第9話
『333年前、世界を救った英雄がいた。英雄の名は竜騎士フィル。
人が滅亡の危機に追い込まれていた滅びの時代に、人を滅ぼそうとした魔族の王を打ち倒した英雄。
勇敢な人々、王国の三騎士、そして竜と共に彼は世界を救った。人にも魔族にも味方しないはずの竜を、味方につけて。
しかし世界に平穏が戻った後、英雄は忽然とその姿を消した。
そう……これは、英雄と呼ばれた竜騎士の物語である。 』
フィルは本を開いたり閉じたりを繰り返していたが、あらすじしか読むことはできず、結局本を閉じて仕舞う。溜息をつきつつ椅子へ座ったフィルは、ぼんやりと本棚を眺めた。
英雄が、嫌いだ。自分の名前が、嫌いだ。だから、好きだったこの物語を読むことができない。鬱屈した感情を持つ自分が、とても弱い人間にフィルには感じられた。ただ開き、読めばいいだけ……しかし、それがどうしてもできない。
手元にある槍を手にとり気分を変えようとしていると、外から声が聞こえてきた。
「フィルくーん! 朝だよー!」
声の主は、確認するまでもなくカテリナだ。フィルは立ち上がり、窓を開き声のしたほうを見る。そこには、いつも通り二人がいた。
一人はカテリナ。金髪をポニーテールに纏めているのは、子供のころから変わらない。ぴょんぴょんと飛び跳ねて、フィルヘ手を振っている。その度に髪も飛び跳ねるところが、なぜか少し面白かった。……身長は、あまり伸びていない。
もう一人はルア。茶色の髪に優しげな面立ち。歳が上がるにつれ、彼の魅力は上がっていく。学校内で一番もてる男が誰かと言われたら、間違いなくルアだとフィルは言うだろう。
……でもたまに、同性であるフィルもドキッとしてしまう態度をとるのはやめてほしい。男女問わず、妙な魅力を振りまく親友は、誇らしくもあり困ったものでもあった。
フィルは二人を改めて見た後、声をかける。
「今、行くよ。少しだけ待ってて」
「うん、分かったよ!」
明朗快活な声は、朝から陰鬱としていた彼の心を少しだけ高揚させる。フィルは手早く剣を腰につけ、槍と荷物を背負う。そして部屋を出る前に、忘れ物が無いか部屋を見回した。
毎日同じ用意をしているのだから、特に忘れ物もないはずだ。しかし、毎日同じ用意をしているということは、忘れ物をしていても気付かないものかもしれない。フィルはそう思い一つ頷き、忘れ物があるかもしれないと考えるのをやめた。
そして扉の横にある鏡を覗きこみ、寝癖をチェックする。
まだあどけなさを残す顔立ちに、オレンジに近い茶色の髪。身長はそれなりに伸びているが、ルアやベイラスに比べれば些細なものに感じる。身長が気になるお年頃になっているフィルは溜息をつきつつ、ぴょんっと飛び跳ねている寝癖を押さえた。
本人はまるで気にしていないのだが、寝癖があるとカテリナや母親がうるさいためだ。女性というのは、寝癖に厳しい。それがフィルの学んだことだった。
登校中にずっと寝癖を指摘され、近づかれて直されるのは恥ずかしさがある。カテリナはまるで気にせずにやるが、思春期の少年とはそんなものだろう。
寝癖が直ったような感じがしたので、部屋を出て階段を一段飛ばしに降りる。一階では、ちょうど両親が朝食をとっているところだった。
「ん? フィル、なぜそんなに焦っているんだ? まだ遅刻するような時間じゃないだろう?」
「うん、でも外で待たせちゃっているからね」
「ふふっ、いつもは早目に外へ出てるのに珍しいわね」
「ちょっと、ね」
英雄の物語を開いたり閉じたりしていたとは、どことなく言いづらく、フィルは誤魔化した。両親も、フィルが自分の名前を嫌っていることは知っている。わざわざ話題に出す必要はない。それは彼なりの気遣いだった。
「うん、まぁ……ちょっとね。とりあえず、いってくるよ。父さんも気をつけてね」
「はははっ、父さんは門番だが、平和な時代だから危険もないし大丈夫だ。フィルこそ気をつけて行くといい」
「そうそう、お父さんの言う通り。焦って転んだりしないようにね。いってらっしゃい」
「分かってるって。いってきます」
親にとって子というのは、いつまでも子供だと言う。だが、15にもなって子供扱いされていることは、フィルにとってむず痒いものだった。
思春期特有の気難しさというやつだが、本人にとっては気付かないものだろう。
フィルはそんなもやっとした気持ちはすぐに忘れて、玄関へ向かう。そして待っていてくれた幼馴染たちと合流するために、家を出た。
家を出て二人を見ると、二人は談笑している。談笑を邪魔しないようにフィルが近づくと、カテリナはそれに気づき談笑をやめた。カテリナはとても嬉しそうに、フィルへ大きく手を振った。小動物のように動く彼女はとても愛らしく、フィルにも笑顔が浮かび上がる。
「おはよう!」
「ごめん、お待たせ」
「全然待ってないよ!」
「おはようフィル。いつもは先に外で待っているのに珍しいですね」
「おはよう。うん、ちょっと遅れちゃってね」
フィルがそう言うと、二人もそれ以上聞くことはなかった。遅刻するような時間でもなく、聞く必要もないと判断したのだろう。
実際のところ、三人はいつも早目に学校へ行くので、まだまだ焦る時間でもない。なので、いつも通りにゆったりと歩き始めた。
学校へは王都の中央通りを通って行く。登校時間は仕事へ向かう人も多い時間であり、通りにある店では、どこも忙しそうに回転の準備を行っていた。一時間もすれば、通りには人が溢れ、一見普通の家に見える場所も、ほとんどが店に変わる。
景色をどんどんと変えていく通りは、朝が来たことを知らせてくれているようで、三人はとても好きだった。澄みとおる空に、明るい町の人々。平和な時代の象徴だといえる風景があった。
しかしそんな中、フィルだけが溜息をつき少しだけ暗い顔をする。ルアは目聡く、それに気付いた。長い付き合いで分かっているが、大体フィルはこういうとき、余計なことを考えて悩んでいる。一人で抱え込む性質のあるフィルは、ルアから見て心配以外のなんでもなかった。
フィルを気遣ったルアは適当な話題を振り、気分を変えさせてやることにした。
「今日の授業、またフィルにベイラスが挑んで来ますかね?」
「うぅん……たまには、違う人とやりたいな」
「なら、僕とやりますか?」
優しげな表情でルアはフィルに告げる。今日はテンションが低そうだし、できる限り気持ちを上向きにしてやりたい。なら、違う人とやりたいというフィルの提案を否定する理由はなかった。
もちろんルア自身も、フィルと試合をしたいという気持ちあってのことでもある。
「ルアとなら、いい練習になるよね。僕のことも考えて戦ってくれるから、こっちも強くなれる気がするんだ」
「朝からそんなに誉められると、少し照れくさいですね」
ルアは照れ臭そうな素振りなど全く見せずに、にっこりとフィルに笑いかけた。その優しそうな笑みこそが、彼の人気の一つだろう。フィルはそう思いながら、ルアに笑い返す。
そんな二人をきょろきょろと見ていた少女は、自分だけ置いてけぼりだと気づき、慌てて割って入った。
「ちょっとちょっと! 待ってよ! 私とやろう? 最近、フィルくん全然私とやってくれてないよ?」
カテリナは両手を上げて、全身で二人に抗議をした。小柄なこともあり、その姿は駄々をこねている子供にしか見えない。しかもこれで強いのだから、詐欺以外のなんでもないだろう。
しかし、そんなことは重々承知なフィルは、優しく笑いかけた。
「リナ、落ち着いて。別にリナとやりたくないって訳じゃないんだよ?」
「そうですよ。僕が先にフィルへ声をかけただけで、リナが嫌だとは言っていませんよ」
二人に宥められ、カテリナは余計不貞腐れた。じとっとした目で二人を見るのだが、それが余計二人を困らせている。彼女自身も気付いてはいたのだが、その態度を改めることはなかった。私、不機嫌です! というオーラを、全身から出すのが彼女のポリシーだ。
カテリナは順番に二人を見た後、仏頂面で聞いた。
「なら、私と戦っても強くなれる気がするよね?」
「え……うん……たぶん?」
「たぶんって何!? もー!」
カテリナの不機嫌さは、更にヒートアップする。フィルも自分の言い方が失敗していたと気付いたが、しどろもどろになり否定ができなかった。正直なところ、彼女と戦うよりもルアと戦ったほうが訓練になると思っていたせいもあるだろう。
ルアはそんな二人を見て、やれやれと両手を上げる。そしてフィルをフォローするように、カテリナへ告げた。
「フィルはリナと戦うと、照れてしまいうまく戦えないのですよ。正直すぎるのも、困ったものですね」
「え? 私と戦うと照れる? なんで?」
「それだけ、リナが可愛いってことです」
「もうやだ、ルアくんってばー!」
カテリナは先ほどの不機嫌さを全て忘れたかのように、恥ずかしがりながらルアの背中をバンバンと叩いた。
ルアは笑顔ではあるが、少しだけ口元が引きつる。そこまででもないが、それなりに痛いのだろう。
ルアが助けを求める顔をしながら自分を見ていることにようやく気づいたフィルは、慌ててカテリナを止めることにした。
「リナ、学校に行かないといけないから、その辺にしておこう?」
「そ、そうですね。フィルの言う通りです。ほら、結構時間も経っていますよ?」
「え? ……本当だ! 二人とも急いで! 遅刻しちゃうよ!」
フィルとルアは、顔を合わせて苦笑いを浮かべた。遅くなってしまった原因は、カテリナにある。しかしそんなことを彼女に言うと、余計時間がかかってしまうからだ。
二人は、少し前で待ちきれないとばかりに太腿を上げているカテリナを見る。彼女は二人に手を振りながらも、さぁ走るぞ! と言わんばかりな様子だった。
まだ切羽詰まるほどギリギリな時間ではないのだが、こうなってしまっては仕方ないだろう。仕方なく二人がカテリナと走ろうとしたときだった。
「ほら! フィルくんも! ルアくんも! 急いで!」
カテリナが大声でフィルを呼んだ。次の瞬間、周囲にいた数人の人が彼女を見る。それに気づき、フィルは額に手を当てて溜息をついた。
そんな少し落ち込み気味なフィルの肩を、ルアは慰めるように軽く叩く。
「いつも言っていますが、あまり気にしないほうがいいですよ。さあ、行きましょうフィル」
「うん……」
ルアが少し大きめな声でそう言ったことにより、反応した人たちもその場を立ち去って行った。彼らもすでに慣れているのだろう。
竜騎士フィル。その名前は有名だ。知らない人間のほうが少ないと言える。
……しかし、その名前のデメリットは変わらず大きい。フィルという名前の付けられた人間が、世界に溢れているからだった。
英雄と同じ名前をつけて、あやかりたいと考える親がこれほどに多いとは、思っていない人のほうが多かったのだ。
伝説の英雄、竜騎士フィル。その名前と物語を、フィルが嫌いになった理由はそこにあった。同じ名前の人間ばかりいる。それは、フィルの子供時代に多大な影響を及ぼした。
フィルはもう一度大きな溜息をついた後、上を向いて空を眺める。そして雲が流れる青空を見て気持ちを少し落ち着かせた後、すでに走り出しているリナを追いかけて走りだした。
同じ名前の人間がたくさんいるという思い出したくない事実を、頭の中から少しでも振り払うように。
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