第29話

 自己紹介を済ませてからしばらく、セルリアはフェンリル達と話をした。彼が自分の足で体を包んでくれたので、寒さも感じない。父親なのに放り出されたままのロキはむくれていた。


 フェンリルはずいぶん昔からここに縛られていること。ヘルはこの小島に住んでいるのではなく、ニブルヘイムの大陸の方にあるニブルヘル、という北欧神界における冥界の女王であることなどを聞いた。


 なぜ二人共アースガルドではなくここに、と思ったが、その都度彼らの視線がロキに移り黙ってしまうので、聞いてはいけないことらしい。

 そんな話を続けていると、あっという間に時間は経った。一日話していれば、自然と関係も打ち解けたものになる。

 二人と仲良くなれて嬉しいと思っていると、不意にロキが名を呼んだ。


「ねえ、セルリア」

「はい、何でしょうか……ロキ、様?」


 振り返ると、彼は口の端を上げて笑っていた。その青い瞳は、以前塔の上で見たような冷たい光りを湛えている。

沸き起こる不安と恐怖を押さえ込み、何か気に触ることでもしただろうか、と問えば、彼は笑みを深くした。


「僕ね、知ってるんだ。君が、セロシアがどうして死んだか。誰に殺されたかも」

「え……?」

「知りたいかい?」


 笑うロキは、とても楽しそうだった。困惑するセルリアを見ることが喜びのようにも思えた。

 彼と視線が合わせられない。ドク、ドク、と跳ねる鼓動がとてもうるさい。


「……し、知り、たく……ありま、せん」


 ギュッと、うるさい鼓動を押さえつけるように胸を握って、セルリアは答えた。


「どうして?」


 あくまで軽い問いかけ。それなのに、まるで責められているように聞こえる。


「私は……っ!」


 握りこむ手に爪が食い込む。その痛みがないと、どうにかなってしまいそうだった。痛みで誤魔化しておかないと、自分の中から隠していたものが溢れ出てきそうで。


「『私は』?」

「っ、私、は……」


 青い彼の目は、もう何もかも見透かしているようだった。嘘なんて、ロキには通じない。

 唇が乾いて、声が掠れる。胸の辺りからドロドロとした気持ち悪いものが込み上げる。

 冷たくても、青く綺麗な彼の瞳を見ていられなくて、セルリアは俯いた。


「私、は……自分の中に怒りとか、憎しみがあるって……知ってます。それを持っている自分が、怖いんです……」


 死んだと知った時。セロシアがやり返すのだと言った時。『やめて』と言えなかった。いや、言いたくなかった。

 本当は、自分もセロシアと同じ。犯人が憎くて、仕方がなかった。


 犯人捜しについて行ったのもそう。本当は心のどこかで、『見つけて復讐したい』という思いがあったからだ。

 そんな思いがあるのを知っている。少し突けば溢れ出てくることも分かる。


「犯人を聞いて、私、そのあと何をするか分からないっ。この思いが外に出てきて、傷つけてしまうかもしれない! 少しずつ、自分が自分でなくなってしまうようで……っ」


 しかも、本当に嫌なのはそうやって壊れていくことではない。自分の醜い部分は他にある。


「誰かを傷つけるのが嫌なんじゃないんですっ。そうじゃなくて、私、わ、たし……そんな自分を、他の人に知られるのが嫌で……セロシアに知られるのが、怖くて!」


 何て傲慢で、何て最低なのだろうと思う。他者を傷つけるよりも、醜い自分を知られて嫌われるのが嫌だなんて。

 それでも、怖かった。自分を好いてくれる人達に、ずっと傍にいてくれたセロシアに嫌われて、離れていかれるのだけは耐えられない。


(セロシアにだけは、あの子にだけは傍にいて欲しい!)


 抑えきれない涙が、次々と頬を流れていく。

 ロキ達はこんな自分をどう思っただろう。呆れただろうか、嫌われただろうか。そんな思いが溢れて、体が冷たくなる。


 子供のように蹲ってしまったセルリアの頭を、近づいてきたロキはそっとなでてくれた。

 ビクリと体は反応するが、フェンリルに包まれているため逃げられない。そのまま彼は、優しくセルリアの涙を拭う。


 男性は怖いはずなのに、セルリアは不思議と息が乱れなかった。むしろ、手の温もりと柔らかく細められた青い目はなつかしくて、心地いい。


「ねえ、セルリア。それは抑えなくてもいい、当たり前の感情だと僕は思うよ」

「……ぇ」


 出した声は、泣いたせいか酷かった。それに苦笑しつつも、ロキはまた溢れる涙を拭ってくれる。


「必要なのは、抑えることでも爆発させることでもない。それも含めて自分を認め、もしもの時は止めることだ。一人でどうしようもないと思うなら、誰かに支えてもらえばいい」


 ロキの言葉に、セルリアは目を瞬かせた。何か言いたげなセルリアを見て。『でも』とロキは困ったように頭を掻く。


「僕もできてないから、あんまり大口叩ける身分じゃないけどね」


 ロキはセルリアの前に腰を下ろし、少し逡巡したあと、決心したような顔で口を開いた。


「僕はねセルリア。ラグナロクを起こそうと思ったことが……あるんだよ」


 あっさりと発せられた言葉に、セルリアは呆然とする。


 ロキは笑っていた。歓迎会の日に見間違いかと思ったあの悲しい笑顔だ。


「……う、そ」

「ホント。しかもその理由が『退屈だから』なんていう、とんでもない理由だ」


 最初は、自分の噂や立場など気にしていなかったと彼は言う。巨人族出身だろうが、運命の女神に予言されようが、『ロキが神々を滅ぼす』という事象は、一つの可能性にすぎない、と。


 ロキはアースガルドが好きで、生活にもそれなりに満足していたから。ここを壊すようなことはしない、と高をくくっていたらしい。


「でもね、フェンリル達が生まれて、災いになると捕縛されたり捨てられたりした時、僕は初めて神に怒りを覚えた。決定を下したオーディンを、憎んだよ……」


 なぜ僕達がこんな目にってね、と笑うロキ。それは紛れもない、自嘲だった。ここにいるロキの子供二人は、神々から疎まれたのだ。

 何も言えないセルリアの手をヘルが握って笑い、フェンリルは頬に鼻を摺り寄せた。


「怒って憎んで、他の神に当たりもした。でも、それでもラグナロクを、とは思わなかった」


 トールと旅する時。ヘイムダルをからかう時。オーディンと話す時。そんな時間が好きだった。あの世界の美しさが好きだ、とロキは笑う。その言葉に偽りはないだろう。


「でも、ある時。すごく暇な日々が続いてね。これ以上ないぐらい退屈だった。その時、僕はふと思っちゃったんだ」


 長く生きすぎたせいで、新鮮なことがなくなってしまった。そんな時浮かんだこと。



『ラグナロクを起こしてみたら、面白いかな』



「愕然としたよ。子供達のことでも自分のことでもなく。『退屈だ』っていう理由で僕は世界を滅ぼせるのか、てね。自分の思いに気がついて、怖くなった。今の君と一緒だ」


 セルリアは目を見開いた。目の前にいる、神という存在のロキ。

 彼は何でも器用にこなして、たくさんの知識を持っていて、自分などより、楽に色んな物を手に入れられる存在だ。その彼が、同じことに恐怖を抱き、悩んでいるなんて。


「それから必死に考えないようにした。じゃないとアースガルドから追い出されるかもしれないし。見捨てられてしまうかもしれない。退屈にならないように、前よりもっと悪戯したりして。がむしゃらに動き回ってた。でも……まだ何も解決してない」


 その闇はまだ自分の中に燻っているのだ、と彼は言う。認めることも、周りの者に分かってもらうこともしていない、と。


「僕も君と同じだ。でも、そんな自分も含めて君だし、僕だ。抑えて、否定はできるけど、見たくない一面かもしれないけれど、欠けてしまったら、それはもう『自分』じゃなくなってるんだと僕は思う」


 だから、抑えてしまわなくてもいいんだよ、とロキはセルリアの頬をなでた。


 ロキは強い、とセルリアは思う。

 自分の闇を見て、大切な人達を傷つける可能性も知って、それでも、その思いを持っていることも含めて『自分』だと言える。

 この答えを出すまでに、どれだけ苦しんだのだろう。

 今も、どれほど苦しいのだろうか。


「初めてだな。ここまで自分のことを話したの」

「……どうして、私に?」


 誰にも分かってもらうことをしていないのなら、ロキは親友のトールにも、ヘイムダルにも、義兄弟であるオーディンにも気持ちを吐露していないのだろう。なのになぜ、会って間もない、ただの従者の自分に言ったのか。


「セルリアが神ではないことと、僕と似てると思ったから。それに……何でかな」


 目の前に広がるロキの顔。子供のように無邪気な、けれどどこか大人の優しさを含んだその顔を見て、セルリアは何かを思い出しそうになった。

 昔、この笑顔と温もりを、貰った気がする。


「君といると、僕の暗いものが消えるような感覚になるんだ」


 ロキの青い瞳の奥には、どこか自分と似た苦しみがある。同じなのだと思った。


 セルリアは無意識の内に手を伸ばして、彼の頭をなでた。怖くは、ない。息も乱れない。

 ロキは一瞬目を見開いたけれど、すぐに心地良さそうに細める。そして、彼女の好きなあの青い色が、真っ直ぐにこちらを射た。


「セルリア。セロシアに嫌われたくないと思うなら。まず自分が自分を認めてあげなきゃ。難しいかもしれないけど、話を聞いても僕やフェンリル達は君を嫌ってないだろう? そういう者だっている」


 探るように二人に目をやれば、フェンリルは頷くように目を閉じ、ヘルは微笑んだ。


(ああ、この人達は受け入れてくれてる……)


 嫌われていないという安堵感が胸に広がる。


「セルリアが一番嫌いな自分を受け入れられるなら、セロシアだって受け入れてくれるさ。君の半身だろう? ゆっくりでいい。神人になった君に時間はたくさんある。ゆっくり自分を出して、認めてあげよう」


 その言葉が、再びセルリアの目に涙を浮き上がらせる。『目が腫れちゃうよ』とおどけて言いながらも、ロキはセルリアの気がすむまで泣かせてくれる。

 そしてその間ずっと、温かい手が涙を拭い続けてくれていた。

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