第46話
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
ひとしきり泣いたあと、少女はようやく落ち着いて涙を止めた。真っ赤に腫れた目はウサギみたいだ。
流れていた涙を服でぬぐって、少女はロキの方をきょとんとした顔で見た。
「旅行の人? ここには住んでないよね」
「うん、お父さんと一緒に来たんだ」
さらりと嘘をつく。
「そっか……ここ、綺麗でしょう?」
そう言って、少女は目の前に広がる海を指し示す。
ギリシャの青。エーゲ海の青。それは青玉よりも煌びやかで、空よりも深く、水晶より透き通っている美しい海。
「うん、綺麗だ。海好きなの?」
「ここの海が好き。この白い壁も好きなの。よく妹と見にくるんだよ」
「妹がいるの?」
「うん、双子なの!」
その時、きっとこの少女はロキの前で初めて心から笑った。エーゲ海の煌きにも負けないくらい、華やかで、可愛い笑顔。
妹のことが大好きなんだろうな、と手に取るように分かる。
「あなたは? 兄弟いる?」
「うん? う~ん、兄が二人と、義兄? そういうのが一人」
「? えっと、二人? 三人?」
少女は言っていることがよく分かっていないようだ。まあ、確かに自分とオーディンとの関係はあいまいなので、詳しく説明してくれといわれても困る。
「血の繋がった兄が二人。近所にお兄ちゃんみたいな人が一人いるんだ」
そう言えば、少女は納得したようだった。
「そのお兄ちゃん達も、あなたと同じ目の色?」
「え?」
突然、己の瞳をじっと見つめてそう言うものだから、ロキは少し怯んだ。
少女の目に、暗い闇が見える。自分と同じ、悲しく、辛く、冷たい世界が。けれど、その目の奥はまだ綺麗で、優しくて、温かい。
彼女の目に見つめられていると、まるでその温かさが自分の中にも生まれてくるようだ。
「あなたの目、すごく綺麗なの」
少女はにっこり笑って、言葉を続ける。
「この海と同じ綺麗な青。私の好きな色」
おずおずと伸ばされた手が頬に触れて、子供だからかその手がとても温かくて、なぜだろう、もう忘れてしまった何かが、胸の奥からこみ上げてくる気がした。
(あったかいなぁ……)
その温もりに惹かれるように、ロキはうっすらと微笑んだ。
もし、この時彼をよく知る者がこの顔を見ていたら、きっと幻か何かだと思っただろう。でも、今目の前にいるのは幼いこの少女一人。
彼女は、ロキの笑顔を見て、つられたように微笑んだ。
「この目は……僕だけかな。あとは灰色っぽかった気がする」
兄達とはもう気が遠くなるほど会っていないから、顔も曖昧だ。どうせ会うこともないのだし、この少女の温もりは独占させてもらおう。そう思った。
「そっか、綺麗。すごく好き!」
「……ありがとう」
打算も、駆け引きもなにもない真っ直ぐな好意を示す言葉。それが、これほどに嬉しいなんて。
ロキは少女の手をとって、軽く握る。
自分からは何も返してはあげられないけれど、せめて、もう少し、あと少しだけ、この温もりを傍に留めておけるように。
※ ※ ※ ※ ※
「よぉ、ヘイムダル」
「トールか」
いつもと変わらぬ景色の中、突然門の内側からひょっこりと大男が姿を現した。
オーディンの息子、雷神トールだ。
「どうした?」
「いや、ロキが出かけたって聞いてな。どうやら最初、俺んちに来たみたいなんだが、運悪く俺も狩りに出てたんだよ」
なるほど、とヘイムダルは内心思った。
よく一緒に出かける二人なのに、今回ロキだけだったことが少し疑問だったのだ。
「んでよ、俺も今から追いかけようと思うんだが、居場所がなぁ」
「真っ直ぐ下りてはいったが?」
「あいつが素直にそこから観光し始めると思うか?」
「…………」
思わない。
あれほど捻くれているのだ。きっと北欧方面からではなく、妙なところへぶっ飛んでいっているだろう。
「でな、わりぃんだけど協力してくれ。あいつ放っておいたら何するかわかんねぇし」
「………………条件付で」
「条件?」
「あいつがもし変な物を土産にしようとしたら…………止めろ」
変な物が増えたミッドガルドで、『土産を買ってくる』と言ったロキ。あの性格だ。まともな物を選んでくるはずがない。
「良いな」
「お、おう」
ヘイムダルの気迫に押されたのか、トールは冷や汗を流しながら頷いた。
それを確認してからヘイムダルは鳥を呼び出し、ヒミンビョルグにいる従者に門番の交代を頼む。あまり姿を見ないが、仕事はきっちりこなす従者だ。
「お前はビフレストを通れんだろう。グリーンランドで待っている」
「了解! 頼むぜ!」
別ルートから行くだろうトールを見送り、ヘイムダルも馬にまたがった。そこでふと思い出す。
(そういえば、あれ以来か……ミッドガルドに降りるのは)
それは、自分がこの黒い服をまとうようになった時以来。人では文献にも残らぬほど昔。神である自分にとっても、それなりに遠い出来事だ。
(何もなければ良いが……)
言いたくないが自分の勘はよくあたる。良いことであれ、悪いことであれ。
今している胸騒ぎが、良いものであることをひそかに願いつつ、ヘイムダルは馬の腹を蹴り、ビフレストを駆け下りていった。
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