第4話ワン娘3
人間とは学習する生き物なのだ。
そして何より頭を使う生き物だ。少なくとも元いた世界での人類の発展は、他の生物を押しのけて生態系の頂点に立ったのは思考するからだ。極論、思考しない人間ほど人間として劣等であると言っても良い。
QED.
つまり何が言いたいのかと言うといつもより早起きし、ノエルが来る前に手早く朝食を片付け、外へ遊びに行って来ると告げるや否や母親の返事を待つことなく玄関を出て、玄関を出た瞬間に左右を見てノエルがいない事を確認する。
そして予想通り、ノエルの姿はなかった。勝利を確信して思わず笑みが零れる。が、昨日の事を考えればそれほど時間に余裕があるわけでもないので、いつまでもここでじっとしているわけにもいかない。
基礎体力向上も兼ねてランニングをしながら、この村の生命線とも言える川まで走った。およそ十分程度の事とは言え幼い体では完全に息が上がり、全身で汗をかいている。
だが、ようやく川へとたどり着いた。
やや高くなっている川岸から見下ろせば、砂地の部分もあれば岩がごろごろと転がっている場所もある。
せせらぎの音は和やかで、計画の邪魔ばかりされて荒くれ立った心を自然と落ち着ける。
邪魔はない。環境は理想的。まさに最高のシチュエーション兼コンディション。
だが、焦ってはいけない。
今すぐにでも釣りを、と行きたいところだが、しばらくは道具の関係上無理そうなのでカニや貝を採り、それらを焼いて食べる事にした。
焼くだけでも苦労させられそうだが、そこは母親の目を盗んで昼食後の残り火などを失敬する事にする。
その前準備としてまずは川から更に十分程行った場所にある森の入口付近に落ちている枯れ木を集めて川端まで運ぶ。それだけでも三歳児には重労働で、収まりかけた汗が再び噴き出した。
それにたったこれだけの作業がまだ半ばでしかないのに、陽は開始時よりも確実に昇っている。
やはり幼い体では出来る事が限られるし、何事にも時間がかかるのがもどかしい。
魔法も存在するのは知っているが、思いつく限りの方法や呪文等を唱えてみても無駄だったので、やはりキチンと基礎だけでも習わないとダメと言うことだろう。しかも不幸な事に、この村に魔法を使える人間はいないらしい。
よくある騎士が囚われの姫を救うという童話を聞いた際にそれとなく聞く限りでは、どうにも一定の素質と教育が必要とのことなので、今は諦めるより他にない。
「もう、チェスターやっと見つけた!」
「げっ」
などと思考に浸っていた精神を現実に引き戻したのは、今最も聞きたくない声。
それが思いの外近くから響いたものだから、現実に戻った時にはもう眼前にまでノエルが迫っていた。
もはや背を向けて逃げる暇さえなく、逃がさないとばかりに跳びついて首元を力強く抱きしめられ、倒れまいと踏ん張った所でふらふらと体が泳ぐ。結果、堪え切れなかった体はそのまま地面へ押し倒された。
「うぐっ!」
「わっ!」
強かに背中を打ちつけたものの、幸いたいした痛みはない。
今はそんな事よりコイツだ。
「なんでかってに行っちゃうの!」
「そこは俺の自由だろ! ……それより、なんでここが分かった」
ここは家から離れているのだ。しかも初めてきた場所なのだから、ここがバレるのはもっと後、昼食時に家へ帰った時だと思っていた。
当然、ここへ来る際には何度も後ろを振り返って確認したが、村人はおろか家族にさえみられていない。
「ん~、なんかチェスターいいにおいがするの!」
「いい匂い? 俺が?」
毎日水でぬらしたタオルで体を拭いているとはいえ、石鹸どころか碌に風呂にも入れていないこの体が良い匂い?
いや、まだ若いを通り越して幼い体なのだから、加齢臭やら汗臭さとは無縁ということだろうか。
遠慮なしに顔を押しつけ、くんくんと臭いを嗅ぐのはどう見ても犬ですねはい。
半分は人間でも、もう半分は犬なのだという事をこっちの面でも侮っていた。
「うん、なんかほんわかしてくるの……」
ようやく顔を離したと思ったら、その表情は日向ぼっこしている犬のような幸せそうな顔。しかしほんわかだと言うなら、元々年から年中頭の中ほんわかしてそうだからじゃないのか。
コイツのことだからきっと臭いなど嗅がなくとも、日向ぼっこしながら昼寝でもしてれば勝手にほんわかしてる事だろう。
と言うか最近判明したノエルの犬っぷりは、このままだと本気で顔を舐めてきそうなほど。
「ああそう。もう分かったからいい加減離れろ!」
「なんで?」
「なんでって……」
邪魔だからとはさすがに言えず、仕方なく強引に引き剥がしてその隙に立ち上がり、僅かに身構える。
ノエルはノエルで不機嫌そうに顔をしかめるも、ちょうど二歩分の位置で同じように立ち上がった。俺が不機嫌なのを察してか、幸いにそれ以上の行動には出ないらしい。
「あのな、ノエル。お前はもうちょっとこう、なんていうかその……そうだ、パーソナルスペース的なアレをだな。ずかずかと単純な距離だけでなく人の心に土足で入り込むような真似は個人的にも女の子としてもやめた方が良いと思うんだが?」
「ぱーそなるすぺーす……?」
ノエルは頭上にクエスチョンマークを浮かべながら首をひねる。
そこからかと思いつつも、相手は三歳児であり、何より自分のためなのだから仕方がないと強く自分自身に言い聞かせながら、辛抱強く説明をする。
「ああ、えーとだな……。心理的距離というか、親愛度が高い奴ほど近くにいても気にならないっていうやつでな……」
「それってきょりが近いほどチェスターとなかがいいってこと?」
「ん? まああながち間違いじゃない……よなあ」
微妙に違っているというか半分だけ正解といった感じで、間違いとも言い切れない中途半端な所だ。だが、ノエルにしては充分に理解できた方だろう。
ノエルは無言で片足を一歩下げる。
「へえ……」
そんなノエルを見て珍しく理解出来たのかと感心し、満足する。ついでにこのまま見えなくなるまで下がってくれれば言う事なしだが、さすがにそれは期待しすぎだろう。
最低限とはいえ、一定の成果が出ただけでも満足すべきだ。
「…………え?」
だからそこから強く地面を蹴り、急速に接近したノエルを見て訳が分からなくなる。
「ぐはっ!」
そして疑問を覚えた直後には腹に、正確に言えば鳩尾に全力の突撃による強い衝撃が走る。
視界の下にはほとんど地面と平行になったノエルの体。
何をトチ狂ったか、まるでラグビー選手さながら頭から全力で、それもわざわざスタートのために最適な形をとるよう片足分下げてまで腹めがけてダイブしてきたのだから堪らない。
幼いこの体で踏ん張り切れるはずもなく、むしろ勢いを殺しきれずに自分の体でさえ僅かに宙に浮き、再び地面とノエルにサンドイッチされるような形で仰向けに倒れ込む。そして痛みに悶絶する間もノエルは我関せず、まるで零の距離をさらに詰めようとするかのように強く抱きついてきたまま体をこすりつけていた。
「……っ、ぐっ、おまえ……いきなり何の真似だ……?」
吐き気を堪えているせいで怒鳴りつける事も出来ないが、せめてもの怒りを込めて肩に手を置いて力ずくで引き離してから尋ねる。だと言うのに、コイツはずっと笑顔なのだから余計に腹が立つ。
それどころかむしろ得意になって胸を逸らし、馬乗りのまま退く気配すらなく、満面の笑顔でこう答えた。
「だってチェスターと近くにいたらなかよし!」
「……………………は?」
なんて言った? 今、このバカはなんて言った?
あまりの言葉は聞き取れていたにもかかわらず理解の範疇を容易く超え、数秒の空白が訪れる。
そこからさらに数秒して、ようやくノエルの放った言葉を噛み砕く。そして――
「アホかお前はそういうもんじゃねえよ! そもそもなんで一度離れてまで突撃してきやがった! つーか必要以上に近づかれれば不快に感じるからお互い適切な距離感があるって話だ! いい加減にしろ、このバカ!!」
「うん??」
感情のままに罵声を浴びせたが、案の定頭上にはてなマークを浮かべるノエルはどう見ても言っている事を理解しきれていない。そう、クエスチョンなどという高尚なものではなく、何も分かっていないバカが浮かべるはてなマークだ。
この様子では、怒っている事さえ伝わっていないのではないだろうか。
その事実に愕然とし、激しく頭を抱える。
「くっ、バカな! まさかこんな事も理解出来ないと言うのか。前から思ってたがこいつ、ゴブリン……いや、オークレベルの理解力しか持ち合わせていないのか!」
最低限の知性がある生物の中で最も頭が弱いとされるオークとどっちが馬鹿なのか、本気で分からなくなる。
「ゴブリン、オーク……あたしすごい!」
「いや、もうホント恐れ入る。脱帽ものだよ。もう俺の手に負えねえよ。それとも3歳なんて皆こんなもんなのか……?」
だとしたら、自分の親も含めて世の中の母親という存在に敬意を払う事も吝かではない。が、碌に三歳児と接した事もないから分からないが、恐らくコイツは逆の意味で格が違う気がする。
どのような経路で脳内変換がおこなわれたのかは知らないが、俺にはコイツの考えなど到底理解できない。
言葉は通じていながら会話が通じないせいか、いっそ恐ろしささえ覚える程。
ああ、だから子供は本当に苦手なのだ。我が儘で単純に見えて時折何を考えているか分からず、突拍子もない行動に出る事が多々あるからどう相手をしていいかも分からず、相手にしないように動いてもやっぱり思い通りにいかない。
俺の読みなんて悉く外される。
もはや俺にコイツの相手は無理だ。
思考を放棄し、脱力した体はノエルのなすがままに、マーキング行為を受け入れるがままだった。
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