17 『風呂と骨休め』

「アリスちゃん、きちんとお風呂入ってるぅ?」

 

 たらふく夕食を堪能した有栖に向けて、フィンダルトが放った暴言だ。

 有栖は青ざめて脇周辺を嗅いでみる。

 

「……臭います?」

「そこまでじゃないわよぉ。大丈夫、女としての誇りは未だ失ってないわぁ」

「あ、臭うことは臭うってことですか」

「特別鼻は利くあたしだからよぉ。ジャラとか普通の人には気づかれないから安心してぇ?」


 俺は男だからその辺のプライドはねぇけどな。

 ただ、指差されて「あの子なんか臭い」と言われた日には引き篭りにでもなりたくなる有栖だった。

 見栄えを重視、いやもはやそれしか眼中にない有栖である。


 今までは怠け癖と疲労で避けていた風呂だったが、他人に指摘されたからには行かねばなるまい。

 似ているとは言っても中世ヨーロッパの時代とは違い、この異世界では市井でも風呂の文化はあった。 

 昔、何処ぞの異世界人が文句を言って改革されたという話を朧げながら覚えている。

 下水施設はないのだが、異世界にはなんと言っても魔術の存在がある。

 魔術師のいる家庭は水やら何やら放出する魔術を扱ってするとアルダリアは言っていた。

 また、それ以外の人のために水を生み出す魔石は安価で売買されているようだ。

 一般の人間はそれを使い、桶に水を満たしたのち火を起こして温めるらしい。

 二日に一回は入るのが普通と聞く。

 

 ──綺麗好きばっかだなぁ。俺なんて一週間入らなかったりすんのに。

 有栖は精神だけでなく体まで不潔だったようである。

 

 一緒に入ろうか、と提案してくるフィンダルトをやんわり断りつつ有栖は部屋へと戻った。

 まだ夜も更け始めたばかり。

 有栖が入浴できる時間帯はもう少し先だった。



 ……――……――……――……――……



 はてさて日付も変わった頃、部屋に用意されていた着替えを手に有栖は大浴場の脱衣所に立った。

 時間が時間のため、少女の体が耐え切れないのか眠気で瞼が重い。

 しかし、誰も来ないであろう夜更けでなければ有栖が黒髪であることを知られてしまう。

 それは控えめに言って、死ぬしかない。

 アルダリアから派遣された諜報員かと疑われ、最終的に殺される運命が見える。

 加えてここの王様は変態だ。

 何をされるか分かったものでもなし、皆と仲良く風呂を一緒にすることはできない。

 

 当然、有栖も元男。

 女湯に大手を振って入り、視姦することにロマンを感じていた時分も有栖にはあった。 

 だがそれで命の危機が訪れたり、足元を揺るがすリスクを被るのならばやらない。

 結局、有栖の女湯(ロマン)に対する熱意はそこまでだったのだ。

 そもそも命懸けで女湯入るような人間ならば、元の世界でお縄についていただろう。

 変態は程々に、という奴である。

 

「ま、それはそれとて脱がねぇと……」 

 

 念のため、衣類を入れるカゴが幾つもある棚が三列ほど並べられた脱衣所の最奥に移動した。

 二、三度出入り口を確認してからローブを脱ぎにかかる。 

 フードをとると、寝癖でおかしな曲がり方をしている黒髪が野暮ったくて頭を左右に振った。

 髪も切りたい。

 男の感覚でそんな思いを抱いて肩を落とした。

 そして有栖は、ホットパンツや上着を雑に脱ぎ散らかして床へと投げ捨てていく。

 こういう所作が大雑把なのも女子力の減点対象だろう。

 もっとも。

 ──ま、俺男だし良いよな。誰に見せるモンでもねぇんだし、丁寧な性格演じる必要もねぇし。

 それにしたって、皺になるような激しい脱ぎ方はどうかと思われるが。

 最後に慣れない手つきで下着をずり下げて全裸になると、有栖は自分の体を見下ろす。

 胸囲が微量に膨らんでいるだけのため、足元まで視界を邪魔するものがない。

 日焼けしていない女子の柔肌を見た有栖の感想と言えば。


 ……自分の体だって分かってっと、沸き立つものがねぇな

 

 大切な何かを喪失した気分に囚われ、変化してしまった感覚に嫌気が差す。

 苛つきで歯を噛み締めながら、有栖はその場にしゃがみ込んだ。  

 脱ぎ捨てた衣類を全てカゴに放り込み、体拭きを引っ掴みながら浴室へと足を向ける。

 それは無駄に男らしいずぼらな所作だった。

 


 ……――……――……――……――…… 


 

「熱っ! 温度調整ちゃんとしやがれクソが」

 

 乳白色に濁った湯船に爪先から入り、火傷でもしてしまいそうな温度に悶える有栖だった。

 自宅の風呂でもないのに無茶を言う。

 しかし、いざとなって湯に入らない選択肢が浮かばなかったらしい。

 時間をかけて水温に少しずつ慣らしていき、思い切って肩まで浸かる。

 

「……ふぅ」 

 

 慣れてしまえば、暖かい湯の中はベッドの上よりもリラックスできる場所だ。

 うっかり底に腰を下ろすと、有栖の座高では口に水面がきて居心地が悪いため正座になった。

 体を弛緩させ、我知らず息が漏れてしまう。

 間違いなく、有栖は異世界に送り込まれてから最もくつろいでいた。

 

 ──ゔぁー、マジ溶けそう。お、俺の魂が浄化されていくー……。

 茹でられた程度で、こびりついた有栖の下劣さが清められることはないのだが。

 思考能力もチョコレート並みに溶けかけているのか、実に頭の悪いことをのたまっていた。

 快感に目を細めながらも、気晴らしに有栖は湯殿を見渡してみる。

 

 ここは大浴場という名に恥じない規模を誇っていた。

 湯気で朧げに確認できるだけだが、対面する壁は三十メートルほど離れているだろう。

 シャワーの設備は存在せず、湯船とはまた別の貯水槽が一つ設置されている。

 水風呂ではないようで、湯気も立っていた。

 その近くには排水溝らしきところもあり、汲むためだろう桶も重ねられている。

 汗を流す設備、ということかと先刻までに適当に湯を被っておいたが。

    

 次に湯殿の中央にある、有栖が浸かっている円形の浴槽へと目を向ける。

 湯船の中心には大岩が顔を出しており、その上に白地の像が屹立していた。

 翼の生えた人間の彫像だ。

 その突き出した両の手のひらから、乳白色の湯が湧き出ている。

  

 シュールすぎねぇかこの図。 

 マーライオンや立ちながらに放尿する少年の像と同じ役割をする物体だろう。

 有栖が公園の噴水を連想してしまうのは無理からぬ話だった。

 

「……まぁ、立ちション少年の像じゃないぶんマシか」  

 

 そうだったら無言で湯船を出ていただろう。

 一通り観察も終えて、有栖はもう再度嘆息して力を抜く。

 何とはなしに、天使像──湯口へと泳いで近寄ってみた。

 こういう不可思議なオブジェクトに引き寄せられてしまう性質を有栖は持っているようである。

 

 なんかこの像、王間の天井に描かれていた天使みてぇだな。

 じっと有栖が彫像を眺めて唸っていると、不意に不可解な物音がした。

 脱衣所から……だろうか。 

  

「──まっず」 

 

 口の中で呟きながら、慌てて有栖は大岩の後ろへと身を隠す。

 誰かが、風呂に入ってきたのだ。

 

 深夜に風呂に入るクソったれめ、近所迷惑ってのを考えろよこの野郎!

 咄嗟に飛び出したのは、世迷いごとと自身に突き刺さるブーベラン発言だった。

 あと女湯に野郎が入ってくる確率は著しく低いだろう。

 いや、もしや変態神を始めとする見渡す限り変態だらけの現状を鑑みた結果なのかもしれないが。

 

 有栖は大岩に身を隠して、水面が鼻上になるように潜る。

 そして頭を小さな両手で押さえ、準備完了だ。

 視線を入口の扉へと向けた。

 第三者から見ると、有栖は非常に奇妙なポージングをとっているが、本人は至って真面目である。 

 

 黒髪が見られたら、駄目だ。

 

 なかなか現れない侵入者を待ちわびて、唾液を嚥下。

 来いよ不審者、目玉なんか捨ててかかってこい、と虚勢を張る有栖は逃げ腰だった。

 しばらくすれば、浴場の扉の開閉音と共に会話らしき声が聞こえてくる。

 共に風呂を訪れるということは、友達関係か親しい者同士の会話だろうか。

 

「……らぁ、良い度胸ねぇ。あたしに付いて来ないで下さるぅ? 貴女と、御一緒するほど仲良くするつもりはないわぁ」

「奇遇奇遇、同感だな。汚らわしい小虫風情に仲良くする人間様はいないだろうさ」

「あらあら、人間至上主義者も相変わらず大したものねぇ。腕の一振りで死ぬ虫はどちらぁ?」

「アンタだろ蚊」

「はぁ?」

「ん?」


 やっべ、入ってきた奴ら超不穏なんだけど。帰りてぇ……。

 一触即発の空気に、風呂に浸かっているというのに嫌な汗が額を伝う。

 そして注意深く有栖は音を立てぬよう、ゆっくりと更に岩陰に近寄りながら侵入者を視認する。


「そもそもあたしは夜行性だから今入りにきたのだけれどぉ、人間で何の疚しさも外聞もない貴女が深夜に入浴しているの?」

 

 一人は、体拭きを巻いた姿の不健康に白い素肌のフィンダルト。

 胸の凶悪な双丘が、真っ白な体拭きからはみ出しそうなのが目に毒だった。

 しかし遠藤有栖は焦らない。

 女性に対する興味が男だった時分よりも衰えている。

 何より全裸でないのなら、まだ週刊誌でも良く見ていた光景だ。

 状況分析という本分を忘れず、有栖はもう一人の女性へと視線を飛ばす。


「それは勿論、昨日からアンタみたいな汚物が来るって分かっていたからな。鉢合わせないような時間帯に入ってきてるんだよ。大体アンタは普通のそれとは違って昼間にも起きてるだろう? こんな時間にわざわざ風呂に入ることが疑問なんだが?」

 

 少なくとも有栖は見たことのない女性だった。

 鳶色の髪を揺らし、同色の瞳がフィンダルトに明確な敵意を持って睨めつけている。

 胸は控えめで、身長はフィンダルトと同程度と結構な高身長だ。


 微妙に需要を外している体型だな、と有栖は第三者視点から意見を述べた。

 心中で余裕そうに振る舞う、無意味にすぎる言動である。

 

 とにもかくにも、やはり彼女に見覚えはない。

 だがフィンダルトは見知った相手のようである。

 親しい間柄とは到底思えないが。

 たとえるならば、キノコ派とタケノコ派のような絶対的な溝を感覚した。

 そう言えば、その件で友人のAくんに掴み合いになった記憶がある。

 ちなみに彼はキノコ派であった。 

 

 息を潜めていると、先ほどから一転、互いに睨み合いながらも桶に湯を汲んで汗を流していた。

 胃に穴が空きそうな沈黙の最中、水が床に打ち付けられる音のみが反響する。

 今ここで殴り合いに発展してもおかしくないケンカの売り合いと、この押し黙った雰囲気。

 ……さっきまでの俺の平穏を返してくれよ。

 有栖の内心は、ダンボールを被ってスネークするゲームを命懸けでしている気分だ。


 こんな危険な場所にいられるか、俺は自分の部屋に戻らせてもらうぞ!

 そう叫び散らして走り出したいが、死亡フラグ以前に自棄になるのは早すぎる。

 コソコソ逃げ出すにしても、フィンダルト達の様子を見なければなるまい。

 有栖は耳を澄ませて機会を窺う。

 

「そもそも貴女がここにいるとは聞いてないのだけれどぉ」

「ハッ、アンタみたいな、そこらの不逞な無法者に国の大事を任せ切りにする訳ないだろう。地位も明確な人間に防衛を任すのが常識だ。当然当然。アンタみたいなのが呼ばれてんのは、敵が確保する前に先取りしておくってことでしかないんだよ。理解したか?」

「へぇ? あたしの力は認めてるのねぇ」 

「ぶつかったら面倒だって話だ、頭に乗るな……寄生するしか能の無い化け物め」 

「ふぅん。貴女と話していると、何だか貴女の言う面倒事を起こしたくなってくるわぁ」 

「痴呆にでもなったか? あの気色悪い何時も笑ってる奴の承認がなければ、アンタは暴れることが出来ない」

「……そうねぇ。あたしはそうだわぁ。あたしは・・・・」 

「随分と意味深な言い回しじゃないか?」 


 事情は知らないが、険のある言い方で相手を煽るのを止めてくれと懇願したくなる。

 そんなに互いが嫌いなのならさっさと風呂場から出て行ってくれよ、とも思う有栖だった。

 全くその通りである。


 話を噛み砕いて妄想するに、フィンダルトにガンを飛ばしている女性も王宮に招かれた戦力のようだ。

 それも冒険者のような無法者を軽蔑する、階級的に貴族辺りの人ではなかろうか。


 口の悪さはどっこいのため、案外ただのチンピラという線もなきにしもあらず。

 まぁ、ないが。

 

 彼らはどうも体の汚れを流し終えたのだろう。

 遂に浴槽へと足を運んでくる、ひたひた、という足音が聞こえてきた。

 

 もはや耐えるしかない。 

 フィンダルトが持ち前の嗅覚で有栖の存在をとっくに感知しているかもしれない。

 しかしそれで、自然に会話に混ざるという度胸はなかった。

 普通の人ならばないだろう。

  

 有栖の存在は、別に露見していても構わない。

 要は、黒髪であることを知られなければ問題はないのだ。

 

「あたしが、呼ばれた四人の中で最も面倒な相手だと考えているのなら残念だわぁ。唯一の自慢だった貴女の『目』が悪くなったとしか言いようがないわねぇ」 

「アンタより面倒なのがあの中にいる訳が……」

「そうねぇ。貴女の中ではそうなんでしょうねぇ、失望したわぁ」 

「は?」 

「んぅ?」 

 

 そう言い合いながらも水音がして、二人が入浴したことが分かる。

 実は仲睦まじいのではなかろうか。

 であるのならば湯船でなく、二人で手を繋いで部屋にでも行って欲しい。

  

 既に有栖と二人の距離が縮まっているため、裸眼で彼らの姿を窺うことは諦める。

 岩の裏に張り付いて、耳だけで彼らの動きを読む。

 状況に合わせて場所を移動し、時間経過を待って二人とも出て行ったのを見計らい逃走するのだ。

 この時点で有栖は、風呂からの途中離脱という選択肢を完全に捨てていた。


 ……もう、のぼせる覚悟で臨むしかねぇよ。ああ、俺の初めてのゆっくりできる時間が。

 儚くも過去を振り返って、顔を覆いたくなった。

 

 

 ……――……――……――……――……

 

 

 聞いてる人間の精神が削れるような煽りを繰り返すこと数十分。

 ようやく大浴場から離れた二人を見送って、有栖はよろよろと浴槽から這い出た。

 

「──なんか、疲れたや」 


 千鳥足で部屋に戻った後、有栖は死んでしまったかのようにベッドに倒れ込んだ。

 有栖がこれで風呂嫌いになりかけたのは言うまでもないことだった。

 

 

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