第10話

『お前のところの問題児が、自ら従者を採ったそうだな』


 新人従者が訪れた時のまま、椅子に頬杖をついていたオーディンはその声に目を開けた。とはいっても片目だけだ。もう片方の目は気も遠くなるような昔に捨てている。


「ゼウスか」


 目の前に初老の男。その体は透き通っており、実体でないことが分かる。

 セルリア達がいたなら、彼が以前、自分達を神人候補にした者の一人と同じ出身だと気づいただろう。

 その服装はまるで彫刻が着ているかのような物。その姿はギリシャ彫刻などでよく見られる物。そう、彼はまさにそのとおりの――


「ギリシャ神界の主神が暇なことだな。何の用だ」


 お爺ちゃん口調はなりを潜め、オーディンは苦笑するもしっかりとした声音で喋った。


『これは怖い。酒飲み友達に会いにきてはいかんのか?』

「ならば酒が飲めるように実体で来い。ついでに秘蔵の酒でも持って来い」

『それがなぁ、最近ヘラ……妻が出かけることを許してくれん』

「お前が出かける度に浮気するからだろう」

『出かける度にナンパをしているお前に言われたかない』


 ああ言えばこう言う。言っていることは皮肉だが雰囲気は悪くない。旧友と親交を温めているかのようだ。


『話を戻すが、ロキが従者を取ったというのは事実なのか?』

「ああ。セルリア・ディオル。ギリシャ出身で、最終国籍は日本だそうだ。実際の親に捨てられ、六歳の時に双子の妹共々、日本の夫婦に引き取られた。だが十二歳の時にその夫婦も亡くなり孤児院生活。十六になってから遺産で高校に行き、孤児院にも住み込みのバイトという形で留まっていたようだ。そして殺され、神人になった」

『これはまた、複雑な素性だな』


 フッラに聞かされた彼女達の大まかな素性。人間にしては波乱万丈な人生だったようだ。


『それで、なぜ彼女を従者に?』

「さあな。だが珍しいことに、あいつが傍に置くと自分から言い出したそうだ。しかも、一年しか待たんと我侭を言いおってな」


 その我儘の犠牲になったのは、養成学校の教師をしているフッラだ。基本的な知識や魔法をどうやって一年で教え込むか、毎日ヒイヒイ言いながら頭を掻きむしっていたものだ。


『あいつがね。ふらふらと色んな女を渡り歩いて、結局、最後は一人を望んだあのロキが、か。それは面白い』


 クッと笑うゼウスは、まるで何かを見透かしたように口元を歪める。オーディンはそれを見ながらイラついたように指をトントンと動かした。


「他人事だと思いおって。ロキは難しいんだぞ」

『それは分かる。うちにも問題児はいるからな』


 しみじみといった風に溜息をついたゼウス。その時――


『ほぉ、それはもしかして、俺のことか? ゼウス』


 突然降ってきた声に、オーディンは顔を上げた。中空に一人、足を組んだ格好で浮く少年がいる。

 くすんだ色の金髪を緩く三つ編みにし、仄黒い紅の瞳でこちらを見つめている。まさしく少年だ。人間で言えば十歳くらいの外見だ。

 ゼウスを見やれば、その少年を見ながら冷や汗を流していた。髭に隠れた口元は、かなり引きつっている。


『や、やあハデス。久しぶりだな~。相変わらず子供の姿をしてるのか?』


 実際そこにいるわけではないというのに、ゼウスはハデスと呼んだ少年から距離を取った。


『この方が亡者共も気を緩めるんでね。それで、さっきお前が言っていたギリシャ神界の問題児とは……俺のことか?』


 仄暗い紅の目が、怪しい光を灯す。


『は……ははは、何のことやらさっぱり。ではわしはこれで! またいずれ会おう、オーディン!』


 引きつった笑いと同時にさらに後ろへ下がり、ゼウスは一瞬で姿を消した。

 ギリシャ神界の主神が、見た目十歳程の少年に気圧されているのは酷く滑稽だ。まあ、この少年にしか見えないハデスは、ゼウスの兄でもあるのだけれど。


「相変わらず弟を虐めて楽しんでいるのだな」


 ゼウスが消えた辺りを見つめて問うと、ハデスは鼻で笑った。


『虐める? そんな大そうなものじゃない。あいつと話すことに、特に意義を見出したことはないからな』


 オーディンは溜息をつきながら彼に視線を移した。透けた体で宙に浮く彼の目には、明らかに見下したような色がこもっている。


「ギリシャ神界の神は、まともな姿で訪ねてこんのか?」

『俺の立場を忘れたか? 仮にもギリシャ神界の冥府の王だぞ。めったに居を空けることはできないのさ。それに、お前にわざわざ実体で会う必要もないしな』


 冷たい物言いと視線。なぜ彼がギリシャ神界で冥界を任されているのかよく分かる。

 本日何度目かの溜息がこぼれると、ハデスは『ところで』と言ってオーディンの前へと降り立った。


『ロキが自ら従者を採ったって? 今まで長くて半年しかもたなかったあいつが。本当か?』

「ああ。あいつが自分で選び、決めた」


 ロキとてこの北欧神界の有力神。今までに従者になった者は何人もいる。だが一年もった例がない。従者の方は頑張ろうとしているのだが、ロキが辞めさせるのだ。


『自分からその娘を選んだのか。面白い』

「引っ掻き回すなよ、ハデス。ロキが望んだことを壊すような真似はするな」


 ギッと片目で睨めば、彼は嘲笑うように鼻を鳴らした。


『はっ、今さら偽善者ぶるなよオーディン。ロキの望んだこと? 違うだろ。ロキが誰かを傍らに置くのはお前が望んでいたことだ』


 オーディンはピクリと眉を上げた。その様子すら面白そうにハデスは続ける。


『あいつが傍らに、あいつの大切な者を置く。そうすればそいつと一緒にいられる場所、この神界をあいつは壊すようなことはしないと。ラグナロクは……北欧神の滅亡は起こらないだろうと考えた。違うか?』

「……戯言を。ラグナロクは人間が作り出した空想の産物だ。我らには関係ない」

『確かに神話は人間が作った物だ。実際、神話の中じゃロキと天敵のはずのヘイムダルとは、結構仲良いみたいだし? だが、ロキの中に闇があるのもまた事実』


 可能性が消えることはない。彼の目はそう言っている。


『お前はセルリアという娘を利用するつもりなのさ。彼女の双子の妹を招き入れたのも計画の内なんじゃないか? もしラグナロクが起こっても、妹に危害が及ぶことを嫌がる娘が、ロキを止めるかもしれない、と』

「全て推測だ。双子の妹を従者にと選んだのはヘイムダル自身だ。それに、あのセルリアという娘がロキの大切な者になり得るか? 彼女が妹を裏切らないという保障があるか? 誰にも分からんさ。スクルドは未来を予言するが、それは数多くある内の一つでしかない。変わる可能性とて出てくる」

『そう、だからこの計画も、お前の考えの一つでしかない。失敗に終わればまた別の計画が、ってとこだろう?』


『大変だね、主神様は』と、ちっとも労わる心をこめずにハデスは言う。

 彼のふざけた様子に、オーディンは片手を挙げた。その手に、突如として槍が現れる。細く形のいいオーディンの武器。グングニル。


「貴様はラグナロクが起こることを望む、という口ぶりだな」

『別にラグナロクでなくてもいい。どこかで誰かが大量に死ねば、その分冥界は賑やかになる。退屈しのぎになるんだよ。ま、今回のことも楽しく見物させてもらうよ。ロキの友人としてな』


 フッと、現れた時と同様、突然掻き消えるハデス。

 静まり返った部屋に、オーディンは槍を消した。ハデスは実体で来ていないから当たらない。そんなことは分かっていたはずなのに、怒りのあまり手にしてしまった。ずいぶんと遊ばれたらしい。


 ふうっと息を吐き、彼は椅子に深く腰かける。

 この椅子にも名はある。フリズスキャルブ。『展望台』という意味だ。これに腰かければ、北欧神界系列の世界と現界はどこでも見ることができる。

 閉じた瞼の裏に映像が浮かぶ。砦のような館に呆然とする双子の妹の方。神界の様子に感嘆している姉の方。どちらも、これからの暮らしに対する不安と期待が見て取れる。


「この世界は私が創りあげたもの。失うことは怖い……」


 ゆっくりと瞼を開け、オーディンはその揺らめく色の隻眼で虚空を睨みつけた。


「ロキ、お前はどうしたいのだ?」


 誰も聞いていない言葉。それは、どこか苦しげに静寂の部屋に響いた。

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