あなたの想い出、あばかせていただきます。
水無月美樹
Prologue
耳鳴りかと思えば、蝉の声だった。
小学生の頃受けた理科の授業の記憶を辿れば、陽が傾いてもなお元気に鳴き続けるのは、おそらくニイニイゼミだろうと思う。朝から晩まで、耳を劈くようなこの蝉の声が暑さを助長しているような気がするのは、たぶん私だけじゃないはずだ。
子どもの頃は汗だくになって焼けたアスファルトの上を駆け回っても、そこまで暑さを感じなかったような気がする。
けれど自分の外見を気にするようになり、素肌をまま露出することを何となく恥ずかしく感じるようになり、当たり前のように薄くメイクをするようになる頃には、一滴の汗が流れ落ちることも許さなくなっていた。
ついには日光の下にそのままいることさえなくなり、いつの間にか大人になった私は、少しの暑さでも「もう駄目だ、倒れそう」と感じてしまうようになった。敏感になった代わりに、ひ弱にもなったということなのだろうか……と思ってしまう。
携帯で開いた地図を眺めながら、私は剥き出しの額から噴き出る汗を手の甲で拭った。そのぬるりとした感触で、最近のメイク用品は汗くらいで落ちなくていいわね、と事務室勤務のアラサーのお姉さんが笑っていたことを思い出した。
逆に、汗で落ちるメイク用品があったのかと思ったけれど、ジェネレーションギャップをあからさまに感じた時、気まずいのはいつもそれを知らない自分のような年下の人間のほうだと思う。
知っているほうは、自分の年齢を感じて痛い……と苦笑するけれど、こちらにはその世界がまったく判らないのだから。
抜けるような青からだんだんピンク色に染まり出す空を眺めながら、私は生では聴いたことのない
カナカナカナ……と寂しげに響くあの声は、真昼の暑さを打ち消すのに充分だと思う。今の風景にあの声が響けば、忙しなくささくれ立った人の心が、この時間に少しは癒されると思うのに何故、いなくなってしまったのだろう。
耳の奥で、蜩が鳴いている。知らない筈なのに、借り物の懐かしさで恋しくなる。私の癖だ。
もう一度、携帯の地図に視線を落とした。
あらかじめ目的地につけていたマーカーが、そこに近付いたことを知らせるように点滅し始める。このへんか……と辺りを見回した。出る前に急いで結い上げたポニーテールが、高い位置で左右に揺れる。
すると、同じくらいの女の子2人が「今日はソーちゃん触れるかなぁ」と話しながら足早に私を追い抜いていった。
地図が示す目的地は、もう少し進んだところ。
私はとりあえず、今の女の子達2人のあとを追うように歩き出す。
やがて、鉄格子のような塀が続く道に出た。
この通りに入った途端、まったくひとけがなくなった。
ピンク色から深い赤に変わっていく夕空は、やがて夜空になるのだろう。
ぽつぽつと立っている街灯に明かりがついて、ふうと溜め息をつく。こんな寂しい場所に、カフェなんかあるのだろうか。
自分の好奇心の強さに後悔しかけたその時、蔦だらけの塀が続く道は急に開けた。塀の終わりを告げたのは、左右に全開にされた大仰な門扉だ。正面玄関らしい。
少し通路があって、その奥にさっきの女の子達が駆けていくのが見えた。
彼女達が目指しているのはオープンテラスがメインの、紛れもないカフェ。
中の巨大な屋敷の一角をカフェとして開放しているようだった。
窓とドアが一体化した欧米式の外壁の開口部。真っ白な枠は、たとえば明治時代の深窓の令嬢が物憂げにそこから外を眺めているのがハマりそうな感じだ。LEDが主流になってきたこの時代に、白熱電球のやわらかい光がそこから漏れていた。
暑くないのかな……と思いながら、パーツとして深窓の令嬢が足りない白い窓枠の上を眺めると、真っ黒いシンプルな看板にシルバーの文字で“INSOMNIA”とレタリングされていた。
とりあえず、カフェはあった。学校で聞いた噂は本当だったわけだ。
──町外れのカフェ“INSOMNIA”では、夜な夜な化け物が現れては断末魔が響く──
店主には“墓荒らし”だなんて穏やかでないあだ名がついていると聞いた。
その店主は実は吸血鬼や狼男、挙句の果てにはフランケンじゃないのか、なんて尾ひれがつきまくった噂になっている。別にオカルトなんて信じていないけれど、私の好奇心がささやいた。これはきっと面白いと。
昔からこの好奇心を親きょうだいには諌められてきた。あまり色んなことに首を突っ込むんじゃないと。
でも、それが抑えられるならきっと私は今ここにいない。
“INSOMNIA”の前に、という意味ではなく、この土地で今の学校に通っていない、という意味で。
人外と噂される店主とは、どういう人物なのだろう。
そして、夜な夜な響く断末魔の正体を、どうしてもこの目で確かめてみたくて、ここに来たのだから。
私はきゅっと口唇を噛みしめ、足を踏み出した。
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