第45話

「ねえねえ、おじちゃん。これ何?」


 子供に変化したロキは、観光通り沿いに並ぶ屋台を満喫していた。

 もともと神であるロキにとっては、知り合いのゼウス達が祭られている神殿よりこちらの方がとても魅力的だ。


「お、これはなぁジャガイモのニョッキだ。このクリームソースをつけて食うと美味いのよ。どうだ、一個食ってみるか?」

「うん!」


 こういう時子供は便利である。何かしら気の良い大人はサービスをしてくれるのだ。

 ロキはニョッキを嬉しそうに頬張る。最近食事という概念が抜けていたせいか、随分色々な物が美味しかった。


「あら、可愛い子ね。ほら、このオレンジ持ってお行き」

「ありがとう、おばちゃん!」


 こんな感じでロキは昼食を済ますつもりである。

 お腹が満たされれば、後は観光名所に行って色々な人に話しかけつつ、次の行き先を決めていこう。そう思って歩き出そうとしたその時、彼の横をものすごい勢いで駆け抜けていった者がいた。

 その際、少しぶつかってしまい、持っていたオレンジが落ちる。


「わっ」

「あ!」


 ロキの手を霞めて坂を転がり落ちようとしたそれを、ぶつかった方が気づき慌てて取り上げる。お礼を言おうとして、ロキは軽く目を見開いた。


「ごめんなさい!」


 オレンジを手渡してくれた子は、五、六歳ぐらいの女の子だった。すぐに頭を下げてしまったので一瞬しか見えなかったが、片頬が異常に腫れていたと思う。


「おめぇ、ダルロスんとこの……って、すげぇ腫れてるじゃねぇか!」

「あ、あの、あの……大丈夫ですから! ホントにごめんなさい!」


 それだけ言うと、彼女はこちらの顔をまともに見ず走り去ってしまった。どうやら海の方に向かっているらしい。

 唖然と見送るロキの横で、大人がひそひそと話しだす。


「あいつ、また子供に当たったのか? まともに仕事もしないでよ……」

「どんどんケガが酷くなってくね……可哀想に。あたし達に言ったらまた殴られるからって、誰にも泣き言を言わないで……」


 それを聞いて納得した。どうやら家庭内暴力のようである。

 それ自体ロキはどうでも良い。だがあの子は地元の子だろう。同い年ぐらいに変化しているから、色々と話が聞けるかもしれない。


「ところであの子はどっちだ?」

「そりゃケガしてるから……」

「ねえ、おばちゃん」

「あ、え? なんだい?」

「オレンジ、もう一個貰って良い?」


 ニコッと笑ってロキは言った。せめて手土産ぐらいは持っていこうと思って。



   ※ ※ ※ ※ ※



 海の方に来たのは良いが、肝心のあの子が見つからない。あのケガを見られたくなさそうだったから、きっと港には行っていないだろう。あそこは人が多すぎる。

 そうすると、どこかの店に入ったのか、と目を上げた瞬間、彼女の後姿が見えた。


「いた!」


 きょろきょろと人の間を縫うように、彼女は辺りを見渡していた。そして、何かを発見したようなそぶりで小道に入っていく。

 ロキも慌ててその道に入った。二人並べないようなその道を、彼女はどんどん進んでいく。かなり入り組んでいるのに迷わないのは、きっと何度も来ているからだ。


「どこ行くんだろう」


 一歩わき道にそれると、喧騒が嘘のようになくなって静かだ。こっちに何かあるように思えないが、とりあえずロキは見失わないようについていった。

 先程とは違い、こういう時子供は不便だ。歩幅が小さいので疲れる。少し大人に戻ろうか、そう考えた時、目の前に彼女がいないことに気づいた。


「やば、見失った?」


 せっかくここまで来て、と思いロキは駆け出した。すぐに開けた所に出る。右側はどこかの住宅の壁。正面は高い崖。左はうっそうと緑が茂った藪。

 壁にドアはないし、少女がこの崖を上れるとも思えない。ということはこの藪に入ったのだろう、とロキもそちらに進む。


 邪魔をする植物を掃いながら行くと、意外にも藪はすぐに途切れた。代わりに現れたのは、小さな遺跡だった。レンガ造りのようだからおそらく中世ぐらいのものだろう。家だったのか、はたまた何かの作業場だったのかも分からないほど崩れている。


 その奥に広がるのは見事なエーゲ海。ここが少し高い所だからか眺めも最高だ。

 ふと視線を移せば、あの少女がいた。まだ残っている遺跡の壁に背をもたせ掛けて、じぃっと海を眺めている。時折何か首を振ったりもしているが、海を見る目はとても幸せそうだった。

 ロキはその表情に惹かれるようにして少女に近づく。夢中で海を見ている彼女はこちらにまったく気づく気配がなかった。


「ねえ、隣いい?」

「え?」


 突然声をかけたからだろうか、少女はビクリと過剰反応してこちらを振り返った。そのまま目をまん丸にして固まってしまった。もしかしたら警戒させてしまったかもしれない。


「酷い顔してるね」


 嫌味ではなく、軽い調子で頬を指してそう言う。何も言わない少女を無視して隣に座った。こういう時は押せ押せ攻撃である。


(アジア系か。まあ、可愛い方かな)


 と、ロキは少女を見て思った。先程は一瞬だけだったので分からなかったが、髪は黒、顔つきも西洋のそれではなく東洋のものに近い。唯一、瞳だけ少し青がかっている。まだ幼いものの、優しげな雰囲気がにじみ出ていて可愛らしい。


 もったいないのは、その片頬が腫れていること。そして、瞳の奥に深く黒い感情が見えること。まだ幼い少女のはずなのに、その色はよくいる大人よりも、悲しく、寂しく、弱い。

 まるで、いつかガラスの向こうに見た自分の目のようだ。

 ロキは、ふとそう思う。


 その時、少女の手がこちらに伸びてきた。何の前触れもなく動いたそれは、自分の髪を掻き分け頭に触れる。そして、ゆっくりとなでてきた。

 柔らかくて小さな手は、その動作を繰り返す。慰めていると言うよりは、まるで母が子をあやすように。

 驚いて少女を見ると、彼女は心配そうにこちらの目を覗き込んで言った。


「あなたの方が、泣きそうだよ」


 ロキはさらに目を見開いた。


(なんで……?)


 この少女と会ったことはない。たまたまミッドガルドに降りてきて、たまたま情報収集のために目をつけた少女だ。まだ幼い、自分と比べれば生きているとも言えない少女。

 そんな彼女に、奥深くに隠しているものを見つけられてしまうなんて。

 驚きと、戸惑い、だが、ほんの少しの嬉しさ。


 ロキは、無意識に微笑んだ。

 自分を理解してくれる者がいたことへの嬉しさと、まだ闇は燻っているのだという事実への寂しさに。

 奇妙な微笑みに、彼女はまだ少し心配げに眉を下げた。それに気づいて、今度はからかいを含んだ表情と声に変える。


「僕の目、青いけど。別に泣いてないよ」

「そ、そんなの間違えないもん!」


 からかったことに気づいたのだろう。むっと頬を膨らませて、かと思いきやその反動で痛みが走ったのか手で抑える。だが、それがさらに彼女の痛みを増大させてしまった。少女は大きな目に涙をいっぱい溜めて、けれど零すまいと必死に耐えている。


「触っちゃダメだよ」


 ロキは苦笑しながら彼女の手をとってはずさせた。その時、その指に巻かれた包帯に目がいく。何本も包帯がしてあり、血が滲んでいた。随分深く切っているようだ。

 ロキが包帯に目をやったことに気づいたのか、少女は慌てて手を後ろに隠す。


「あ、あの、これはお母さんのお手伝いをしててっ。その」


 嘘だ。そんなことでここまで怪我をしないだろうし。もし、していたとしても一本目で普通の親は止める。けれど少女は隠したいようだったから、ロキはその言葉に乗った。


「……そっか、頑張ってるんだね」


 この少女は、どれほどの思いを抱えているんだろう。自分と同じように、悲しくて暗い思いを、どれだけこの小さな肩に乗せているんだろうか。

 そう思うと、自然と手が伸びて彼女の涙を拭っていた。


「あ、わ。うやや」


 次々と溢れてくる涙を少女は止めようとするけれど、ロキはその手を掴んで阻止する。その代わり、自分の指で何度も彼女の涙を掬い取った。

 泣かせてあげれば良い。涙は辛い気持ちも少しは流してくれるから。まだこの幼い少女は、思いのままに泣かせてあげれば良いのだ。

 いつか、泣くことすら忘れてしまう時期が来ることもあるから。

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