第02話
「夜道をお兄ちゃんとふたりで歩くのなんて、久しぶりだよねぇ」
瑛凛は星空を眺めながら、笑っている。
「今夜は特別な」
――もっといい〈特別〉だったらよかったのに。
「そうだねぇ~。でも、お兄ちゃんっ」
瑛凛が走り寄って来て、真尋の左腕をきゅっ、と抱きしめた。
「お兄ちゃん、大好きっ」
「……は? ありがとう」
「もぅ~! 本当に感謝してるって言ってるの! あたしにお兄ちゃんが居てくれてよかったって、本当にそう思ってるんだからね」
「な、何だよ突然。気持ち悪いんだけど」
「それはね、お兄ちゃんがこれからもずうっと、このままだと思ってるからだよ」
「は?」
「あたしだっていつかは、お嫁さんに行っちゃうって思ってるでしょ?」
「はぁ? まぁそれは、いつかはそうなんだろうけど」
でも瑛凛を貰ってくれる人を、ちゃんと見つけられるのだろうか。この子は。
――こいつ悪い子じゃないし、人を見る目もあると思うしな。実際に友達の菜月ちゃんは、いい子だし。
でもどっちにしろ、まだ先の話だ。小学校も卒業してないクセに。
だが突然、瑛凛は立ち止まり、真顔でこちらを見上げて来た。
その大きな瞳が、まっすぐにその意思を伝えようとしているのが、分かる。こんなにも。
「えっ?」と心が、小さく動揺する。さっきまでの明るい雰囲気が、見当たらない。
「な、何だよ」と言葉を促す。
「あたし、なの」
「何が」
「あたし、好きな人の所へ行く事にしたから」
「はい?」
「そのための条件を満たすために、あたしが殺したの。さっきお風呂に入ってたのは、その血を洗い流してたの」
どくん。と重い鼓動が跳ねた後、時間の感覚が変化したような気が、した。
酷くスローな方向へ。
「ノエルを、殺したの」
ピッチの狂った音声データのように歪んだ瑛凛の声が、真尋の意識の中へ入り込んで来る。
頭が白くなる、と言うのはこう言う状態なのかと真尋は思った。
意識が、視界が、確かに白くなったのだ。現実の世界は見えているのに。
「あたしの大切な菜月ちゃん。菜月ちゃんの大切なノエル。そしてあたしも大好きな、ノエル」
こめかみがガンガンと疼く。
「老いた小型と言っても、犬は犬。あの牙には勝てないから、最初に、濡らした新聞を無理やり、その口に押し込んだの。喉の奥へ。苦しんでもがいてた、よ。暴れそうだったけど、そのうち足がピクピクとしだしてね」
声は聞こえるけれど、瑛凛の話している内容が理解出来ない。
「自分の手で殺さなきゃならなかったの。あたしが自分の心の一部を壊し、人である事の境界を超えるために、自分で大切な存在を殺さなければならならかったの。あたし、頑張ったんだよ……彼の元へ行きたいから」
「か……れ……?」
「うん。あたしね、好きな人が出来たの。その人の傍に行って、その人を守るために、ノエルを利用したの。あんなにあんなに、大好きだったのに……大好きな存在じゃなきゃ意味が無い、から……あたしの心、壊れないからぁ……!」
瑛凛が泣いている。
真尋の脳が理解を拒むほどの、酷い内容の言葉を吐きながら、泣いている。
「おっおに……お兄ちゃん……ひとりぼっちにしちゃうけど、ごめんね……ごめんなさい……」
何を言われているのか、分からない。
「あたしの事、瑛凛の事、忘れていいよ……嫌いになってもいい、憎んでくれてもいい。でもあたしは忘れないよ。ずうっと大好きだよ。世界でたったひとりの、あたしの大切な大切な、お兄ちゃん」
震える瑛凛の手が、伸びて来て。
抱きしめられた。
瑛凛はまだ、小学生ではないか。
泣きながら兄と離れる必要なんて、どこにもない。
しかもノエルをころ……殺した? 殺してまで?
自分自身の心を壊して、まで?
「瑛凛はお嫁さんに行ったと思って、忘れて。ね、お兄ちゃん」
「ば……ばか」
「いつまでも大好き。いつまでも愛してる。忘れてないよ、あの人からずうっと守ってくれた事も」
「だめだ……いやだ……」
声が、かすれる。
「お兄ちゃんの身体の、消えない傷、消えない火傷……お兄ちゃんをたくさん傷物にしたのはあたしなのに、勝手に出て行くの。ごめんね、ごめんね」
産まれたばかりの、瑛凛の甘い匂いが蘇る。
小さくて綺麗な指の爪が、閉じた瞼に透けて見えていた血管が、壊れそうに可愛くて、愛しくて。
撫でると髪は、あんなに滑らかで。
柔らかくて、あたたかくて。
なんて頼りない存在なのだと、守らなければと、自分の事より大切に思えた。
それが、瑛凛。真尋の宝物だ。自分の生命より価値のある存在。
なのに。
「瑛凛……いやだよ、そんなの」
「ごめんなさい、ごめんなさい……瑛凛は悪い子。罰を受けるなら、喜んで受ける」
「いやだ……いやだ」
「泣かないで。お兄ちゃん、泣かないでぇ……」
両腕でこんなにも必死に抱きしめるのに、瑛凛のまだ華奢な体なんて、砕けてしまいそうなのに。
その意思を思い通りに操る事が、出来ない。
――操っていいわけが、ない。それは僕が何より一番、知っている事だ。だけど!
「瑛凛、行かないで」
背中を、撫でられる。
「あたし、幸せになるよ。瑛凛は、好きな人の所へお嫁さんに行くの」
「いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだ」
「聞き分けて」
「いやだあっ!」
そう叫ぶと同時に、真尋は瑛凛の身体を突き放した。
その瞬間に手放さないと、瑛凛を離せないと思ったから。分かっていたから。
「いやだいやだいやだ!」
「お……お兄ちゃ……」
「行けよ! 僕が動けないうちに……追いかけて行けないように、早く行けよっ!」
「お兄ちゃ……ありがとう」
真尋は俯いて、両目をギュッと強く閉じた。そして、瑛凛の足音が聞こえなくなるのを、待つ。
ほんの数秒が、気絶しそうに長い。
今、この瞬間。
追いかければまだ間に合うと、自分が何度も囁く。
両腕を、両足を、激しく動かし全身で瑛凛を追いかけ、取り戻したい。
自分の、この腕の中へ。
だけど、出来ない。
してはいけない。
走る瑛凛の足音が、一歩一歩が、とても鋭く意識に響き渡る。一瞬一瞬が、まるで拷問のように長く感じられる。
――こんな別れって、アリなのか……?
相手の男の事も分からない。瑛凛にノエルを殺させるような男だ。マトモな相手じゃない。冷静に考えれば、瑛凛を手放すなんて狂気の沙汰だ。
なのにあんなに縋られて、どうして最後まで抵抗出来る?
瑛凛が強く望む事なんて、これまで特に無かった。
お菓子もジュースも欲しいと言わず、服だって真尋から言わなければ、去年の小さい服を平気で着ようとする子だ。
小さ過ぎると判断すれば、真尋の服でもいいのだ、あの子は。女の子なのに。
そんな瑛凛が、自分の意思を突き付けて来たのだ。
好きな人の所へお嫁さんに行くのだ、と。
真尋は混乱した。許すも許さないもない。
パニックになって、何が何だか分からない。
――嘘だよな? 悪夢だよな?
ノエルが殺され、瑛凛が犯人で、真尋の元から巣立って行った。
――おかしいよ! 何かが狂ってるよ! どうなってるんだよぉ……!
犬を瑛凛に殺させるような男……そんな奴に瑛凛を渡していいはずがない。ここ一年の、あの猟奇事件の、犯人なのではないのか?
――男にそそのかされた瑛凛が、犯罪をエスカレートさせないとは限らない。
心がそう呟いた瞬間、真尋は目を開けた。
息を吸い、走り出そうとした時、だ。
「あの……っ」と声をかけられた。
驚いて、振り向く。
そこに居たのは、見た事もない女の子だった。自分より年下で、瑛凛よりは年上に見える。
「門倉さんですよね? 瑛凛さん、は……?」
その子に問われ、瑛凛の去って行ったであろう方向に視線を向ける。
外灯に照らされたその道には、もう誰も居なかった。
腹の奥がぞくん、とした。
瑛凛はもう、居ないのだ。
――もう、取り返しがつかない……!
もう二度と、真尋の元には帰っては来ないのだろう。忘れて、とまで言われたのだから。
ふたりで過ごして来た思い出が、意識の中にフラッシュバックする。
無数の時間と、あの子の表情。浮かんでは消える、記憶のカケラ達。
真尋はその場にしゃがみ込んだ。
笑いが虚しく口から零れ落ちる。はは、ははは、と。
「あの……?」
その声に真尋は、ただ首を振った。
知らない。知らない。自分はもう何も、知らない。理解なんて出来ない。
全く何も、分からない――。
その時、冷たい風が目元を吹き抜けて行ったような気が……した。
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