第二章
第11話
「セロシアさーん。回覧板でぇす」
「はいはいはい! 今行きます」
陽光の元、そんな声が響いた。
月曜日の朝。寝ぼけながら渋る夫と子共をそれぞれ送り、分別したゴミを表に出して、さあ洗濯だと玄関に入った瞬間ご近所さんの声。話し込んだら家事が遅れるな、と思いつつも近所づきあいだから仕方ないと――
「思うわけあるかぁ!」
手を使うのも嫌で、セロシアは思いきり扉を蹴り開けて外へ出た。
「うわっ、何ですかいきなり!」
目を見開いて立っていたのは、トール神の従者をしているという少年、シアルヴィだ。
彼は元人間だが、神話にも登場するぐらい昔の人。セロシア達のように訓練して従者になったのではなく、ちょっとした間違いから妹共々、人身御供のような形で従者になったという哀れな少年だ。それでもトールを敬愛しているのだから、いい子だと思う。
「まずは挨拶!」
「あ、えっと、おはようございます!」
「はい、おはよう。って、何度も言うようだけど、あたしの方が年下だから敬語は……」
「使わないと殺されそうなんで」
「いい度胸よね、あんた」
自分より低い彼の頭をグワシッと握る。シアルヴィがこういう口ぶりだから、彼が年上でもセロシアは敬語を使っていなかった。
「いだだだっ、は、はいこれ、回覧板!」
叫びながら手渡されたのは、まさしく『回覧板』だ。止め具のあるボードに数枚の紙。今後の宴会の予定や、どこを工事するだとか、果ては他の神への伝言が書いてあったりする。レイアウトもカラフルで可愛らしい。
「ねえ、最初に見た時から思ってたんだけど、何でわざわざ回覧板なの? 普通は魔法でとか、どっかで召集してとかじゃないの?」
「昔はそうでしたよ。でもいつからかオーディン様が、従者や近所との交流のためだって言い出だして……」
きっと人間界で見て面白そうだと思ったんだろうな、という予想をセロシアは立てる。
最初に回覧板が回ってきた時は、所帯じみた神界に唖然としてしまった。神様の住む場所にちょっとした憧れを抱いていたのも事実なので、がっかりしたものだ。
「でもセロシアさんが来てくれて助かりましたよ。以前は僕がヘイムダル様に直接手渡してたから、凄く気まずかったです」
そう言ってシアルヴィは帰っていった。彼は元人間のくせに人間外の脚力を持っているので、一瞬で見えなくなってしまう。
「ま、あの子が苦手になるのも分からなくもないわね」
セロシアの主は非常に無口だ。彼に回覧板を手渡すのも、彼から回覧板を手渡されるのも少し怖いだろう。
シアルヴィを見送り、勢いよく反転すると目の前の建物を見上げた。ここが今セロシアの住んでいる所。決して屋敷ではない。一目見てこれを評するなら、『砦』だ。
目の前にそびえ立つのは広範囲に広がる石の壁。しかもただの石ではないらしく、ちょっとした魔法などでは壊れないと聞いた。
名はヒミンビョルグ。最初にそれを聞いた時『貧民ビョルグ』と言ってしまったのは記憶に新しい。
『天の絶壁』『展望の見張り台』という意味にふさわしく、この神界、アースガルドの中でも一際高い所に、そして北欧神界への唯一の道、ビフレストの傍にある。
セロシアは回覧板を持って中に入った。やはりここの用途は砦なのだろう。灯り取りや、矢を打ち込む時の小さな隙間はあるが窓がない。そのため酷く暗いのだ。真昼でも照明がなければ歩きにくいし、寒い。
「部屋は魔法で明るくしたり温かくしたりしてるけど、やっぱ不気味よね」
回覧板と灯り、そして初日に手渡された杖を持ち、セロシアは別の出口へ向かう。主がいる場所へは中を通った方が早く着く。
セロシアの杖は二枚の花びらのような部分が開き、その中心に赤い玉がついていた。攻撃に特化した杖だという。防御系がさっぱりできない自分にはお似合いだ、と思った。
「えっと、ここから二つ目の角を右よね」
広すぎて、しかも複雑な廊下を何度も確認しながら進む。地図は予想通りというか、ない。ここに来てまだ一週間のセロシアは、同じような道しか歩けなかった。
(いつか絶対、地図を作ってやる)
密かにそう計画しながら歩みを進めたその時、ゾゾゾッと背後に悪寒を感じた。慌てて振り向けば、角に消える透けた服の裾。
「リベリアさんかな……いや、もしかしてアルシュロットさん?」
それは、ここに住んでいるはずの先輩従者の名前。しかし、セロシアはまだ会ったことがない。
何でも二人は人間だった頃酷く辛い人生だったらしく、今も他者とは交流を持ちたくないそうだ。そのため肉体を貰わず、誰とも接しない屋敷の中の仕事だけをしている。以前、シアルヴィが主に直接回覧板を渡していたのはそのせいだ。
「ああ~、もうやだ!」
気配はするのに存在が見えない。そんな曖昧な状況が嫌だし怖い。
セロシアは駆け出した。掴めない、見えない存在より、幾分かは主の方がマシである。たとえ、まったくコミュニケーションができないとしても、だ。
ようやく見えた扉を突撃するように開け、外に出るとそのまま全速力で走る。
「ヘイムダル様ぁ!」
眼前に見えるのはアースガルドを囲う城壁と巨大な門。その隙間を猛ダッシュで走り抜け、セロシアは砂埃を上げながら止まった。
ハァハァ、と息切れしながら顔を上げると、黒衣の彼と目が合う。
片手に槍を携えたままの直立不動の姿。彼は少し怪訝な表情でこちらを見ていた。だが声はかけてこない。
「か、回覧板です」
整わない息のまま差し出すと、彼は何も言わず受け取り目を通す。喋れないわけでも、喋らないわけでもない。無論、言葉を知らないわけでもない。
この目の前の男性。セロシアの主、門番ヘイムダルは、寡黙というかコミュニケーションを知らないというか、会話というものをどこかに捨ててきてしまったらしい。
初めの頃、と言っても一週間前だが、聞いているのか分からないので軽く殴ってみた。すると、非常に剣呑な目つきと、ちょっとした怒りをのせて『聞いている』と低く言われた。
門番をやっているだけあって腕に覚えはあるのだろう。放たれた殺気はきっと微々たるものなのに、体が固まって動けなくなった。
思い出しながらようやく息が整う。すると目の前に、ずいっと回覧板が返された。
「もういいんですか?」
目線だけで肯定された。本当に会話を知らない奴だと思う。
「次に回しますね。あ、昼食もここですか?」
神に食事は必要ない。北欧神は数ヶ月に一個、イドゥンという女神が作る『黄金の林檎』を食せば問題ないらしい。ただ食欲はあり、空腹も感じるので気が向いた時に食べるそうだ。
逆に、神人は食事を必要とする。未だ神籍に名を連ねただけの状態では、林檎のみで栄養が採れない。特に元人間はそれが顕著だ。だから食事もする。その主となった者はつき合いで食べているのだ。
門番たる彼は用事がない限りここを動かない。だから、返事がないのを知りつつそう聞いたのだが――
「ああ」
珍しく答えを返され驚いた。一言でも彼が言葉を発するのは貴重だ。何せセロシアは、この一週間で彼と交わした言葉を全て思い出せる。それほどに回数が少ない。
「わ、分かりました。じゃあ行ってきます」
「明日は出かける」
突拍子もなく言われて、セロシアは踏み出しかけた足を止めた。返事もしないかと思えば、突然何かを言う。やりにくい相手だ。
「お前もだ。騎獣の用意をしておけ」
騎獣とは従者に与えられる移動用の獣のこと。セロシアは巨大なパンサーだった。
「えっと……どこに行くんですか?」
「ヴァラスキャルヴ」
彼はそう言って見張りの状態に入ってしまった。もうこれ以上は答えないということだろう。
セロシアは知らず深い溜息をつくと、『了解です』と答えて歩き出した。
今日は快晴。気温も高いわけではなく、とても過ごしやすい気候だ。けれど、その天気とは裏腹にセロシアの気分は重い。
「セルリアに会いたい……」
一週間、仕事に慣れるのと忙しさで一度も姉に会っていない。とても変な気分だった。
セルリアとはずっと一緒にいた。生まれる前からずっと。捨てられた時も、新しい家族を得た時も、その家族を失った時も。自分の横にいるのは間違いなく片割れだった。
それなのに、今隣にいるのは掴めない男性。しかも神という違う種族。同じようにセルリアの隣にいるのも自分ではない。知らない奴が、しかもセルリアの苦手な男が、あの子の隣にいるのだ。
(傍にいるのは、あたしの特権なのに)
悔しい。嫌だ。
神界は平和だ。でも『もしも』の時、彼女の傍にいられないことに不安がつのる。実際、その『もしも』が起こりセルリアは人間としての命を落としている。もうあんな後悔はしたくない。
「あの子は、あたしが守るんだから……」
そう、ずっと昔に決めた。あの子が笑っていられるように守るのだと。あの子が傷つかないように守るのだと。そして、誰かがセルリアを傷つけるのなら。
「絶対、許さない」
どんなに泣き叫ぼうが、許しを請おうが、許してやるものか。彼女を泣かせた者にはそれなりの罰を。だからこそ、セロシアは見つけなければならない。
「必ず、探し出してやる」
自分達を殺した、セルリアから命を奪った愚か者を。
降り注ぐ明るい陽光。それとは真逆の黒い感情が、セロシアの中には渦巻いていた。
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