【一】
「──櫛田さん。
待合室で名前を呼ばれ、開いていた文庫本を閉じて立ち上がる。
総合病院の清潔だが雑多な感じが好きではなくて、今にも壊れそうな看板を玄関先に掲げた町医者をわざわざ選んで、やってきた。
何てことはない。子どもの頃から鼻炎を患いやすくて、少し疲れを感じると鼻声になってしまうことが気になるだけだ。
とはいえ、ただの鼻炎だと侮っていると、痛い目に遭う。鼻が詰まれば普通にティッシュでかめばいいんだろうと思って外で遊んでいると、急に呼吸困難に陥ってその場に倒れてしまうことがよくあった。
思わず、鼻づまりが急なストレスになって
そうして気を失ったあと目を覚ますといつも、泣きそうな顔をしたお母さんが私を抱きしめていた。
そんなに心配させてしまうことだったのか、と子ども心に思った私は、それから無理をしないように努めた。最近ではその癖がすっかり染み付いている。
内科で処方してもらえる薬だけで充分なので、さっきおじいちゃん先生に診てもらって、処方箋が発行されるのを待っているところだ。
古い町医者なので、当然待合用の整理券を発行する機械など置いていない。こういう場ではフルネームを呼ばれることの方が珍しくなってきた。でも、私はこういう空気が好きだ。
中年の看護師の女性から処方箋をもらい、そのまま精算して病院を出た。
薬局への道すがら、さっきのおじいちゃん先生──院長である
睫毛の先にまでかかってしまいそうなくらい伸びた、白髪の眉尻。おじいちゃん先生が話す度それがぴくぴくと上下するのが可愛くて、何度も笑いをこらえた。
掠れた声で何度も「はい、はい」と相槌を打つ横顔がとても優しげで、可愛いお年寄りだと思った。
うちのおじいちゃんとは、大違いだ……と思いながら、私は薬局の自動ドアをくぐった。
今日はたまたま時間割変更で、取っている授業は午後からだったため、病院に行ってから学校に来た。もうお昼を回っている。
中庭の噴水が見えるテラスにはまだ人がいなかったので、コンビニで買ってきたサンドイッチを一番いい場所で食べ始める。
「姫乃、おっはよー!」
入学式の時から不思議と馬が合って仲良くしている
「おはよう。もう昼よ」
私がそう言うと、楓はふふんと笑いながらさらりとサイドの髪を肩の後ろに流した。
「その日初めて会ったら、昼夜関係なく“おはよう”って言うの。アタシの決めごと」
「あ、そう……」
薄く笑いを漏らしながら、暑そうにしている彼女にストレートティーのペットボトルを差し出した。楓はありがと、とそれに口をつける。
「ねえねえ、春頃から噂になってるアレ、聞いた?」
「え?」
「アレよアレ。断末魔のカフェの話」
ああ、と私が返事をすると、楓はバッグの中をがさごそと探り始めた。しかし、断末魔のカフェとはまた端的過ぎるというか何と言うか。
最初は、夜だけ営業しているカフェがあるんだ、という話だった。次は夜だけイケメンが営業しているカフェだ、という話に。やがて真夜中に悲鳴が聞こえるカフェだ、と。
実際そのカフェに足を向けた人の印象や感想も混ざっているらしく、伝言ゲームみたいにどんどん変化していく噂。
不思議なことは、そうして変化を続けていくにも関わらず、そのカフェの噂がまったく途絶えないことだった。普通、ローカルで噂になったお店の話など、だいたい一巡してしまえば自然と廃れていくものだと思うけど。
楓はバッグの中から折りたたんだ紙を取り出し、私に差し出した。
「ここらしいよ。実際行った子がお店からもらってきたチラシだって」
「なんでそんなもの、楓が持ってるの?」
「その子、男の子だったの」
ふふっと肩を竦めながら、楓はシニカルな笑みを浮かべた。
男の子だったの──と、その一言で片付いてしまうところが、空恐ろしい。楓のこの悪そうな笑顔を男の子が見ることはきっとないのだろう。
楓は綺麗で、でもちっとも気取ったところがないものだから、とにかくもてる。
楓にその話をした男の子はきっと、彼女の気を引くのに一生懸命だったんだろうな、と思いながら受け取ったチラシを広げた。
真夏の夜空のような色をしたそのチラシには、シンプルな銀の文字で“INSOMNIA”と書かれている。
『本を読みながら、憩いのひと時を過ごしませんか?』
真夏の夜空という印象は間違っていなかったらしく、チカチカと光る夜空の星、下の方でコーヒーカップと本を手にして一息ついている黒猫のイラストが描かれていた。
「……可愛い」
「よね。悲鳴やら断末魔なんて、イメージ違うと思わない?」
描かれた黒猫が何となく気になって、じっとそれを眺めながらこくこくと楓の言葉に頷いた。
何だろう。公立図書館とか公民館とか……そういう健全な万人向けの施設のインフォメーションコーナーに置かれていそうなチラシだと思った。
でも、“INSOMNIA”のロゴの下に、しっかり営業時間も書かれている。18時から0時までだと。
夜しか営業しない、っていうのは嘘じゃないみたいだ。
「本を読みながら、って何でだろう……」
ふと、口をついてその疑問が浮かぶ。楓は首を傾げながら答えてくれた。
「何かね、ブックカフェって感じなんだって。メインの席はテラスにあるけど、中に入ると本棚がズラーッて並んでるみたい」
このチラシをくれた彼もそうしたのだろうか、楓は「ズラーッ」の辺りで腕と手を振り上げて、奥行きを示した。
「ブックカフェ?」
「わかんないけど。図書館にカフェがくっついてるような感じじゃないの? そいつ、本には興味なくて読まなかったからすぐに帰ってきた、って言ってた」
「本に興味がないなら、どうして行くのよ」
「噂になってたからじゃないの? 女の子を連れて行って楽しめるかどうか確かめに行った、って」
「女の子って。楓のことでしょ」
私が苦笑すると、楓はまんざらでもなさそうに「まあね」と笑った。
ずっと親しい私だからささやかな違いがわかるけど、基本的に楓の笑顔はとっても綺麗で、人をほーっと酔わせる魅力がある。知り合った頃は、私もそうして酔わされたひとりだったし。
チラシをくれた男の子は、楓のその綺麗な笑顔を見たくて必死に身振り手振りで語ったんだろうな。下心があったかどうかは定かではないけど。
すると、「でも」と言いながら楓は残念そうな溜め息を漏らした。
「リサーチ不足もいいところね。アタシじゃないにしても、女の子を連れて行くなら、もっとちゃんとお店を見ないと。それだけじゃ楽しいかどうか判んないし」
「そうなの?」
「そうよ。店員さんがどんな感じだったかっていう話はできないし、洋風って言ったってどういう路線で、どんな内装でどんなティーセットだったか……とか。そんな話ひとつもできやしないの。残念にも程がある」
楓が本当にそんなことを気にしているわけではないことくらい、私にもわかっている。彼女が言いたいのは、彼のサービス精神のことだ。
「アタシに『行きたいから、連れてって』って言わせようとしてるんだもん。それにしては、説得力に欠けるんだよ」
「まあねー」
「口説きたいなら口説きたいで、最初にその気概を見せるくらいしなきゃ駄目だと思わない? ボクはキミの笑顔を見たいんです、その為なら多少の努力は惜しみません! っていう、その姿勢?」
多少の、と付け加える辺り、楓の謙虚さみたいなものを感じて、私はクスッと笑った。
恋愛に積極的な男の子が口々に言う「女は楽しませてやらなきゃすぐ拗ねる」というのは、ちょっと間違っている……と私達は思う。
サラリーマンの、得意先にする接待だってそう。楽しませて仕事を取るというわけじゃない。そこで見せるのは「あなたとあなたの会社を粗雑に扱ったりしません」という誠意だ。
楓が言いたいのもそういう感じのことで、一方的に楽しませて欲しいから男の子の誘いに応じるんじゃない。誘ってくれる男の子がどのくらい本気なのかを知りたいから、行ってみるんだ。
せっかくリサーチをしたくせに、誘う段階でもう詰めが甘いその彼の姿勢を残念だ、と楓は言いたいんだ。
無駄なデートはしなくていいってことなのかな。
とはいえ、私は恋愛の経験というものが21歳にしてほとんどない。
だから男の人なんて同学年にいるお友達くらいしか見たことがなくて、楓からすれば私は「心配になる程の無菌状態」だそうだ。一対一になった途端、良くも悪くも男の人は変わるもんだと楓は言う。
そういうものの見方や考え方、対処の仕方というのを私はこうして楓から学んでいる。そういう話を私にしてくれながら、「姫乃はこういう男についてっちゃ駄目よ」と楓はやけに真剣な顔をして言うのだった。
楓ならバッサリ切り捨てて帰ってこられるけど、私は断ったら相手に悪い……なんて考えてズルズル流されて、取り返しの付かないことになりかねない、と。
そんなにぼんやりしているつもりはないけど、必死な様子の相手が目の前にいたら……それを拒否することは、確かに私には難しいかも知れない。
紅茶を口に含ませながら、鼻の奥がグズグズし始めたのを感じた。
ごめん、と楓に断って立ち上がる。そのまま近くのゴミ箱まで行って、辺りを見回してから顔を隠すようにして鼻をかんだ。さっきおじいちゃん先生に鼻通りのよくなる薬を噴射してもらったというのに、早すぎる。
1時間も経ってないというのに、ひどい風邪を引いた時のような鼻水がたくさん出てしまった。どうもそれだけでは足りないようだから、もう一度。
鼻の周りも拭き、ティッシュをゴミ箱に放り込んでベンチに戻ると、楓が眉根を寄せて私を見上げる。
「姫乃、また? 大丈夫?」
「あ、うん。ごめんね、話の途中だったのに」
さっきまでは普通だったのに、すっかり鼻声になってしまった。普段自分の声なんて気にも留めないのに、こうして異変があるとやたら耳についてしまう。
「それは別にいいんだけど。専門のお医者さんに一度ちゃんと診てもらった方がいいんじゃない? 風邪でもアレルギーでもないんでしょ?」
うん……と曖昧に頷きながら、私はハッと気付いてポニーテールを解き始める。病院に行くのに暑すぎて仕方ないから結ってたんだけど、特に理由がないのならあまり人前でうなじを晒したりするんじゃありません、というお母さんの声が甦った。
今は親元を離れているし、別に見咎められて怒られることはないけど、これも刷り込みだろうか。だったら髪を切ってしまえばいいと何度も思ったけど、いざ切ろうとすると何故か
その代わりではないけど、おじいちゃんが巫女になれ、巫女になれとしつこく言うおかげで湧いてきた反発心が、私にもともとの真っ黒な髪を少しだけ明るく染めさせた。ゆるくパーマもかけてしまっているから、おじいちゃんが見たら黒染めを持って追いかけてきそうだ。
パサ……と落ちてきた肩までの髪を、手ぐしで自然に整える。私のそんな仕草を、いつの間にか楓がぼーっと見ていた。
「? なに?」
「あ、いや、うん。相変わらず、姫乃の仕草は優雅だなーと思って見てただけ」
「やだ、そんなことないよ」
「ううんー。姫っていう字が入った名前はダテじゃないって思うよ。姫乃はなんか、動作のひとつひとつが流れるみたいで綺麗っていうか」
「……」
楓にこんなことを言われる度に、私は恥ずかしくて所在をなくしてしまう。そのまま彼女は自分の金に近い茶髪をサラッとかき上げた。楓がかき上げた髪の房は、パサリと味気なく彼女の胸元に落ちる。
「ほら、駄目だってー。無理無理。アタシにはできないもん」
頬を膨らませる楓の無防備な表情が可愛らしくて、クスッと笑いを漏らした。
自分でも照れくさかったのか、楓は私の手の中のチラシを覗き込みながら半分腰を浮かせる。
「でも、このカフェは前から気にはなってるんだよねー。今度一緒に行こうよ、姫乃」
「え? うん、いいけど。でもいいの? 男の子の誘い、断ったんじゃ……」
「駄目なのはカフェじゃなくて、そいつだから。カフェに罪はないって」
「……ここ、“INSOMNIA”だっけ……? カフェ自体は気になってたんだ?」
「そりゃそうよ。断末魔カフェだもん」
いつのまにか楓の中で“INSOMNIA”は監獄レストランの親戚のような位置づけになっているらしい。聞こえてくるという悲鳴が本当かどうかも判らないのに。
……でも、噂は別にしても、このチラシは可愛い。すっごく。本を読むことも大好きだし。
「楓、これもらっていい?」
「え? いいよ。気になる? でも住所とか書いてあるから、行く時は持ってきてね」
「わかった」
再び腰を下ろして私の紅茶に口をつける楓をよそに、私はチラシの中の黒猫をじっと見つめた。
満天の星空に、本に、好きな飲み物。
目もくらむような星空は、昔、
このカフェの目玉がそこから見上げる夜空、というわけではないだろうけど。そんな場所で本が読めるなんて、まるで私にとっての天国みたいだな……って思ったことは、楓の前では何故か言えずにいた。
ロマンティストが過ぎるんじゃない、と笑われてしまうような気がして。
あなたの想い出、あばかせていただきます。 水無月美樹 @minazuki630
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