九話「逃避行」


 ミコトが気付いた時、目の前にリンカの顔があった。リンカの顔を見たミコトは少しホッとした。無事に帰ってきたという実感があった。

「今回は長時間のアクセスだったけど、具合悪くなってない?」

「大丈夫です……少し腰が痛いくらい」

 辺りを見回すと、現在地は遺跡から少し離れた土産物屋の近くだった。いつの間にか移動しているようだ。リンカが運んだのだろうか。

 周囲をきょろきょろしているミコトを見て、リンカが説明する。

「ああ、日が暮れたんで移動させたよ。ちょうど神話世界ではミコトがのぼせて運ばれている頃かな」

 色々と複雑な感触が思い出され、憮然とした表情になる。

「そんな事を気にしている場合じゃなかった。スーリヤの仲間の神様を探すっていっても……具体的にはどうしましょう……?」

 急に弱気になるミコトを見てリンカが笑った。

「何よ、かっこよく『僕がやります!』とか言っておいて。何か考えがあったんじゃないの?」

「う……それは。地道に聞き込みとか……ですかね」

 RPGなら聞き込みは基本だ。だが、現実でやるには気が遠くなるくらいの時間が必要だってことくらい、ミコトにもわかる。

「やれやれ、しょうがないわね。現地のガイドを既に見つくろってあるから、そこから調べていきましょう」

 リンカは身軽にすたすたと歩き出す。荷物は置いたままなので、どうやらミコトに運べという事らしい。情けないが、何もできないミコトはせめて荷物運びくらいはやらざるを得ない。

 おとなしく二人分の荷物を抱え、後を追う。

 夜になってもまだ観光客の姿がまばらにあった。

 遠くには、ライトアップされた遺跡が見える。道端にはランタンを灯した物売りが並んでいた。野菜らしきものや香辛料らしきものなど、様々な商品が売られている。

 しばらく歩いたところに、白い乗用車が何台か止まっていた。

 リンカはそのうちの一台に近づき、窓を叩いて運転席の男と何事か話している。

 荷物を抱えたミコトがよたよたと追いつくと、くるっと振り向いて、

「ほら、早く乗って。荷物も一緒でいいから」

 それだけ言うとさっさと後部座席のドアを開いて乗り込んでしまった。

 運転席から、褐色で髭面の大男がミコトを見ている。おそらくガイドか何かなのだろうけど、よくこんなおっかない人と交渉するよなぁと、リンカの行動力を改めて見直した。

 男に軽く会釈して、恐る恐る座席にお邪魔する。ドアを閉めると、男が後部座席を振り向いてにこやかに話しかけてきた。

「ワタシ、ラジーブいいます。ヨロシクです」

 大きなごつい手を差し出してくるので、ミコトも手を差し伸べた。すごい力でがっちりと握られる。このまま離してくれなかったらどうしようと一瞬思ったが、すぐに離してくれた。

「あ、僕、ミコトいいます。ヨロシクです」

 つられてカタコトで挨拶する。ラジーブさんはごつい髭ヅラに人懐っこい笑みを浮かべ、何度もうなずいた。

「日本語すこしわかります。案内できますヨー。インド人ウソつかない」

 どうやら悪い人ではなさそうだ。

 安心したミコトは当面の問題を思い出し、リンカに向き直った。

「ところでリンカさん、僕、考えたんですけど。神話世界で見た地形と似た地形をグーグルアースで調べるってどうでしょう? 聖地の場所の手がかりになると思うんです」

 インターネット上の検索サービスを扱うソフトウェア会社『google』が提供している地図は世界各地の航空写真を見る事ができる。神話世界で見た聖地の遺跡はかなり大規模なものだ。

 航空写真で見ればそれらしい場所があるのではないかとミコトは考えたのだが……

「それは一応あたしだって考えたけどね。インドの世界遺産だけで七十箇所以上あるのよ。あんたが寝てる間に一通り照らし合わせてみたけど、どれも違うのよね。世界遺産に登録されていない遺跡も数え切れないくらいあるし、そもそも神話どおりの姿で残っているかどうかもわからない」

「う……スーリヤ神に関係のある遺跡を片っ端から調べるしかないですかね……?」

 リンカはシートベルトを締め、帽子とサングラスを取って髪をほどいた。華やかな金髪がふわりと華奢な肩に流れる。

「いや、そんな事する必要ないわよ。あんたが神話世界に入ってくれたおかげで重要な手がかりをすでに掴んでいるじゃない」

 両手で量感を確かめるように髪を持ち上げ、落ち着きのいい体勢でシートにもたれるとミコトに向かって挑むような目つきで微笑む。

「手がかり……何かありましたっけ」

「そう、重要な手がかり。スーリヤちゃん、女の子だったでしょ? スーリヤ神が女の子なんて聞いた事ない。そもそもアーリア系の神様は男神が中心だからね。太陽の神なんていう重要なポジションが女の子なんていう神話は珍しいはず。そんな希少な神話が伝えられている地方を調べれば、たぶん聖地に近づけるんじゃないかな」

「よく知らないんですけど、スーリヤっていうのはアーリア系の神様なんですか?」

「インドに流れ込んだアーリア人の信仰が土着の信仰と混ざり合ってインドの神話が成立したって言われてるからね。インド神話初期のリグ・ヴェーダから既にスーリヤは登場しているから、アーリア系の影響は受けているはず。その中でも、あんたが体験した神話世界はかなり異色だと思うのよね」

「なるほど……しかしそんな神話があったとして、現在にも伝えられているんですかね?」

「あんたのお父さんから預かった碑文にアカシックリーディングを行ってあの神話世界に繋がったのだから、少なくとも関連する遺跡か何かは現存しているはずよ。そこで、ガイドのラジーブさんの出番ってわけ」

 リンカがバックミラーに向かってにこっと微笑むと、ラジーブは嬉しそうに破顔して振り向いた。

「ワタシくわしいヨー。ワタシに声かけたの正解。これもスーリヤ神のお導き」

 体が大きいので振り向いただけでシートが大きく軋む。つながった眉毛と逞しいもみあげが厳しいが、人好きのする笑顔だ。

「ワタシ、日本好きですネー。日本で食べたカルボナーラおいしかったですネー。日本で見たターミネーター2も面白かったですヨー」

「どっちも日本産じゃないですけどね」

「日本の言葉もくわしいですヨー。あなたみたいな人の事をコウモンの美少年というですネー」

「肛門……? 紅顔……ですか? 肛門は勘弁してください」

「おぅ、コウガンでしたネー! コウモンよりコウガンですよネー」

 ラジーブさんは罪のない笑顔でうんうんと頷いている。おそらくわざと言っているわけではないはずだ。ミコトはきゅっと尻を締めた。

「ラジーブはこう見えてもここいらの神話には詳しいからね。ミコトが神話世界に行っている間、あたしだって別に酒ばっかり飲んでたわけじゃないのよ。神話に詳しそうな人を色々と当たってたんだからね」

「お酒も飲んでたんですね」

「そりゃ飲むわよぅ。ミコト君てばスーリヤちゃんとイチャイチャして見せつけるんだもの」

「べ、べつにイチャイチャなんてしてませんよ」

「そうかしらね? でもどうなの実際のとこ。好きなら好きってはっきり言いなさいよ。男なんでしょ!」

 リンカに肘でぐりぐりと小突かれながら、ミコトは改めて考えた。

 好き……なんだろうか。確かに可愛いと思ったし、共感のようなものはあったと思う。たまに見せる笑顔、そして歌舞殿に一人で立つ姿を思い出すと胸がきゅっと苦しくなる。クラスの女の子に片思いをした事はあったけど、その時はどうせ無理だという諦め半分の気持ちだった気がする。

 今は――スーリヤの事を思い出すたびに胸が苦しくなり、動悸が激しくなる。じっとしていられない気分になる。しかし相手は神様で、現実に存在する人物ではないのだ……

「顔が赤いわよ」

「えっ、そんな事ないですよ! だいたいこんな暗い車内ではわからないはずですよ、からかわないでくださいよ!」

「あら、冗談よ。んん? ずいぶんムキになるわね? 図星だった?」

「……別にそういうんじゃありませんよ」

 にやにやするリンカから顔を背け、窓の外を見ながら、知らず知らずのうちにスーリヤの事を考えてしまう。

 物思いに沈むミコトにかまわず、ラジーブがにこやかに言った。

「ワタシ、スーリヤ女神が信仰されている地方を知ってますネー。知ってるって答えたらミズ・リンカはえらい驚いてワタシもすごくびっくりしたですヨー。インド人もびっくり」

 それを聞いて沈思から覚めたミコトが顔を上げた。

「えっ……じゃあ、その地方にあの聖地がある可能性が高いってことですね? もしかすると、スーリヤ神を一人だけ残して他の神様がどこかへ行ったという言い伝えはないですか?」

「それもミズ・リンカに聞かれたネー。ワタシもはっきりとは覚えてないですが確かスーリヤ女神が一人で砦を守る話だったような気がするヨー。珍しい話だから知っている人がいてびっくり。インド人もびっくり」

 ラジーブはインド人もびっくりに突っ込んでほしいようだったが、残念ながらミコトはそこまで気が回らなかった。

「リンカさん……これって……!」

 意気込んで振り向くミコトに、リンカが頷く。

「可能性は高いと思うのよね。でも、ラジーブさんから話を聞いて近くの地形を調べてみたんだけど、遺跡らしきものは無いのよねえ。とにかくその地方に実際に行ってみて、関係がありそうな物を媒体にして神話世界に飛んでみるのが手っ取り早いかな。アカシャの眼と関連がある神話なら、スーリヤちゃんの事を何か知っている人がいるかもしれない」

 具体的な方向性が見えてきてミコトの目が希望に輝いた。アカシャの眼を探すという本来の目的はともかく、スーリヤの助けになれるかもしれないという思いがミコトを強く突き動かす。

「行きましょう! ラジーブさん、お願いします!」

「OK! まかせるネー!」

 ラジーブがぐっと力強く頷き、前を向いてハンドルを握ったその時――

 コンコン。

 ノックの音。

 音はリンカ側の窓から聞こえてきた。三人が一斉にそちらを見る。

「あんたは――」

「いよーう。また会ったねえ」

 にやにやしながら車内を覗き込み、銃を突きつけている男は、まさしく空港でまいたはずのミフネだった。背後にはパイナップル頭のブンタも控えている。その神出鬼没さにさすがのリンカも驚愕しているようだった。彼等はビザを破られてインドには入国できなかったと思っていたのだから。

「いやあ、あんたがビザのページを破ってくれたもんだからめんどくさい事になって大変だったよ。どうしてくれるんだ? ん?」

「ああ~、そういえば、そんな事もあったっけ?」

 驚きながらも、リンカは気丈にもしれっと言ってのける。

「あやうく日本に送り返されるところだったがな。だが、知ってるか? 二0一0年からインドでも空港ビザが発行されるようになったんだよ。ククク……ありがたいねえ。日本が対象国に含まれていて助かったぜ。手続きは面倒だったけどな。ビザが発行された後は、地道にあんたらを見かけたかどうか聞き込みをしてここまで追ってきたわけさ。幸いあんたは目立つからな。覚えている人は多かったよ」

 リンカは諦めたように片手を上げ、苦笑を浮かべながら窓をわずかに開いた。

「ありゃ、あたしの美貌が裏目に出ちゃったか。しょうがないわねえ。わかりましたよ、降参しますよ。これが欲しいんでしょ――」

 ぬけぬけと言い、相手が口を開く間もなく荷物に手を突っ込み、窓の隙間から何かを放り投げた。

 絶妙のタイミングだった。相手が会話に意識を取られ、警戒する間もないような自然な流れで突然に放り出されたそれを、男は思わず受け取ろうとする。放物線を描く物体に手を伸ばし、銃口と意識が車内から逸れる。

「出して!」

「イエッサー!」

 様子を窺っていたラジーブは余計な事を言わずに即座にアクセルを踏み込んだ。急回転したタイヤが激しく土埃を立て軋みを上げながらオートマの車体が飛び出す。放り投げられた物体を受け取った男が急いで発砲した時はすでにその後姿は遠ざかっていくところだった。

 夜のしじまに銃声が空しく響き、驚いた人々が屋台から顔を出す。

 男は受け取った物体を見た。

 東京名物アサリ味噌クッキー(未体験の甘辛さ)と書いてあった。

「ふざけんなァァ!」

 即座に地面に叩き付ける。おたおたと拾うブンタを男は苛立って蹴り飛ばした。

「チッ、何をボケッと突っ立ってんだ! さっさと車を出すぞ!」

 

 

 バックミラーにはフロントライトをハイビームにした車体が映っている。

 まだ距離は開いているが見る間にぐんぐんと迫ってくる。道路は一直線だ。隠れる場所もない。舗装された道路の脇は乾燥した土がむきだしになっており、その向こうには畑が広がっている。速度で振り切るしかない。

「よっしゃ! 飛ばせ! 限界ギリギリまで飛ばせぇ!」

「オゥヤァァー! ガンガン飛ばしますヨー! 銀河の果てまでぇぇ!」

 両手を突き上げハイテンションで煽るリンカに、ラジーブさんもノリノリで応えた。発砲されるような事態に巻き込まれたというのに怯む様子もなく、意気軒昂そのものである。巨体を運転席に窮屈そうに収め、アクセルを踏み抜く。

 夜だからか道行く車は少なかった。時々現れる先行車両がすぐに眼前に迫り、あっという間に後方へと流れ去っていく。追い抜くため車線変更するたびにミコトの体は慣性にひっぱられドアに押し付けられたり隣のリンカにぶつかりそうになったりする。

 大騒ぎする二人を他所に、ミコトはシートに体を押し付けるようにして顔をひきつらせた。

 風景がすごい速度で流れ去り、限界近い速度を出している車体はギシギシと軋んで今にも分解しそうな錯覚に陥る。軽い段差に乗り上げるだけで大きく車は弾み、中にいる人達を跳ね上げる。スピード超過の警告音は鳴りっぱなしだ。

 迂闊に口を開いたら舌を噛みそうでミコトは固く歯をくいしばりシートベルトをつかんで縮こまっていたが、リンカは平気で地図を取り出して揺れる車内で検分している。

「もうじき着くわね。街に入ったら撒けるといいんだけど。まったく、しつっこいわねえあいつら! 悪人の鑑みたいな奴らね」

 サイドミラーには煌々とライトをつけて追い上げる車体が映っている。リンカは舌打ちし、ラジーブに指示を出した。

「次の道を曲がって市街地に入りましょう。街中で撒くわよ。あんたのドライビングテクニックを見せ付けてやんなさい!」

「いいんですネ? 思いっきりやっちゃってもいいんですネ!」

「いいわ、やっちゃって! あたしが責任を負うから!」

「おぅ……ガイド生活二十年……映画のカーチェイスみたいな事を一度でいいからやってみたかったですヨー……周りを気にせずにフルパワーを解放してみたかったのですヨー! ワタシも、このマシンも、この時をずっと待っていたのかもしれない。インド人、やるときはやる」

「そうよ、あなたもこのマシンも法定速度に収まっているような器じゃないの! マシンのパワーは確かにあちらが上……でも! 人とマシンがひとつとなったときに織り成す人馬一体の累乗的潜在能力はこちらの方が圧倒的に上よ!」

「イエス! その通り!」

 何を根拠に言っているのかはわからないが、その気になったラジーブが一際力強くアクセルを踏み込んだ。急加速。ミコトはシートに押し付けられ、車のマフラーは一際甲高い排気音を上げる。宣戦布告の咆哮を後に残し一気に車間距離を開くと、分岐路でラジーブはアクセルから足を離し素早くハンドルを切った。タイヤが激しく軋み道路に跡を残す。グリップ力の限界を超えてリヤタイヤが滑りミコトは一瞬体が浮くような感覚を味わった。大きくブレた車体に叩きつけるようにラジーブがアクセルを踏み込む。急速に回転したタイヤが摩擦で煙を吐きグリップ力を回復すると同時にバランスを取り戻して前方へと車体を押し出す。夜の闇にテールランプの軌跡を焼きつけ再び速度を取り戻した。

「ストリートに最速を刻むッ!」

 ラジーブとリンカが快哉を上げる中、ミコトは口を開く余裕もなくシートに体を押し付けてシートベルトを強く握り締めた。

 前方から街の明りが見えてくる。分岐点で一度は引き離した敵の車も、直線で距離を詰めてきていた。街に近づくにつれて道幅も広くなり車の数も増えてくる。車と車の間を縫うように蛇行して抜き去っていく。左右に振り回されたミコトが口を押さえた。

「ちょっと、車内で吐かないでよ! 吐くなら窓を開けて外に吐いてよ」

 容赦ない。ミコトは新鮮な空気を求めてあえぐように窓を開けた。行き交う車の音とクラクションが一際大きく聞こえる。風に前髪をなぶらせながら後ろを見ると、クラクションを鳴らしながら追い上げてくる車の姿が見えた。

「頭ひっこめて! 危ないですヨー!」

 言われるまでもなくミコトは頭をひっこめた。屋上に人を乗せた車を追い越す。道路脇には牛がのんびりと寝転んでくつろいでいる。

 街に入ると夜だというのに出歩いている人々が多く危なっかしかった。街には煌々と明りが灯り屋台が並び賑わっている。ラジーブは人ごみを避け路地へとハンドルを切った。後ろにはぴったりと悪党どもの車がくっついてくる。

 路地に置かれたポリバケツを轢き飛ばし中身がぶちまけられて散乱する。隅で寝ていた牛が驚いて起き上がった。自転車が倒れてけたたましい音を立て住民が窓から顔を出す。

 サイドミラーを壁にこすりながらタイヤを軋ませてさらに道を曲がり、立て看板を倒しながら再び広い道路に出た。

 その間ほとんど速度を落とさないのだからラジーブの運転技術もたいしたものだ。だがそれについてくる悪党の運転技術も侮れない。

 大通りを横切って川沿いの道へ入った所で銃声が聞こえた。背後から撃ってきたのだ。ミコトはシートに隠れるようにして身を隠す。

 ギャキィィィイッ!

 突然の急ブレーキ音。前につんのめりそうになる体をシートベルトが支える。

「何よ、突然どうしたの?」

「ダメです! ここは通れないヨー!」

 見ると、前方を横切るように牛の一家が散歩していた。ブレーキ音に驚いてつぶらな瞳でこちらを見ている。小さい子牛が震えながら固まっている。

「じゃあしょうがない。バックして切り返しな!」

「おぅイエス」

 突然バックした車に対し、後方から迫る車が急ブレーキをかけるのが聞こえた。勢いを殺しきれずに追突する。衝撃でシートベルトをした体が跳ねる。トランクがひしゃげるのもかまわずにラジーブはさらに車を後進させた。追突した車を押しのけゴリゴリと塀にこすりつけながら力任せに後退する。

「おいっ! なんだってんだ畜生!」

 後ろからミフネが声を張り上げるのが聞こえた。リンカが窓を開けて怒鳴り返す。

「うるさいわねっ! 牛さんが散歩してるから通れないのよ、どけなさいよ!」

「お前……そんな事で後ろから来てる車を無視かよ! やめろ、潰す気か! 人間と牛とどっちが大切だと思ってんだ!」

「あんたらと牛なら牛さんの方が大事に決まってんでしょ! お前らなんか潰れて死ねよ!」

「なんて事をいいやがるんだこのアマッ! 人でなし!」

 押し合いへしあいして金属が擦れる甲高い音を立てながら無理やり後続車を押しのけ、バックしたまま大通りに出るとハンドルを大きく切って向きを変え、再び大通りを走りだす。壊れたトランクがバクバクと変な音を立てるがおかまいなしだ。

 ひび割れたサイドミラーに、ボンネットの壊れた車が追い上げてくるのが見えた。悪党どもも相当しぶといようだ。

 再び銃声。バシャンッ! という鮮やかな音とともにリアウインドウが砕け散る。後部座席の二人はそろって首をすくめてシートに隠れ、ややあって、リンカは髪に飛び散ったガラスを気にしながらシートごしに背後を振り向いた。

「あの野郎……」

 凶悪なハイビームのフロントライトがすぐそこまで迫っている。リンカは荷物をごそごそと漁ると、中から缶ジュースを取り出した。

「これでも食らってろ」

 背後に身を乗り出して投げつける。時速二百キロ前後で疾走する車からさらに加速をつけて放たれた缶が吸い込まれるように後部車両のフロントガラスを直撃。蜘蛛の巣を張ったようなひび割れが運転手の視界を遮る。

「クッソ! あの女……!」

 一瞬蛇行するも、視界を遮るフロントガラスをブンタが拳で叩き割り、再び視界を取り戻して追い上げてくる。

 みるみる内にスピードを上げ併走してくる。ブンタが窓から腕を出し銃を突きつけてきた。

「おいっ、抵抗せずに手を上げろ! あ、でも運転手は急に手を上げるなよ、危ないからな。止まってから手を上げろ」

「しっかり掴まって下さいヨ! 喋ると舌噛むヨ!」

 けたたましいブレーキ音とタイヤが擦れる音。ラジーブが激しくハンドルを回転させリアタイヤが滑る。急カーブを描いて横道に滑りこむが目の前に下の道路と繋がる段差が迫る。ガードレールもない。ブレーキもかけずに段差へ突っ込み、車体が宙に躍り出た。

 内臓がぶわっと持ち上がるような浮遊感。ミコトの全身から嫌な汗が噴出す。

 歯を食いしばって浮遊感に耐えた一瞬の後、激しい着地の衝撃が車体を包んだ。フロントバンパーが地面にこすれて弾け飛び、サスペンションが衝撃を殺しきれずに車体が大きく跳ねる。

 車内の荷物が宙を舞いミコトの顔面をしたたかに打った。鞭打ちになりそうな首を軽く擦る。

 エンストを起こしかけた車体がブスンと揺れ、マフラーから黒い煙を吐き出して再びのろのろと動き始めた。

「みなさん、怪我はありませんカー」

「あいたた……無茶するわね。でもこれならあいつらも……」

 ミコトと同じように首を擦りながらリンカが見上げるが――

 ズガン! 激しい衝撃音とともに、目の前に車が降ってきた。

 大きく跳ねた車体が道を塞ぐ。悪党どもの車だ。その横っ腹に激突。数メートル直進するが、エンストを起こして停止した。

 ラジーブがキーをひねる。エンジンは唸りを上げるものの、キュルキュルと苦しげな音を立ててすぐに止まってしまう。

 窓から乗り出したブンタがこちらのボンネットに上半身を乗せて銃を突きつけた。

「へへ……今度こそ、詰みだ。てこずらせやがって……」

 ラジーブさんが困った顔でリンカを振り向いた。リンカはやれやれと頭を振って両手を上げる。ミコトもそれに倣った。

 運転席から出てきたミフネが、銃を構えながら運転席の窓をノックした。

「終点でございますお客さま。シートベルトを外し足元にお気をつけてさっさと降りろやコラ」



「あー、生涯最悪のドライブ。ねえ、音楽でもかけてよー」

 ガタガタと今にも壊れそうに走る車の後部座席には三人の男女が縛られて押し込められている。ラジーブは窮屈そうに体を縮こまらせ、その横でミコトは憮然とした表情でおとなしくしている。リンカだけは傲然と足を組み不満をぶつけていた。

「せーまーいっ! スピードものろいし最悪っ!」

「うるせえ女だな……誰のせいで車がこんな有様になってると思ってんだ。猿轡でもかませておいた方がよさそうだな」

「でもアニキ、あの女すぐ噛み付くから近寄りたくないよ……」

「猿轡だなんてエロいわね。あたしにエロい事をしたい気持ちはわかるけど、あんたら如きで満足できるかしらねえ? やれるもんならやってみろ、あ? 噛み千切ってやるからかかってこいや」

 後ろ手に縛られたリンカは縄で強調された胸を反らすようなかたちになっており見ようによっては扇情的な姿と言えなくもないのだが、口からサブマシンガンのように飛び出す罵詈雑言を乗り越えてちょっかいを出そうとするつわものはいなかった。

 ショートパンツからのびた眩しいふとももをこれ見よがしに組みなおし、前のシートをがすっと蹴りつける。

「お前なあ……こっちには銃もあるんだぞ。女ならもうちょっと警戒したほうがいいんじゃないか。口に出せないような恥ずかしい目にあいたいか?」

「言っとくけどねえ、この程度の修羅場は一度や二度じゃないのよ。口に出せないような目にあった事だって一度や二度じゃないけど、今あたしはこうして生きていて、ちょっかいを出した連中は例外なくお空のお星様になったわ。試したいの?」

 ふてぶてしく艶やかな微笑を浮かべるリンカの言葉をハッタリではないと判断したのか、男はそれ以上何も言わなかった。

 しかし隣でリンカと密着しているミコトにとっては冷静ではいられない。半袖からはみだした腕が触れ合う感触と、女の体臭が妄想に拍車をかける。口に出せないような目ってなんだろう……いや、だめだ。こんな事を考えているとスーリヤに嫌われる。でも……

 もぞもぞと落ち着かなげなミコトの横で、ラジーブは大柄な体を丸めてしゅんとおとなしくしている。ガイドとして、捕まった責任を感じているのかもしれない。

「さて、目的の村が近づいてきたな。お前らが嘘を言っていなければだが……?」

 男がバックミラー越しにちらりと様子を窺うと、リンカが鼻息荒く応えた。

「ふんっ、嘘なんてつかないわ。嘘をついて好転するような状況でもないし。今はとにかく目的のブツに近づく事を優先してんのよ」

「どうだか。あんたには何度も煮え湯を飲まされてきたからな」

「次の村に手がかりがあるとはっきりわかっているわけじゃないけどね。関連がある神話の手がかりでも掴めれば、目的には近づくはずよ」

 車から見える景色は大分さみしいものになってきている。植林された森の中を突っ切り、畑の中を縦断する一本道をガタガタと危なっかしく走っていく。

 先の方に、かすかな明りが見えた。

 遠くに見える黒々とした山に隠れるようにして、まばらに民家が点在しているのがわかる。

 村に近づいても街と違って人っ子一人いない。

 民家が増えてきたあたりで車を脇に寄せ、停車させた。付近はちょっとした広場になっており、小さい祠の中に像らしきものが祀ってあるのが見える。

「夜中だから誰もいないな。叩き起こすか?」

「アカシックリーディングを行うだけならその必要はないわ。ラジーブさん、この村で間違いないのよね?」

「ハイ……この村ではスーリヤ女神が信仰されています。珍しいですヨー。他には聞いた事がないです。アカシャの眼というのはわかりませんヨー……インド人にもわからない事はある」

 ラジーブは厳つい顔に似合わない自信の無さそうな様子で答えた。

「とりあえず朝まで時間があるし、まずはアカシックリーディングね。ミコト、体力は大丈夫?」

 リンカは縛られたままミコトに向き直った。ミコトが頷く。不思議と眠気は無かった。神話世界に接続している間、体は眠っているのかもしれない。

 車から降りて固くなった体をほぐす。空気は澄んでいてうまい。夜の帳の向こうで虫達が鳴く声が聞こえる。村の明りはほとんどないが、月と星々がほのかに周囲を照らして山の稜線がくっきりと浮き立っていた。

 リンカは後ろ手に縛られたまま祠へ向かう。ミコトもその後に続いた。

「どうやらシヴァ神の像みたいね。これを媒体にしてアカシックリーディングを行うわね。さ、ミコト。こっちに来て」

 木で作った小さな祠はミコトの身長ほどの高さで、その中に像が収められている。リンカの言うところのシヴァ神だろう。座禅を組んで瞑想している姿のようだ。

「あのー。神話世界に行くのはいいんですけど、いつものアレはやるんでしょうか……」

 腰をまげてシヴァ神の像を覗き込んでいたリンカが振り向く。

「ん? ああ。恥ずかしいなら別のやり方でもいいけど」

「ああ、よかった……人前だとさすがに……」

 二人の後には男達がぞろぞろとついてきている。ギャラリーのいる前でアレをするのは抵抗があった。そもそもアレ自体に抵抗があったはずなのだが、三回目ともなると少し慣れてしまっているのかもしれない。

「見せてもらおうか。アカシックリーディングとやらを」

「うっさいわね。焦らなくてもやるわよ」

 男達が見守る中、リンカはシヴァ神の像の前で屈みこんだ。

「はい、ミコト君。ここに座って」

 ミコトは言われるがままにリンカの正面に屈んで膝をついた。向き合う。

「じゃあ、目をつぶって」

「はい。いつものアレはしないんですよね?」

 おとなしく目を閉じる。目を閉じるといういつもと違う手順がミコトを油断させていた。

「ミコトってほんと素直ね。騙されないように気をつけなさいよ」

 ぎゅっと目をとじたミコトの唇に柔らかい感触があった。ミコトが驚いて目を開く。目の前にはリンカの顔、唇の感触……騙された! そう思う前に、すでにミコトの意識は解放され、前方から流れ去る光の奔流に飲み込まれていた。

 膨大な情報の濁流。映像が流れ星のように駆け抜け、ミコトの意識は巨大な色の渦に溶け出す。数え切れないほどの生と死が凝縮され宇宙のように拡散してゆく。神話の時代から現代までの、星のように瞬く全ての記憶が混ざり合ってゆく……

 上下感覚の無い浮遊感の中、ミコトはふとスーリヤの事を想った。

 歌舞殿に一人で立つ寂しそうな横顔を想った。

 ミコトにじゃれついてくる屈託の無さと、その中に時々垣間見える遠慮、心の距離を想った。

 自分に何かできる事があるなら、今こそそれをすべきだ。

 覚悟を決めて前方から広がる闇を見据えた。

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