自覚

 肩を落としっぱなしの金曜日を終えて、目が覚めたら土曜日だった。

 あまり眠れなかった。朝食だと父に起こされ、一応両親と食卓は囲んだものの、食欲もなかった。

 だけど、母がやっぱり心配そうな顔でこちらをうかがってるような気がして、無理やりトーストとサラダを詰め込んだ。

 母の作る食事はいつでも美味しく食べたい。この十数年間想ってきた。しかし人生はなかなかうまくいかないものだ、とよくわからない人生の壁を感じながら、

 コーヒーで朝食を流し込む。

「昴は、どうする?」

 父の声で僕は食べ物が詰まりそうになる。少し噎せながら顔をあげると、両親が僕を不思議そうな顔で見ていた。

「え、ごめん…何の話?」

「きいてなかったのね」

 母が呆れたわ、と笑った。

「だから、大きいショッピングセンターが近所にできたのよ。ほら、いつも行く眼鏡屋さんの向かい」

「母さんが買い物に付き合ってほしいんだと」

「本当に大きいのよ。映画館も入ってて。フードコートもあって、こーんな」

 母が手を広げる。右手に持ったマグカップからコーヒーが出てこないかヒヤヒヤした。

「母さんは何年たってもああいうところが大好きだな」

 父が大きく笑った。

「で、今日お父さんと行こうと思って。昴も一緒に行く?」

 そういえばいつからだろう。わざわざ行くか行かないかなんて訊かれるようになったのは。

 幼い頃は当たり前のようにどこにいくにもついていったのに。大抵の家庭がそうだろう、と思いつつも僕はふと不思議に感じた。

 今は両親が例えば数日家に居ずとも、多分僕は生活できる。いつから、家を見渡しても両親が居ないということに不安を覚えなくなったんだろうか。

 そんなことを数秒、考えてから僕は小さく首を振って、答えた。

「あまり調子も良くないし、勉強もしたいから家に居るよ」


 勉強なんてする気はなかった。いや、しなきゃとは思ったが、できるような気分じゃなかった。

 何もする気が起きないままに布団にもぐった。

 自分が凄く不健康になった気がして、余計に頭が重たい。

 何も考えられない。

 只、ぽつぽつと頭に浮かんでは沈んで行く事はあった。

 真希は今頃、先輩と会えただろうか。

 真希は今頃、先輩と何をしているんだろう。

 真希は今頃、先輩に…告白、したのだろうか。

 ぐ、っと息が詰まる感じがする。苦しい。

 なんで急にこんなに具合が悪くなったのだろう。

 風邪でもひいただろうか。


 結局陽が傾くまで僕は布団に隠れていた。

 いい加減起きようと、布団から出てシャワーを浴びた。

 シャワーから出てくると、母から電話が来た。

「夕ご飯食べていこうかと思うんだけど…」

 親に許しを貰う子供みたいなおそるおそるした声に、僕は思わず笑ってしまった。

「気にしないでゆっくりしてきなよ。僕は大丈夫。適当に済ますよ」

 そうして電話を切った僕は、ジャージ姿で読書を始めた。

 休日を無駄にした気分を払拭したくて始めてみたが、やっぱりあまり集中できずにいた。


 その時だった。

 ケータイが鳴り響く音に、一度。

 そしてディスプレイを見て、一度。

 五秒の間に二回も心臓が飛び出しそうになった。


 真希からの着信だった。

「もしもし…?」

 少し掠れた声がでて、嫌な汗をかく。

『昴…?ごめん、今大丈夫だった?』

「あ、うん」

『………』

 暫くの沈黙。

「家?」

『うん』

「…何かあったの?」

『……』

「…」

『…昴に会いたい。今、団地の公園に向かってるの』

 僕は、その言葉を聞き終わらないうちに家を飛び出した。


「ごめん、急がせちゃったね」

 僕のジャージ姿を見て、真希は弱く笑った。

「そっちこそ」

 真希は風呂上がりらしく、濡れた髪を垂らしていた。

「湯冷めするよ。どうしたの」

「うーん。割と落ち着いて帰ってきてー…平気だなって思って…お風呂に入ったんだけど、ダメで…散歩に出たけど、ダメで…じゃあ昴かなって」

「意味がさっぱりわからない」

 僕が少し呆れた声で言うと、真希は眉を下げて弱々しい笑顔を作った。

「…ふられた」

 僕の心臓がぐっと跳ね上がった。

「私、女の子として見られてなかった」

 真希は酷く優しく笑った。

「ついでに、私が先輩に持っているのは憧れだけなんだってさ。…先輩の気持ちはわかったけどさ。私の気持ちまで決めつけないで欲しいよね」

 そうおもわない?とやたら明るく言いながら僕を見上げた真希の眼は、潤んでいて。

 僕は、もうどうしていいかわからなかった。

 ちょっとだけ、真希をフった先輩を恨んで、ちょっとだけ、感謝もして。

 どう反応したらいいか、考えあぐねていた。

「…ごめん、昴に話したからどうなるわけじゃないんだけどさ…」

「でも、僕かなって思ったんだろ?」

 真希は振られた傷心の内を話す相手に、わざわざ僕を選んでくれた。

 たまたま一番近所の友人だからってだけかもしれないが。

 嬉しいし、励ましてあげなければと思うのに。

 言葉が出ない。喉が渇いて声が出ない。そもそも僕は彼女に何を言うべきなんだろう。

「ごめん昴…ごめん…」

 真希は一瞬表情を緩めたかと思うと、顔をくしゃくしゃにして潤んだ瞳からポロポロと涙を零しだした。

 涙の合間に、途切れ途切れに真希は言う。

「わざわざ昴呼び出して…何してんのかな私」

 小さくごめんね、と呟いて彼女は顔を覆おうとした。

 僕はその両手を思わず取った。

 驚くように見開いて、真希の潤んだ眼がこちらを見る。

 綺麗だ、と思った。

 真希の泣き顔が。

 少しだけ罪悪感で苦しくなったが、もう、止まらなかった。

 僕はどうしたいんだ?

 真希の手を取って、それから…

「昴…?」

 少し怯えたように真希の瞳が揺らいだ。

 きっと僕は怖い顔をしていたんだろう。

「すば…、」

 真希は僕の名をもう一度呼んだが、最後まで言うことが出来なかった。

 僕は真希を抱きしめていた。

 風呂上がりのシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。

 髪が凄く冷たかった。湯冷めしたんじゃないかと心配だ。

 真希が綺麗で、可愛くて、

 …愛おしくて。

 僕は気づいたら真希を抱きしめていた。


 真希はこんなに小さかったっけ?

 真希はこんなに柔らかかったっけ?

 真希はこんなに良い香りをしてたっけ?

 力いっぱい抱き締めたい。だけど、あまり力を入れたら壊れてしまいそうで。

 微妙な加減で真希をぎゅ、と抱きしめた。

「昴、あの…」

 真希の驚いたような声が聞こえる。

 真希はすっかり僕の胸の中におさまっているから、表情はよくみえない。

「…僕、不器用でさ、」

「知ってる」

 真希が少しだけ笑った。声が胸元に響いて少しくすぐったい。

「なんか声をかけてあげるべきだろうし、出来ることなら真希を励ましたいけど」

 息を少し吸う。良い香り。

「悩んだ末に、こうなった…ごめん」

「ごめんて言う割に、手を離さないのね…考えすぎて身体が動かなくなっちゃった?恥ずかしいよ昴」

 僕は半分だけ、うそをついた。

 言った言葉は間違いじゃない。

 でも、だから抱き締めたなんて言い訳だ。

 真希が可愛くて。つい、手が出てしまった。

 抱き締めた感触も、鼻先をくすぐる香りも、ずっとそうしていたいと思うほど気持ち良くて、僕の罪悪感は募るばかりだ。

 それでも僕は、その腕を解けなかった。

「真希は…」

「うん?」

 真希が僕を見上げる

「その、かわいいし良い子だと思う」

 真希が目を丸くした。

「先輩なんかより良い人に、いつかきっと出会えるよ」

「なんか、って。酷いなあ」

 真希は吹き出した。

「ありがとう、昴」

 そう笑いながら僕の胸から離れようとする真希を、僕はもう一度抱き締めた。

「あの、恥ずかしいよ」

「もう少しだけ」

 あまりにも抱き心地が良くて。暫く僕はそうしていた。


 どれくらい抱き締めていたか、もう僕には記憶にない。時間の感覚なんてとうに麻痺していた。

 やっと僕の腕が言うことを聞いたから、僕は小さくごめん、とだけ言って真希を解放した。

「ありがとね、昴」

「いや、なんか…ごめん」

「…私、確かにさ。陸上ばっかやってきたし、ガサツで、おしゃれも苦手で、女の子っぽくないのは認めるよ」

 色々な言葉が浮かんだが、僕は何も言わずに真希を見つめた。

「でもさ…女の子なんだよ、私。…好きな人に女の子として見られてなくて、傷つかないわけない。なのにね、そっか、わかりました、なんて笑って帰ってきたの、私」

 一度はひいていた涙が、また真希の瞳に戻ってくる。

「わかった、なんて嘘に決まってる…何で良い子にしてたんだろう。先輩にも気にしないでなんて言って、恨み言の一つも言えずに帰ってきた自分が、情けない」

 真希はまた、ポロポロと涙を落とし始めた。

「馬鹿じゃない、私も、先輩も、みんなみんな、馬鹿、馬鹿ばっかり」

 また抱き締めたくなったが、我慢した。

 そしたら、今度は真希から僕の胸に飛び込んできた。

 真希はそのまま、わんわんと泣いた。


「昴は、本当になんでもお見通しだね」

 真っ赤な鼻をこすりながら、涙目のまま真希は苦笑する。

 当たり前だ。何年、見てきたと思っているんだろう。

 僕自身が今気づいたんだ。きっと真希は、知らない。

「長い付き合いだからね」

「幼なじみの力ってやつ?でも私、昴のこと…あんまりわからないかも。鈍いんだな私。ごめん」

「謝ることじゃないよ」

 真希はきっと、なんだか寂しくて、不安で。僕は、真希に触れていたくて。なんとなく僕らは手を握りあっていた。

 何か飲み物でも奢ってあげたかったけど、生憎財布も持たずに飛び出した僕にはそんな気の利いたことをしてあげられない。

「でもやっぱり、悔しいなぁ。よく考えたらいつだって昴には叶わなかったよ。ほら、小学校に入ったばっかの時だって…」

 その真希の言葉がきっかけとなり、僕らは思い出話に華を咲かせた。

 足だけがフラフラと家路を辿る。


 僕たちは真希の家の前で別れた。

 最後に真希は「今日はありがと。昴、大好き」と、ひまわりのように笑って玄関に入っていった。

 僕は、その不意打ちに倒れるかと思った。

 最近は先輩の話題ばかりだったから久しく聞いてなかったけど、真希の「大好き」はそんなに珍しい言葉でも、特別な言葉でもない。

 深い意味はない。

 いつもの会話、いつもの言葉、いつもの表情。

 意識ひとつで、こんなに変わって見えるものなんだろうか。

 夢を見たような、ぼんやりした意識を抱えながら僕は家に帰った。

 家で着替えると、財布を持って家を出る。そしてそのまま、僕はサカモトに向かった。


「いらっしゃー…なんだ、昴か」

「なんだ、って。僕だって客だよ」

 サカモトのドアを開けて、飛び出してきた言葉に僕は抗議する。

「晩飯か?」

「うん」

 抗議を無視して問いかけるマスターに答えながら、僕はカウンターに腰かけた。


「…意外に早かったな」

「え?」

 マスターお手製ハンバーグを食べていた僕は、顔を上げた。

「俺に言うことあって来たんだろ、昴坊ちゃん」

「マスターの鋭さが時々怖くなるよ」

「伊達にお前らより長く生きてねえよ…で?」

「マスターが言ってた意味がわかった。それだけ」

 少しぶっきらぼうに、僕は伝える。

「若いってのは良いねぇ」

 マスターは何てこと無いように楽しそうに笑う。

「頑張れや、若造」

「年寄りくさいよそれ」

「うるせぇ。…あれ。そういや昴、あっちの方はもういいのか?」

「え?」

「昨日もなんかあったんだろ。なんかすっきりした顔してるが、なんも解決してなさそうじゃねえか。片想いの悩みが増えただけだろ」

 片想い、と口にされて少し動揺した。そしてすぐに、マスターの告げた事実に憂鬱な気持ちを思い出した。

「すごく、清々しい気持ちだったのに」

「うっせえ、片想いで満足ですってタマでもねぇだろお前」

「…」

 僕はその問いには沈黙で答える。

「つまんねぇ悩みにウダウダして、自己嫌悪して、胃に穴開けんなよ?情けねぇぞ?」

 なんでこの人はこんなに人をグサグサと刺してくるのか。恨めしく思う。

「もうやめようよこの話」

 僕は何故、父と同じ年の男性と、こんな恋愛やらなにやらの悩みを話してるんだろう。

 急に恥ずかしくなった。とても女々しいような気がしてきた。

「へーへー。これ飲んだら帰ってクソして寝ろ、ボウヤ」

 マスターの出してきたハチミツ入りのホットミルクを、僕は黙って受け取った。多分、僕は拗ねた子供のような顔をしていたと思う。

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