第4話

 加奈はスピードを緩めずにフードコートを駆け抜ける。ふと、彼女は後ろを振り返った。

 振り向いた視線の先には、優奈と亜里沙の姿。そして、マネキンが2体、10mほど後ろをついて来ており、そのまた後ろには10体ほどのマネキンが追って来ている。


「よし!」


 何も持たずに逃げることができた先ほどに比べ、今は金属バットを持っている。それで、走る速さが落ち、マネキンたちに追いつかれるかもしれないと危惧していた加奈であったが、それは杞憂であった。

 じりじりと差を詰められているものの、マネキンたちはもうすぐ動かなくなる。すぐそこにあるE-2の入り口の傍まで走り切れば、後ろから迫るマネキンたちは止まるのだ。


「もうちょっと……」


 フードコートの通路を走り切り、体を右に傾けながら曲がる。勢いを緩めずに出入り口の傍まで駆け寄るためだ。しかし、彼女たちの足は止まった。止まらざるを得なかった。


「そんな……」


 普段は気丈な麻央だったが、目の前の光景に呆然自失といった様子になる。

 E-2の出入り口は夜の街灯を受けて煌めくガラス板である。しかし、その内側にあるのは重厚な銀の鉄の檻。彼女たちをモール内に閉じ込めて外と、つまり、希望と彼女らを隔離するシャッターだ。


「ど、どうしよう」


 亜里沙が口に手を当てる。まさか、シャッターが下りているとは考えもしなかったのだろう。

 彼女らが知っている太名嘉ショッピングモールの姿は全てが営業時間中の姿。人は自らの中の印象によって行動を決定するので、“入口はガラス張り”という営業時間中の事実から決定された彼女らの行動は自然なものである。

 もう少し彼女らに冷静さがあり、事実を客観的、且つ、的確に判断で来ていたとしたらこのような事態にはなってはいなかったであろう。だが、眼前で友人が2人も殺される非日常の世界の中では、鉄格子状のシャッターが下りているかもしれないという可能性にも気がつけないほどに人の精神は追い込まれる。


「ここから離れなくちゃ」


 加奈が呟くと優奈が頷く。


「ええ。トイらンドに戻らなくちゃ。フードコートは……大丈夫。マネキンたちは倒れているみたい」


 これは余談ではあるが、トイらンドというのは先ほどまで彼女たちが潜伏していた玩具量販店の店名である。

 優奈の判断は的確であったと言えよう。E-2の出入り口から真っ直ぐにセンタールートへと向かうと2階へと上がるエスカレーターがあるが、2階部分の中央当たりにも1階と同じく衣料品店が並んでいる。マネキンと遭遇する確率は高いだろう。

 そして、今、来た道にはマネキンが12体いるものの全ては床に伏している。現時点で打てる最善策は来た道をそのまま戻ることと彼女たちは結論付けた。


「行こう!」


 彼女らは再び走り始める。フードコートの中にいるマネキンたちは動かずに彼女らを見送ることしかできなかった。

 12体のマネキンはただ動くこともできずに、フードコートを走り切りシャッターの存在に打ちのめされ体力気力が尽きかけている彼女らを捕まえることができなかったのである。

 そう、その12体は。


「キャッ!」


 E-2出入り口に向かっている時とは逆に優奈と亜里沙が前、そして、加奈と麻央が後ろになり走っていた。だからこそ、犠牲になるのは優奈か亜里沙の前方にいるいずれかの少女であったのだ。

 フードコートの出口の前にはマネキンがいた。数は6体。その内の1体が亜里沙の体を抱きとめるように捕まえていた。


「や……やッ!」


 息も絶え絶え、足元も覚束ない状況の中で容易く捕まえられた亜里沙であったが、手をこまねいて、それを見ていられるほど優奈は薄情者ではない。手に持つ金属バットを振りかぶり亜里沙を捕まえているマネキンの右肩へと振り下ろす。

 マネキンは淡々と亜里沙を殺すために右手を亜里沙の口元に持って行っており、それ以外には興味がないという体であったので、優奈の金属バットは抵抗もなくマネキンの右腕に罅を入れた。


「離せ!」


 だが、マネキンは亜里沙を離さない。右腕をだらんと下げていたが、左手はしっかりと亜里沙の腰に回されて動くことはなかった。


「優奈! 後ろ!」


 亜里沙が叫ぶ。救うべき存在である彼女からの警告。優奈は彼女を救うことよりも彼女の警告を優先した。後ろを振り返る優奈の目に映ったのは1体のマネキンだ。仲間が殴られているというのに、それを無視してマネキンはただ優奈を捕まえるために機械のように、感情などないというように動いていた。

 マネキンの手が優奈の肩を掴む。


「やあっ!」


 しかし、それは加奈が振り下ろした金属バットによって弾かれた。


「亜里沙!」


 加奈に続いて麻央が亜里沙を捕まえていたマネキンの頭に金属バットを力の限りに振り下ろす。滑らかで白かったマネキンの頭は凹み、白い塗料と中の木目を曝け出す。それはマネキンにとって致命傷だった。マネキンの腕が緩んで倒れると共に亜里沙はマネキンの拘束から抜け出すことができた。

 しかし、出入り口は塞がれた。エスカレーターからトイらンドへと戻る通路にはマネキンたち。そして、今来た通路には動きを取り戻し始めているマネキンたち。逃げ場は……。


「エレベーターに!」


 加奈は自分たちの後ろにあった逃げ道に目を向けた。エレベーターから上の階にあがる。それしか逃げる方法はない。加奈の声に反応した3人はマネキンたちを振り切るべくエレベーターへと駆け出した。

 加奈の手がエレベーターのボタンを勢いよく押す。上に上がるためのボタン。しかし、扉はすぐに開くことはない。マネキンたちが乗ってきていたため、2階部分で止まっているのだ。


「早く早く早く!」


 後ろから迫るマネキンたちを麻央と優奈がバットを振り回しながら撃退するものの、その数は減らない。それどころか、回復したのかフードコートにいたマネキンたちも、目の前の集団の中に合流してきた。

 数えるのも嫌になるほどのマネキンの量。その波に飲み込まれ掛けている彼女たちにとって、開いたエレベーターはノアの箱舟であった。


「乗って!」


 加奈が先頭に、続いて亜里沙、麻央も乗り込む。


「優奈!」


 皆が乗り込むまでマネキンたちをバットで寄せ付けないようにしていた優奈は加奈の呼ぶ声で皆がエレベーターに乗ったと判断する。ならば、自分も乗ろうと体を反転させた時だった。その一瞬にできた致命的な隙をマネキンの1体は見逃さなかった。

 優奈に金属バットで殴り倒され地面に伏していたマネキンが優奈の足首を掴む。


「キャッ!」


 足首を掴まれることでバランスを崩した優奈は床へと沈み込む。周りにマネキンたちがいなければ、逃げ切ることも可能だっただろう。すぐさま起き上がることのできた優奈ならば、2mほどの距離があれば逃げ切ることはできた。

 しかし、マネキンたちと優奈との距離は1mもない。

 手を地面について立ち上がろうとした優奈の肩、腰、足を何体ものマネキンたちが抑える。


「優奈!」


 このままじゃ、優奈が殺される。

 しかし、加奈の動きはくぐもった声に止められる。

 エレベーターの中から出ようとした加奈を止めたのは、マネキンたちに押さえつけられた優奈の声だ。


「んー! んー!」


 マネキンたちに口の中へ手を入れられることを防ぐためだろうか? 口に左手を当てる優奈を囲むマネキンたちは攻めあぐねている。

 その囲いの中、優奈はバットで地面を数度叩いた後、それを上へと向ける。まるで、エレベーターを動かせと言うように、自分を見捨てろと言うように。

 そのことを理解した3人は動きが固まる。いつ、マネキンたちの内、数体が優奈を回り込んでこちらにくるかは分からない。決断は迅速にしなければならない。

 しかし、その決断は加奈も麻央もできなかった。優奈一人を犠牲にして生き残るべきか。それとも、全てを伝えるべく生き残るか。数秒で出せというには、その質問は大きすぎる問題だった。


「ありがとう、ごめんね、優奈」


 犠牲か生存か?

 その質問に亜里沙が出した答えは優奈の気持ちを優先させるというもの。つまり、エレベーターの扉を閉めるということ。亜里沙が“R”と書かれたボタンを押すとエレベーターは動き始める。その中では、呆然とした加奈と麻央がいた。


「優奈は……あたしたちに行けって言ってたと思う。だから、行かなくちゃ。生きなくちゃ。じゃなきゃ、優奈が泣いちゃう」


 密閉された小さな部屋の中で亜里沙は自分のした行いに対して泣きじゃくる。加奈も麻央も今の亜里沙に掛ける言葉は一つも見当たらなかった。


+++


「んー! んー!」


 周りは白いマネキン。その中心で優奈はまだ生きていた。どうやら、マネキンたちは人間を殺す手段を相手の喉に手を入れることでしか殺すことができないらしい。執拗に優奈の左手を口元から退かそうとしている。

 だが、優奈もそう簡単に殺されるつもりはない。抵抗し、抵抗し、そして、隙あらば逃げ出す。押さえつけられながらも体を動かし、なんとか座った状態には持って行った。だが、座った状態では振るうバットの威力も芳しくはない。元々、痛みなど感じていないようなマネキンたちだ。力を上手く入れることすらできない今の状況ではダメージを与えることは夢のまた夢。

 そう結論付けた優奈はバットを床に落とし、今度は右手を使って左手を退かそうとしているマネキンの腕を掴む。


――外れない。


 マネキンの腕はしっかりと優奈の腕を掴んだまま動くことはなかった。

と、横からニュッと伸びた腕が優奈の右腕を掴む。そちらに意識を割いた一瞬、左腕が無理やり広げられる。そちらを戻そうと意識を向けた途端に、右腕も同じように広げられる。

 十字架に貼り付けられるように両腕を広げられながらも、優奈は決して口を開かない。開いた瞬間に殺されるということを分かっている優奈はマネキンたちを気丈に睨みつける。


――簡単に殺されてなんかやらない。絶対に!


 視線は強く、歯を噛み締めた優奈の口をこじ開けようと、優奈の正面に回り込んだ1体のマネキンが様々な方法を試す。両頬を抓ったり、顎を下に引っ張ったり。しかし、優奈の口は開くことはない。

 優奈の絶対に殺されてなるものかという決意は彼女に口を開かないようにさせていた。しかし、その決意を壊すかもしれないものが近づいていることを彼女は気づかなかった。


「私が口を開かせます」


 後ろから聞こえてきた声に優奈の表情が青ざめる。

 頭を抑えられ、後ろを向くことをできない優奈であったが、後ろの声の主は知っていた。足音は優奈をぐるりと囲むマネキンたちを回り込む。

と、正面のマネキンたちが横にずれた。そこから見える、月光に照らされた人物の顔を見て優奈の目が驚愕に見開かれた。


「そこの。この子の口が開いたら手を入れなさい」


 白いマネキンに自分を殺すよう指示を出す麻子の姿。麻子は間違いなく自分たちの目の前で殺されていた。それなのに、なぜ今、生きて動いているのか?

 目の前の光景に混乱しながらも、優奈の生存本能は危機を察知し続け、優奈に口を閉じさせていた。

 それは、不幸な出来事であった。ここで、優奈が呆然と口を開けば、その後に麻子の皮を被ったバケモノが自分を殺す多大な手助けをする光景を見なくて済んだというのに、優奈は不幸であった。


「!?」


 口を閉ざす優奈。そして、麻子は優奈の鼻を摘まんだのだ。

 そうなると、優奈は呼吸をすることができなくなる。最悪の状況を前にして、優奈は暴れるが、マネキンたちは優奈の体をしっかりと固定していて逃げることは叶わない。

 暴れる優奈の体から酸素が抜けていく。酸素を求める体は呼吸を、たった一回の呼吸をするよう求めるがマネキンたちと、そして、麻子が見つめる中では、それは叶わない。

 口惜しさに涙を流しながら、優奈は口を閉ざし続ける。

 ここで口を開けたら殺される。そのことが分かっていながらも、体が、脳が酸素を求めて警鐘を発し続けている。少しなら、ほんの少しなら大丈夫かもしれない。優奈はそう自分に言い聞かせた。どちらにしろ、このままでは呼吸ができずに死んでしまう。ほんの少しだけ。優奈はとうとう口を開いてしまった。


「んぐっ!」


 それは当然の帰結。開いた優奈の口にマネキンの手が侵入していく。


「んんー! んんー!」


 優奈の体の動きが激しくなるが、拘束は全く外れない。優奈を殺すためにマネキンの手が喉深くに入っていくにつれて、優奈の動きは緩やかになっていった。

 涙を拭うこともできず、優奈はゆっくりと立ちあがる麻子の姿をぼやけた視界に収める。

 その顔は感情を全く映さないとても冷たいものだった。

 それが優奈の最後の記憶となる。マネキンたちに押さえつけられ、自らの意志で動くことを許されず、変わってしまった友を瞳に映すことしかできない。それが、優奈という人間の最期であった。

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