第8話
「七時……」
広間の時計はその時刻を告げた。
セロシアが主に連れられて行ってから二時間。指定された時間はとうに過ぎているのに、セルリアの主はまだ来ない。
雨は降り続き、時折耳を塞ぎたくなるような轟音が聞こえる。雷だ。
「やだ、な……」
雨の日。特に雷が鳴る日は嫌いだった。怖くてたまらないのだ。
いつもならセロシアか孤児院の子が一緒にいてくれる。けれど、ここには誰もいない。気配すら感じない。
怖い、もう一度そう思った瞬間、轟音が耳を劈いた。
「きゃあ!」
酷く大きな音だった。しかも微かに足元が揺れている。もしかしたら近くに落ちたのかもしれない。
耳を塞いだままセルリアは蹲った。
「もう、嫌っ……」
きつく瞑った瞼の向こうで、古い思い出が蘇る。
あの日もこんな雨だった。雷が鳴り出していた。
振り出した雨粒に濡れた地面と草。空に走った雷光に照らされたのは、見開いた目で虚空を睨む男の――
「っ! やだぁ!」
セルリアは浮かんだ映像に震え立ち上がった。耐えられなかった。誰かに傍にいて欲しかった。誰でもいいから。
そう思って足早に扉に向かう。ここで待っていろと言われた気がしたが、守る気にはなれない。怖い。
(誰か……っ!)
誰でもいいから人を探そう。怖さを振り切って扉に手をかけようとした刹那。バァンッと悲鳴をあげながら開いた扉が、セルリアの鼻先を掠めた。
「あんのクソ馬鹿単細胞トール! あの程度のからかいでミョルニルを出すか普通!? しかも二時間も追いかけやがって。おかげでこっちはびしょ濡れで遅刻……あれ?」
目が合った。
ボタボタと髪や服から雫を滴らせる男性。外見はヘイムダルと同じ二十代半ば。ずぶ濡れの酷い格好だが、それすら美しさを際立たせる材料として使っているように見えた。
頬に張りついた金の髪はまるで輝いているようで、顔立ちや体つきは計算されたかのように整っている。そしてこちらを見つめてくる青い目に、セルリアはなぜかなつかしさを覚えた。
昔見ていた、どんな青よりも美しいと思えた、ギリシャのあの海の色。
体や心を取り巻いていた恐怖心が、静かに消えていく。
「綺麗……」
無意識に唇から漏れた。その言葉でも足りないと感じる。もしかしたら、この目の前の男性を表現する言葉は、この世界のどこにもないのかもしれない、とすら思えた。
「可愛いお嬢さんにそう言っていただけるとは、光栄だね」
「はぅ!?」
突然、鼻と鼻がくっつきそうなほど近くで笑われ、セルリアは倒れこみそうになりながら数歩下がった。その様子を見ながら彼はクスクスと楽しそうに笑っている。
「長い間待たせて悪かったね。僕がロキだ。君は……」
「は、はいっ。こ、今度従者にさせていただいたセルリアです!」
ようやく正気に戻ったセルリアは、先程のセロシアと同じように慌てて頭を下げた。
「うんうん。礼儀正しいし、成長したね」
「はい?」
「こっちの話さ。これからよろしく」
近づいて差し出された手。その瞬間、セルリアは反射的に身構えて一歩下がった。
「………………」
「………………えっと」
妹達とは違った気まずい空気が流れる。
ロキは微かに目を細め一歩近づいた。合わせてセルリアが一歩下がる。ロキが二歩近づく。セルリアが二歩下がる。
一瞬の間。
ロキは大股でセルリアに歩み寄る。セルリアは小走りでその分下がった。二人の間は約二メートル。まったく埋まらない。
「ねえ、もしかして誘ってる? 逃げられると逆に追いかけたくなるんだけど」
にこやかに笑われながら言われて、セルリアは一瞬で血の気が引いた。
「ちちちち違いますっ。さ、誘ってなんかいません! そんな馬鹿なことしません!」
「うわ、それちょっと傷つく」
「ご、ごめんなさいっ。で、でも私、男の方がダメで……っ」
「え?」
縮こまってしまったセルリアの耳に、呆気にとられたロキの声が入った。
「あの、男性恐怖症というか……ものすごく近くに来られたり、触られたりすると過呼吸状態になってしまって……」
すみません、と小さく謝罪すると、ロキは何か考え込むように顎に手を当てた。
当然だ。仕えるロキは男神。その彼に従者が近づけないとなると、できることが限られてくる。
いらない、と言われてしまったらどうしよう。そんな不安がよぎった。
「変だな。あの時はそんなことなかったのに」
「え?」
「いや、何でもない。じゃ、これならどう?」
パチンと、軽く指を鳴らす音。何事かと顔を上げて、セルリアは固まった。
「こっちなら何とかなる?」
目の前にいるのは、まさに絶世の美女だった。聞こえる声も先程より高い。
服装は変わらないのに、顔つきや腰まで伸びた髪、線の細さ、付け加えては胸の膨らみも、間違いなく女性のそれ。
「……へ? えっと、ロキ様……ですよね?」
「そうですわよ。私、妹とかいませんもの。正真正銘ロキですわ」
悪戯な笑みを浮かべながら口調を変えるロキ。それがまったく違和感のないものだから、余計に困惑する。
「ごめんごめん。僕は魔法の中でも変身が得意でね。なろうと思えば動物から女神にもなれる。オーディンみたく人間になることはできないけどね。で、この姿なら大丈夫かな?」
スッ、と女ロキが手を伸ばす。だが、セルリアの体は拒絶するように下がってしまった。
「ご、ごめんなさい。やっぱり元が男性だと分かってると……」
「う~ん、僕は男性と断言はできないんだけど。でも無理か~」
「す、すみません。やっぱり他の人に……」
代えていただいた方が、とセルリアは言おうとしたが、それをあっけらかんとしたロキの声が遮った。
「ま、何とかなるでしょ」
「……え、で、でもっ」
「日常生活の仕事でそんな近づくことってないし。書類の受け渡しなんかは机越しでできる。先は長いんだ。その間に慣れていくんじゃない?」
元の姿に戻りながら、そんな希望的観測を言われてしまった。
確かに、神人となったセルリアにとって時間は十分すぎるほどある。いずれは触れられるようになるかもしれない。しかし、それがいつになるかは分からない。
(神様って、寿命と同じぐらい気も長いのかな……)
服などを魔法で乾かしているロキを見ながら、セルリアはそう思った。
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