第28話

 突然どこかに出かけたかと思えば、突然帰ってきて、温かい格好をしなさいとロキに言われた。そのまま馬と騎獣に乗って走り続けている。


「ロキ様。どちらまで行かれるんですか?」

「ん? ニブルヘイムだよ。霧の国さ」


 『寒いの嫌いだから、あんまり行くことはないんだけどね』と笑いながらロキは答えた。

 言われるとおり、進めば進むほど周りの気温は下がってきている。かなり厚手の服を着込んできたが、それでも微かに体は震えた。


 しばらくして、真っ白い霧の中に突入する。さらに温度は下がったようだ。


「セルリア、降下するよ」


 ロキの言葉に手綱を引く。霧の国というだけあって、まったく晴れそうにない白い霧。少しでも遅れればロキを見失いそうだった。

 白の世界を降下し続けると、ようやく大地が見え始めた。大きな大陸と、大小の島々。どうやらロキは大陸の方ではなく小島に下りるようだ。

 土というより、凍った大地の上を黒曜に乗って駆ける。ぼんやりと見える周りの景色に、セルリアは唖然とした。


(何もない……)


 そこは、霧と暗闇に包まれただけの場所だった。木や花、草すらない。生き物の気配もない。

 南極や北極でもここより何かあるはずだ。

 静寂が耳に痛い。何もないのに、逆にそれによって不安がこみ上げてくる。


「あ、ヘルも来てくれてたのか」


 場にそぐわないロキの明るい声に顔を上げる。いつの間にか切り立った崖の間を進んでいた。二人並んで歩けないようなその道の奥に、少し広くなった場所がある。


(誰かいる)


 霧の向こうに微かだが影が見えた。とてつもなく大きな影と、小さな影。

 ロキが馬を止めるのに従って、セルリアも黒曜を止めた。


「ほらね、私の言ったとおりでしょ、お兄様。お父様が来るって」

「寒がりの親父がここに来るなんて、めったになかったから分かるわけねぇだろ! 明日は珍しく晴れるかもな」

「ちょっと、フェンリル。僕だってたまには会いに来るよ。父親なんだから」

「よく言うぜ。百年以上ぶりじゃねぇか」

(ロキ様のお子様?)


 子供がいるなどと聞いていなかったために驚いた。無意味にあった不安が薄れ、挨拶をしなければ、とロキの後ろから一歩横に出る。そして――


「ひっ!」


 目にした姿に、セルリアは凍りついた。気温などとは違う、恐怖による震えが体を襲い、そのままぺたんと座り込んでしまった。膝が言うことを聞いてくれない。


 目の前にいるのは、見たこともないほど巨大な狼。おそらく立ち上がれば自分の身長の何倍もの高さがあるだろう。幅も然り。

 灰色のふさふさした体を絹のような紐で縛られ、そこから繋がった鎖が地面に潜り込んでいる。大きな岩が上に置かれ、決して抜けないようになっていた。


「あ、セルリア大丈夫?」

「あら、どなたですの?」

「ああん?」


 ロキの言葉に、狼の赤い目がこちらに移った。その獲物を狙うかのような輝きに、嫌な汗が背筋を流れる。


「この子は、僕の従者のセルリア。セルリア、こっちが僕の子供でフェンリルとヘルだ」


 ロキの声をどこか遠くに聞いていた。とにかく彼の子供であることは間違いなく。この巨大な狼がフェンリル。もう一人、確認していないが女性の方がヘルという名なのだろう。


 セルリアは頭では挨拶を、と思っているのだが、体が動かない。フェンリルから目が離せない。少しでも視線をずらせば、そのままパクリといかれてしまいそうだった。

 このまま睨み合いか、と思った瞬間。フェンリルがのっそりと立ち上がり、そのまま、


 パクリ。


「っ!?」


 目の前が真っ暗になった。しかも何だか温かい。


「うわぁ! フェンリル何やってるのさ、食べちゃダメだって!」

「お兄様! 余計怖がらせてどうするんですの!?」


 焦った二人の声に、ゆっくりと下から景色が戻ってくる。恐る恐る見上げれば、大きく開けられた口とギラリと光る牙。どうやらこの中に入れられていたらしい。


「大丈夫ですか? お兄様がとんだ失礼を」

「い、いえ。だだ、だい……じょぶ、です」


 キィッと軋んだ音に顔を向ければ、車椅子のような物に乗った少女がいた。自分より外見年齢は下だ。けれど、ロキに似てとても美しい女の子だった。彼女がヘルだろう。


 普通の姿にホッと息を吐いたのも束の間、セルリアは妙なものを見た。

 ヘルは長いスカートを履き、車椅子に座った膝の上からストールをかけている。だが、そこから微かに除く足の色は、肌色ではない。青黒いとでも言えばいいだろうか。

 その視線に気づいたのか、ヘルは苦笑してスカートを少し持ち上げた。


「こ、これっ」

「ごめんなさいね。私の下半身は腐ってしまっているの」


 腐臭などはしないものの、間違いなく彼女の足は腐っていた。青黒い肉が見え、正常な色はどこにもなく、微かに骨まで見えている。

 呆然と目を見開いていると、『気持ち悪いでしょう?』とヘルが問いかけてきた。『そんなことはない』と咄嗟に言おうとして、フェンリルと同じ赤い色の目とかち合う。


(哀しい、色……)


 いつか一瞬見たロキの目と同じ。手の届かない奥底に揺らめく、小さな悲しみや苦しみが見える。

 その眼を見た瞬間、上辺や、飾りの言葉を言ってはいけない気がした。

 だからセルリアは呼吸を整える。そして、震えた声音でも、ヘルをしっかり見て言った。


「……はい。気持ち……悪いです」


 フッと諦めにも似た息がヘルから漏れて、セルリアはゴクンと唾を飲み込んだ。ロキ達の視線もこちらに向いているのが分かる。


「あ、あの、でも! でも……ヘル様が、嫌いなわけじゃ、ありませんから」

「……え?」

「だって、気遣ってくださいましたし。優しいですし、その、正直、腐敗した体を見たのは初めてで、だからっ、やっぱり気持ち悪いとは思ったけど、ヘル様自体を怖いと思ったわけではありません。ただ、見慣れなくて! ええと、だから!」


 自分でも何を言っているのか分からない、支離滅裂な言葉を勢いよく区切って。


「これからよろしくお願いします!」


 頭を思い切り下げて、失敗した、と後悔する。いくら何でもこんな台詞はないだろう。

 呆れられるか、怒られるか、どっちだろうと思った。だが、意外にも上から降ってきたのは楽しそうな笑い声で。顔を上げると、とても綺麗に笑うヘルの表情が映る。


「ええ、こちらこそ。よろしくお願いしますわ。セルリアさん」


 名前を呼ばれて、とても嬉しくなった。自然と笑顔が浮かんだその時、体に大きな物が擦り寄る。ふさふさした灰色の毛。フェンリルの鼻面だった。


「俺様がロキ神の息子、魔狼フェンリルだ。よろしくな、セルリア」

「は、はい。よ、よろしくお願いします!」

「怯えんな。お前は食いやしねぇよ」


 そのまますりすりと何度も擦り寄ってくるので、こちらも恐る恐るなでた。ふわふわした毛がとても気持ち良くて温かい。


「あ~、セルリア。フェンリルは一応、男なんですけど?」

「え? あ、でも狼さんですし。怖くないですよ」

「ちっ、動物型は許容範囲だったのか。ってことはヨルも大丈夫なんだ」

「ヨル?」


 夜、ではないらしい。何かの名前のようだと首を傾げると、ロキは二人の子を指した。


「その二人の兄弟。大蛇ヨルムンガンド。会わせてあげたいんだけど、ミッドガルドの海にいてね。あまり出てくると騒ぎになるし」


 今度は蛇らしい。もう何だか、どのような子供を連れてこられても大丈夫だと思った。


「ロキ様は、お子様がいっぱいいらっしゃったんですね」

「まあ、ね。あ~……あと、オーディンの馬のスレイプニルも僕の子だよ」

「お馬さんの父親でもあるんですか……」


 狼と蛇と馬。色々突っこみたい衝動に駆られたが、実際彼の子供がいる前で言うのは憚られた。せめてもと、不思議な主だしな、で片付けることにする。


 だが、彼はまだ仰天発言をする。


「ううん、他三人は父親だけど、スレイプニルは僕が母親」

「…………は?」

「は・は・お・や」


 ニコッと笑顔で、頬に指を置いた可愛らしいポーズで答えられた。確かに、彼は女性に変身して見せてくれたけれど。けれど。


(……これ以上聞くのはよそう)


 セルリアは無理やりそう結論付けて、曖昧な笑顔をロキに返した。

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