ろされた大剣を避ける術は無く、無事な右腕でせめてダメージを減らそうとする。しかしスクイードの前に立ちふさがった者がいた。

 フィルは剣で槍を両断され、その体を袈裟斬りにされる。噴き出した血が大狼の視界を塞ぐ。倒れた瞬間、折れたフィルの槍の穂先をスクイードは掴んだ。


「おおおおおおおおおおおおおおお!」


 最後の力を振り絞るように、スクイードは突っ込む。無防備な体勢となっていた大狼は左腕を振り回したが、目に血が入り見えない。

 飛び上がったスクイードは大狼の腕を避け、その喉へ槍の穂先を突き立てた。


「ガッ……ゴボッ」

「……やったか?」


 ドスンと、背から大狼が倒れる。じっとスクイードは見ていたが、動かないと理解し、フィルへ近づいた。

 倒れていたフィルの体を起こして見ると、体には斜めに傷が刻まれている。……だが致命傷ではない。咄嗟に体を捩ったことで、深手にはなっていなかった。

 助けられた気持ちを伝えようと、スクイードはフィルの手を握った。


「フィル、助かった。大丈夫か?」

「後ろ……」

「ん?」


 スクイードがフィルの指差す方向を見たとき、すでに立ち上がることもできない大狼の剣が横に振られていた。

 フィルを抱き起そうとしたまま、スクイードの体が両断される。飛んだ上半身をフィルの手はしっかりと握っていた。

 ぼとりと、フィルの手に引っ張られた上半身が体の上に落ちた。


「スクイードさん……?」

「逃げ……ろ……」


 握られていた手から力が抜ける。放してはいけない、絶対に放してはいけない。

 そんなフィルの思いとは裏腹に、血で濡れた手は滑り、スクイードの手が落ちた。

 ぼんやりと自分の手を見る。真っ赤に染まった手。動かない上半身。見開かれたままのスクイードの目が、彼を生きているように感じさせる。

 ピシリと、フィルの全身に罅割れるような衝撃が走った。


「グハッ……」


 すでに幾何の命だというのに、大狼は立ち上がった。その目にはフィルを見据えている。お前を殺すと、それまで死ねないと、目が語っていた。

 フィルはゆっくりと立ち上がり、大狼から離れる。そしてスクイードの槍を拾い上げた。


 槍を構えて大狼を見る。大狼も最後だと言わぬばかりに、フィルを睨みつけた。

 悲しいという気持ち、逃げ出したい気持ち、まだスクイードを助けられるのかもしれないと思う気持ち。

 様々な気持ちが交錯する中、なによりもフィルの中で勝っていた感情があった。

 それは……怒り。


「あ……うあああああああああああああああ!」


 フィルは吠えた。悲しんでいただけの自信が無い少年は、初めて抑えきれないほどの怒りに打ち震える。傷の痛みも感じず、憎しみだけが足を動かした。

 大狼を睨みあげる目が、怒りが、憎しみが、殺したいと叫びをあげる。強い感情に抗えず、フィルは大狼へ向け飛び出した。


 大狼は残った力で、剣を真っ直ぐにフィルへ向け突き出す。

 横へ避けるのでもなく、僅かに逸らすのでもない。フィルは槍に風を纏わせ、剣を全力で叩き落とした。

 力任せに打ち付けられただけにも関わらず、大狼の手から剣が落ちる。

 大狼は察した、自分にはもう剣を握る力が残っていないことを。

 瞳が狂気に満ちた少年を見て、にやりと笑う。この甘っちょろい少年が、地獄に一歩足を踏み込んだことを喜びながら、大狼は両手を大きく広げた。

 大狼の体へ吸い込まれるように、フィルの槍はその胸を穿った。



 その場に残された物は、いくつもの兵士と人狼の死体。

 気の良い中年兵士の二つに別れた体。

 なぜか満足そうに倒れている大狼。

 ……そして全身を真っ赤に染め、槍を握り立っている少年。

 それだけだった。


 フィルの手からは、肉を穿った感触が消えない。全身を包んでいる血が、体の中から湧き出す。耐えきれず、膝をつき嘔吐した。

 少しでも血の匂いを吐き出そうとするが、消えることは無い。吐いたことにより気持ちの悪さは先ほど以上になった。

 視界はぐるぐると回り、目からは涙が溢れる。フィルの嗚咽だけが、その場に響き渡った。


 すっと、フィルの体が小さな少女に抱きしめられる。動くことすら億劫で逆らうことができない。優しく抱きしめていたのはフーリムだった。


「お兄ちゃん大丈夫?」

「僕は、僕は……」


 殺した、怒りのままに、抗わず身を任せて。あれほど殺したくないと願っていたのに、衝動に逆らえなかった。

 フーリムはただ優しく震えるフィルを抱きしめる。人狼たちがこの村に踏み入った理由の一端が、自分にあるかもしれない。フーリムはそれを理解していた。

 初めて優しくしてくれた少年は、自分が魔族だと知ったらどう思うだろうか? 自分のせいで仲間を失ったと知ったら?

 出会ったばかりの少年が悲しむことが、自分を拒絶するかもしれないことが、フーリムには恐ろしくてしょうがなかった。


「ごめんなさい……」


 フィルはフーリムの言葉に答えない。二人は動く者がいなくなった場所で身を寄せ合い、震えながら涙を流した。



 少し経ち、バタバタと二人に駆け寄って来る者がいた。


「フィルくん! 戦闘は終わったよ、大丈夫?」


 リナの言葉にフィルは何も返さない。周囲の死体を見て、リナは状況を察した。フィルがこの大狼と戦ったのだろう。

 遅れて来たルアダとベイもそれは同じであり、掛けるべき言葉が見つからなかった。だが振り絞るようにリナは声を出し、フィルへ声を掛けた。


「君が頑張ったから、この大型の人狼を倒したから、村の被害が減ったんだよ。多くの人を救った。それはとても誇らしいことだから……」


 フィルはリナの言葉を頭の中で何度も繰り返した後、ゆっくりと立ち上がる。

 三人はほっとしたのだが、その顔を見て驚愕した。

 目には光が無く、どこを見ているのかも分からない。ただただ打ちひしがられている瞳には絶望しかなく、恐怖すら覚えた。

 ゆっくりとフィルは震える口を開く。そして弱く小さい声ではあったが、はっきりと告げた。


「僕はもう……戦えません」


 絶対に放さず握っていた槍が、カランと落ちた。それはフィルの心が、完全に折れてしまっていたことを表している。

 たった一度の知り合いの死が、無数の兵の屍が、一度だけの殺しが、平和な時代を生きていたフィルにとって、心を折るのに十分な理由だった。

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