第36話 これがEだ
全国大会までの間、亀井先輩は受験勉強の合間を縫って、ちょくちょく部活に顔を出し。練習を見てくれた。自分の最後の試合については全く触れることはなかったし、僕もあえて聞くことはしなかった。
この高校の柔道部から全国大会に出場する選手が出るのは、約30年ぶりだったらしく、おっさんと言っていい年齢のOBの方々も、休日に噂を聞きつけて差し入れを持ってきてくれたりした。
「彼が全国に出た子?」
とOBに聞かれ、後輩が
「そうです」
と答える。
乱取りをする僕のことをしばらく見て
「彼だよね?」
と僕に指をさして確認するOBの顔には「そうは見えないけどなあ」というセリフが浮かんできそうな、納得のいかない表情が見て取れた。
もうこれ、何度目だろうか。やめてくれ、来ないでくれ、と思う。
僕は、練習でも「あきらめ脳」と戦い続けていた。
気が付くと「あきらめ脳」にバトンタッチしている。
バトンタッチの瞬間に投げられてしまう。
調子が悪ければ、入部して3ヶ月の後輩にすら投げられる。
「お前、本当に新宅か?」
あの時と逆の意味で顧問に言われた。
自分の心の未熟さに嫌気がさす。
あの時の感覚を、思い出せ、思い出せ。
そう考えれば考えるほど、空回った。「スランプ」というやつだ。
全国大会前日。
練習中の道場に、突然爆音が響いた。
部室からだ。
何事かと思い、全員で中を覗くと、そこには亀井先輩がいて、エレキギターを弾いている。
なぜギター? そんな趣味あったのか? ていうかなぜ部室で弾く?
たどたどしい手つきで、同じフレーズを何度も繰り返す様子は、完全に初心者だった。趣味だったとしても、あまりにもお粗末である。
「よう、スランプ」
先輩は言った。
「引退してから始めたんだ、これ」
勉強しろよ、と全員が思ったはずだが誰も言わなかった。
「なんでここで弾くんですか?」
「嫌がらせだ」
先輩は笑顔で言った。
「やめてください」
「だってお前、あの大会より明らかに弱くなってんじゃん」
それを言われると、何も言い返せなかった。
「練習、すればするだけ弱くなるんだから、やめちまえよ練習」
「僕のことバカにしてますか?」
「してるよ」
僕は、「亀井先輩のことだから何か意図があるはずだ」という思いと、「ここまでひどい事を言ってくる亀井先輩に失望した」という思いが入り混じって、反応に困った。
「これがEだ」
先輩は、丁寧にコードを押さえて、弦を1本1本、ゆっくりとピックで弾いた。
つないだアンプがその音を増幅させ、Eのコードが部室に響く。
「これがAだ」
次はAのコードが響いた。
「次が、Fだ」
ここで、先輩はFのコードを押さえようとして、数秒かかる。
「難しいんだよ、F」
押さえ終わり、弦を弾くが、うまく音が鳴らない。
「Fは、課題だなあ」
そう言いながら、亀井先輩は楽しげである。
「これでも、ギター部のやつに、才能あるって言われたんだぜ」
「練習、戻ります」
僕は言って、部室を出た。
ドアが閉まる直前、先輩が叫んだ。
「お前の柔道もな、最初はこんなだったぞ!」
それだけで充分だった。
亀井先輩が僕の才能に気が付いたのは、僕が入部した直後だったと、別の先輩に聞いたことがある。まだ、何もわからず、がむしゃらで、「あきらめ脳」にバトンタッチするタイミングすら分からないような状態の時だ。
「あいつが次の主将だな」
と、ぽつりとこぼしたそうだ。
「何いってんだこいつ」とその先輩は思ったそうだが、2年後、それは現実となった。
簡単に言えば僕は
「考えすぎ」
という状態だった。
もっと自然に「勝つ」ことだけを考えればいい。
他のことに思考が奪われすぎていたのだ。
そして、柔道それ自体を楽しむ。
亀井先輩はそれを教えてくれたのだと思う。
その後も、しばらく爆音の下手くそなギターの音色は、道場に響き続けていた。
先輩のメッセージは分かったから、もういいよ、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます