第37話
「が、あうあぁぁぁぁっ!」
「あ……っ、ああっ」
目の前で、もがき苦しむ人がいる。セルリアはその光景を呆然と見ていた。
右の顔面を焼け爛れさせ、右手を吹き飛ばされた名前も知らぬ彼。自分を殺し、今また殺そうとした彼。
その彼を傷つけたのは、セルリアだ。
「て……めぇ。よ、くも。よくもぉ!」
無事だった左目を血走らせて、彼はセルリアを睨みつけた。誰かを憎む目というのはこういうものなのか、とどこか冷静に分析する。
「このぉ、ゆ、る、許さねぇ!」
彼は吹き飛ばされた右手が持っていたナイフを探し、左手でしっかりと握りこむ。
怖かった。その目も、顔も、声も、そして執念も。
負の感情に彩られてしまった者は、こうまで誰かを憎めるのだと思った。けれど、何より怖いのは、もっと別のもの。
(私……)
涙を流しても、このあと何をされるか分かっても、セルリアはその場を動こうとも、逃げようとも思えなかった。
あの時、殺されると思った。怖いと思った。自分を殺したと言う彼が憎いと思った。
そう思った瞬間、目の前に広がった青い魔力。気がつけば彼が傷つき、のた打ち回っていた。
自分が焼いた右の顔。自分が吹き飛ばした右の腕。そこから流れる真っ赤な血。それが全て、セルリアが持っていた憎しみの深さの象徴だった。
(結局……私、止められなかった……)
ナイフがもう一度振り上げられても、セルリアはそれをぼうっと見上げた。
傷つけるのはダメだ、と、セロシアに言ったのは自分なのに。結局、言い出した自分が感情を止められずに、魔力を暴走させて相手を傷つけた。
抑えなくてもいいと、彼は言ってくれた。そんな感情を持っている自分も認めて、もしもの時に止められればいいと。一人で無理なら、誰かに支えてもらいながらでもいいと。
けれど、もう無理だ。止められなかった。
こんな自分が嫌だ。自分の闇がここまで深いのだという事実が、自分自身が怖い。
大切な人に、こんな自分を知られたくない。ならば今、消えてしまえばいい。
振り下ろされるナイフに、セルリアはそっと目を閉じた。
(ごめんなさい……認めてあげられなくて)
受け入れられなかった自分に謝って、セルリアは来るだろう衝撃に備えた。だが、その瞬間、後ろから誰かに抱え込まれる。
「なっ!? ぎゃあっ!」
「……ふう。あ~あ、流血なんて久々だよ」
「…………え?」
短い叫び声が聞こえたかと思うと、耳元では逆に間延びした声が響く。驚いて振り向けば、自分を後ろから抱きかかえている金髪の彼と目が合った。
「ロ、キ……様?」
「セルリア、僕まだ夕食作ってもらってないよ。お腹減った」
何とも普通に言われたものだから。どう反応していいのか分からず呆然と主を見上げる。
彼はそんなセルリアを見て笑うと、青い目を細めて前方に視線を移した。そこでようやく我に返り、セルリアも向き直る。
先程の叫び声はあの青年のものだ。
「あ……」
青年はその場に倒れていた。どうやら気を失っているらしい。微かに、彼の周りに黒い靄が見える。だがそれが何か確認する間もなく、セルリアは肩を引かれ向き直らされた。
「……セルリア。今、死のうとしたよね」
口調はいつもと変わらない。だが、その声色は普段聞くものより各段に低い。
「っ、そ、それ、は……」
「主の許可なく、従者としてずいぶんな行動だね」
ロキはそう言いながら左手に刺さっていたナイフを抜いた。彼があのナイフを受け止めてくれたのだ。赤い血が彼の白い腕を伝う。
「ロキ様、血が!」
「こんなの、二、三分後には治るよ。それよりセルリア、どういうつもりだ?」
応急処置をしようとしたセルリアの手を彼は逆に捕まえて、視線を合わせてきた。
ロキの青い目は優しくも、また冷たくもない。その中にあるのは怒りだ。彼は純粋に、セルリアの行動に怒っている。
逸らすことは許されない。しかし、蘇ってしまった自分への恐怖と、ロキや彼のように、受け入れてくれた人を裏切った気持ちに涙が溢れて、視界はぼやけた。
「……だって、だって私。この先あんな自分、認められそうになくて……っ」
「あんな?」
「あんな、憎しみを止められない自分……」
傷つけたくないと思っていた。止めたいと思っていた。それは嘘じゃない。しかし、その止めたいと思う心すら上回って、セルリアの憎しみや恐怖は暴走した。
「あれほど簡単に、人を傷つけるなんて!」
今はもう人間じゃないから、という言い訳は利かない。あの魔力の暴走は、セルリアの奥底にあった感情を引き金としたのだから。
地面に落ちては吸い込まれていく涙を見ながら、セルリアは唇を噛み千切った。
こんな小さな痛みでは吊り合わないと分かっていても、何か痛みを背負わなければいけないと思った。
だが、ロキは少し面倒臭そうな色を込めて言葉を放ってきた。
「傷つける、ねえ。誰を?」
「な、何言ってるんですか! 見れば分か……え?」
腕を吹き飛ばし、顔を焼いたのだ。ロキにだってすぐに分かったはず、と振り返り、セルリアは目を疑った。
「どう……して?」
気を失っている青年は、まったくの無傷だった。顔の火傷もない。腕もくっついている。
「そりゃあ、俺が治したからだろうな」
突然、クスクスと楽しげな声が辺りに響く。それと同時に、倒れた青年の上に一人少年が現れた。
十歳ぐらいの外見をした少年だ。だが、宙に浮いていることから人間ではないとすぐに分かる。
少し生意気そうな顔をした少年は、くすんだ色の金の三つ編みを弾きながら、呆然としているセルリアを面白そうに眺めた。
次いで、胸に手を当て優雅に腰を折る。
「自己紹介してなかったな。俺はハデス。ギリシャ神界冥界の王だ。よろしく」
「ハデス、様?」
聞いたことのある名前だった。ギリシャ神話は有名で、人間も時に耳にすることがあるからだろう。
「ちなみに、さっきあの男を黒い靄……死霊を使って止めたのも彼だよ」
「ここは墓地だからな。俺の手足となる奴はたくさんいる。お前に死なれると楽しみがなくなるんで、手を出させてもらった」
正直、ハデスの言葉には分からないことがたくさんあった。
あれだけの怪我を一瞬で治したことに驚けばいいのか、それとも、ハデス神という神がこのような少年であることに驚けばいいのか、今セルリアの頭はそれすら分からない。
「これでこの男にお前が負わせた傷はなくなった。記憶も弄ったんで、あの暴走の瞬間は消えてるぞ」
思考の追いつかない頭に、ハデスの言葉が響く。
(なかったことに……なる?)
それは、誘惑にも似た甘い囁き。
セルリアはハデスを見、倒れた青年を見、そしてロキを見る。刹那、しっかりと視線が絡んだ深い青の目に、全てを見透かされた気がして息を呑んだ。
咄嗟に、ロキから視線を逸らしてセルリアは俯く。
「治してくださっても、記憶を消してくださっても。私がしたことは変わりません!」
ちょっとでも、考えてはいけないことを考えた。自分を受け入れてくれた人の前で考えてしまった。
膨れ上がる自分への嫌悪感に、セルリアは顔を上げられなくなる。
「別にいいんじゃねぇか? 証拠が残ってないんだから」
「でもっ」
「ならお前の記憶からも消す?」
軽く言ってのけるハデスに、セルリアは激しく首を振った。
たとえ青年に傷が残っていなくとも、記憶を消したとしても、彼を傷つけたのは変えようのない事実だ。いつかまた自分は同じことをする可能性がある。
「ダメですっ。そんなことをしたら私、逃げることになる……凄く、ずるい奴になる」
怪我も記憶もないから不問など、そうやって自分の所業から逃げていいはずがない。
「私、もう無理です。自信がない……」
頑なに首を振るセルリアに、ロキの溜息が降ってきた。
嫌われたのか、それとも見放されたか、と胸が潰れそうになる。自然と震えだす体と近づく気配に、ギュッと目を瞑ったセルリア。
だがロキは、ポンと軽く頭に手を置いた。
ぎこちなく顔を上げると、彼はいつもと変わらずに苦笑している。
「ロキ、様?」
「今回のことは、一人では無理だったから、誰かに助けてもらった、と思えばいいよ」
「そんな!」
驚き、反論しようとしたセルリアの唇に、ロキは人差し指を当てて黙らせる。
「僕は言ったはずだよ、セルリア。『ゆっくりでいい』ってね。もし君が今日の夕方言われたことをいきなりできるほどの者なら、僕の従者なんてさっさと辞めて、新しい神界創って主神になるべきだ。何せ、僕が長年できてないことができるんだから」
何か言いたげに、けれど何も言えずに俯き涙を流すセルリアを、ロキは優しくなでた。
「でも、君はそれができるほど頭がいいわけじゃない。かと言って、こんな助けや狡さにすがり続けるほど馬鹿でもない。ここから学べば、次は違った結果を出せるはずだ」
「ロキ様……」
「一度の失敗で泣いて諦めて、全ての可能性を捨てるなんて、僕に言わせれば愚か者だね」
「………………」
言われて、セルリアはグッと両手を握り締めた。
この手がやったことに、恐れと嫌悪がある。胸に、モヤモヤしたものがたくさんある。自信などないし、まだ、割り切れたわけでもない。だけど――
セルリアは一つ大きく息を吸う。そして意を決して後ろを向くと、ハデスに向かって深く頭を下げた。
「……ハデス様。助けてくださって、機会をくださって……ありがとうございます」
「え? ああ、うん。まあ良かったんじゃない? と、あんま必要ないかもしれないけど、お前の死体、そこだよ」
彼が指差した地面が抉れ、土の中から人の白骨が出てくる。身に着けている服は見覚えのある物。胸の上には、少し錆びたナイフと大事な懐中時計が置いてあった。
時計は、セルリアの体の終わりを表すかのように止まっている。
改めて辺りを見回せば、ここは孤児院の隣にある教会の敷地だった。墓地に当たる部分に埋めたのは、彼の良心だったのだろうか。
フッと、セルリアは何か心に溜まっていたものを息と一緒に吐き出した。
「それで、こいつどうする? もし望むなら亡者どもを使って発狂とかさせられるけど」
青年を見下ろして言ったハデスに、セルリアはゆっくりと首を振った。それではダメだ。
「いいえ。生きて……自分の意志で、償ってもらいます」
自分も神人として生き、この暗い感情と戦い続けようと思うから。
ハデスは、セルリアの答えにどこかつまらなさそうに頬を膨らませた。
「あっそう。ま、いいよ。どうせこいつともう一人には、死んでから俺の冥界に来るよう烙印をつけたしね。あとから楽しむさ。それとお前。セルリアだっけ?」
「は、はい」
正面から指を突きつけられ、セルリアは背筋を伸ばした。
仄黒い紅の目が、楽しそうに歪む。
「色々気に入った。今度、冥界に遊びにくるといい。何なら主を俺に変えても……」
「ダメ」
笑顔で言おうとした言葉にロキが笑顔で返したので、ハデスは一度肩をすくめて消えた。一言、『やっぱり楽しめそうだな』と言い残して。
セルリアがもう一度青年に目を向けると、首に黒い模様があった。きっとあれがハデスの烙印なのだろう。
人間にとって、利己的な理由で人間を殺すという行為は一番大きな罪になる。死ねば冥界の地獄行き。そう養成学校で習ったことを思い出す。
たとえ生きている時に罪を償っても、魂にこびりついた罪を拭うため、短期間とはいえ一度地獄に行かなければならないという。
ずっと生きて、己の闇と戦い続けようとしている自分と、果たしてどちらが辛いだろうか?
「セルリア」
ロキに呼ばれて振り向く。彼は、闇の中でも輝く金髪と、あのエーゲ海を映したような青の目で笑う。
そのまま、セルリアに手を差し伸べた。
「帰ろっか。僕、ほんとお腹ぺこぺこ」
グウッと鳴ったお腹をさする彼に、セルリアは苦笑した。手を伸ばして、一瞬、昔からある男性への恐怖が浮かぶ。しかしそれも束の間だ。
ロキは大丈夫。同じ苦しみを抱える彼を、怖いとは思わない。
セルリアは笑って、彼の手に自分の手を重ねた。今は、あの天上の世界が自分の居場所。
「はい、帰りましょう。ロキ様」
※ ※ ※ ※ ※
その後、青海雪花殺害の加害者、求女達真とその幼馴染みで、青海月花殺害の加害者、助友ルイは自首をしたと双子は聞いた。
呪い殺される、など、若干錯乱した部分が見受けられたが、自供から遺体が遺棄された場所を捜索し発見。一年以上の時を経て、人間だった頃の双子は日の光を浴びる。
姉妹の遺体は、多くの人が涙と共に住んでいた孤児院の隣にある教会墓地に埋葬した。
埋めたはずの遺体が、なぜかむき出しで置いてあったことが議論を呼び、想いが伝わらなかったからと犯行に及んだ青年の事件は話題になったが、それも人間の世界だけのこと。
神界では、少々の騒ぎとお説教。ただそれだけで、いつもと同じ日々が幕を開けた。
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