十話「交渉」
「う……」
目覚めたミコトを包んだのは熱気と喧騒だった。
目の前を忙しげな人の足が土埃を蹴りたてて行き交う。どこからともなく弦楽器の奏でる旋律が聞こえてくる。商品を値切る声。談笑する声。
日陰に入っていたが、一歩先の乾いた土は陽光にまばゆく照らされている。現実世界では夜だったが、どうやらこちらの神話世界では昼間のようだった。
ミコトが顔を上げると、頭のすぐ上に台があり、布が垂れ下がって影を作っている。台には四本の足。周囲の状況から推し量るに、露店かなにかの荷台の下にいるようだ。
ゆっくりと様子を確認し、とりあえず四つんばいになって荷台から這い出す。
「おや、可愛いねずみが這い出してきた」
荷台越しに声をかけられ、ぎくっとして振り向いた。
象だ。
いや、正確には首から上だけが象だった。胴体は人間で、丸々とした体に薄い布を何枚も重ねて羽織っている。首からは金の首飾りを幾重にも垂らし、指には大きな宝石のついた指輪がいくつも嵌っていた。像の頭には金細工をふんだんにあしらった丸帽子を乗せている。
「物盗りの類ではなさそうだね、少年。そんなところで遊んではいけないよ。君が商品としてここに並ぶというのなら話は別だがね」
象の頭部が口を開いて器用に人の言葉を話すのを、ミコトは不思議そうに見た。この姿には見覚えがある。インドに来てから、人間の胴体に象の頭部を持った神の絵や像を、至る所で見かける事ができた。リンカの説明によると、ガネーシャ神というらしい。
恐る恐る、尋ねてみた。
「あの……あなたは、ガネーシャ……様ですか?」
「うん? そうだが。君はこの街の住人ではないのかい?」
象の頭部を持つ男――ガネーシャは長い鼻をゆっくりとゆらめかせながらわずかに目を細めた。知性を感じさせる目の光はまさしく人のそれだ。
尋ねられたミコトは、おそらくこの街の人間でガネーシャを知らない人はいないのだろうと察し、すぐに答えた。
「すいません。他所の国から来たもので……」
嘘は言っていない。他所の国どころか別の世界から来たのだが……
ガネーシャは答えずにミコトをまっすぐ見下ろした。椅子に座っていても上背がある。
一目で異邦人とわかるミコトをガネーシャは値踏みするように見回した。柔らかくまっすぐな黒髪、白い肌、柔和な顔つき。雑踏を行き交う人々の精気溢れる顔つきと比べると頼りないが、落ち着いた品の良さを感じさせる。ガネーシャはミコトに興味を持ったようだった。
「君は、一人なのかね? 御付きの者は?」
ミコトをそれなりの身分の人間だと見たようだ。苦労を知らなそうだと思われたのかもしれない。中学の頃からバイトに勤しんできたミコトにとってはやや不本意だったが、本来の目的を思い出し、これはチャンスかもしれないと思った。ガネーシャほどメジャーな神なら、スーリヤの事を知っているに違いない。
「今は一人で行動してます……あの、ちょっとお尋ねしたい事があります。よろしいですか?」
「ふむ。私で答えられる事ならば、なんなりと」
ガネーシャは鷹揚に頷いてみせた。象の頭部というユーモラスな姿ではあるが、その挙措には落ち着いた貫禄がある。
その様子に安心し、ミコトは話を切り出した。
「スーリヤという、少女の神様をご存知でしょうか?」
緩やかに揺れていたガネーシャの鼻が静止した。だがそれはほんのわずかな時間にすぎない。
「もちろん知っているとも。それが何か?」
「では、砦に攻めてくる軍勢とスーリヤが一人で戦っている事も? 本人もなぜ戦うのかよくわかっていないようなんですけど……僕は、彼女の仲間を探しています。スーリヤを一人残してどこかに行ってしまったらしいんです。何かご存知ではないでしょうか?」
「それを知って、君はどうするつもりなのかね?」
「……スーリヤの元に戻ってくれるよう、説得してみるつもりです。スーリヤは強い神様かもしれないけど、このままじゃいつか殺されてしまいます!」
ガネーシャは鼻を台に置いた。象の顔は表情を窺わせなかったが、その目は油断なくミコトを観察しているように見えた。
「諦めるんだね」
一言だけ短く言うと、追い払うようにゆっくりと手を振った。
ミコトの表情に失望が過ぎる。だが、はいそうですかと諦めるわけにもいかない。
「なぜです! スーリヤの仲間がいる場所だけでもいいから教えて頂けないでしょうか?」
「スーリヤの仲間と言えるのかどうかわからないが、聖地から移住してきた者達なら、ほら」
ガネーシャは指し示すように軽く首を振った。そちらに目を向けるが、街の人達が忙しそうに行き交うだけだ。誰を指しているかわからず、ミコトはガネーシャに視線を戻した。
「わからないか? この街にいる全員がスーリヤを置き去りにしてここにいるのだ。この街の住人はもともとは聖地に住んでいたが、彼女を見捨ててここに移住してきたのだよ」
ミコトは言葉の意味をすぐに理解できなかった。置き去り……
「スーリヤがインドラ達と戦っているのも知っているよ。ここにいる者達は聖地に戻るつもりなどない。わかりやすく言うなら、積極的にスーリヤを殺そうとする者達と、見殺しにする者達しかいないという事だ」
「そんな……」
ミコトはすがるような目で見上げるが、ガネーシャは静かに首を横に振った。
「もう一度言おう。スーリヤとどういう関係なのかは知らないが、諦める事だ」
ミコトの肩から力が抜けた。がっくりとうなだれて視線を地面に落とす。
「どうして……どうしてスーリヤはそんな目に会わなければいけないんです? 特に悪い事をしたわけでも無いんでしょう」
「君には関係のない事だ。諦めたまえ」
「納得できません! 理由を教えていただけませんか!」
「見ず知らずの君に教えるような事でもないな。君には情報に見合う対価など払えないように見えるのだが?」
対価……言われてみれば確かにミコトは何も持っていない。しかし、この反応はミコトにとっては予想外だった。聖地から旅立っていった人たちを見つけ、スーリヤの現状を話せば、何か打開策が見えてくると思っていたのだ。人情に訴えれば誰かが力を貸してくれると思っていたのだ。今更ながら、甘すぎた事を痛感した。
ここの人達は、スーリヤの命が危険にさらされている事をわかっていて、戻る気がない。理由を聞くのにすら対価が必要だと言う。その感覚はミコトにとってあまりにドライで薄情に思えた。あらためて、自分は恵まれた環境で生きてきたんだと思う。
「では……せめてこの街について何か教えていただけませんか? 聖地から見てどれくらいの距離にあるのかとか、街の名前など……なんでもいいんですが」
「私と君には何の接点もない。別に教えてもいいが、口からでまかせを言うかもしれないよ。君と私の関係はその程度のものだ」
「……そう……ですね」
うなだれるミコトを見て、ガネーシャはやんわりと言った。
「街の住民に聞いてみる分には好きにするといい。おそらく皆、同じような反応だろうけどね」
力なく顔を上げ、ガネーシャに向き合う。非人間的な容姿だが、悪意は感じられない。ただ自然体なだけなのだ。
ミコトは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。そうしてみます」
怯む気持ちを奮い立たせ、きびすを返して雑踏へと踏み込む。
照りつける太陽の中で少し動くとすぐに汗が噴出してくる。軽く汗をぬぐいながら、雑踏を見渡した。陽光の中で白く見える乾いた土の道は人や動物が行きかう度に土煙を舞い上げる。
往来には、赤い体に六本の腕を持つ男や、真っ黒な体にドクロの首飾りを何本も垂らし毒々しい紫の唇をした女性、翼の生えた牛や、牛並の大きさを持った鼠……
遠くには、金銀細工で飾り立てた輿を背中に乗せた巨象が見える。
彼らは一様に薄着だ。男は上半身裸で腰布を巻いただけの姿で、女も胸と腰周りに薄い布を巻いただけの格好で行き来している。
ミコトは自分の姿を見下ろした。黒い学生ズボンに半そでのカッターシャツ。明らかに浮いている。時々好奇の視線を向ける者はいるが、ここには変わった姿をした者などいくらでもいるので、すぐに興味を失い日常に戻っていく。
ミコトは人々を見回しながら、比較的、人間に近い姿をした人物を探してみた。
異形の神々の中にも、見た目だけなら人間とそれほど変わらない人々もおり、その中でも穏やかそうな人を選んで声をかけてみる。
皆、話しかければ友好的に答えてくれる。
だが、スーリヤの話になると、返ってくるのはガネーシャと同じような反応だった。
「スーリヤか。悪い子じゃないよ。でもこればっかりはね。仕方ないね」
「かわいそうだけど、死んでも輪廻して生まれ変わるだけだから。気にしないほうがいいよ」
「聖地の場所? 教えてあげてもいいけど、いくら払うんだ?」
「この街の名前? そんな事を知ってどうするんだ? 君が我々の敵ではないという保障はあるのか?」
ミコトはめげずに何人かに声をかけてみたが、返事は似たようなものだった。
もちろん、聖地の場所やこの街の名前など、アカシャの眼へとつながるヒントを探す事も忘れてはいなかったが、全て徒労に終わってしまった。
十人目に声をかけ、同じような反応に落胆し、往来の真ん中でぽつんと肩を落として佇む。
そんなミコトにはおかまいなしに、神々は賑やかに商売の取引をし、陽気に談笑し、通り過ぎていく。市場の隅で踊りに興じる者、札を使った賭博に熱中する者……
ミコトは異郷の地で一人でいる事が、急に心細くなった。
目に入った汗をシャツの袖でぬぐう。
「リンカさん……」
激しい孤独と不安に苛まれ、すがるように小さな声で呼んでいた。困った時はその名を呼べばなんとかなるとでもいうように。
しばらく間をおいて――ミコトが不安になった頃に――応えがあった。
――何?
脳内に響く声には突き放すような響きがあった。とは言え、今は見知った人間と話せる事がミコトにとっては嬉しかった。
「状況は見ていました……? 皆、スーリヤの事を知っていて放置しているんです。インドラ達に殺されるかもしれないのに。こんなのって、あんまりじゃないでしょうか……」
――そりゃあ、あたしだって薄情だなとは思うけどね。弱肉強食の世の中じゃ当たり前かもしれないでしょ。人の情けに期待するのは甘すぎるわね。
「リンカさんまで……そんな事を言うんですね。ここの人達みたいに……冷たくないですか? あなたは味方だと思ってた!」
押し殺したミコトの声に人々は気づかずに行き過ぎてゆく。ミコトは、欲しい物が買ってもらえずにショーウインドウの前でぐずっていた幼い頃の自分をふと思い出していた。
自分でも情けない事はわかっている。
自分の無力を棚に上げて、助けてくれないからといって当たるのはおかしい。
――ミコト。そりゃ、あたしはアカシャの眼が欲しいからできる限りの協力はするし、あなたをこんな所まで連れてきたのもあたしよ。でもね、あなたはスーリヤちゃんのためにどこまでやれるの? 無理強いしないのは、あなたに大して期待していないからよ。ミコト。一応、言っておく。今なら、諦めてもあなたを責めないわ……
諦めても責めない……その声がどこか遠く聞こえた。
口調は優しいが、それは冷たく突き放す非情の言葉だ。
役立たずは去れと。
自分で立てる人間だけついてこいと。
今までは巻き込まれるだけだった。父親が送ってきた石版のせいで事件に巻き込まれ、インドまで来たのもリンカが言い出した事だ。ミコト自身はただ流れに身をまかせていただけ。
いつもそうだった。
自分ではうまくやれていたつもりだった。友達関係もうまく立ち回って目立たず嫌われないポジションに収まり、テストの点数もみくびられない程度に取り、バイトも怒られない程度にこなす。
自分から多くを求めない。求められれば器用に応じる。それがミコトの処世術だった。
普通にしていれば自動的に生きていける。それがミコトの現実だ。
だが。
本当にそれで満足していたのだろうか?
いつだって、漫画や映画の主人公に憧れる気持ちはあったはずだ。
――この状況を打開するには、あなた自身の力が必要よ。あたしにできるのはせいぜい助言くらい。ミコトにその気が無ければ、あたしがどんなに頑張ったって何もできないの。いい? ミコト……
ミコトはうつむいたまま、ぎゅっと服の裾を握り締めた。
――神話の主人公になる覚悟があなたにある?
顔を上げる。
「……あります」
ミコトは覚悟を決めるように、静かに、深く声を絞り出した。
近くの物売りが怪訝そうに振り向き、ミコトが動かないのを見て、すぐに去っていった。
――死ぬかもしれないのよ。
「……う、うまくやってみせます!」
死ぬかもしれないという実感はまだない。だが、死にそうな目に何度か会って、それがどれほど恐ろしいものか少しは知っているつもりだった。声が震えたけど、なんとか即答できた。
――命をかけてもいいほどスーリヤを好きなの?
ミコトは静かに目を閉じてみた。脳裏には、はにかんだようなスーリヤの笑顔を容易に思い浮かべる事ができる。胸がくすぐったくなるような苦しくなるような感覚があった。
言うべき返事は決まっている。
「はい!」
言ってしまった。すでに気付いていたのだ。自分を突き動かす衝動の正体に。
柄にもなく必死になってしまうどうしようもない感情に。
たぶん、これが恋というやつなのだ。
初恋の相手は神様でした。
何も間違いはない。
自信を持って言える。
「僕はスーリヤが好きです」
――……よし。いい返事だ。顔つきもちょっと男前になったよ。ま、そういう事なら仕方ないわね。お姉さんも一肌脱いでやろうかしらね。ちょっと待ってなさいよ……
ミコトは妙にすっきりした表情でリンカの反応を待った。湧き上がるアドレナリンが脳をクリアにし、心地よい高揚感がある。今なら何でも出来る気がした。
――お待たせ。はい、これをガネーシャに渡すといいわ。情報の対価を求めるっていうなら、これ以上の対価はないでしょうよ! いい? あたしはあくまで入り口の扉を開くだけ。あとはあなた次第よ、ミコト!
ミコトの目の前に、紙切れのような物がひらりと舞った。
「写真……ですか?」
――あたしの特製ブロマイドよん!
空中でキャッチし、写っているものを見て――ミコトはブフォッと噴出した。
「ちょ、ちょっとリンカさん! 何ですかこの破廉恥な写真は……いつの間にこんなものを撮ったんですか!」
――色っぽく撮れてるでしょ? それを見せればどんな堅物だってなんでも言う事を聞いてくれるでしょうよ!
「怒られないかな……こんな際どい写真を見せて……」
ミコトはなるべく写真を見ないようにして、胸ポケットに収めた。
――もっとじっくり見てもいいのに。
「遠慮しときますよ。リンカさんの顔をまともに見れなくなる……」
雑念を振り払うように顔を上げたミコトは、精気みなぎる住人たちに負けないように力強く歩き出した。
再びガネーシャと相対するために。
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