アンビバレンス
暮月いすず
燻り
午後。
蝉が鳴いている。
そんなに訴えなくても、夏なのはよくわかったよ。と文句を言いたくなる。
蝉は夏を告げたいわけじゃなく、自分がここに居ると伝えたいだけだろう。
自分の中の形容しがたい憂鬱な気持ちのぶつけどころがなくて、ただ八つ当たりがしたいだけなんだろうな、と他人事のように推測する。
うんざりしてしまうほどの青空と、遠くで着々と育つ雲。それにすら、なんだか苛立ちを覚えてしまう。嗚呼、良くないな。
「
「まだ。いいよ、僕は飛ばして」
「あれ。お前、ここ迷うとこじゃないだろ?」
「…まぁ…後で自分で出すよ」
「いいけど。提出期限、あそこにかいてあるからな。守れよ」
「ああ」
慎司が指を指した先の黒板の文字を改めて読んだ。
『進路希望調査用紙 七月二十日中』
進路希望ね…。
大げさにため息をついた。
僕には子供の頃からの夢がある。周囲にもよく話しているし、別に諦めたわけじゃない。
だけど、なんとなく今日は書きたくなかった。
そんなことに想いを馳せてるうちに、いつのまにかHRは終わっていた。
「終わった終わった。さぁ、部活動しようぜ」
慎司は後ろの席から僕を小突く。
僕も慎司も、別に部活には入っていない。いわゆる帰宅部だ。
慎司がいう「部活動」とは、帰宅部の活動…つまり、「帰宅」するってことだ。そういうくだらないことを思いつくだけに、慎司は頭を使ってるんじゃないかと時々思う。
僕と慎司は、他愛もない話をしながら校門を出た。
校門を出て暫く歩いていたら、慎司がいきなり足を止める。
「何?」
「あー、俺本屋寄りたいんだった。付き合ってくんねぇ?」
「ごめん、今日は帰るよ」
僕はもう一度ごめん、と繰り返した。
「あれ?今日塾ないだろ?」
「ないけど…今日は…」
「…あ」
慎司は何かに気づいた様に声をあげる。
「そうだったな…悪い、すっかり忘れてた…」
「いいよ、慎司が覚えてなきゃいけない話じゃないだろ」
「いやいや。おばさんに宜しく言っといて!」
「ありがとう。じゃ、また明日」
「おう、お疲れー」
言うが早いか、慎司は踵を返して走り出した。
「元気だな…」
「昴がジジクサイだけだよ」
後ろから、また別の声。
驚いて振り向くと、そこにはポニーテールを揺らして笑う女子高生がいた。
「
「昴がどんくさいだけよ。帰るんだったら一緒に帰ろ?」
「いいけど、部活は?」
「今日は休み」
「ふぅん」
「で?」
「え?」
突然僕があげた声に、真希は甲高い声をあげる。
「なんか話したいことがありそうだったから」
真希は声をあげて笑い出した。
大爆笑、とはこういうことを言うんだろうか。
いや、爆笑は大勢で笑う事だったっけ。なんてどうでも良い事も頭を過ぎった。
そして僕はわかっている。
これは、図星なときの照れ隠しの笑いだ。
「昴には嘘つけないなぁ」
「つかないでいてもらえると僕は助かるけど」
「ごめんね。ありがとう。実は、例の話がね…」
「ああ…」
溜め息をつきたいのをぐっとこらえて、僕は頷いた。
どうせそんなことだろうと思った。
「あのね…先輩、彼女いないんだって!」
「本人からきいたの?」
「うん!この前、駅前でばったりあって、お茶したんだ。これはもしかしたらいけるかも!」
真希は、二つ上の先輩に目下片想い中だ。片想いかどうかは未だ不明だけれど。真希の所属する陸上部の先輩で、地元の大学に通っている。
僕は時々、こうして彼女の恋愛話の聞き役になっている。もう最近はのろけに近い。
他人ののろけ話なんてどうでもいいのだけれど、聞いてほしくてたまらないらしく、このところ会えば先輩の話ばかりだ。
「そうか。良かったな」
「
「いや。応援してるよ。頑張ってね」
笑顔を向けて、僕は言った。
何を心にも無いことを言ってるんだろう。
僕の中で誰かが囁いた気がした。
心にも無いこと?
何がだろう。
僕は自分に問い掛けたが、返事は帰ってこなかった。
「じゃ、また明日ね」
自分の家の手前の曲がり角で、真希と別れた。
ここを曲がると、僕の家だ。
僕は少しだけ、小さく深呼吸した。
「ただいま」
「あら、おかえりなさい。早かったわね」
母が声だけ返した。
「だって今日は兄さんの命日だし」
「そうね。今年もちゃんと覚えてくれてたのね」
「当たり前でしょ」
―――っていわなきゃ、母さん泣くでしょ?
僕の中でまた誰かが囁いた。
そんなこと考えたことない。僕は自分に否定する。
「
「はいはい」
少し返事がおざなりだったかな。一瞬考えて、取り繕う方が不自然だと判断して、僕は家に上がり、そのまま和室に入った。
仏壇の前に座り、飾られた写真を見る。一人の幼い子供が移っている。
斎藤優。
僕の兄だ。
僕が産まれて、すぐに亡くなった。
理由は良く知らないけれど、生まれつき身体が弱かったらしい。
心臓の病気だと言っていた気がする。産まれたときから、余命一年と言われていたそうだ。
我が家は、いつだって兄中心で成り立っている。
優が生きてるうちに、優が居なくなったら、優が居なくなってから…
特に母は、いつもそんなことばかりだ。
僕にも勿論、大事な兄だ。
兄の記憶は無い。
兄は、少しだけ長く生きて、二歳で亡くなった。僕はまだ、産まれたばかりだった。だから、兄のことは良く知らない。それでも、大事な兄だ。
「いつまでそうしているの?」
母がいつの間にか和室の入り口に立って、笑っていた。
「ああ、ごめん」
「謝っちゃって。変ね」
「そのまま考え事を始めちゃったんだ」
「そう。お父さんも今日は早めに帰ってくるはずだから、すぐご飯になるわよ。 着替えてらっしゃい」
「うん」
母は優しい。父も優しい。自分でいうのはなんだけど、良い家庭だと思う。兄が、きっと絆を強くしてくれた。
だから僕は、兄に感謝している。
僕は自室に入り、着替えを済ませてベッドに倒れ込んだ。
ケータイを開くと、メールがきていた。真希だ。
『subject:ごめん!
本文:今日優さんの命日じゃん!
私の話ばっかりしてごめんね~
おばさんとおじさんによろしくね!』
「マメなんだか、適当なんだかわかんないな、真希は…」
僕は、いつの間にか微笑んでいた。
真希のメールを見ると、なんだか元気になる。幼なじみの威力かな。
下の階から良い匂いがする。手伝いをしようと、僕は1階へと降りた。
「手伝おうか?」
「あら、お願いできる?お皿並べて」
「うん」
カウンターにあるお皿をダイニングテーブルに運び、並べる。
「そういえば、大学は何処にするか決めたの?」
「ああ…まだ、かなぁ」
「まぁ、そんなに選択肢は広くないわよね、医大って…お母さん、よくわからな
いけど」
「うん」
「お金のこととか、一人暮らしが必要かとか、そういうのは気にしなくて良いか
らね」
「うん…まぁ、近場にするつもりだけど」
「近場にするなら、あそこしかないじゃない、ほら、あの…」
「母さん、あのさ」
「ただいまー」
玄関からの声が、僕の言葉を遮る。
「あら、お帰りなさい」
母はその声の方へと早足で向かう。言い損ねたな、と僕はため息をついた。
言い損ねた?
何をだろう。
僕は、何を言おうとしたんだろう。何が言いたかったんだろう。
わからない自分が少し怖かった。
家族全員が揃ったので、夕食になった。
でも別に、兄の命日だから特別なにかするというわけではない。
命日が平日で、墓参りに行けないときは、こうして家族全員で食卓を囲む。
それだけだ。
これがまた不思議で、別に普段から家族全員で食卓を囲まないわけではない。
普段から、基本的には全員揃って夕食を食べる。
いつもより少しだけ早めに集まって、いつもより少しだけ豪華な食事が並ぶ。それだけ。
もともとは、まだ兄さんが亡くなったショックから立ち直れない母が寂しがらないようにと、命日とか誕生日とか、兄を思い出してしまうような日には 父がなるべく早く帰ってくるようになったのが始まりらしい。
中学生くらいの時に、父がこっそり教えてくれた。
「それで、さっきの話だけどね、昴」
「え?」
母の声で、僕は現実に引き戻されたような妙な感覚に襲われた。
現実以外のどこに行っていたんだろう、僕は。
「進路の話」
「ああ…」
「昴はしっかりしてるから、心配はしてないけどね、ちゃんと決めたら教えてほしいわ。ほら、オープンキャンパスなんかも行かなきゃ」
「優の命日に、そんな小言言わなくてもいいんじゃないか」
父が静かに顔をあげて言う。
「あら、小言なんかいったつもりはないのに」
母が心外だ、と口を尖らせた。
「それに、優にだって大事な話よ?優のために可愛い弟が医者になる、なんて…きっと優も喜んでるし、心配してる」
「まだ二年生だろ。そんなに焦らなくていいじゃないか」
「まだ、じゃないわ。一年半後にはもう受験よ。不必要に介入する気もないけれど…心配なのよ」
「…母さん」
「なに?」
「悪いけど、その話は今したくない。やめて」
え?
母が少し驚いた顔をした。
でも、多分僕自身の方がびっくりしている。
「…ごめんなさい」
「いや…うん、いいから、食べよう」
その後はあまり会話が続かなかった。
「昴」
夕食が終わって、僕は二階に上がろうとしたところで、父に呼び止められた。
「何?」
「すこし縁側にでないか」
「どうしたの急に」
僕は笑う。
「もうすっかり夏だ。縁側で一杯…とは言えないから、アイスコーヒーでもどうだ?」
「いいよ。煎れてくから先に行ってて」
「いや、良い。父さんが煎れよう」
「え?珍しいね」
「いいからいいから」
そのまま僕は父に和室に押し込められる。僕の家は和室から縁側にでられる。
蚊取り線香を片手に、僕は縁側に出て腰掛けた。
父を待つ間、先ほど母に言った言葉と、昼間の進路希望のことを考える。僕は小さい頃から、ずっと医者になると言い続けていた。
幼い頃の淡い夢、で終わらせるつもりはなかった。
学費とか、塾とか、親の協力が必要なのはよくわかっていて、だからこそ昔から両親にもよく話してきた。
なのに何故、急にこんなに考えたくなくなっているのか。
自分の中のモヤモヤしたものの全貌がむえなくて、なんだか恐ろしくさえある。
「深刻な顔ばかりしているとな、顔が錆び付くぞ」
父の声が上から降ってきて僕は顔を上げた。
そのまま振り返ると、父はアイスコーヒーをふたつ載せた盆を持って立っていた。
「ありがとう。ここ、置いたら?」
「ああ」
父は僕の隣に腰掛け、僕と父の間に盆を置く。
「いただきます」
アイスコーヒーを手に取り、父に笑う。
さっきの言葉を、やはり父も気にしているのだろうか。気を使われてると思うと、なんだかいたたまれない。
「あ、美味しい」
「だろう?父さんはな、昔は喫茶店のマスターに憧れてたんだ」
「それだけじゃ、コーヒーが美味しい理由にならないんじゃない?」
僕は笑う。
「そんなことない。マスターが美味しいコーヒーを煎れられなきゃカッコがつかん」
「まぁ、そうかも。でもコーヒーに拘るほど好きとは初耳だな」
「昴こそ、いつの間にコーヒーを飲めるようになった?しかも、ブラックで」
「いつだろう…最近だよ。高校入ってからかな」
「お互い、順調に歳をとっていくな」
父は、そういいながら胸ポケットから何かを取り出した。
「え…父さんタバコ吸うの?」
父が取り出したのは、小さな星がたくさんかかれたパッケージのタバコ。
僕は驚いた。父がタバコを吸うところなんてみたことがなかった。
「…子供の前で吸うのは止めたんだよ。優が産まれてから」
「…そうなんだ」
「…母さんには内緒だ」
「うん…わかった」
「なあ、昴。お前は私がコーヒーが好きなことを知らない。タバコを吸うこともしらない」
「ああ、そうだね。驚いたけど…改めて話したこともないし。当たり前だね」
「お前は本当に良い子に育ったな」
「何?急に…」
僕はおかしくて噴き出した。
「…お前も、いいんだよ。父さんや母さんが知らないことがあっても」
「…え?」
「父さんや母さんが把握できないような気持ちがあっていいんだ」
「別に僕は…」
「大いに悩め。高校生は、それが仕事だ。但し気持ちを手放すか否か、今決めなきゃ間に合わないってときもある。手放すならちゃんと手放せ。手放さないなら、ちゃんと掴んでろ」
「父さん……ごめん、気を使わせたね。ちゃんと考えるよ」
父の言っていることの真意はよくわからなかったけれど、自分のことを案じているのはわかった。
「…父さんはな、息子としたい夢がいくつかあるんだが」
「え?また何さ。急に…」
「その中の一つは、叶いそうもないな」
「どんな夢?」
「息子と殴り合いの喧嘩をすることさ」
「…叶えられるか、検討しておくよ」
そのあと、暫く無言でコーヒーを飲み、父はグラスを持って立ち上がった。タバコはいつの間にか取り出した携帯灰皿に入れていた。
「一本やろうか?」
続けて立ち上がった僕に、父がタバコを差し出す。
「いらないよ」
僕は少し呆れた声で言った。
「そうか。残念だ。内緒にしといてやるのに」
父は、子供がいたずらをするような顔をしている。僕はそれが面白くて笑った。
「残念ながら当分始めるつもりはないよ」
「申し訳ないくらい品行方正に育ったな。そのうち無断外泊のひとつもして、親を困らせたらどうだ?」
父は苦笑していた。
「実の父親からでる言葉とは思えないね」
僕も釣られて苦笑した。
「反抗期の子供を受け止める甲斐性くらい、持っているつもりだよ。父さんも、母さんもな」
父は背中を向けながら、穏やかな声で言った。
自室に戻った僕は、そのままベッドに倒れ込んだ。
妙な高揚感を感じる。
きっと、父親と面と向かって話したのが久しぶりだったからだろう。
別に話したくなかったわけじゃない。なんとなく話さなかっただけだ。
良い父だ。そう思う。
本当に父の今日の言動は意外だった。物静かな父親だと、真面目な父親だと、ずっと思っていた。
「…ちゃんと手放せ」
父の言葉を唱えてみる。
手放すもの?手放したいもの?
ある気がするけど、わからない。
僕は何を手放せばいい?
『おかあさん、ぼくね、おっきくなったらおいしゃさんになる!』
名案が浮かんだように、僕は顔を輝かせていた。
『おいしゃさんになって、ちっちゃいこのびょうきをみんななおすんだ。そしたら、おにいちゃんのびょうきもなおせるよ』
母に向かって、僕は必死に言う。
母は泣いている。
ありがとう、そうね、ありがとう、
そう呟きながらずっと泣いている。
あの頃の僕に言ってやりたいことがふたつある。
ひとつ。
君がどんな名医になろうと、兄は帰ってこないよ。
ふたつ。
そう言えば母が笑ってくれると思ったんだろう?
母が喜ぶと思ったんだろう?
くだらない。
僕は、あの頃の僕にそれを伝えようと、手を伸ばす。
もう少し、というところで、
僕は目を覚ました。
枕元の時計を見る。
午前3時半。
しまった、ベッドに倒れ込んだまま、寝てしまった。
もう一度寝る気も起きない。
そう言えば風呂にも入っていない。シャワーでも浴びようと、僕は起き上がった。
「あら…昴…?」
驚いた。
一階には、母がいた。
母が起きてくるのは、もう少しあとだったはず…
「もう起きたの?早起きね」
「母さんこそ…」
「今日はお父さんが早くに出るから、お母さんも早起きなの」
「父さん、まだ寝てるよ」
「お母さんには朝ご飯とお弁当の準備があるのよ。お父さんが早くでるなら、お母さんはもっと早く起きなきゃいけないのよ」
母は微笑む。
「ああ、そうか…そうだよね」
「昴は昨日、随分早く寝たのね?勝手にあなたの部屋の電気けしちゃったわよ」
「あ、うん。ごめん、ありがとう」
夢の中の母の顔が浮かんできて、母親を直視できない。
「シャワー浴びてくる」
「そうね。浴びてらっしゃい」
「母さん…」
「なぁに?」
母は台所に向かいながら返す。
「僕、小さい頃から母さんに医者になるって言ってた」
「ああ、いいのよその話は…別に無理には…」
「医者になって兄さんの病気を治すって」
「あの昴は特別可愛かったわ」
台所で手を動かしながら、母は楽しそうに言う。
「でも、僕は、医者も、兄さんも…どうでも良いんだ」
なんだか苦しい。息がうまくできない。
「そんなの、どうでも…」
「…昴?」
母の大事な、兄を。どうでもいい?なんでこんなことを、僕は、今、
「…っ」
僕は無言でバスルームに駆け込んだ。
シャワーを済ませて、制服に着替えて、朝食も食べずに家を出た。
母親が何か言っていたけど、聞かずに飛び出した。
とにかく家に居るのが苦しくて。
意味もなく走った。
とにかく家から離れたかった。
ああ、でも、きっと母は僕の朝食を用意してくれていただろう。悪いことをした。
何をしてるんだ。何がしたいんだ。
僕は、深いため息をついた。
時刻は午前4時半。
学校に行くには早い。
そんな早く行ったって、なんとなく教室で沈んでしまう気がして、行きたくない。
そう考えながらあてもなく歩いていたつもりだったが、気づくと僕は、ある喫茶店の前に立っていた。
喫茶サカモト。
店の前に立ち尽くしていたら、ドアが開いた。
「昴?」
中年の男性が顔を出す。この店のマスターだ。
「…」
僕は会釈した。
「まだ店開かねえぞ」
「うん。大丈夫。すぐ行…」
「入れよ。コーヒーくらいだしてやる。あんま構えねぇぞ」
そっけなく行って、マスターは中に入ってしまう。
僕は慌てて後を追った。
僕の座るカウンターに、コーヒーとトースト、サラダに卵が出された。
コーヒーくらい、って言ったくせに、しっかりモーニングセットじゃないか…無愛想なマスターの優しさに、僕は少し笑う。
「ごめんね、朝早くに迷惑かけたよね」
「バカ息子の分だから気にすんな」
「慎司の?まずいよ、僕が怒られる…」
そう。このマスターは、慎司のお父さんだ。
「オレのモーニングセットが食えねぇのか?」
「…いただきます」
僕は観念して、トーストにバターを塗り始めた。
お腹なんてちっとも空いてないと思っていたけど、美味そうな匂いに、綺麗なプレートに、僕の胃は叩き起こされたようだ。
いつの間にか夢中で食べていて、気づいたら食べ終わっていた。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
「コーヒー、お代わりいるか?」
言いながら、既にマスターはコーヒーを僕のコップに注いで居た。
「で、どうした?まさか制服でジョギングでもないだろ?慎司はまだ夢の中だぜ」
「ちょっとね…」
「昴坊ちゃんたら、お父上とお母上と初めての喧嘩でもなされましたかい?」
からかうようにマスターは笑う。
僕を馬鹿にするときの口調だ。良くこうして、お坊ちゃまだとからかうんだ。
「いや…喧嘩はしていない。なんか、ちょっとこのところ僕はおかしいんだ。両親は優しすぎて困ってるくらいだよ」
「そりゃまた贅沢だね。タダで優しさくれるのなんて両親と子供くらいなもんだぜ」
「マスターと慎司は?」
「アイツにタダでやるもんかよ」
「はは。相変わらずだね。…ちょっと、色々、悩んでて。自分でもなにをしたいのかわからないくらい、我ながら様子がおかしくて…言いたくないのに、酷いことを言ってしまいそうで。怖くなって逃げてきた」
コーヒーカップを見詰めながら、僕は話す。
話しながら、ああ、そうなんだな、と思った。
人に話すと整理がつくって、本当だな。
「でも何だか、様子がおかしいことは察しているんだろうね。今冷静に考えると、僕だけが戸惑っている気がしてきたよ。僕が思っているより、大人は大人だね。自分がちっぽけだな、ってちょっと痛感しちゃったよ」
「…愚痴の聴き甲斐のないやつだな、お前」
「え?」
「もっと、『なんだかわからないけど、ムカつくんだよ!このクソオヤジにクソババアが!!』くらい叫べばいいのに。何自分の気持ちを綺麗にまとめてんだか」
「僕なりに整理してみた結果だよ。もう整理はついたんだからいいだろ?…ちゃんとまとまったのは、今話しながらだけど」
思わず僕はむ、と顔をしかめた。
「そうかい。そいつは良かったね…じゃあ今度は整理がつくまえに来いよ。俺が余計に散らかしてやる」
「えぇ?酷いなぁ。いっとくけど、マスターに人生説いてもらわないといけない程、僕は考えの足りない人間じゃないからね」
「てめぇな…その憎まれ口、いっぺん親の前で言ってみろよ。涙流して喜ぶと思うぜ」
僕たちは少し笑いあった。
マスターと慎司には、何故かこんな風にちょっとした悪態がつける。
大事な友人だ。友人なんて呼ぶのは、年上のマスターには失礼かもしれないけど。
「まあ、昴の思う通りじゃねえかな。…お前らよりよっぽど長く生きてんの。俺たちは。お前の大事なんて大人にしてみりゃ案外に小事だったりするさ。…俺達だって無駄に生きてるわけじゃないんだよ」
「へぇ、マスターって無駄な人生を歩んでるわけじゃあないんだね。そりゃ意外だ」
マスターを見上げて、僕なりに精一杯冗句を言ってみた。
「…録音して家に送りつけるぞ、その憎まれ口…」
マスターが握り締めた卵を僕にぶつける様な素振りをしながら言う。
僕は笑いながら、コーヒーをまた口にした。
「あー、はらへったぁぁ~」
急に気の抜けた声がして、僕は危うくコーヒーを吹き出すところだった。
「なんか今日、朝飯の準備早くねぇか?匂いにつられて起きちゃったよ」
「俺の朝食はお前の目覚まし時計じゃない」
「………あれ?」
「おはよう。お邪魔してます」
「何してんだよ」
慎司は、僕の横に腰掛けながら言った。
「ちょっとね。散歩途中を拾って貰ったんだよ」
「起こしてくれれば良かったのに。母ちゃんもなんも言ってなかったし」
「呼ばなくていい、って俺が言ったんだよ。朝早くからお前の騒々しい声きかさ
れちゃあ昴が可哀想だ」
「なんだよそれ。…まあいいや。朝飯、俺ゆで卵じゃなくてベーコンエッグがいいな」
「お前の朝食は、今日はないぞ」
カウンターの向こうで手を動かしながら、マスターは涼しい顔で言う。
「は?」
「昴にやったから」
「なんだよそれ」
親子のやりとりを見ていた僕を、慎司が睨む。
「…マスター、代金は払うからさ。慎司の分も用意してやってよ」
苦笑と愛想笑いが混じったような顔を慎司に向けてから、マスターにお願いした。慎司の食べ物の恨みなんだか恐ろしそうだ。僕は困ってしまった。
「やれやれ、昴は相変わらず良い奴だな。つまんねえ」
マスターは笑いながら、慎司の前にプレートを出す。
モーニングセット。
ちゃんと、リクエスト通りベーコンエッグまでついている。
涼しい顔でないと言っておきながら、ちゃんと作っていたようだ。
「マスターが意地悪すぎるんだよ」
「いただきまーす」
何事も無かったかのように、嬉々としてモーニングセットにがっつく慎司を横目で見やりながら、僕はため息をついた。
「なんだか、朝早くに押しかけた上に…ここまでしてもらって、良かったのかなぁ」
僕は片手に持った包みを見て、またため息をついた。
あの後、慎司が朝ご飯を食べ終わるのを待ち、一緒に店を出た。
マスターは「どうせ今日は弁当も持ってないんだろ」と、弁当をくれた。
「父ちゃんはなんだかんだでお人好しだからなあ」
慎司も同じような大きさの包みを下げている
「父ちゃん、料理だけはうまいからな。貰っとけ、貰っとけ。多分今日は…サンドイッチ、玉子焼き、ポテトサラダ、ウインナー、唐揚げと見たね」
包みを眺め、慎司は予測する。
「じゃあせっかくだし、素直に貰って、楽しみにしておくよ。マスターと…あと、おばさんにも迷惑かけたよね。後で謝りに行くから」
「大丈夫大丈夫」
慎司はそう言うけれど、そういうわけには行かない。ケーキでも持って行こう。美味しいお店を真希からきかないと。
そんなことを思っていたら、門の前に真希の姿が見えた。
「昴、おはよ」
「おはよう」
「坂本くんもおはよう」
「おはよ。あ、俺、職員室寄っていかないと。先行くわ」
慎司は、小走りで校舎に向かっていった。
「…朝から、どうしたの?」
またくだらないノロケ話?
せっかく少しだけすっきりしていたのに、僕の頭の中でまた誰かが起きてしまったようだ。
頭の中の声を、外に出しそうになり、ぐっと口を噤んだ。
「うん。実はね…」
真希は、下を向いてもじもじしている。
嗚呼、なんだか真希らしくないな。なんだか、少し苛立つ。
「明日、先輩と二人で遊ぶことになって…」
「…」
いつもなら、「そう」くらいの相槌は返すけれど、声が出なかった。息も止まった気がした。
僕は暫く黙って、止まった息を静かに吐き出しながら、やっと口を開く。
もしかしたら一瞬のことだったかもしれないけど、もうわからない。
「デートか。良かったね」
平静を装うのに精一杯だった。なんとか微笑んだ。
真希は、「デート」という単語に、嬉しそうに、でも恥ずかしそうに顔を赤らめる。こんなにしおらしい真希を初めて見た。驚いた。
「…告白、するの?」
僕は自然と出てきた言葉を、少しからかうような抑揚で言った。
「……………うん」
真希は僕のからかいに怒ることもなく、慌てることもなく、静かに頷いた。
心拍数が少し上がる。
頷く真希の顔にどきっとした。
”告白をする”という事実にどきっとした。
色々なことに脈が反応しすぎて、目の前が、白くなった気がした。
「そう。応援してる」
僕はそんな嘘を吐くのが精一杯だった。
「で、なんかあったの?」
「え?」
昼休み。僕は屋上で慎司と弁当を広げていた。
いつもは教室で食べるけど、慎司と教室で仲良く並んでお揃いの弁当を広げるの
は流石に気持ちが悪い。
だから二人で屋上に逃げてきた。
だけど、真希と会話してから僕はなんだか上の空で、慎司の話には半分くらいしか反応できていなかった。
唐突に飛び出した質問に頭が回らず、僕は間の抜けた声をあげた。
「朝のこと」
「あぁ…」
…しまった。忘れかけていた。母の顔が浮かんできて、僕は少し胸が痛んだ。
「真希ちゃんと痴話喧嘩でもした?」
僕はサンドイッチを持った手の動きを止めた。真希のことから離れて母のことへと変えた脳内のスイッチを、また急いで元に戻さなければならなかった。
漸く、朝と言うのがいつのことか理解して、それから慎司の言葉に呆れた声を返す。
「痴話喧嘩の意味、分かってる?」
「お前今俺のこと馬鹿にしただろ…ていうかさ」
慎司は少し僕の方に身を乗り出す。
「正直なところ、真希ちゃんとはドコまで言ったんだよ?」
………。
言っている意味を理解するのに、再び僕は少し時間を要した。
意味を理解したら、急に焦りと恥ずかしさとほんの少しの怒りがこみ上げてきた。
なんだろう、この感覚。
「…ごめん、どういうこと?」
「いい加減とぼけるのはなしにしようぜ昴。真希ちゃんと付き合ってんだろ?」
「………は?」
「………は?」
暫しの沈黙が屋上に響く。
「…だからとぼけるなって」
「慎司の言ってる意味がわからないよ」
「えー!!…なんだよ、絶対そうだと思ってたのに」
「仲の良い幼馴染みだったら、皆そうみえるんだろ?…真希は」
そこで、急に口が重くなる。何故か口にしたくないらしく、僕の唇は鉛のように動かない。
「…真希ちゃんは?」
「………真希は、今好きな人がいるんだよ」
額の辺りがきゅ、っと熱くなった。
なぜ僕はこんなに、真希に好きな人がいる事実を口にするのが辛いんだ?
「あら、そうなの。…なんだよ。折角朝気を使ったのに」
「え?」
「俺に朝から職員室に行く用があるわけないだろ、昴坊ちゃん」
「だから坊ちゃんってやめろって」
僕は慎司を睨みながら、肩を落としていた。
親にマスター、そして慎司にまで気を使われるなんて。
僕は本当に、情けない。
「…照れてんじゃねえか」
マスターの大笑いが響く。
放課後。僕はまたサカモトのカウンターに座っていた。
学校を出た僕は、真希にオススメのケーキ屋を教えてもらって、その店に寄ってきた。
結構な値段のするケーキが並んでいて、真希を少し恨んだ。
なけなしの小遣いで手に入れたケーキを、マスターに渡しに届けに来たところだ。
ケーキを渡した僕は、コーヒーを飲みながら昼の慎司との会話をマスターに話していた。
「何がそんなに面白いのか、わからない。確かに真希とのことで、今更ヘンなことを言われて気恥ずかしさはあったけど」
「……昴、お前…」
僕が頬杖をついてむすっとしながら言うと、マスターは眼を見開いて、カップを拭いていた手を止めて僕を凝視する。
「なに?」
「……いやぁ、いい。こりゃあ放っておくに限るな」
「え、なに?気になるじゃないか」
「お前、頭は良いんだから」
「それこの会話の流れに関係あるの?」
「そのうち、俺が今ものすごく呆れている理由がわかる。お前なら。がんばれ」
「今ものすごく呆れてるってことに漸く気づいた僕で、大丈夫かな」
「がんばれ」
僕は溜息をついて、ごちそうさま、とコーヒーを置いた。
僕は深呼吸した。
「二日連続だよ」
小さく呟く。何故僕は今日も自分の家の前で深呼吸をしなければならないのかと肩を落とした。
自業自得だな。
「…ただいま…」
小さな声で言いながら、玄関を開ける。
「昴…!」
母が勢い良く飛び出してきた。
そして、一度僕を見ると、小さく息を吐いた。
「…おかえりなさい。すぐご飯になるから、着替えてらっしゃい」
そう微笑んだ。
僕は子供なんだな、と痛感したのはこれで何度目だろう。
母も母で、子離れしたフリがなんと苦手なんだろう。
心配な顔をみせるのをぐっと我慢したのが丸見えだよ、母さん。
「…次辺りは、無断外泊か?」
食事の後に父が僕にそう耳打ちしてきた。
父がこんなにフランクな人間だと今更知った、と思ったり。
いつのまに事情を聞いたんだろう、朝から母はきっと大騒ぎしたんだろう、と想
像して。
やっぱり僕は、肩を落とした。
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