十一話「シヴァ」


 ガネーシャは先ほどの場所に座って同じように往来を眺めていた。ミコトが戻ってきても驚いた様子はない。正面に立つミコトにちらりと目を向けた。

「また来たな少年。どうやら顔つきが先ほどとは違うようだが」

「はい。僕は考えが甘かった。僕は無力です。僕一人では何もできやしない。スーリヤのためにできる事は少ない……色々な人に助けてもらわないと何もできません。その事がやっとわかりました。お願いします。あなたの知恵を借りたい」

「ふむ。見ず知らずの君に何かをするつもりは無いと言ったはずだが……?」

「タダで何かをしてもらおうというのは虫が良すぎました。そこで、対価をお持ちしました……あの、これなんですけど」

 ミコトはそこで少し自信なさげになり、ポケットから取り出した写真を恐る恐る差し出してみた。ガネーシャが鼻を伸ばして写真を受け取る。鼻から手に持ち替え、目の高さに運ぶ。

 ガネーシャの動きが止まった。

 それはわずかな間だったが、ミコトはふざけるのもいいかげんにしろと怒られやしないかと冷や冷やした面持ちで固唾を飲んで見守る。

 一秒が長く感じる。

 頼む、うまくいってくれ――

 パオーン!

 ガネーシャの鼻が直立した。堅く逞しく、天空に向けて力強くそそり立つ。それは神殿の柱の如く、見事な直線を描いていた。

「合格!」

 写真をそそくさと仕舞いながらガネーシャは断言した。両掌を合わせ、ふかぶかと頭を下げる。

「よろしい。なんでも聞きたまえ。力になってあげようではないか。遠慮は無用だ。私と君の仲だからな」

――ほら! さすがあたし! 神様すら悩殺するこの体! 

「ああ……そういう人なんですね。へえ……」

 期待していたとはいえ、態度を急変させたガネーシャにミコトは冷ややかな視線を送る。貫禄のありそうな人だと思っていたのに。神といえど大人なんてこんなのばっかりだ。しかし、どうやら道が開けたようだった。ここまで効果絶大とは……

「では、スーリヤがなぜ見捨てられ、インドラ達に殺されそうになっているのか、理由を教えていただけますか?」

 気をとりなおし、最も気になる事を真っ先に尋ねてみた。ガネーシャは「ふむ」と一呼吸置き、姿勢を改めてミコトに向き直る。鼻はゆるやかに下降し台の上に垂れ下がった。

「なぜスーリヤが殺されそうになっているのか……一言で言うなら、太陽の神として力不足だからだ」

「力不足? そうは見えませんでしたが……インドラをも退けていましたし」

「戦闘能力の事を言っているのではない。スーリヤ神に与えられた役目は太陽の運行だ。彼女はその力を十分に使いこなせていない。彼女が操れるのは、太陽の力の余波のみといったところなのだ。それには、彼女の性別が関係していると考えられている」

「性別? 女の子だから力不足って事ですか?」

「そうだ。代々、太陽神の役目は男神が担ってきた。だが、先代スーリヤが死んで輪廻の果てに生まれてきたのは少女だった。このような事は神々の記憶にも無い事だった。太古の果てから、太陽神は男が、月神は女が担ってきたのだから。そのバランスが今のスーリヤが誕生してから乱れてしまったのだ。その影響は天体の運行にも及び、気候を狂わせ、生物達に被害をもたらしかねん。放っておけば、世界を破滅させる事にもなりかねないのだ」

「そんな……」

 あの小柄な少女がそれだけの重責を背負っているという話は、ただの人間であるミコトにはすぐに実感できない。

「神々の中でも意見は割れたのだ。ただちに殺して転生させるべきとする者達と、状況を見守りスーリヤが成長して太陽神の力に目覚めるのを待つべきとする者達。だがはっきりとした結論は出なかった。前例が無いからな。結果、我々はスーリヤを置き去りにし、インドラ達はスーリヤに戦いを仕掛ける事になった。戦いの中でスーリヤが太陽神として目覚めれば良し、できなければ、死んで生まれ変わってもらうのみだ。穏健派にとってもそれが最大の譲歩だった。かわいそうだが、彼女が未熟なままでは世界がゆるやかに崩壊する事に変りはないのだから」

「他に……他に方法はなかったのでしょうか? スーリヤは今もあなた達を待ち続けているんですよ! 一人で! 留守番をしろって言われたから……逃げる事も、あなた達を探しに行く事もせずに……大勢の神々に命を狙われながら……今もあなた達を信じているんです!」

 やり場のない怒りが込み上げ、拳を強く握り締める。寂しそうなスーリヤの横顔を思い出すと、ミコトは冷静ではいられなくなる。

「君ならどうするかね? ひと思いに殺して生まれ変わらせるか、それとも自然に力が目覚めるのを待つか」

「その二択以外に方法はないのでしょうか? 僕は……僕なら、スーリヤが太陽の神として役目を果たせるようになる方法を探します。すごい力を持った神々がこれだけ大勢いれば、何かいい方法を見つけられるのでは?」

「神々がそこまでして一人に思い入れる理由がないのだ。我々は果てしなく長い年月を生きる。たとえ死んでも――記憶と経験は失われるとはいえ――力と役目を持って生まれ変わる。死に対してそれほど恐れを持っていないし、そもそも他人との係わりが希薄なのだよ。インドラは、先代のスーリヤに車輪を盗んだ罰として半殺しにされた事を根に持っているようだがね。彼は珍しいケースだ。ある意味人間臭いともいえる」

「車輪を盗んだんですか? 神様ともあろうお人が……」

「そうだ。スーリヤの馬車に備えられた車輪は、天空を駆け太陽の運行を助ける非常に貴重なものだ。インドラは人の物をすぐ欲しがるのが悪いくせでな……貴重な車輪が欲しくなったのだろう。こっそり盗み出したのがばれ、激怒した先代スーリヤにボコボコにされたのだが、その事でいつまでもブツブツと文句を言っていた。インドラは天空の王者と呼ばれるほど実力もあり、勇敢で尊敬もされているのだが、時々余計な事をしでかすのが玉に傷なのだ」

「スーリヤが生まれ変わっても根に持っているなんてけっこう執念深いですね」

「プライドの高い男だからな。だがあの男なりに手心を加えてはいるのだ。ただスーリヤを殺したいわけではなく、全力を出したスーリヤと力比べをして、その上で勝利したいと願っているようだ。口には出さないがな。スーリヤの力が及ばなければ殺してしまうのも已む無しだが、できれば戦いの中で本来の力に目覚めて欲しいと思っているのではないかな」

 ミコトは少し考え込む様子を見せた。聖地で見たインドラの姿を思い出す。確かに、恨みを持って殺そうとしているようには見えなかった。むしろ楽しんでいるような。あれがあの男なりのコミュニケーションなのかもしれない。

「しかし……それだけでうまくいくのでしょうか? 何か……何か方法はないでしょうか。あなたの知恵でどうにかなりませんか?」

 ミコトはすがるようにガネーシャを見上げる。ガネーシャはゆっくりと鼻を丸めると、大儀そうに体を揺すって立ち上がった。

「ふむ……力になってあげるとは言ったものの、私でも打開策は見つからない。ここは仕方がない。私の父……シヴァ神のお力を借りる事にしよう」

 太鼓腹をぽんと叩くと、奥の方から巨大なネズミが現れた。すばしっこい動作でガネーシャにすりより、髭をぴくぴくと動かす。背中には鞍が設置されており、ガネーシャは大儀そうに片足を持ち上げてネズミの上にまたがった。

「さて、では行くとしようか。あらかじめ言っておくが、シヴァ神は相当に気難しい。気をつけたまえ」

 シヴァ神というのはミコトでも聞いた事があった。確か授業で習ったはずだ。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーの三大神はインド神話の中でもかなり有名な神様だ。それほどの神様なら、あるいは……

 ガネーシャを見上げながら、ネズミと並んで歩き出す。

「すいません……ありがとうございます」

「なに……それなりの対価をもらったのでな。しかし、シヴァ神は私のように温厚ではない。非常にキレやすいのでうかつな事を言わないように。ちなみに、私の頭も、シヴァ神に吹き飛ばされてこうなったのだ」

 ガネーシャは象の頭を指指し、おどけたように肩をすくめてみせた。ミコトは歩きながら尋ねた。

「えっ……でも、息子さんなんでしょう?」

「そうだ。私がまだ少年の頃、シヴァ神の妻……つまり私の母であるパールヴァティー様の沐浴を誰も覗かないように見張っていろと命じられた事があった。私は父の命令を守り、ずっと見張っていたのだが、命じた本人である父がこっそり覗こうとしているのを見つけてしまった。少年だった私は融通が効かず、シヴァ神をお止めしたのだ。誰も覗いてはいけませんと。すると、激怒してキレたシヴァ神は私の頭を吹っ飛ばしてしまったのだ……」

「なんか話だけ聞いていると最低な人のように思えますが」

「いや、シヴァ神はすぐに後悔なされた。一時の激情に身をまかせて息子の頭を吹っ飛ばしてしまった事を悔やまれたのだ。そして偉大なる力により、私を生き返らせてくださった。シヴァ神は破壊と再生を司る神。壊すも治すもそのお心ひとつだ。しかし、当時のシヴァ神はまだ修行の途中段階で、完全な力を得てはいなかった。粉微塵に吹っ飛んでしまった私の頭までは再生する事ができず、そこら辺を歩いていた象の首を切り取って、私の頭の代わりにくっつけてくださったのだ」

「ずいぶんひどい話ですが……そのことを恨んではいないのですか?」

「別に恨んでなどいないよ。この頭も、これはこれで便利なのだ」

 ガネーシャは鼻を伸ばすと、市場の店主が見ていない隙に屋台の果実をするすると絡め取った。そのまま口元に運びかじりつく。お金は払わなくていいのだろうか。

「耳も良くなったしな」

 そう言って大きな象の耳をぱたぱたと振って朗らかに笑った。なんともおおらかなものだ。

 しかし絶対にシヴァ神を怒らせないようにしようとミコトは密かに思った。頭をふっとばされたあげくに変な動物の首をくっつけられたらたまらない。象ならまだいいが、カバやキリンの頭をつけられたら締まらない事になる……

 市場を並んで歩いていくと、前方に巨大な像が見えてきた。大人五人分は優にあると思われる高さだ。ゆったりとした布を体に巻き、穏やかな表情で立っている。赤や黄色の派手な原色に塗られているが、材質は石だろうか。

「あれはシヴァ神の像だ。シヴァ神はあの付近で修行中のはずだ」

 像に近づくと市場が途切れて視界が開けた。像は緩やかな丘陵の上に立っており、その周囲には鋭い針の山や直立した丸太の柱などが並んでいる。修行に使うのだろう。

 よく見ると、そそり立つ針の上に人影らしきものが見えた。針はシヴァ神像の中ほどまでの長さがあり、その上に、指一本で体を支えて逆立ちしている人がいる。あまりにもぴたりと静止しているため、一見では人だと思わなかったが、近づくとその姿がよくわかった。

 虎の毛皮を腰にまとい、首には蛇らしきものを巻いている。上半身は裸で、細身ながら非常に引き締まり、無駄のない端整な筋肉が褐色の肌に盛り上がっている。目は固く閉じており、眉間に走る亀裂のようなシワは厳格さを物語っているようだ。

 ガネーシャは針のふもとまで歩を進めると、やや逡巡してから大声を張り上げた。

「我が主、全能なるシヴァよ! 私の言葉に耳を貸していただきたい!」

 その声を聞くやいなや、逆さまになったシヴァの額に第三の目がくわっと開いた。第三の目が光ったと思った瞬間、ガネーシャの頭が水風船でも割ったかのように粉々に吹き飛んだ。体がネズミの上からずり落ちる。

 何が起きたか把握できずに青ざめて硬直するミコトの頭上から、空気をびりびりと震わせるような大音声が降り注いだ。

「修行中に声をかけるなと言ったはずだ!」

 ガタガタ震えながら見上げると、両目を開いて二人を睥睨するシヴァと目が合った。

「度し難い愚か者だ! 何度同じ事を言わせるのだ。私は修行を邪魔されるのが何より我慢ならんと言ってあるはずなのに……」

 言っている事は母親に部屋に踏み込まれてキレる中学生と似たようなものだが、いかんせん迫力が違う。シヴァはぶつぶつと文句を言いながら、軽やかに指先で跳躍すると、空中で身をひねって音もなくミコトの目の前に降り立った。首のないガネーシャを見下ろす。

「我が息子よ。さっさと生き返るのだ」

 シヴァがそう言うやいなや、ガネーシャの頭が急速に再生していく。巻き戻しでもみるかのように象の頭はたちまち元に戻り、やがてむくりと体を起こした。何事もなかったかのように頭を振り、口を開く。

「申し訳ありません。スーリヤの事で、お話を聞いていただきたく……」

「修行が終わるまで待てなかったのか! 今いいとこだったのに……! ああっもう! やる気なくした!」

 シヴァはそっぽを向いてすたすたと歩き出す。ガネーシャはミコトに向き直り、軽く肩をすくめた。

「我が父君が修行に熱中されると千年ほど待たねばなりません。この者には千年は長すぎましょう」

 ガネーシャの声にシヴァは振り向き、今初めて見るかのように改めてミコトと視線を合わせた。向き合ってみると、意外と若く見えた。長い黒髪が端整な顔を縁取り、頭上で束ねられている。ミコトは何か言わなければと思い、しどろもどろに言葉を紡ぎだした。

「あ、修行中にお邪魔してすいません……僕、衿家ミコトといいます」

「そうか。私はシヴァだ」

 有名な神様と対面して緊張しながらも、話を聞いてもらえそうな雰囲気にミコトはほっと胸をなでおろした。校長先生と話す時よりも緊張する……

「あの……スーリヤの事で、少しご相談したい事がありまして……」

「言っておくが私は今機嫌が悪い。もしくだらん用件なら貴様の皮を剥いで牛に食わすぞ」

「ひぃぃっ! あ、でも、牛は草食では……」

 シヴァがぴたりと動きを止め、すたすたと歩み寄ってミコトに顔を近づけた。

「この私が間違っているとでも? たとえ牛が草食だとしても根性出せばお前くらい食えるだろうが……なんなら試してみるか?」

「い、いえ、いいです。僕が間違っていたと思います……すいません……」

 この人、理不尽だ。しかし一睨みで頭を吹っ飛ばすような神様だ。逆らわないほうがよさそうだった。

「で、用件は何だ。早く言え。私は忙しい」

 シヴァの剣幕にびくびくしながらも、ミコトは気持ちを奮い立たせた。せっかくここまでこぎつけたのだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。

 震える膝を叱咤し、声を張り上げる。

「スーリヤの事です。スーリヤが太陽神としての力に目覚めなければ大変な事になるのは聞きました。でも! あんないい子が、一人でただ殺されていくのは見るに忍びないんです! シヴァ神なら何か名案があるかと思い、やってきたのです」

「その事か……確かにかわいそうではあるが、十分に話し合った上での事だ。スーリヤ自身が力に目覚めなければ、他人がどうこう言ったところでどうにもならんのだ」

「しかし! 全知全能にして宇宙における至高の存在であるシヴァ神ならなんとかできるのでは? 他の誰にも不可能でも、シヴァ神ならば! 全ての神々がサジを投げた難件だからこそ、それを解決すればまさしく神の中の神! 並び立つ者の無い存在として神話を超え永久に信仰を集める事でしょう。あなたならそれができるはず! いや、あなたにしかできないのです!」

 この時、ミコトは本能的にシヴァという神の性質を理解していたのかもしれない。長年、人に合わせて生きてきたミコトだからこそ、人の性質を読む術に長けていたといえる。

「む……まあ、私ならできるといえなくもないが……」

「そういえば、あの神様、なんていったかな……あの人も、自分ならできると言っておられましたよ」

「なにっ? まさかヴィシュヌか? 野郎……でしゃばりやがって! 最近メキメキと頭角を現して信仰を集めまくっているあの生意気な野郎ができるとぬかしやがったのか? 人気取りのつもりかあの野郎……」

「そうそう、そのヴィシュヌ神です」

 もちろんハッタリだった。このシヴァ神の性格なら相当に負けず嫌いだと読んだのだが、どうやら当たりのようだ。

「ふざけやがって……私の方がうまくできるに決まっている! うむ、名案が閃いた」

 その言葉に、ミコトは目を輝かせて見上げた。

「では!」

「だがしかし」

 ミコトを見下ろすシヴァの目にはすでに厳格さが戻っていた。

「もちろん、タダでというわけにはいかん。神を動かそうというのだ。それなりの覚悟は出来ているのだろうな?」

 ミコトは言葉を詰まらせ固まる。あと一歩だと思ったのに……

「我々は力のある者を尊ぶ。無力な者が何を言おうが淘汰されて消え去るのみ。たとえヴィシュヌがいかに人気取りに走ろうと、なんでもかんでもほいほいと聞く事はあるまい。貴様自身が、信用に足る人間であると証明せねばならない」

 シヴァは市場の方向へ頭を巡らせると、地平線まで届きそうな大声で呼ばわった。

「余興だ! 皆、広場に集うのだ!」

 街中に響いた声に、人々は活動を止め、声の方へと顔を上げる。それがシヴァの呼集であるとわかると、皆一様に作業や談笑を切り上げてぞろぞろと集まってきた。

「あ、あの……一体、何をするのでしょう?」

「何、たいした事ではない。貴様には今から神の誰かと一対一で決闘をしてもらう。それに勝利すれば、貴様を一人前の男と認めて力を貸してやろう」

「なるほど、決闘…………えっ、決闘?」

 ミコトの顔が青ざめる。聖地で見た神々の戦いが記憶に蘇る。どの神も筋肉隆々で、普通に殴り合っても絶対に勝てるわけがない。ましてや、インドラやスーリヤのように自然現象を自在に操るような神が相手では、勝負にすらならないではないか。

「あの、僕……普通の人間なんですけど」

「それがどうした。神殺しの伝説などそこら中にゴロゴロしているではないか。我が力を借りるというのはそれほどの事なのだ。伝説級の英雄でなければ力を貸す気はない」

 無茶だ。喧嘩だってした事ないのに!

 パニックになるミコトを他所に、群集は着々と集まっていた。シヴァ神像を見上げる丘のふもとは広場になっており、それを囲うように市が並んでいる。すでに広場は人で溢れかえり、祭りのような熱気を醸し出していた。

 とりかえしのつかない事になった……焦るミコトが広場を見渡す。

 腕が四本や六本ある者。顔が二つや三つある者。体の色も青や赤や黒など様々だ。男は皆、たくましく筋肉が盛り上がり、女も強かそうな表情をしている。昼間から酒の壺を煽っている者や、広場を見上げてあれこれ噂している者、早くやれと野次を飛ばす者……

 誰を見ても、ミコトが勝てそうな相手はいない。

 にわかに活気付く群集の視線が、丘に立つシヴァに集中する。

「いいか聞け! 今からこの者が決闘を行なう!」

 シヴァが荒々しくミコトの肩を叩いた。すごい力だ。ミコトはそれだけで腰が抜けそうになった。

 シヴァの声に呼応するように、群集達が拳を突き上げて喝采を送った。祭り事が大好きなのだろう。騒ぎの種が出来て人々の熱気は早くも昂ぶり、足を踏み鳴らして土埃を巻き上げ、両手を突き上げて思い思いに叫び、大声で笑いあう。楽器を奏で踊りだす者もいる。興奮しすぎて喧嘩を始める者もいる。照りつける日差しを跳ね返すかのような人々の熱気に、ミコトは圧倒されて言葉を失った。

 シヴァは群集の熱気を煽るようにさらに声を張り上げた。

「この者は、あのスーリヤを助けたいと申し出てきた」

 おおっ……群集が一斉にどよめく。囁き声と怒号が混じりあう。「あいつに何ができるんだ……」「余計な事を!」「終わった事を蒸し返すな!」

 ミコトは黙ってそれらの声を聞きながら、ふつふつとたぎる何かが胸の底から込み上げてくるのを自覚した。

「知っての通り、我々はスーリヤを聖地に置き去りにしてきた。インドラの一派は戦いを挑んでいるようだが、我々はそれを知って見殺しにしようとしている」

 細波のように囁きが広がる。「自業自得だ」「力なき者は死ぬのが定め」「輪廻転生すれば済むだけの話だ」

 ミコトの恐怖と困惑を別の感情が塗り替えていくのがわかった。

「この少年が、決闘に勝利すれば私は力を貸してもいいと思っている。見ての通り、弱々しい少年だ。この腕、ろくに剣も握った事はあるまい。このような世間知らずの無力な少年が我々の誰か一人にでも勝利する奇跡を起こせるならば、スーリヤを救う奇跡も起こせるであろう。どうだ、この少年との決闘に名乗りをあげる者はいるか?」

 今度はそこかしこで失笑がおきた。「こんな少年をいたぶって自慢になるか?」「むしろ恥だ」「寝床の上で決闘する分にはかまわんがな!」

 ミコトはただ耐える。自分が馬鹿にされるのは仕方ない。実際に無力なのだから。

「俺がやろう」

 人々の垣根を割って、一人の男が進み出た。

 不気味なほど真っ黒な男だった。肌の色が黒いというより、光を寄せ付けないかのような完全な黒さだった。髪の毛は無いように見えた。というのも、体表からは黒いもやのような物が噴出してゆらめき、輪郭を曖昧なものにしていたのだ。薄汚れたボロ布を袈裟掛けにまとい、足元にひきずっている。そして何より不気味なのは、赤く輝く目だ。闇に瞬く凶星のような禍々しさを感じる。

「ラーフケートゥか。貴様は確か、先代スーリヤと因縁があったな」

 シヴァの問いかけに、ラーフケートゥと呼ばれた漆黒の男はうっそりと答えた。

「偉大なるシヴァよ。確かに俺は不死の霊薬アムリタを盗もうとした所を先代スーリヤに見つかり、結果、神々に首を切断される事になった。だが誤解するな。その事はもう恨んでなどいないのだ。今やスーリヤはできそこないの小娘よ。俺が手を下すまでもなく、インドラの軍勢に嬲り殺しにされるだろうからな!」

 なんだと! ミコトは恐怖を忘れてラーフケートゥを正面から睨みつけた。

「ククク……いっちょ前に睨んでやがる。お前の希望など俺が残らず刈り取ってやるよぉ……お前は俺に殺されるんだ。お前が無力なせいでスーリヤも死ぬ。悔しいか? スーリヤの死に様を見ることができなくて残念か? 半殺しのまま飼っておいてスーリヤがどんな風に殺されるか見せてやるのもいいかもなぁ!」

 ミコトはうつむき唇を噛み締め、ぎゅっと拳を握った。恐怖はまだある。だがそれに倍する感情がミコトを突き動かした。

 誰に言われるまでもない。決闘? 望むところだ……

 顔を上げ、群集を見下ろし――

「僕は……負けない。いたいけな少女一人救えない奴らに怖気づくとでも? お前らは無力な少年一人怯えさせる事もできないんだ! こんな情けない奴らに負ける気がしないね」

 声を張り上げ、まっすぐ見据えて言い切った。

 群集がざわめく。

 一瞬の後、大地よ割れよと言わんばかりに一斉に足を踏み鳴らし、声を枯らすほどの怒号や快哉をあげて大気を震わせた。「無謀だ!」「身の程知らずが!」「いいぞよく言った!」「やれるもんならやってみろ!」

 ミコトの無謀さを罵る声に混じり、応援する声もある。シヴァがミコトの肩に手を置き、穏やかな声で言った。

「彼等は勇気のある者を好む。貴様が勇気を示せば、彼等は認めてくれるだろう。失望させるなよ」

 力強く頷き返す。もう後戻りはできない。するつもりもない。

「では、半刻後に決闘を開始する! 各々、それまでに準備を整えるように!」

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