20 『オーク 上』

 有栖とオークの彼我の距離は目測で十メートルもない、至近距離と言える。

 その間にはちょうど息絶えた可多理の死体がうつ伏せで倒れている形だ。


 有栖の後方に続くダンジョンも、視界に映る範囲では分かれ道が確認出来ない。

 ずっと一本道はないにしても、そこまでは直線上の通路を行かねばならないだろう。


 ……投石されたらやばいな。ジグザグに走っても、この通路の幅の狭さじゃあんま効果的じゃねぇ。それに──俺はこいつを倒すことを考えなくちゃならねぇんだ。


 有栖の所持品に武器らしい武器はない。

 服装は聖衣である白色ローブ、その下に着込んだこれまた純白のワンピース。

 数少ないポケットには、可多理の日記と綺麗な石ころが詰め込まれているが武器にはなるまい。

 有栖如きが投石をしたところでキャッチボールにしかならないだろう。

 また右手に大事な群青色のカツラを引っ掴んでいる。


 対するオークは、何よりもその巨体と右手に握る豪奢な剣エクスカリバー(命名有栖)だ。

 分厚い脂肪と筋肉の塊から繰り出される斬撃は、有栖を縦に真っ二つにしても余りある威力を持つに違いない。

 尤も棍棒であったとしても有栖が即死なのは変わりないだろうが。

 逆に考えればオークがたとえ如何な業物を手にしていたとしても、威力に関して考えなくて良いメリットがある。

 だからと言ってどうという話でもないけれども。

 

 ……つっても……俺を楽に殺したりはしなさそうだな。……良いことじゃ、ねぇけど。

 注目すべき点はオークの股間部分の方のエクスカリバー。

 腰に巻かれたボロ布が、卑猥なことに盛り上がっているではないか。

 あちらも臨戦態勢らしく、有栖は背中にゾッと怖気が走った。

 冗談ではない。オークに盛られるのは女騎士だけで十分だ、という有栖の身勝手な言葉を心中で吐く。

 

 このように一通り状況把握を済ませるまで、一秒と経っていない。

 脳が激しく唸りを上げて回っている感覚は心地よく、そして焦燥感に炙られる。

 脳は回り、様々な可能性を予測する。

 だからこそ、あらゆる抵抗が無意味と次々に判明していき焦りが生まれていた。

 生き残る可能性はゼロを弾き出し、況してや勝利するなどという可能性など尚更だ。

 だが──そんなことは身に滲みて知っている。


 万に一つの活路さえあれば良い。

 無茶でも構わない。

 いや最早、活路を見出す可能性があれば。


 そうだ、俺にはもう一個頼りに出来るスキルがあった。

 想起するとすぐさまその、与えられた神のスキル『心眼』を起動。

 直後、有栖の双眸が黄金に蝕まれる。


 一度も心眼をヒト以外に使用したことがないため効果があるかは不明だったが、試さない理由はない。

 『心眼』の説明文には「視界範囲内の、精神を宿した者の心を識る神託の力」とある。

 モンスターとは言え、精神が存在していない訳ではないだろう。

 これが文字通りならば、オークの内心を読み取ることが出来るはずだ。

 

 そして視界の真正面に立つ醜悪なモンスターを凝視したところ──。


 

 〜〜〜〜〜〜〜〜


 ◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎ Lv24

 年齢:──

 種別:下級悪魔種

 

 HP体力:1050/1050

 MP魔力量:9/10


 STR筋力:850

 DEF防御力:986

 INT知力:6

 AGI敏捷:41

 DEX器用:3/100

 LUK幸運:26/100

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜


 視界に記述されたのは、恐らくオークのステータス表示だろう。

 人体ではありえない偏り具合の能力値と、『虚飾』の説明欄と同様の塗り潰された名称欄が目に付く特徴だろうか。


 それにしても、疑問が浮かぶ。

 心眼は単純に相手の心境を表示するだけの能力のはずである。

 何時も有栖は相手が自らのステータスを確認するよう差し向けて盗み見ているのだが、今回はまた違う。

 心眼でオークを認めた途端、このステータス表示が現れたのだ。

 まるでずっと自らのステータスを表示したままだったかのような違和感があった。


 だがモンスターの性質なのか否かは、現状において二の次以下だ。

 一つ重要な要素は──このステータス表示には突破口がないということ。

 結論、心眼使えねぇ、という奴だ。

 加えて、そう親切なオークではないらしく。



「オオォォ……」


「……考える暇は……ないって訳かよ!」


 

 こちらへと突進の兆候を見せるオークへ、咄嗟に有栖は纏う白ローブを投げた。

 同時に手を空けるため、カツラも通路脇に投げ捨てる。


 空気抵抗を受けてローブは広がりオークの視界を奪う。

 時間稼ぎの目眩しか、何らかの策の合図なのか。

 答えは前者であり後者。予想外の行動をとることで、意表を突くのが狙いだ。

 

「オオオオォォォ────!」

 

 無論、そんな物で獣は止まらない。止まるはずがない。

 一瞬、突然の視界狼狽したのか怯んだものの、数秒後には肉の巨体はローブに猪突して打ち破る。

 大した時間稼ぎにもならない。二、三秒程度では考え事するにも足りなさすぎる。

 だから違う。狙いは僅かな思考時間を得るためではない。

 

 有栖はローブを投げ飛ばすと同時に駆け出していた。

 背後にではなく、道幅の横をオークと擦れ違う・・・・ようにして。

 

 咄嗟に物が迫り来た場合、人は反射的にそこに注目してしまう。

 視界範囲外では話は別だが、ずっと凝視していた相手が繰り出してきたならば実に効果的だ。

 衆目を一点に集中させ、その裏で小細工を施す奇術師の技術に似ている。


 だが先述の通り道幅は狭小だ。

 大柄なオークと壁との間隙を抜けるには、小柄な体格の有栖でさえ精一杯である。

 加えて──目算で計れてはいたが。


「…………っ!」


 道端には朽ちた異世界人の多種多様な遺留品が転がっている。

 足の踏み場に困る道筋は、少女の短い手足では躓かぬことが難しい。

 

 一度転倒するなど派手な動作をしてしまえば、束の間欺いたに過ぎないオークに気付かれてしまう。

 あまりにリスキーな方法だが、有栖にも考えはあった。

 

 走りながら有栖は行く手を遮る、折れた銀色の剣──その柄を右手で握る。

 重量は思った程ではない。

 有栖の華奢な身体でも、持ち歩ける程度のようだった。


 そして渾身の力を脚力に変換し、肩身を縮めながら、足元の骸を飛び越える。

 駆け抜ける有栖はオークと擦れ違う直前に風を感じた。

 まるで速度を緩めない大型自動車が真横を通り過ぎたような──圧力を感覚する。


 それは本能的な恐怖を喚起させる。

 けれどそれを噛み潰し、嚥下し、前を見据えて────遂に、二つは交差した。


 闘牛の如き突撃をするオークの背後に回ったのだ。

 激しく切り裂かれた扉から逃げ出したくなるが、奥歯を噛み締めて我慢する。

 今、逃げ出したところでジリ貧なのだ。

 初見で撒けたのは、棍棒で打破不可の扉に遮られたから。

 そんな施設がこの他にあるとは考え辛く、また巡り会う幸運は望むべくもない。

 眼前の好機に飛びつくだけでは後がない。


 有栖は右踵を軸にして身体を反転する。

 それで僅かばかり残った逃走への未練を断ち切った。


 突進したオークの勢いで、ひらりとローブは腕に翻り、巻きついたのを背後から見る。

 オークは視界が開け、白濁したギラ付いた眼で周囲を捜しているようだが……当然、位置が入れ替わった有栖はオークの前方にはいない。


 目標物が眼前から消失した場合、人であろうと獣であろうと致命的な『焦り』を生む。

 例えば、圧倒的格下の背後からの強襲を無防備に受けてしまうような。

 そんな、絶好の隙。


 ──オークの弱点は人体と同様に首元、もしくは心臓部を貫ける胸部。

 今まで警戒し続けていて、書物から情報を得ていた有栖はそれを知っていた。


 腕利きの冒険者は首を刎ねて討伐する。

 だが有栖の跳躍力では首には如何にしても届きはしない。

 ならば、狙う場所は……と有栖はオークに駆け寄って。


 ……死ね、このクソったれぇ!

 息巻いた有栖の叫びは心中でだけ。

 迂闊に声を上げれば不意打ちの意味がなくなってしまう。


 有栖は精一杯飛び上がり、両手で振り上げた折れた銀の直剣を、灰色の塗り壁じみた柔そうな肌に突き立てる。

 背中を、胸部を後ろから貫くようにして。


 鋭利な刃がずぶずぶと生肉を刺す感覚。

 それは鳥肌が立つほど気持ちの悪いモノ。

 けれど無視して、刃先が心臓に達するよう、渾身の力を入れて突く。


「────ォッッ!?」


 短い野獣の悲鳴が上がる。

 不意打ちに於いて一撃必殺は必定だ。

 そうでなければ不意打ちの優位性は消失してしまい、また状況は振り出しに戻る羽目になる。

 だからこその全力だった。

 だからこその速攻だった。


 ……な、んとか。上手く行ったか……。ここまで狙い通りになるとは、思わなかったけど、なっと。

 銀の直剣にぶら下がる形となった有栖は、オークの背を両足揃えて蹴って後退し、モンスターから距離を置く。

 突き刺したままの直剣の部分からドス黒く、紅い液体が溢れ出していた。


 断末魔のような音を発した後、モンスターは微動だにしない。

 余りにあっさりだったが、オーク退治を成し遂げたのか。

 やったか、という奴だ。


 思い通りに動き、やり遂げたはずの有栖の顔色は、しかし真っ青に変わる。

 その所以は至極単純。


 心眼を起動して、判然とした。

 


 〜〜〜〜〜〜〜〜


 ◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎ Lv24

 年齢:──

 種別:下級悪魔種

 

 HP体力:1021/1050

 MP魔力量:9/10


 〜〜〜〜〜〜〜〜



 一撃どころか、あの不意打ちを五十回程喰らわせなければならないようだ。

 現実はクソったれであった。


 そして──。



「ッ!? オオオオォォォォォ──ッ!!」



「まずっ……!?」



 咆哮。

 怒気を孕む、圧倒的な音量の『力』。


 それは聞く弱者を遍く平伏させるだけの威圧を持っている。

 有栖は、思わず立ち竦んだ。

 一撃必殺に失敗したのは明白なのだから、一旦出来得る限り後退しなければならないのに。

 全身が震えを発していた。

 だがそれは有栖が容易く他人に気圧されるほどのチキンハートだからだけではない。


 言わばそれは生物的な本能のような物だ。

 脳が、全身が、格上を前にして『死』を警告しているのだ。


 ────このままでは、死ぬだけだと。


 鮮血が流れる背中を物ともせず、オークは勢い良く此方へと矛先を向け直す。

 振り向く顔は般若の如く、禍々しく歪んでいた。

 少なからず傷を負わせたせいで敵視されたようだが、命を奪うに足る大怪我をした様子は何処からも窺えない。


 ……クソったれが! 全然効いてねぇってのかよッ!

 愕然とする有栖は思わず吐き捨てる。

 予想以上に分厚いオークの脂肪と筋肉によって、刃先が致命傷に至るのを阻止された。

 元長剣としては中途で折れて短かったとは言え、十分な刃渡りはあったはずだったのだからそうとしか考えられない。


 ──なら……俺は。

 皮膚下の防御が剣を通さぬほど堅固なら、更に有効な攻撃手段が乏しくなる。

 この場に転がる武器になり得る物体のうちで、銀の直剣以上のモノは見当たらない。


 いや、一つあるか──でも、あれ・・は……無理だろ。

 確かに通用するだろうモノはあるのだが、現実問題として不可能に近いだろう。


 尤も、獲物に悩む場合ではない。

 今現在、有栖はオークの獲物・・になろうとしているのだから。


「オオオオォォォォォ──ッ!」


 はっと有栖が意識を現実に戻すと、猛るオークが豪奢な剣を振るおうとしていた。

 大袈裟な振り方に身体が強張る。

 無論、剣先は有栖に届きはしない。


 ただオークは感情のままに剣を振るっているだけだ。きっと何の意味もない。

 豪奢な宝剣は豪快に空を切る。

 切っ先に当たった岩肌を砕き、纏わりつく白ローブも振り払い、幾度も、幾度も、空気を切る、斬る、鋭利な音が連続する。


 あの剣は白扉を紙のように容易く破く大業物なのだから、無駄に振るう必要などないのだが。

 豚に真珠、有栖に権力。それら熟語に通ずるものがある。


 だが力とは正義だ。力こそパワーだ。

 粗暴なまでの剣の嵐は、それを正面に捉える有栖にとっては脅威以外の何者でもない。

 今度は目眩ましも見当たらない、オークの脇を抜けることは出来ないだろう。

 だから有栖は以前白扉が隔てていた後方へと逃げるしかなかった。


 結局、最後は逃走を選ぶことになるのか。

 決意が現実的な壁に、力量差に徐々に綻び、砕け散りそうになる心地がした。


 妥協してはいけない。

 自分に一度でも甘くしてしまえば、後は何処までも折れ続けてしまうだけなのだから。

 それがどんな必然による物でも、絶対に決意を揺るがせてはならなかったのに。


 戦略的撤退を強いられた有栖は、一目散に逃げていこうとした。

 無論、後ろ向きで走るとオークに追い付かれる恐れがあるため、背を向けて。

 


 

 瞬間、真っ赤な灼熱が左肩を襲う。




「──────あ?」

 



 視界の半分が紅に染まる気さえした。

 有栖は顔の真横をかの剣が回転しながら過ぎ去り、ダンジョンの壁面へと突き刺さる。

 オークが剣を投擲したのだ、と遅れて気づいた。

 痛みと共に。


「ああああ」


 経験を遥かに超える、痛み、痺れ。

 血液が異様な熱を帯び、全身を回り、鼓動と同期してどくりと溢れていくのを感じる。


 石とは勝手が違ったのか肩口を切り裂かれただけ──殆ど切断されていたものの、腕は未だ繋がっているらしい──だったが、少女の身体には耐え難い苦痛だった。

 演技の化粧が剥がれ落ちてしまう程に。



「あああああああああああ─────っっ!?」


 

 気が付けば有栖は、甲高い、紛れもなく少女の悲痛な声を上げていた。

 こんな喉が張り裂けるような声は、あの憎たらしい神の前以来だった。

 あのときは──間違いなく死んでいた。

 ならば今は。


 気が付けば有栖は、受け身も取らずに地面へと倒れ伏していた。

 尤も現在、その衝撃は些細な物なしか思えない。

 固い岩盤の上を、痛みに悶えのたうちまわる。


 ──嘘だろぉ……クソったれがぁ、こんな、こんなところで。

 

 少女の絶叫に、視界に赤く映るオークは満足げにニヤついている。

 心を痛める様子はなく、夕飯の御馳走を見る目だ。


 ──死にたく、ない。


 巨躯はこちらに近寄ってくる。

 地面の振動は徐々に大きさを増していく。

 

 ──死にたくない。死にたくない。


 『死』が間近に迫る者は死の足音が聞こえると言うが、きっとこれがそうなのか。

 それが脳裏に浮かんだ瞬間、有栖は発狂してしまう程の恐怖に苛まれた。


 小心者にして自分一番の有栖は、自らの命が消えることを最も恐れる。


 死後の魂の行き先が分からない不安さ、頼り縋る物のない空虚なところに放り込まれたくない。

 それに、この世の何事も命あっての物種なのだ。

 消えてしまえばなにもない。

 空っぽだ。


 それが怖いから、それが何よりも、それが眼前の何よりも嫌なことだから。


 

 ──死にたくない、死にたくない! 死にたくないっ! 俺はっ!

 


 

「俺は、神の子アリス・エヴァンズなんだから────!」

 

 


 更に意地と大言を絞り出し、有栖はもう一度目を見開いた。



 死なないために。

 生き残るために。

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