境の坂井に咲く水守

篠崎琴子

はじめ

 参る、参る、御前が参る。幸菱さいわいびしえ、帯白く。花のかんばせ、喉白く。花嫁御寮が坂井へ参る。

 東領とうりょうの主が住まう城の奥。せめてもの悪あがきをやめられぬみはれは、壁際に全身を押し当てて声を殺して泣いていた。

 城下からは西領さいりょうへ嫁ぎゆく、若き城主の姉姫を祝う声が途切れない。

 世は乱れがちだと伝われど、ここは辺鄙な山奥の小国である。山岳の他に隣り合う西領とは数代前に和議もなされ、今や相争う相手もいない。なれば古い慣習に立ち返り、囃子はやしは祝い、祝いは加護と喜ばれる花嫁行列へと、よわいしょうも身分の高下も問わずして声が響くのも無理はなかった。ならいのとおりの祝いであれば、とがめられることもない。

 だから、行かないでなどと。

 そんな祝いではない言葉は、嫁ぎゆく姫に向けられてはならないものだ。

 なにせ、彼女は瞠にとってだけでなく、この国においても大切なひとなのだ。抱える知恵と知識において、実家さとの弟が治める東領にも、嫁せる西領の領主の膝元にも、彼女に勝る者はいない。まさしくさかしき四宮しのみやたる姫。賢き女が重用され尊ばれる東西の双領において、これほど大切にされる花嫁はいないだろう。

 ほんとうはそんな彼女の嫁入りを、異形の瞠は祝わねばならない。

 瞠は先祖の性状が色濃くあらわれた、人ならぬ獣返りの子である。そう言われている。

 同じ神域を重んじ、同じ御山の神を奉ずる東西の双領の一帯では、時折その身に自身の御祖みおやに似た特徴をもつ獣返りの異形が生まれる。彼らはいつだって異質なものとして見られた。重んじられるか疎まれるかはその時々で異なるが、瞠はどちらかといえば後者であった。

 領主一族の御祖たる霊狐にその見目まこと似通う、こども。そのような、神威かむいに近き身である。瞠の祝いはきっと常人ただびとの声以上に、篤く花嫁を加護するだろう。それでも、涙は止まらない。

「ひとりになっちゃう」

 彼女とは二度と会いまみえること叶わぬと、これが今生の別れであるからと今や養母となった叔母に言い含められてはいたけれど、それでも瞠は祝えない。だってそんな言葉やならわしに黙して従い耐えられるほど、瞠は大人ではないのだ。

「お嫁になんて行かないでよ、母上……」

 隠されるようにして城に留まる、涙にまみれた幼子おさなごの声が、いっそう歪むのも当然のこと。

『ねえ、瞠。この先、東の土地から稔りが去って行ったその時は、きっとあなたはどこへだってゆける。宮の威光や領主の力が翳ったならば、きっとあなたを無理に籠める必要も、余力も、この家からはなくなるもの。そうしたら、瞠は好きなように生きられる。どこへだって行ける。なんだって、誰だってあなたは選びとれる』

 そんな言葉を別れ際、瞠の異質なこうべを抱きよせた母からやかにささやかれたとしたって、それでも。どうしたって去りゆくひとに、手放されたくはなかった。捨てられたくはなかった。

 ――生きめて四年を数えたばかりのその年。

 東領嫡流の血を継ぐ獣返りのこどもは、たったひとりの味方と信じて慕った母を失った。

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