第35話

 薄暗くなる空の下を、セルリアはとぼとぼと歩いていた。目は真っ赤で、瞼は不恰好に腫れあがり、ズズッと鼻を鳴らしながら人気のない道を歩く。


 セロシアを追いかけようかとも思ったが、怖くてできなかった。追いかけたあと、もう一度拒絶されてしまえば立ち直れない気がした。

 かと言って、彼女を置いたままアースガルドへ帰る気にもなれない。あてもなく歩くしかなかった。


(これから、どうしよう……)


 考えるけれど、何も案は浮かばない。

 ズルズルと重い足を引きずるように歩き続ける。そうやって無闇に足を動かしていると、不意にその音に被る別の音があった。


 静かに、どこか音を殺すように歩く靴音。

 セルリアの背筋を、ゾクリと悪寒が駆け上がる。

 この感覚を知っている。人間だった時に何度か体験した。

 いつもいつもついて回る足音と、嘗め回すように見てくる視線。

 試しに立ち止まってみると、その足音もピタリとやんだ。同時にこちらに刺さるような視線が送られてくる。


「っ!」


 蘇る恐怖にセルリアは走り出した。間違いない、昔自分を追い回していた人物だ。勘違いではなかったのだ。

 こちらの行動に気づいたのか、相手も同じように走り出した。


(やだ、嫌だ!)


 太陽が沈み、街灯が不安定な明かりを灯す。

 アスファルトの上に、自分以外に伸びる影が見えた。それを振り切るようにさらに足を動かす。だが思ったように進まない。


 気づけばセルリアは坂を上っていた。見覚えのある坂だった。登っていくごとに開けていく視界。その向こうに見えたのは、街灯よりも明るいコンビニの看板。


「え……?」


 目の前の景色に、いつかの夜が被った。

 足が止まる。あの時もそうだった。この坂を上がりコンビニの看板が見えた。目的地を確認して、早足になったその瞬間――


(あの時は、いきなり、後ろから……っ!)


 思うが早いか、セルリアは背後から口を塞がれた。そのまま反対の手で体を押さえつけられ、横にあった細道に引きずり込まれる。


「んんっ、んー!」


 ものすごい力で拘束され、どこかへつれていかれる。必死に抵抗するも押さえつける力に足をばたつかせるぐらいしかできない。

 何より、息が詰まる。酸欠で手足はどんどんと痺れ、動かすことすらままならなくなり、不安と恐怖だけがセルリアの中を支配する。


(ヤダ、ヤダヤダ! 助けて、誰か助けて!)


 胸に蘇る恐怖。頭にフラッシュバックするあの日の光景。そうだ。あの時もこうだった。

 いきなり襲われて、横の道に入ったかと思えばそのまま引きずれられ、そして。


「きゃ!」


 まるで捨てるように放り投げられ背中を打った。衝撃のせいで過呼吸以上に息が詰まる。逃げようと上半身を起こすが、足を引かれ再び大地に倒れこんだ。


「嫌ぁ!」


 そのまま圧し掛かられ、地面に押しつけられる。その間も頭の中にはあの時の記憶が流れる。同じ状況と、男に触られているという感覚にセルリアはすでにパニック状態だった。

 怖い、嫌だ、助けて、そればかりに支配される。


 あの時はどうした? 必死に暴れて、落ちた携帯のボタンを押して、セロシアにかけた。だがすぐに切られてしまって、その後は。


「いやぁ! 放して、触らないでぇ!」

「どうしてお前が!」


 その声に、セルリアは目を見開いた。



『どうして気づいてくれねぇんだよ!』



 あの時とは違う台詞、けれど、同じ声。

 開いた目に映っているのは、自分に馬乗りになっている青年。あの時と同じ人物。そしてミッドガルドに下りた日、学校で見た――


(ルイ、君の……友達?)


 信じられない光景に、セルリアの動きが一瞬止まった。だが相手はその様子にもまるで気づかず、顔面を蒼白にし、セルリアの首に手をかけた。

 そのまま、グッと力を入れられる。


「っか、はっ……や、あっ!」


 完璧に空気が絶たれた。喉の奥から何かがこみ上げ、彼の指が何もかも潰すように食い込む。はずそうにも相手はびくともしない。

 涙にぼやける視界の向こうで、青年はまるで否定するように首を振っていた。


「何でここにいんだよ。お前は、お前は確かに俺が殺したのに!」


 そう叫ぶと、彼は片手で喉を抑えたまま、ナイフを振り上げた。朧に見える銀の残影。

 その時、セルリアの視界はいくつもの映像を映しだした。



『何で逃げるんだっ。あの時は手を差し伸べてくれたのに!』

『このハンカチを貸してくれただろう? 俺を覚えてないのか!?』

『俺はずっとお前だけを見てたのに!』



 そう言って、彼はそのナイフを自分の胸に。


「い、や……っ。嫌あぁぁぁっ!」


 蘇った記憶。あの時と同じ恐怖。だが、あの時とは違うセルリアの持つ魔力が、恐怖に押し出され、爆発した。




   ※ ※ ※ ※ ※




 こちらを凝視する黒とピンクのパンサーを見て。ロキは深々と溜息をついた。


「ホント目に悪い組み合わせ。しかもセルリア達いないし……」


 彼はぶつぶつ言いながら騎獣達の額を弾く。

 何か言いたげな黒曜とミッドナイトホーンだったが、金髪主のピリピリした様子に丸くなって頭を下げた。


「ヘイムダル。見つかったかい?」

「障害物が多すぎる。ここからでは無理だ」


 ヘイムダルは木々に囲まれた周りを見ながら、ふうっと息をついた。

 オーディンが、フリズスキャルブから一度は従者達を見つけた。

 急いでロキと共に駆けつけたのだが、いたのは目に悪いパンサーコンビのみ。

 ここから二人を探そうと、ヘイムダルも目を凝らしたが、アースガルドとは違い建物などの障害物が多すぎる。


「やっぱ空から探した方がいいかな。君達どうしてイヌ科じゃないんだい? セルリア達の臭いを追ってくれればいいのに」

「パンサーを選んだのはお前だろうが」


 ロキの昔のように荒れていた口調が最近のものに戻っているから、少し機嫌は直っているのだろう。だが、騎獣に八つ当たりしているあたり、まだ本調子とはいえない。

 従者の騎獣を選ぶのは主だ。巨大ウサギや狼の中から自分で選んだのに、文句を言うところがロキらしい。


「空に上がるぞ」

「分かってる。とにかく、ここまできたら君の目が頼りなんだか……っ! セルリア!?」

「ロキ?」


 しゃがんでいた腰を上げようとした瞬間、彼は指を鳴らして一瞬で消えた。その直後、ヘイムダルも感じ取る。


「これは……」


 膨れ上がって弾けたのは、間違いなく魔力だ。おそらくセルリアの。ロキはこの魔力から場所を感知したのだろう。


(セロシアもいるか?)


 姉がいるなら、そこに妹であるセロシアもいる可能性が高い。そう考えて、移動用のルーンを描こうとした。

 だがその時、先程とは似て非なる魔力をヘイムダルは感知した。


 セルリアの起こした魔力とは違う場所で、じわじわと膨れ上がっていく別の魔力。似ているが微量に異なるそれは、間違いなくセロシアのものだ。しかも攻撃用の力を感じる。

 ヘイムダルは空に上がり、魔力を感じる方向に目を向けた。銀の千里眼に映るのは――


「あの馬鹿!」


 彼は急いでルーンを描きその場から消える。

 残されたに二匹のパンサーは、困ったように顔を見合わせ、首を落とした。

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